砂上の楼閣3
RRRRR……
鳴り響く電話の呼び出し音に慌てて芽依が受話器をとる。
『もしもし?』
《……》
『もしもし? どなたですか?』
《……》
プツン。
間違い電話だったのかなぁ。最近よく間違い電話がかかって来る様になったなぁ。そう暢気に思ってた。
これが波紋で私達夫婦の絆が砂上の楼閣と化するなんて、この時までは誰も知らなかった。
『芽依…いいかい?』
たまにウィルが芽依の肩を寄せて抱きしめて来るも、芽依は溜め息をつくと体ごとウィルに背を向けると無言で拒否をする。
『そ、そうなんだ。いいよ。気にしないで芽依』
優しいウィルは、芽依の体を抱きしめた。
芽依にとってHはあまり好きじゃない。別に淡白ってわけじゃないけど、痛いし、いやだ。私がこれだけ苦痛に思ってるんだから、当然ウィルも同じだよね。そう信じてた。
Hはできるだけしたくない、けど子供が欲しい。だけど人工授精するまで切羽詰まっているわけじゃないから、とりあえず頑張ってみるかって体を委ねていたし、ウィルもそうだと思っていた。
でも違ったのよね。あの時は私もそんなこと分からなかった。
初めての妊娠で慣れない体温の上昇におっかなびっくり。普段でさえ眠りが浅いのに、以前にも増してちょっとの物音で起きちゃう。そんな時にHとかしたくないよ。それよりもゆっくり寝かせて。
あれ?またウィルがいない。
ふと芽依が気がつくと、自分の横で眠っているはずのウィルがいない。初めは、自分の体温が高いから、階下のリビングでテレビでも見ているんだろうと軽く考えていた。それが毎晩続くようになると、鈍感な彼女もウィルの行動に疑問を抱き始めた。
年が明けるとウィルの行為は、目に余る様になって来た。
今まではまだ出ていなかったお腹をこれでもかと言うくらいに、まとわりつく様に触っていたウィルがその行為をピタリと止めた。
私があまりにも嫌がったから?そんなにまとわりつくんだったら、家のことを手伝ってよね。何も仕事をしているのはあなただけじゃないんだから。子供のようにすぐに床に物を放置するウィルに、逐一注意しなきゃなんない私の身にもなって欲しいわ。これで子供が生まれたら子供が二人になるわ。
家に居る時は、携帯を2つ持つ様になった。今までだって、携帯電話は1つでも面倒くさいなどと言って充電し忘れることなど常だったのに。
なのに、なんで2つ?
『ねえ。ウィル。どうしてまた新しく携帯電話を買ったの?』
『ん? あ、あー、これね。仕事用だよ』
『仕事用? 今までは仕事用のもこっちの携帯でまかなっていたじゃない。変だよ』
『オフの時にまで自分の時間を仕事に使いたくないんだよ。だから分けたんだ。それに仕事で受けた電話料金と、そうじゃないのと分けるために丁度良いと思ってさ』
ここまで言われてしまえば、芽依も強くは言えない。
ウィルの言うこともわかる。今までだってどこかに出かけようとした時や、出先でかかって来た電話で仕事に引き戻された事が何度もある。
わかってるけど…。でもね…。
2人で食事している時でさえも、携帯を手放さなくなった。
(今まで、そんな事は一度もなかったのに。一体どうして?)
まだお腹も出ていないと言うのに、芽依と義母はウィルそっちのけで、お腹の子供の事で話が盛り上がっている。気の早い義母と2人はベービーシャワーの計画の計画に余念がない。
呆れた義父がまだ4ヶ月だし、安定期じゃないからもう少し様子を見ながらでもいいだろと2人を宥めるほど、私達は浮かれてた。ウィルを残して。出産予定日は8月の下旬。もしかすると、私の誕生日と重なるかもしれない。
自分と同じ誕生日に産まれて来てくれたら、これこそ本当のプレゼントだわ。ウィルと3人で、毎年子供と私の誕生日を祝う事が出来るんだもの。にへら顔で郵便物をチェックしていた芽依は、一気に顔を歪めた。
「な、何この請求書?!」
「それになんなの、この金額は?!」
芽依が手に持っているのは、携帯電話の請求書。いつもなら2人で150ドル行くか行かないかってのが、ここ5、6年続いていたけど。こんな金額ありえない。
ー400ドル
しかも、1人で。一体どう言う事なの?
『ウィル、これ今月のあなたの携帯の請求書よね?で、何これ? こんな金額、今までなかったよね?誰と話してるの?浮気とかしてないわよね?』
家に帰って来たばかりのウィルに、その事を問いつめてみると彼はしれっとしたように言って来た。
『仕事の話だし、するわけないだろ』
『でも、コレってパケット代が殆どじゃないの!』
『会社の経費で落とさせるから、文句ないだろ!』
『エ…』
ウィルって、こんなにキレやすい人だった?いつもの温厚で優しいウィルは何処に行ったの?不安になって芽依が泣き始めれば、ウィルは我に返ったように芽依を優しく抱きしめてきた。
『ごめん。本当にごめんな芽依。今、仕事を2つ掛け持ちでやっているから、忙しくてイライラしていたんだ。本当にごめん』
芽依も泣きながら、首を横に振ると『いいよ。私も妊娠して怒りっぽくなってしまったし、ごめんねウィル』彼の首に腕をまわした。ウィルは背を少しかがめて。
芽依は、つま先だって仲直りの口づけをした。
『上に行こうか…芽依』
『ごめん…今日はそんな気分じゃないの』
(わかってよ。あんな請求書の金額見て、誰がHしたいと思うのよ)
これ見よがしで舌打と溜め息を吐いた。頭の中はパニック状態。これから育児にお金がかかるって言うのに、そんな暢気なことはやってられないのよ。
『…そっ…うん…わかった』
あの夜以来、何度かHしよって誘われたけど、『ごめん』『無理』『いや』と悉く断って来た。
そんなある日、夜中に目が覚めた芽依が階下に降りると、ウィルがPC画面じゃなく携帯を見ている。夕方にあれだけ携帯のことで言い合いになったからなんだろうけど…。あれってチャットだよね?
『ねえ、ウィル。誰と話してるの?』
『誰だっていいだろ。それにあんたに関係ない』
優しく聞いただけなのに、なんでいきなり突き放されるような言い方をされなきゃならないの?
動揺した芽依の頬に伝わる物が何かも分からず立ち尽くした。突然妊娠して即親になりますよなんて言われて、みんながみんな親の心得があるわけじゃない。
初めての妊娠で女性ホルモンもボロボロ、つわりで体調だって思わしくないし。夜中に突然襲って来る腓返りには、何度も泣きそうになってる。それでも私はあなたとの子供だから生みたいのに
…どうしてそんな冷たい事を言って来るの?
ボロボロと涙を流す芽依を見て、『ごめん、ごめんよ、芽依」慌てたウィルが取り繕うかの様に抱きしめて来るのも、日課となって行った。
「!!」
どうして?抱きしめて来るウィルの体から、仄かに香るのは私が知らない香り。