魔王様と淫魔な私
人間を恐怖に陥れる漆黒の闇が、一瞬にして空間に生まれ広がった。室内だと言うのには強く風が吹き、その風は武器のように頬を刻んでいく。
その風の中心で、長い黒髪をはためかせた男が高らかに声を上げる。
「その程度の力で我に勝てると思っているのか、勇者よ」
人間の理解を超えた美貌を持った男は、魔王と呼ばれる存在だった。
艶かしい赤い唇を舐め、獲物を捕らえたかのように黒い瞳を輝かせ、魔王は長い爪を勇者たちへと向けた。勇者は傷だらけの背に女を守るように剣を持つが、その手は小さく恐怖で震えている。
「くそっ、このままじゃ……!」
「やめて! これ以上戦えばあなたの命だって……!」
「僕のことは良いんだ! 世界がそれで救えるのなら! いくぞ魔王! 光の剣よ!」
ダッと踏み込み、男の光の剣が振り落とされる。まるで魔法のように眩い光が剣から飛び出し、それは魔王の胸を刺す。
「ぐっ、ぐわああああ!」
苦痛の声を上げ魔王が膝をつく。胸を押さえて苦しみ悶えると、呆気なくぱたりとその場で倒れこんだ。
「や、やったのか……?」
「すごいわ勇者様!」
女に飛びつかれ勇者の目尻がだらしなく下がる。
「さてと、とどめを刺せば良いのか?」
「あら、王様には城ごと封印しろって言われたじゃない。城の入り口でこの結界石を置けば――」
言いながら二人は仲良く連れ添って大広間から出て行った。
…………。
…………。
……もう良いかしら。
私は隠し扉から出ると、崩れ落ちた広間で寝そべったままの魔王様に声をかける。
「魔王様、二人は行きました。起きて宜しいですよ」
「む、行ったか」
むくりと起き上がる魔王様は漆黒のローブについた埃を手で払う。もちろんその胸にはさっきの剣の光が貫通した様子も見られない。
さっと魔王様が手を挙げた途端、崩壊していた大広間があっという間に再生される。元通りになった豪勢なイスに腰掛けると、面倒そうな顔で魔王様が頬杖をついた。
「そろそろこの仕事も面倒になってきたぞ。いっそ本気で勇者を倒してやろうか」
「駄目です。この国の王様からいっぱい報奨金貰ってるんですよ? そんなことしたら返せって言われちゃいます」
私達の仕事は、定期的――大体百年に一回くらい訪れる勇者に倒されるフリをすることだ。それだけで、多額の報奨金を貰えるボロい商売。
「しかしなんでこの国は定期的に魔王対勇者を演出しようとする? 意味が分からぬ」
「それはもちろん、魔王を倒す名誉ある勇者。そして彼らを全面的にバックアップする王家、一致団結する民衆っていう図が欲しいんでしょう。勇者様万歳、王家万歳。はい、これで百年は国も安泰ですね」
国が裏で手を回しているので、こうして魔王様も留めは刺されずにいる。もちろん結界石とやらもただの石ころで、さっき勇者の隣にいた女も事情を知る人間だ。哀れな勇者がデレデレしていた女は、勝手に魔王を殺さないように見張るためだけに側にいる。
とはいっても、茶番劇がはじまり四百年。魔王様を殺せるような人間にはお目にかかったことがないけれど。
「面倒だなあ、国に帰りたいなあ」
「その端正な顔で鼻をほじるのは止めてください。世間一般の魔王像というのも少しは考えて頂けますか。そもそも魔界の暗さが嫌だと飛び出して、勝手にここに城を建てたのはあなたです」
「飽きたんだ、仕方なかろう。……そんなことより、ルビー」
つつ、と頬を長い爪でなぞられ思わずゾワワと背筋をなにかが這う。
だって、その爪でさっき鼻をほじっていませんでした?
「この間の話、覚えてないとは言わせぬぞ」
「なにせもう六百歳ですから最近物忘れが激しくて、なんのことやら」
一歩引こうとするのに、磔にされたように足も手も動かない。妖しく光る瞳に不穏な炎が灯る。
「ルビーを我が物にするという話だ」
「さすがにオシメを変えたことがある子はちょっと」
「む、我はそんなことは覚えておらぬ。ルビーも忘れるがよい」
「無理ですね」
「そもそもルビーは淫魔であろう! ならば我を誘惑してみせぬか!」
駄々をこねる魔王様は小さい頃と変わりがない。生まれた時から側にいて、オシメを変えミルクも与えた子どもにそういう感情を抱くのは美学に反する。
「魔王様は私の好みとは外れているので。淫魔だって、誰から構わず襲うわけじゃありません」
「なに!? ならば、どういう男が好みなのだ」
しばし考える。私の好み。すっかり忘れてしまったが思い返せば私の好みは――。
「年上ですね」
「なんだと! 我にどうしろと言うのだ」
「どうしようもないですね」
本当にどうしようもない。けれど魔王様は珍しく真剣に悩むような表情を見せた。
「他に好みはないのか?」
「そうですねえ……。うーん。私に死ぬまで尽くして貢いでくれる人でしょうか?」
貢ぎ物は主に精力を。淫魔の生命力となるのだから当たり前だ。
「貢ぐ、か。ルビーは悪女だな」
「魔族ですから、まあそれなりに」
「ふむ。分かった」
そして魔王様はニヤリと本当の悪役のように笑ったのだった。
「魔王の襲撃だ!」
怯えるような声が城中に響き渡り、逃げ惑う人間たちは必死の形相だった。私は魔法を散乱させる魔王様のあとを従っていた。
ちなみにこれは、フリでも演技でもない。
要するに魔王様は本気で人間の城を攻めていた。
「素晴らしい絶望の声だ! 泣け、わめけ、我にひれ伏すが良い!」
ここまで悪役が似合う人はなかなか人間界にはいないだろう。凄みのある色気と魅力を持つ魔王様はとても美しい。面倒くさがりだという本性さえ知らなければ、多くの魔界の者が彼に心酔するのも理解できる。
「勇者はなにをしている!」
「王が消えたぞ!」
城内で叫ぶ者がいる。しかし残念。今回の勇者は、自分が倒したはずの魔王を目の当たりにして真っ先に逃げ出した。
所詮あつらえた勇者、力や知がなくても勇者になることが出来るのは、ここの王家の者が一番よく知っている。
だからこそ、王族たちは勇者の次にさっさと逃げ出した。自分たちが守るべき国と、民を放棄して。
まったくもって醜い所行だ。その思考はむしろ私たち魔界の人間と近いと思うが、当の本人たちは認めないだろう。
「ふはははははは!」
愉悦に満ちた魔王様の高笑いは止まることを知らない。指を一降りするだけでも、魔王様は城を壊滅状態にさせてしまう。
「それでこそ魔王様でございます」
「惚れたかルビー!」
「いえ、魔王様の成長を知り感激しております。あのよちよち歩きだった魔王様も大人になられて……」
こうして人間どもを恐怖のどん底に突き落とすまでに成長したことに私は感涙した。
「母のようなことを言うな!」
「恐れながら似たようなものでございます。魔王様のお尻のほくろの数まで知っていますゆえ」
「くっ」
屈辱に満ちた魔王様の顔だったが、なぜか急にニヒルな表情に切り替えた。
「まあ良い、どうだルビー。この城ごとお前に貢ごうではないか。宝玉でもなんでもお前のものだ」
…………。
「まさか、私に貢ぐために破壊活動を?」
「ふっ惚れたか」
「バカですか、魔王様」
「な、なんだとっ!?」
私は呆れてため息を吐く。
「いいですか、魔王様。私は言ったはずです。勇者ごっこに付き合うだけで報奨金が貰えると。国を滅ぼしてしまえばこの先がないんですよ? ああ。折角ちょっと遊ぶだけで城の維持費を払っても余裕でおつりが出るほどお金が貰えるのに……」
「むむ」
「本当になんというか、やっぱり魔王様は成長されていませんね」
「むむむ。……全員引き上げるぞ!」
「ええ!?」
従っていた魔族たちが突然の引き上げ宣言に驚いて声を上げる。無理もない。もうあと一息で制圧できるところまで来たのだから。
「やっぱりバカですか魔王様。ここまでして今更引き上げたって、次にまた勇者ごっこを頼もうなんて思いませんよ。というより、おそらくこの国は滅びます。民を置いて逃げた王族に従う民衆はいませんから」
「そ、そうなのか? ならやはり制圧するか」
「そうしましょう。折角ですので、魔王様のご厚意に甘えて貢ぎ物、頂きます」
「ふっ。いくらでも持って行くが良い」
「ええ、そうします。あ、でも宝石とかそういうのは結構です。生き残った人間の精力を貰えれば、それで。さっき好みのダンディーな老騎士を見つけて――」
「全員撤収! 一秒でも早くこの城から出るぞ!」
そして私は、魔王様に抱えられてあっという間に城へと戻ってこさせられた。
「……どういうことですか?」
「うるさいうるさい!」
城に戻った瞬間、駄々をこねるように寝台で布団に顔をもぐらせた魔王様。
私はちょこんと寝台の端に腰掛けて、布団越しに魔王様の頭を撫でる。一瞬魔王様の肩がぴくりと撥ねたが、されるがままだ。
「……ルビーの好みは顔なのか? 老け顔なのか? 人間でいう年寄りだって、お前よりも年下だろう」
「まあ正確にはそうなんですが。知性を感じさせる皺が好きなんです」
「なら我の顔が皺くちゃになれば、ルビーは惚れるのか。それならば魔法でいますぐ変えて見せようぞ」
「魔王様の顔が老け顔になったら、女性魔族が皆がっかりしますよ。折角素敵な顔を生まれ持ったんですから」
「ルビーの好みでないなら意味などあるものか」
布団にもぐりこんだせいでくぐもってはいるが、はっきりとした声色に私は苦笑した。
「私たちだって人間よりとっても寿命が長いだけで、数百年後には老いた顔になるし死にます。魔王様だっていつかは皺くちゃになりますよ」
「……数百年も待てぬ」
「待てますよ」
私は布団を掴み、勢い良く投げ捨てた。子どものように丸くなって目元を赤くした魔王様と目があうと、恥ずかしそうに目を背けられた。
小さく笑い、私は魔王様の髪に直に触れ頭を撫でた。
「魔王様は皺くちゃになるまで、私とは一緒にいないおつもりですか?」
「そんなわけがなかろう!」
がばりと上半身を起こし、魔王様は唾を飛ばしながら叫んだ。
「なら良いじゃないですか。数百年後、数千年後、お互い生きているならずっとお側にいるのですから。私にとって一番大切な人、それが魔王様ですよ」
「そ、そ、それはつまり……!」
「ええ。我が子のように愛おしく思っています」
「…………我は寝る。しばらく起こすな」
床に落ちた布団を拾い上げ、魔王様はふたたび中へと潜り込んでいった。そして三秒後には規則正しい寝息が聞こえてきた。
「おやすみなさい魔王様」
魔王様の顔があるであろう部分にかがみ込み、私は布団の上から軽く口づけを落とす。そして音を立てないように静かに寝室をあとにした。
「ルビー殿」
「どうしました?」
顔見知りの魔族の男に声をかけられ私は足を止める。男は比較的魔王様に近しい立場で、片腕と言っても差し支えない。
「……魔王様があなたにご執心なのは分かっています。しかしあまり弄ばれるのはいかがなものかと」
あら、心外。
「知っています? 淫魔って本当は一人の決まった男の側になんていないんですよ。気の向くまま、本能のまま。良い男がいると聞いたところに現れるのが淫魔の性。その私が、たった一人の――魔王様の側にいる理由なんて、一つしかないじゃないですか」
大事な大事な、愛しい人。だからこそ、ずっと、彼が皺くちゃになるまで側にいると誓ったのに。
「……ではなぜ、あのようなからかう言動を」
私は考え込むように視線を宙にさまよわせ、そして笑った。
「なぜって? そんなの決まっているでしょう。魔王様が嫉妬したり、拗ねたりしているときに無意識に出されるフェロモンが美味しいからよ」
魔王様の顔立ちは、確かに私の好みではない。けれど――。
うっとりするような言葉を囁くときは、甘い味。
嫉妬しているときは、ほのかな苦みのある味。
怒っているときは、スパイシーな味。
悲しんでいるときは、塩気のある味。
喜怒哀楽の激しい魔王様らしく、彼が無自覚に発する精力はどれも、とても美味しくて心が満たされる。誰よりも一番、魔王様の味を愛している。
「……悪女ですね」
どこかで聞いた台詞に肩をすくめた。
「魔族だもの」
魔王様に言葉で気持ちを告げるのは、皺くちゃになってからで良い。
愛し方なんて、それぞれよ。これが淫魔の――私なりの愛し方。