目には目を2
《クスクス…》
な、なによ…この女…何で笑ってられるの? 異常なまでの女の無神経さに受話器を握りしめた。
「あなたわかってるの?ウィルは既婚者で子供もいるのよ」
《フフン。だから?なんだって言うの? あなたなんて彼に愛されてないくせに》
「な、何ですって!?あんたはグリーンカードが欲しいからって言うのが、見え見えなのよ!早く日本に帰りなさい!」
負けるものかとこれ見よがしに芽依の方からガチャンと電話を切ってやった。少しだけ胸の中のモヤモヤが晴れた気がしたけど…これで良かったのか不安になった。私…あの女に、勝った…わよね?そうよね?
これで夫は私の元に返って来てくれる。いつもの優しいあの人に戻ってくれると芽依は確かにそう確信した。だって普通の神経なら、相手に妻と子供がいるってことで分かれば別れるよね。これで…これでもう心配する事はない、そう確信した芽依は、ロッキングチェアーに深々と腰を下ろすと泥の様に眠った。
どれくらい寝ていた?芽依は自分の携帯が光ってる事に気がつくと、飛びつく様に電話に出た。
『もしもし?ウィル?どうしたの?』
電話の相手は夫。やったわ!私はあの女から夫を取り返したんだ。でもなんでそんなに声を尖らせるの?
《お前ってやつは、何をやってんだ! 嫉妬もいい加減にしろ! 代利子が困って泣いているだろう! その上、お袋にまで余計な事を言いやがって。何考えてんだ!なんて底意地が悪い女だ!何でお前なんかと結婚したのか今日ほど後悔したことはないよ》
いつもの優しく囁くようなウィルの言葉とは違う彼の口調に驚いた芽依は、携帯を持ったまま壁に凭れるとゆっくり崩れる様に床に座った。
《何でお前なんかと結婚したんだろうな》
どうして?どうして私が怒られなきゃならないの? 一番悪いのは、あの女じゃない。なのに、どうして私が悪者になるの?
『ウィル…帰って来るんでしょ? ねえ、どうしてそんな酷いこと言うの?リズだって…あなたのママだって心配しているのよ』
《フン!酷いのはどっちだ。お前は俺の母親にまでチクったのかよ。お前はいつもそうだよな。俺がすることなすこといつも批判ばかりだ。息が詰まるんだよ。どうして俺の自由にさせてくれない?!》
『ウィル!させてるじゃない!!週末の休みはいつもあなたをリラックスさせようと。どうしてわかってくれないのよ!あの女ね!!またあの女が何か言って来たのね!!目を覚ましてよウィル!!』
《黙れ》
『あの女と今も一緒なんでしょ!!私もリズも一族の人達みんな、あの女がやっていること知ってるのよ。あなたがあの女と週末ごと一緒にいる事も』
どうして分かってくれないの?みんな言っているわよ。あの女が欲しいのはシュガーダディだって。羽振りの良い財布に足代わりになる男だって。
溜め息を吐くあの人にみんなの思いが届く様に何度も何度もあの女を呪ったわ。
『あんた本当に分からないの? バカなんじゃない? あの女はね、グリーンカード目当てなのよ。誰が見ても明らかじゃないの!あんたじゃなくても股を開く女なのよ。あの女は!』
恋は盲目って言うけど本当よね。悪女も愚かな男にはさぞ素晴らしい聖女に見えるんだろう。ウィルの場合は生まれてから私に出会うまで抑制されてたからか、今頃になって女遊びを覚えてしまった。浮気が本気になるなんて…ないよね…ウィル?
《芽依!嫉妬も大概にしろ!みっともない!何を根拠にそんな馬鹿げた事を言っているんだ?! より子とは仲の良い友人なんだ。友人なんだから逢いに行って当然だろ!純粋な彼女に対してなんてことを言うんだ!!》
『は?』
純粋で仲の良い友人?友人が聞いて呆れるわ。純粋も裸足で逃げ出すわよ。純粋な女がなんで、『私達今までヤッてたんで〜す♪』って上気した表情で、画像に映っているのかしらね。可笑しいわよ。だってそうでしょ?ウィルあんたは、友人だと言っている女の前で上半身裸になる人なんだ…ふ〜ん。それって、ある意味凄い仲の友人だわね男と女の間に友情なんてウソよ。よく考えてみればわかるじゃない。ハゲデブのあなたに媚を売る女が純粋?そんなの嘘っぱちよ。
心の中でこれでもかとウィルを罵倒しながらも、決してそれを口には出さなかった。
《可愛くないな》
ブチン。この言葉に芽依の堪忍袋の緒が切れた。
『可愛くないですって?それはあの女のことよ! 毎日毎日ご丁寧に我が家の家の電話に何度もイタ電入れてくるのも知ってるのよね? それでも私が勝手に嫉妬に狂ったと言うの?』
これまでウィルと喧嘩なんて1度もなかった。この日はウィルの一方的な言葉で彼の宿泊がもう一日延びた。
あの優しかった彼があんなことを言って来るなんて…。
《自惚れるなよ。より子が家に帰ってあげてって言ってたから、帰ってやってたんだ。お前が可哀想だと言ってるより子の気持ちを考えてやれ》
あの言葉でわかった。どれだけ私が歩み寄っても彼は私を拒絶するって。それでも私は彼と夫婦でいたい。このお腹の子供にとって良い両親でいたい。
食事さえも喉を通らず、この日の夜中まで、麻衣子は泣き続けた。
「ご、ごめんね…あかちゃん…」
最低なママとパパで…。喧嘩ばかりして…本当は、私だって他の友達夫婦みたいにウィルと2人で一緒に赤ちゃんグッズを見たりしたい。折角、私のところに来てくれたのに…。
ごめんね…ダメなママで…。「!!」私を励ましてくれてるの?優しい胎動に芽依はお腹を抱きかかえる格好で目を閉じる。
ぽこ、ぽこん。
自分が添えた手の平に残る胎動。大丈夫だよ、赤ちゃん。私があなたを守るからね。絶対に、あの女には邪魔はさせない。そう強く心に誓うと、それに答えるかの様にお腹の赤ちゃんも力強くお腹を蹴って来る。
「ふふ…」
そう思ったら少しは笑みが出て来た。悲しんで何かいられないよね。私はもう母親なんだし、これしきの事で音ををあげちゃだめ…だよね。
♪♪〜
部屋中に響く携帯電話の音に、体がビクリと反応した。あの女が私の携帯電話の番号なんて知るわけないって言うのはわかってる…でも、体が過敏に反応してしまってた。
《芽依ちゃん。元気?千尋が芽依ちゃんに逢いたいって言ってるんだけど、今日はそっちに伺っても良い?もし、用事があるなら言って、別の日にするから》
「千夜さん、元気ですよ〜。千尋ちゃんが来てくれるの?嬉しいな〜。じゃあ待ってます」
千夜さん。彼女は私と同じ日本人で、旦那さんがアメリカ人のカップル。今年で婚15年目か16年目だと言っていた。おしどり夫婦の彼らは2人の子供に恵まれてる。私にとって理想のカップルだ。
芽依が快諾すると、千尋と呼ばれた子供のはしゃぐ声が受話器の向こうから聞こえて来る。
涙を拭かなくっちゃ。芽依大好きの千尋はさっきから芽依にお腹の赤ちゃんのことで質問攻めにして来る。さすがにどうやったら赤ちゃんが出来るのと聞かれ、まだ6歳の彼女に真実を教えるのも…と戸惑っていたら、千夜さんが「神様が下さるのよ」と纏めてくれた。そうか…子供が出来るって言うのはそんなことも考えなきゃならないのよね。勉強になるわ。
「で、どう?妊婦の時にしか出来ない体験もあるから、今のうちに夫婦2人だけの時間を十分に楽しんでね。子供が産まれたら夫婦の時間なんて、本当にないんだから(笑)私も妊娠中に旦那と喧嘩って言うのかしらね、お義母さんのことで喧嘩したこともあったのよ。ほら、妊娠中ってほんの些細なことでも自分を否定されているんだって思っちゃうのよね。まあ喧嘩の内容もなんで私が作った料理を食べてくれないの〜ってことだったんだけど、今考えるとバカみたいなことだったわ。でもさ、その時は旦那の目の前で子供みたいにわんわん声を上げて泣いたわ」
友人親子とのたわいのない話は、私の心を軽くしてくれる。勝手に理想の夫婦だと思っていた彼女達でさえも喧嘩をすると聞いて、ホッとしたなんて言えない。私達夫婦だけが苦しいんじゃないってことがわかった。一度は裏切られたけど、またウィルを一度信じてみよう。
何かを感じたのか千夜からいつでも相談に乗るからと言われた時、心の底から嬉しかった。千夜さん…それは無理だよ。だって友達だから言えないんだよ。本当のことを言ったとしても、彼女が信じるかどうか…。言った方がいいのかどうかと迷いながらも、例えウィルが浮気している事を告げても、彼女だって自分の家庭があるんだもの。迷惑になっちゃうよね…。
2年前に千夜たち夫婦と一緒に他2組の夫婦を我が家に招いた事があった。
その時、千夜のご主人から『ウィルが良い人で良かったよ』なんて言われてたから、余計にウィルの浮気を告げにくいし、家族の恥をさらすようで恥ずかしい。それにもし、浮気される方が悪いって言われたら……きっと私は立ち直れない。
妊娠中の女性ホルモンの崩壊で、思考は負のスパイラルに入ってく。そんな折、ついに芽依が倒れた。妊娠中だと言うのに食欲不審、睡眠不足、毎日かかって来る悪戯電話、夫からの罵倒でとうとう精神が来して来て、彼女の体が悲鳴を上げて来た。
目を覚ますと家とは違う白い天井、部屋に響く規則的に鳴っている機械音。ここが病院だと言うことに気がついた。主治医から臨月だと言うのになんで2週間で一気に4キロ落ちるのかと聞かれ、後少し遅かったら最悪な事態になっていたと言われて初めて他人の前で涙した。
この病院にはウィルの叔母も勤めている。私が倒れた理由を知ってウィルを殴ったと聞いたから、どれだけ自分が危険な状態だったかを知った。
片方の頬を赤くしたまま病室に入って来たウィルに、主治医と叔母から説教を受けて自分の行動でどれだけ芽依を追いつめていたかを漸く知ったと言っていた。
ウィル…気づくの遅いよ。
彼の反省は1分。のど元過ぎればなんとやらって感じ。だってほら、あの人ったら慌てて携帯を持って部屋の外に出て行ってる。隠しても遅いよ。しっかり聞こえてたもの。あの女の名前を愛おしいそうに発するあなたの声が。私は何度ウィル、あなたに裏切られなければいけないの? ウィルとすれ違いで入って来たリズ達により子とまだ続いていることが見つかり、病院でも大げんか。
『ウィル!!あの女は良くないわ!あんな強かな女は地獄に堕ちれば良いのよ!!何が、お義母さんと呼ばせてください〜ですか!あんたもあんたよ!!あんな手管と年だけが取り柄の何にもならない女に引っかかって、今まで私やお祖母ちゃんのことを本当の家族だと慕ってくれていた芽依に悪いとは思っていないの?!私は認めないからね!!あんな女なんて!!』
ねぇウィル…あなたは知ってるの?あなたが優しい純粋な子だと言っていたあの女はね、最大のタブーをリズに言ったのよ。『私は何も悪くないわ。大体、寝取られる方が悪いんです』そのことを聞いて内心手を叩いて喜んだわ。だってあの女はウィルと結婚したいから私を追い出せばいい、なら義母であるリズを懐柔すれば容易いことって。もう、リズはカンカン。え?私?厭ね〜私は何もやっちゃいないわ。ただ、リズにちょっとだけあの女の情報をくれてやっただけ。だってほら、目には目をって言うでしょ。