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プロローグ

神が一日目に創造せし大地に楔として打ち込まれるはベヒーモス。


その目覚めは陸の生命の終点。いかなる文明が栄えようと、全てを荒野へと化すだろう。


それは破壊の権化。それは悪意の結晶。それは神の傑作。

その拳は万物を破壊し、その脚は大陸をゆうに跳び越し、その慟哭は終焉のラッパを兼ねる。

そこに一切の慈悲はない。数多ある生命を駆逐するまで、己が唯一孤高たる生命であるまで、瞳に写る全てを破壊し尽くすだろう。


触れるなかれ。近づくなかれ。楔は厄災そのものである。


ーー創星記より抜粋。


雲の城。城下町に住まう国民たちは、畏怖と尊敬の念からアズガルル城をそう呼んだ。

その由来は今日のような天気ならばすぐに分かる。


空は澄みわたるように青く、東に昇る太陽の日差しを遮るものはない。

だが城下町から見上げた空には、雲と見違うほどに壮大な白が視界に広がる。

白の大理石を基調に造られた王の住まう城にして、帝都セフィアロの象徴そのもの。

何百と続く歴史の中に、一片の揺るぎもなく存在してきた由緒ある城だ。


自然と人の匠が混じりあった芸術。

その光景を一目見ようと、国外からの観光客は後を絶たない。

そのため市場には多くの商人が集い、物資の売買を行う。

地域の工芸品に始まり、食料、織物など、目移りしてしまう品揃えばかり。


今日も様々な人々が街に集まり、ごった返していた。

商人の嬉しい悲鳴が聞こえてくる。

しかしそれは、商売を行わない国民にとっては安直に歓迎できる事態ではなかった。

あまりにも人が多すぎて、広い道にも関わらず人混みができてしまうからだ。


「やれやれ。今日も変わらず繁盛してるな」


アーノルド・グレイは溜め息混じりに言った。

紺色の重厚な革で縫われた軍服。無造作に乱れた黒髪。覇気の感じられない曇った翡翠の瞳。

美形といえる顔立ちもそれが邪魔をし、弱々しく見えてしまう。


しかしすらりと背は高く、真正面から見ると軍服のせいか威圧感を感じさせるという矛盾を抱えた男だった。


彼は市場の隅、小さな雑貨屋の壁にもたれかけ流れる人の河を見る。見渡す限りの人、人、人。

この景色の異様さに慣れてしまったのだろう。どこか諦めにも似た感情が芽生えていた。


「あいつ、買い物長いな……」


そう呟く。すると同時に、中から修道服を着た女性が出てきた。

黒曜石のように淀みのない深い黒髪。短髪のせいか気が強そうに見えた。

だが身体は少し小柄で、今にも人混みに埋もれてしまいそうである。というか、埋もれている。

それでも必死に抜け出した彼女は、愛嬌を感じさせる大きな瞳でグレイを視界に入れると、


「あー、いたいた!」


と顔をほころばせた。

彼女がグレイを数十分ほど立ち往生させている張本人。名前をミラル・ミレイル。

グレイはその姿を見て、ようやく終わったかと安堵した。その期待はすぐに打ち砕かれた。

「ねぇグレイ。これとこれ、どっちがいいかな?」


そう言って差し出した両手には、掌に収まる大きさの毛玉の色違いが並べられていた。

グレイはうんざりと下を向く。このやりとりをするのが既に五回目だったからだ。

そのどれもがグレイには大差ない色だったり質だったりする。


「もうさっさと決めろよ!」と叫びたい気持ちがあったが、それは大人気ない。

両方に目をやり、正直に答えた。


「どっちでもいい」


「あー、そんなこという!」


ミレイルは膨れっ面をした。そう言われても、何度も聞かされる身からすればたまったものじゃないというのに。グレイは頭痛を抑えるように額に手をやる。


「なぁ、まだ終わらないのか?お前は毛糸の何を見ているんだ?色か、質か?俺にはどれも大差なく見えるんだが……」


「それはグレイに見る目がないからよ。それに選ぶ基準は色や質もあるけど、何より子供たちに似合うかどうかね」


「なら連れてくれば良かっただろう。選ばせればいい」


「それは駄目。今日は学問の先生が来ているんだから」


そう言われてはなす術はない。グレイは仕方なしと待つことに決める。


「だが、早くしてくれよ。まだ買い物は控えているんだからな」


催促も込めてグレイが言うと、ミレイルは親指と人指し指をギリギリつけないようにして、


「んー、もうちょっと。もうちょっとだけ」


その言葉ももう二回目だ。グレイは心の底から疑問に思ったことをそのまま口にした。


「何を迷うことがあるんだ?中なら数分で見て終わりだろ」


それにミレイルは言い聞かせるようにピシッと、


「女の子の買い物は長いの!!」


と言ってから、


「それにこれから少しすれば、風も寒くなる。セーターを編むにしても、どんな毛糸がいいかなって考えちゃって。なるべく暖かい方がいいでしょう?子供たちのためにも、ちゃんと選ばなきゃね」


満面の笑みを見せた。それはとても純粋無垢な、子供のような笑みだった。

それにグレイは言葉を失いかける。

ーーこれを聞いてさらに反論出来る奴がいるなら見てみたいもんだ。

結局、それから三十分も待たされた。

「ごめんね、待たして」


雑貨屋から出てきたミレイルの手にはそれなりの大きさの紙袋があった。

両手で持っているが、視界が袋で覆われてしまいそうだ。歩く姿が危なっかしい。

グレイはひょいとその袋を取ると、自分で持った。


「え、いいよ。私が持つから」


「無理するな。それにこんな所で迷子になられたら、探すに苦労するだろう?」


グレイは至って真面目に言ったのだが、からかわれたと思ったらしい。

ミレイルは憤慨したように、


「子供扱いしないで!これでも私、二十一よ」


グレイはミレイルの身体を上から下までくまなく見てから、


「……成長期に見捨てられたな」


「余計なお世話よ!」


しかし、それにしても大きな袋だ。いくつの毛玉が入っているのか。

編み物の知識がないグレイには、セーター一つに使われる毛糸の量など分からない。

果たしてどんな毛糸を選んだのか。あれだけ待たされたのだから、出来の良いものに仕上げて欲しい。


「さて、それじゃあ次の店に行こうか」


さぁ出発と意気込むもつかの間。回れ右してあるのは、やはり先ほどと変わらず人の河だ。

グレイが小柄のミレイルを労わるのも納得である。


「ああもうっ!!こんなんじゃ買い物するにも一苦労じゃない!!」


無慈悲な現実に、ミレイルはつい叫び声を上げた。にも関わらず、周りの人の反応は薄い。

人の足跡や商人の威勢のいい掛け声で、叫び声がかき消されてしまったからだ。

意識して耳を傾けなくては、隣にいる人の声さえ聞こえない。

それがここの日常。もはや異常の域だった。


「もしこの中で殺人が起きても、誰も気付かないんじゃない?」


さらっと恐ろしいことを言う。

しかしその考え、いきすぎではあるがあながち間違いではない。

この人混みはスリの格好の獲物なのだ。

盗難被害は後を立たず、気がついた時には既に遅し。

スリは街の犯罪の六割を占めていた。


「そう文句を垂れるな。シワがよるぞ。ただでさえ怒りすぎでシワができてるのに」

「うるさい!!あとシワなんか出来てない!」


出来てるじゃん、なんて突っ込みはいれなかった。そんな事に時間をとられたくなかった。

それにどう足掻いても、この人の河を通らねば移動できないのだ。

グレイは待ち時間の間に、既に覚悟を決めていた。


「人混みは嫌いだ。とっとと行くぞ」

「え、わっ……」


グレイが前に出て、ミレイルの腕を掴み強引に進んでいく。

肩をぶつけぶつけられ、それでも無理矢理に。

そうでもしなくては、溢れた河のような人混みをまともに進むことが出来ない。


覇気の欠片もないグレイであるが、その服装から分かるように軍人だ。

華奢そうに見えるが着痩せしているだけで、筋力は常人とは一線をかくしている。

だからこそ、この人混みを自分の意思で進むことが出来る。

周りの騒音にかきけされないように、ミレイルは大きな声で言った。


「えっと、あと何を買うんだっけ?」


グレイは左手に抱えなおした袋を覗きこむと、足りないものをあげた。


「オレンジとリンゴと新鮮な野菜を適当だ」

「まだそんなにあるの……?」

「安心しろ。それは店の中で買う」


その一言に、ミレイルは安堵の溜め息を吐いた。

外での買い物はそれほどまでに体力を消耗するのだ。


引っ張るがままに連れられること数分、ようやくその店にたどり着いた。

焦げ茶色をしたレンガが幾重にも積み重なり、そこに窓や扉、煙突が組み込まれ、家の形を形成している。

見上げると店の名前が書いてあったであろうブリキの看板が見えたが、年季のせいか霞んで見えない。

一見ただの家だが、地元の人は御用達のれっきとした店だ。名前は誰も知らないが。


「すみませーん」


扉の呼び鈴と共に、グレイは声をかけた。だが、返ってくるのは呼び鈴の残響だけ。

どうやら今は留守らしい。


「店を開けっ放しなんて、ちょっと無用心なんじゃない?」


「逆だろ。客を信じているから開けっ放しなんだ」


「そうなの?」


「すまん、適当に言った」


店番はぞんざいだったが、商品の管理は徹底されていた。

食べ物を扱うだけあり、清潔にされた店内。

中には色とりどりの野菜や果物を揃えたかごや棚が、規則的に並べられている。


「いなくても、商品を見るぐらいはいいだろう」


早速、グレイの視線がそれらを捉える。

一体どれが美味しいのか、形や色つやから目利きを始めた。

戦時中はろくなものが食べられなかったため、食に関してはこだわりがある。

趣味で始めた料理だったが、気がつけば素材にこだわるほど熱中していた。


だが、ミレイルにそんな余裕などない。軍人のグレイと違い、体力は人並み以下だ。

ペタリと膝から崩れ落ち、


「もう嫌だ……。何で買い物の度にこんな思いしなくちゃいけないのよ……」


と、今にも泣きそうな声で言う。


「河のような人混み。鼓膜に響く騒音。身体中が悲鳴をあげてる……。街が栄えるのはいいんだけど、何事にも限度ってものがあるでしょう」


「今、物資が満足に潤っているのはここぐらいだからな。人が集まるのは無理もない。もう少し時間が経てば、人混みも減るだろうさ」


グレイたちが住まう帝都セフィアロは十五年に渡り、ガレド帝国という国と戦争をしていた。それによって多くの血が流れ、幾多の兵が死に、戦いによって大地は枯渇した。

黒歴史として後の世に知らされるであろうその戦争には、その長きに渡る年月の名がつけられ十五年戦争と呼ばれている。


その戦争は半年前に、セフィアロの勝利という形で幕を閉じた。

だが勝利したといえど、戦争での被害は甚大だった。

食料不足。治安の悪化。大地の枯渇。挙げれば切りがない。

ミレイルは暗い面持ちから一転、笑顔を見せた。


「そうだよね。少しの辛抱だよね。戦争が終わって、ま だ半年しか経ってない。ここまで活気づくこと自体、奇跡みたいなことなんだし。裕福な部類に入る私たちが愚痴を言っても、仕方ないよね」


そう。ミレイルの言う通り、半年という月日でその問題の大半は解決された。

物資の不足などは地域によっては未だに続くものの、戦争の傷跡のほとんどは埋まりかけている。

セフィアロに集う人々の活気ある表情が、それを表していた。


「そうだな。とはいえ、奇跡ねぇ……」


グレイは明らかに訝しげな態度をとった。それが気に入らないとでも言うように。

青々としたレタスを両手に取り、重さを量りながら、


「俺は不気味だよ。あまりにも上手くできすぎてる。いつかその帳尻合わせをしなくちゃいけないようで、不安だ」


「もう、なんでそんなこと言うの?」


「だってそうだろ。十五年戦争が終わって、この国に何が残った?新しい女王。背徳者。飢えた民に痩せた大地。それがたった半年で、こうも変わった。不気味すぎる。女王の手腕と言われたらそれまでなんだがな」


「そうに決まってる。心配性ね。なんだろうと平和が一番じゃない」


そう言って笑うミレイルを余所に、グレイは嘲笑に近い笑みを返す。


「国の状況云々を語る前に、お前は料理の腕を治せ。あれは悲惨だ。腕を上げろよりも、治せって言葉がピンとくるぐらいだからな」


ピクリとミレイルが反応した。


「……何で急にその話になるの?」


「国を変えるには莫大な時間と金がかかる。だが、お前の言う通り女王はそれをやってのけた。ならお前が料理の腕を矯正することぐらい、実にちっぽけでささやかで楽なものだろう。女王を少しは見習ったらどうだ?」


「てへっ」


「かわい子ぶれば許されると思うなよ?」


可愛らしく目をつむるをするミレイルに、グレイは呆れたように言った。


「お前、女だろ。なのに俺より料理できないっていうのは、危機感を覚えていいんじゃないか?」


「女だから料理しなくちゃいけないなんて偏見なんだよ?」


あっけらかんと開き直った。彼女は気づいていないのだろうか?自身の料理が子供達に避けられているという事実に。

グレイは深い溜め息を吐いてから、


「お前みたいな女を嫁にしたがる男はいない。断言してやる」


「あっ、酷い!!これでも料理以外の家事は万能なんだから!!特に裁縫なら完璧よ。子供たちから大絶賛なんだから!!」


子供、といっても二人の子ではない。

二人が住みかにしている教会は孤児院を兼ねている。

そこには捨てられた孤児や戦争により親を失った子供たちが住んでいる。

ミレイルはその孤児院のマザーであり、グレイはできうる限りその補佐をしている。


小さな子供ばかりだ。編むセーターも数は多いが、大きくはないので毛糸の数も節約できる。

グレイはその点だけは認めざるを得ないのだろう。


「裁縫の技術は確かに凄い。この軍服も、お前が裁縫してくれるお陰で長持ちしてるからな」


「ふっふーんだ。感謝しなさい」


そう言って仁王立ちするミレイル。ちょこんとこじんまりした身体でやっても、威厳などあろうはずもない。


「ない胸張って威張るんじゃない」

「き、着痩せしてるだけなんだから!!」


その時、店の扉が開いた。呼び鈴が鳴る。

そしてエプロン姿の店主がひょこっと顔を覗かせた。


「いらっしゃい。すみませんね、ちょっと野暮用で店を開けてて。何でも表で騒ぎがあったらしくて」


そう言って頬をかく。ミレイルが反応した。


「騒ぎ?スリですか?」


「さぁ、そのところは何とも。こう人が多いと、自然と厄介事は起きますからね。大方、この人混みに馴れない観光客が店に文句でも言っているのでしょう。別段危ない気配はなさそうだったので、確認せず帰ってきたんです」


ミレイルはへぇと気のない返事を返すと、興味を失ったように黙りこくった。


「あ、もう買う商品はお決まりで?」


「そうですね。とりあえずこのレタス、買います」


グレイの買い物は女の買い物並みに長い。

ミレイルは仕方なく、色鮮やかな野菜に視線を向けることにした。



「やれやれ、ようやく買い物が終わったな」


「それ、私の台詞なんだけど」


市場の人混みを抜けた二人は、アズガルル城の麓に生い茂る針葉樹の林に入っていた。

森の中には外観を損なわない程度に出来た通路がある。その道を行く。


視線を上げれば、そこにあるのは緑の天井。

日差しが照りつけ、葉の隙間から差し込む光が眩しい。


林の中にも関わらず明るく、自然の温もりを感じることが出来た。

息を深く吸い込めば、空気が澄んでいることが分かる。


何より、市場の喧騒とはかけ離れた場所だ。

買い物で更に増えた荷物を抱えながら、グレイは言った。


「さて、今晩は何にしようか。買いだめしたが、特に作るのは決めてないからな」


「子供たちに聞けばいいんじゃない?」


「そうだな。そうしよう」


たわいもない会話。何処からか鳥のさえずりが聞こえてくる。

風が吹けば木々は揺れ、心地よい音をたてた。


それにミレイルは耳を傾ける。自然の合唱を聴くと心が落ち着いく。

それだけで確かな充実を得ることが出来た。



「やれやれ、ようやく買い物が終わったな」


「それ、私の台詞なんだけど」


市場の人混みを抜けた二人は、アズガルル城の麓に生い茂る針葉樹の林に入っていた。

森の中には外観を損なわない程度に出来た通路がある。その道を行く。

視線を上げれば、そこにあるのは緑の天井。

日差しが照りつけ、葉の隙間から差し込む光が眩しい。


林の中にも関わらず明るく、自然の温もりを感じることが出来た。

息を深く吸い込めば、空気が澄んでいることが分かる。

何より、市場の喧騒とはかけ離れた場所だ。

買い物で更に増えた荷物を抱えながら、グレイは言った。


「さて、今晩は何にしようか。買いだめしたが、特に作るのは決めてないからな」


「子供たちに聞けばいいんじゃない?」


「そうだな。そうしよう」


たわいもない会話。何処からか鳥のさえずりが聞こえてくる。

風が吹けば木々は揺れ、心地よい音をたてた。

それにミレイルは耳を傾ける。自然の合唱を聴くと心が落ち着いく。

それだけで確かな充実を得ることが出来た。


「懐かしい。林の中を歩くと、何だか昔を思い出す。あなたはマザーによく叱られてたよね」


「そうだな。ちょっとはしゃいだだけで怒るんだから、困ったもんだった」


「連帯責任で私たちまで怒られるんだから、たまったもんじゃなかったよ」


「馬鹿いえ。お前はどちらかというと巻き込む側だったろうが」


「そうだっけ?」


懐かしい昔の話。楽しかった過去。それは思い返ることで始めて成立する。

それは平穏な日常の一欠片。


大切な思い出であり、それを共有できることは紛れもなく幸せなことだ。

心が暖かくなり、微かに体温が上がる。この平和な世であろうと、それを味わうことの出来る人間は限られている。

しかしミレイルには一つ、心に引っかかるものがあった。


「そうだ。マザーといえば昔……」


グレイは軍人であった過去の話をしない。それがとても居心地が悪く、胸を燻る。


ガレド帝国との戦争は、長きに渡る戦であったため年月から名前をつけられた。


十五年戦争。それは凄絶な戦いだったという。血を血で洗うような、敵と味方の区別もつかなくなり手当たり次第に人を殺すような、狂いに狂ったものだという。


事実、グレイが八年間の軍人生活を終え、教会へ戻ってきた時。


その表情は死人も同然だった。

この世界の深淵でも覗いてきたかのような、そんな表情を浮かべていた。


それでも今こうして何事もなく生きている事実に、ミレイルは神に感謝している。

だが、違和感を感じずにはいられなかった。グレイはあまりに順調に回復し過ぎていた。


僅か数日で全てに絶望しきった死人のような表情は忽然となりを潜め、ミレイルが知るかつてのアーノルド・グレイがそこにいた。


その様はまるで求められた演技を行うツギハギだらけのマリオネット。観るに痛々しい芝居劇だ。

だがミレイルはそれを指摘出来ずにいた。


彼が戦場で何を見て、何を体感したのか。それを所詮は部外者である自分の手でほじくり返すことは、許されないような気がしたのだ。


だからミレイルは待っている。

いつの日か、グレイが自らの口で過去を話してくれるのを。


「ミレイル?」


「ああ、うん。なんでもない」


考え後を振り払うように首を横に振る。


「そうか?いや、ならいいんだ。しばらくの間、お前に弧児院を任せっきりだったからな。疲れが溜まっているのかと思ったんだが」


気を遣うその態度にミレイルは少し嬉しくなる。

追及することが出来ないのは、グレイの演技が完璧に近しいのも理由の一つだろう。


「まさか。子供たちと一緒にいるのは楽しいし、私の生き甲斐だよ。それにマザーと約束したから。孤児院は私が引き継ぐってね。ところでグレイ。あなた、一ヶ月近くも何処で何をしてたの?」


「言わなかったか?任務だ」


「それは行きに聞いた。そうじゃなくて、どんな任務をやってたのかってことよ」


グレイは右手で髪をいじると、


「まぁ色々だ」


「なによそれー」


明らかに話を濁していた。元より嘘を苦手とする性分なので、隠し事には向いてないのだ。

だからこそグレイの隠す過去がより鮮明な違和感となる。


「まぁいつものことだからいいけどさ。今回はちょっと長すぎたから……心配した」


平穏が訪れた今、軍人の仕事はとある領域の警備か人手の足らない事務のどちらかに分かれている。

だが、グレイはそのどちらにも当てはまらない。それは彼が持つ力が故だ。


代わりに『任務』と呼ばれる戦後の治安向上及び改善のため、国からの要請で外に出ることが何度かあった。


それは一日二日程度のものもあれば一週間ほどのもあったが、一ヶ月というのは今回が初めてだった。その間、ミレイルが気が気でなかったのは言うまでもない。


その任務が常人には託すことの出来ない危険なものであることを、ミレイルは薄々ながら感づいているからだ。


「悪いな。少し予想外の事態だったから、対応に手間取った。元より少し遠出だったしな。それだけだ」


それが嘘とも真とも取れない言葉だと分かっていても、無事帰ってきてくれた事実にミレイルは安堵を覚えてしまう。


(うう、いけない。これじゃあ今のグレイをそのまま肯定することになるし……)


「これからは長引きそうなら手紙でも書くことにする。余程のことがなければ、配達もない辺境の地に行くなんてことはないからな」


「本当に!?」


想いとは裏腹に、心は素直に喜んでしまう。


グレイは頷き、それからくるりと後ろを振り向いて一言。


「それで、お前はいつから人の後をつけるなんて悪趣味を覚えたんだ?話をコソコソ聞いて楽しいのか?」


「え?」


ミレイルが首を傾げたときだ。


「おお、さっすが。バレてたか」


声と共に、針葉樹の影から一人の少年が出てきた。緑の大地を厚皮のブーツでズカズカと踏みつけて進んでくる。グレイとは違う新式の迷彩色の軍服だが、萌ゆる緑の中では浮いていた。


癖のある茶髪の上に、軍の象徴である星の勲章つき軍帽を深く被っている。

それはミレイルもよく知る人物だった。


「カレル?なんでこんなところに……」


「いやー、どうもお久しぶり。 相変わらず似合ってるよ、修道服」


ロッド・カレル。それが彼の名だった。声は少し高く、顔立ちはどこか両性的。

まだ幼さあまる童顔のせいもあり、軍服姿に違和感を感じさせる少年だった。

知性を感じさせるその淡い蒼色の瞳をグレイに向け、カレルはなんとも陽気な声を出した。


「買い物途中にすみませんね」


グレイはため息と共に言った。


「そう思ってるなら出てくるな。それ以前に後をつけるな」


「それ、自意識過剰ってやつじゃないか?俺はグレイの後じゃなく、ミレイルの後をつけていたんだ。野郎の後をつける趣味なんかあるわけないだろ?」


「え、私?歳下はお断りしてるの」


ミレイルは困惑の表情を浮かべた。

グレイは仮面を被っているかのように無表情だった。


「そうか。つまりお前は国に務める軍人でありながら、婦人をつきまとう行為をしていたと、そう言うわけだな?これは聞き捨てならない事態だ。すぐにでも軍法会議にかけなくちゃな」


「うん、それがいいと思う」


「あー、はいはいごめんなさい嘘ですグレイの後をつけてました。これで二人とも満足?」


ミレイルはニッコリと一言。


「はい、満足です」


「不満足だ。いいからさっさと要件をいえ」


カレルは調子が狂ったとでもいいたげに髪を掻くように帽子を掻いた。


「あーもー嫌になるなぁ。俺だって好きでこんなことしてるわけじゃないんだって。仕事だよ、仕事。ただでさえ納税だの貿易だのよく分からない事務仕事が残っているのに、さらに追い打ちをかけていいように使いパシリにされている俺の身を案じてくれても、罰は当たらないぜ?」


カレルはグレイの部下である。といってもグレイは既に軍を引退しているため、形だけの関係なのだが。

かの戦争からの付き合いであり、グレイの過去をよく知る人物。

だからミレイルはカレルに対して興味があった。それとなく気を伺い仲良くなることは出来たが、カレルも同様過去の話の一切を持ち出さなかった。


この半年で分かったのは、グレイとは正反対というぐらい明るいということぐらいだ。本当に戦争で死地を見てきたのかと疑うほどにカレルは陽気だった。最近は迫る業務の多忙さに悲鳴を上げているが。


「その仕事と尾行に何の関係性がある?」


「気を使ってやったのさ。一度孤児院に行けば子供たちに買い物へ出かけたと教えられ、市場の人混みに紛れながらなんとか発見したけど、声をかけられる雰囲気じゃなくてね。久々の二人きりを邪魔するような無粋な人間じゃないんだ」


二人きり。ミレイルはその言葉を意識し、微かに鼓動が高まった。

だが、グレイは気にも止めない。


「それでわざわざ帰宅するまで尾行して、孤児院についたと同時に「これは偶然。ちょうど良かった」みたいなことを言いながら現れるつもりだったわけだ。……おいミレイル。何を睨んでいる?」


ミレイルはふいっとソッポを向いた。自身の好意にグレイが全く反応を見せていないのは前々からだが、やはり蔑ろにされるのはいい気分ではない。


ーーこっちがどんな想いかも知らないで。ミレイルは内心で溜息をついた。


理由が分からずグレイが眉をひそめるのを見て、カレルは「ははは、いいねぇ青春」と乾いた笑いで場を誤魔化した。


「とにかく、俺は時間を削るなんて自己犠牲まで払ったんだ。時間は金で買えない。いい部下を持っただろう?」


「自分で主張しなければ完璧だったさ。で、要件はなんだ?」


「お礼の一つもなしかい。まぁいいや。女王様が直々にお呼びだってさ。王の間に来いとのことだ。ま、十中八九任務についてだろうな」


その言葉にミレイルは不安げに尋ねた。


「……また何処かへ行くの?」


「いや、今回は違う。前の任務についての話だからその心配はない」


カレルの一言にミレイルは安堵した。


「ただ、最近はちょっと城の中がピリピリしててな。あんなことが起きれば無理もないけど。迂闊な発言とかは避けた方がいいだろうぜ。騎士たちの恨みをかいたくなければな。……おーい、聞いてるのか?」


グレイは考え事でもしていたのか、はっと反応した。カレルは苦笑いを浮かべる。


「おいおい、しっかりしてくれよ。これ以上騎士の恨みをかったら、夜道を帰れなくなるぜ」


「ん、ああ。そうだな。お呼びとあらば行くしかないな。あまり待たせるとあいつがうるさいだろうし。カレル。お前はこの荷物を持って孤児院まで運んでから帰れ」


有無を言わさず荷物を押しつける。カレルはフラつきながら受け止めるも、


「うぇー、マジかよ。とはいえ、か弱き乙女に待たせるわけにもいかないし。分かったよ、持ってくよ」


その愚痴を聞きながら、グレイはミレイルの方を向く。


「夕飯の支度が間に合うように帰ってくる。くれぐれも帰りが遅いから料理をしようなんて思わないように」


「えー」


「今日買った食材を残飯に変えるつもりか?食べ物の恨みをこれ以上かいたいとは」


「……はい」


ミレイルとの約束をしっかり交わしてから、グレイは王の住まうアズガルル城へと向かった。

カレルはその背後を遠目ながらに見て、それから呟いた。


「……不安だな」

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