絶世系ド貧乏令嬢
絶世の美女、という言葉は、正しく彼女のために誂えられたものだろう。
腰まで届く長い銀髪は淡い紫色を帯びていて、僅かに揺れる度にオーロラのごとく深い煌めきを放っている。
額の中央で分けられた前髪。その間からは手のひらに収まってしまいそうなほど小さな顔が覗いていて、白い肌は氷で作られているのかと思うほどに冷たく透き通っている。
切れ長の瞳は針のように鋭く長い銀色の睫毛に覆われていて、その目はまるで紫紺の宝石を繊細に削ってはめ込んだかのようだった。
細く長い手足は服の上からでも分かるほど均等に整っており、その身を包む白い制服は彼女のためだけに仕立てられた極上のドレスに等しい。
彼女を見た者は、その誰もが呼吸を忘れ、瞬きを忘れ、自分の名前すらも忘れる。そのあまりの美貌に脳天を撃ち抜かれ、思わず胸の前で手を組んで祈らずにはいられない。
誰かが言った。
彼女は空の上から舞い降りた天女なのではないかと。
誰かが言った。
否。彼女は気まぐれにこの世に降り立った女神なのだと。
誰かが言った。
それも否。彼女は古い御伽噺から抜け出してきた麗しの姫君なのだと。
彼女の身分が、この高貴なる魔法学園にはそぐわない平民であることさえも、かえって彼女の神秘に拍車をかけている。
この学園で唯一、平民でありながらその魔法の才を買われ、本来ならば貴族にしか門を開かない魔法学園に通うことを許された美貌の女。
新入生ながら、生徒教師学年性別問わず、周囲の関心を一心に集めるその女の名は、アリス・ノーランド。
姫、女神、天女と、彼女は古今東西のありとあらゆる美辞麗句で崇められながら。
(なっ……そがなわけねーで!! わたしはただの田舎から来た貧乏人だのに!?)
内心で頭を抱え、降り止まない噂話と恍惚の視線に目を白黒させていたのだった。
アリス・ノーランドは、田舎の小さな村にある、六男四女の大家族の長女として生まれ育った。
両親は汗水垂らして農家として働き、かつては食うに困らない程度の稼ぎを得ていた。しかし歴史的な悪天候による不作に見舞われ続け、今ではすっかりドのつく貧乏一家に。
とはいえ彼女は図太い性格をしていたため、草を食い虫を食い、食えるものなら何でも食って、ボロ布を継ぎ接いで冬を越してきた。兄弟たちと熾烈な争いを繰り広げながら少しの芋を取り合い(長女なので下の子に譲るという概念はない。食卓は仁義なき争いなのだ。)、貧しいながらに逞しく育ったわけである。
そんな彼女に転機が訪れたのが、数か月前のこと。
なんと、偶然魔法の才能に目覚めたのだ。
この世界で魔法を扱える者のほとんどは貴族だが、ごく稀に、平民の中にも魔法を使える者が生まれることがある。その一人がアリスだった、というわけだ。
彼女の噂は村の外にも広まり、街の役人の耳にも届いた。そうして噂を聞きつけた役人が村を訪れ、彼女と相対し。
『ッ、な、なんという美しさだ……!!』
雨漏りだらけの小さな家にはあまりも似つかわしくない彼女の美貌に心の真ん中を貫かれ、驚異的な手際の良さで魔法学園への入学に便宜を図ってくれたのだ。
それからあれよあれよと話が進み、気付いた時には魔法学園への特別入学の座を勝ち取っていた。
何が何だか分からないが、とにかくこれはチャンスである。無料で勉強ができるだなど願ってもない話だし、生地が上部でどこにもほつれのない制服をくれるそうだし、何より学園ではこれまで見たこともないほど高級な料理が食べ放題らしい。
『姉ちゃんばっかしずるい!』『俺も連れてってぇや!』『ひとりで都会のうめぇもん食うんじゃろ!』とタックルしてくる弟妹たちを『姉ちゃんはマジメに勉強しに行くんじゃ! 食いもんにつられたわけでねぇが!(大嘘)』といなして意気揚々とやってきたのだ。
だがしかし、やってきたはいいものの。
(なして人の顔ばじろじろ見てくる!? みんなそんなにヒマなん!? ほかにやることねぇんか!?)
絶え間ない囁き声と熱のこもった視線に致死量の居心地の悪さを感じ、自分の席に座って机の木目を見つめることしかできなかった。
無論彼女にも、自分の容姿がそれなりに整っている、という自覚はある。
しかし故郷の小さな村では皆が皆すっかり彼女の容姿に見慣れていたし、そもそも弟や妹たちも似たような顔立ちをしていたために、ここまで過剰に反応された経験がなかったのだ。
聞こえてくる噂話はどれも荒唐無稽なものばかりで、どう考えても人を揶揄っているとしか思えない。
そして遠巻きに美術品のごとく眺められるばかりで、誰一人として話しかけてこない。平民が貴族においそれと近づくわけにもいかないので、友人などできっこないだろうことは初めから分かっていたが、それにしたって肩身が狭すぎる。
(うめぇもん食えるけぇ我慢できるけど、やっぱりここはわたしの居る所じゃねぇ……)
勿論周囲の者たちは彼女の美貌に圧倒され、「自分なんかが彼女に話しかけるわけにはいかない……!」と委縮して近寄ろうとしなかったのだが、彼女にはそんなこと知る由もない。
今から卒業までの三年間、自分はこうして視線に晒され続けるばかりで、誰とも喋らずに孤独な日々を過ごすのだろうか。
そんなことを考えながら目を伏せるアリスの姿に、周囲はまたもや感嘆の籠ったため息をつく。
そんな時のことだった。
教室の外からざわめきが聞こえ、彼女の姿を一目見ようと集まっていた生徒たちの間に波が起こる。
その喧騒はアリスの耳にも届き、彼女は顔を上げて、紫水晶の瞳を廊下の方へと向けた。
「きゃっ、きゃああっ! レイモント様よっ!」
「ああっ! 今日も素敵なお姿……っ!」
女生徒たちが熱に浮かされたような声を上げる。ふらりとよろめいている生徒の姿すら見えた。アリスは「なんだなんだ」と思いながら眉間に皺を寄せる。
すると、二つに割れた人だかりの間を、金髪をなびかせた男が悠々と歩いてくるのが見えた。
どうやら黄色い声の源はこの男らしい。
制服の色を見るに、彼は一つ上の学年の生徒だろう。上級生がわざわざ新入生のクラスへ出向く理由は分からないが、それはまあ自分には関係のない話だ。
興味を失ったアリスはまた正面を向いて、学園内でもできる良い内職について考え始めた。
だが、しかし。
「おお……! これは噂通りの美しさ!」
突然顔を覗き込まれ、上擦った声でそう言われた。
アリスは身を仰け反らせ、突如視界に割り込んできたその物体と距離を取る。そして目を見開き、「ゲッ」という声が上がりそうになるのを何とか喉の奥に封じ込む。
その物体、もとい人物は、先程騒がれていた“レイモント様”とやらに違いなかったからだ。
「おっと……驚かせてしまったか」
「い、いえ……」
「君のあまりの美しさに胸を打たれたものでね。つい我を忘れて見惚れてしまったのだよ」
そう言って髪をかき上げる仕草は、何とも気障ったらしく芝居がかっていた。
その自己陶酔気味な笑みに、思わずアリスの頬がひくつく。知り合ったばかりで断言してしまうのも悪いが、なんというかこう、心底苦手なタイプだ。
「私の名はレイモント・ダンドラムだ。ダンドラム公爵家……と言えば、分かるかな?」
(まッッッたく分からん!!)
アリスは内心で首を激しく横に振った。
しかしどうやら、彼がこの学園の中でも相当に身分の高い人なのだということだけは分かる。
成程、実に厄介だ。本当ならばこの面倒そうなノリの先輩からスタコラサッサと逃げてやりたい所だが、お偉い様の息子に失礼があったとなれば自分の首どころか一家全員頭と胴体の間をチョンパされかねない。
「え、ええと……はじめまし、て。わたしの名前は、アリス、ノーランド、です」
一家そろっての不敬罪を回避するため、アリスはなんとか覚えたばかりの目上の者向け挨拶を繰り出す。言葉の端々がたどたどしいのは、これまでの人生において敬語など使ったことがなかったためだ。
しかしレイモントは、そんな彼女のぎこちなさを全く気にすることなく、むしろ彼女の鈴の音のごとき声色と名の美麗さに目を細める。
「アリス……。アリスか。何とも麗しい響きだ。君のその清廉で純粋な心根に相応しい」
(あっ、会ったばっかりで心根の話……!?)
一体アリスのどこを見て清廉で純粋と判断したのか。無論、顔である。
よってその賛辞は全くアリスの心に響かず、アリスは唇を引き攣らせて「あ、ありがとう、ございます……?」と疑問符つきの礼を絞り出した。
確かにレイモントも整った顔立ちをしている。艶のある金髪と甘いマスクは女生徒たちの憧れを体現しており、彼が「世界中の女性は自分を好きになるのだ」と言わんばかりの自信に満ちた振る舞いをするのも致し方ないだろう。
しかしアリスの美形耐性はカンスト済みである。何せ故郷では毎日自分および弟妹と顔を合わせていたのだ。よって美形、特に美人タイプに関しては何の感情も抱かない。
(だっ、誰か助けて……!?)
初対面にもかかわらず止まらない口説き文句に、アリスは誰かこのダルいテンションの先輩を引き剝がしてはくれまいかと辺りを見回す。
けれど周囲の生徒たちは、「まあ……!」だの「あら……!」だの熱を帯びたため息を零すばかりで、全く介入してくれる気配を見せない。
「なんと絵になるお二人でしょう……! 見ているだけで目の保養だわ……!」
「くっ……。悔しいけど、アリスさんの隣に立てるのはレイモント様しかいない……!」
「美男美女同士、お似合いね……!」
それどころか、うっとりと微笑まれてしまう始末だ。一方的に距離を詰めてくる苦手なタイプの男と勝手に「お似合い」などと言われてしまい、アリスの全身に鳥肌が立つ。
そんな中で、不意に誰かの呟きが聞こえた。
「あれ? でもレイモント様って……」
その引っ掛かりのある言葉に興味を惹かれ、アリスはこっそりと耳を傾けた。
けれどその続きを聞くより先に、突然レイモントに右手を握られる。
「ヒッ……」
「もしかして緊張しているのかい? 何、照れることはないさ。私と君は、これからもっと親密な関係を築いていくのだから……ね?」
そう言うと彼は、硬直するアリスの右手を引き寄せ、その真っ白な手の甲に「ちゅっ♡」とキスを落とした。
その瞬間、巻き起こる熱烈な歓声。
それに搔き消された、アリスの「ギッ……!!」という蛙を引き潰したような悲鳴。
そのアリスの青色を通り越して土気色の表情をどう解釈したのか、「やれやれ、何ていじらしいのだろう」と言わんばかりにレイモントが肩を竦める。
(ふッ、普通勝手に人の手の甲にキスなんかするかぁ!? ばっちいじゃろが!!)
アリスの背中にゾッ……と悪寒が走る。
勿論貴族社会においても、本来ならば挨拶としての手の甲へのキスは、女性側が手を差し出してから行うのが鉄則だ。しかしレイモントは、つまり「自分がこうすることで喜ばぬ女はいなかった」という考えの下でアリスの手を取ったのである。
要するにどこからどう見てもマナー違反の行為なのだが、周囲の者たちは彼らの美しさに目が眩み、その光景をロマンチックな一幕としてしか捉えることができなかった。
「どうだい? この授業のあとに親睦も兼ねて、一緒に食事でも……」
レイモントが身を乗り出し、更に距離を詰めてくる。
流石に耐えきれなくなったアリスは、手の甲を背中側の服で拭いながら、もう片方の手を顔の前で振った。
「いッ、いやッ! 昼はっ、ちょっと予定があってッ……!!」
「なら、明日──」
「あっ! もうすぐ授業が始まるの、で!」
そう言って時計を指さすと、その瞬間に予鈴のチャイムが鳴り響く。
レイモントは残念そうに肩を竦め、「また来るよ、美しい人」と片目を閉じながら言った。頼むからもう来ないでくれ、とアリスは切に祈った。確かに誰にも声をかけられない孤独の日々を憂いではいたが、こんなことになるのならまだ一人でそっとしておいてくれる方がマシだった。
「……?」
そうして彼女は、ふと背中に誰かの視線が突き刺さったのを感じた。この学園に入学してから向けられ続けてきたような情熱的なものではなく、むしろ棘のある冷たい視線だ。
アリスは首を傾げ、辺りを見回した。けれどその出所は掴めない。
だがしかし、アリスはその時感じた視線の正体をすぐに知ることとなる。
「あなたが噂の新入生?」
ひとけのない裏庭に呼び出され、アリスは見知らぬ上級生の女生徒に詰められていた。
柔らかそうなピンクブロンドの、小柄で華奢な少女である。小さく丸い唇と桜色の頬は小動物を思わせ、巨大なアーモンド色の瞳は見る者の庇護欲を掻き立てる。
しかし彼女の眉はこれ以上ないくらいに吊り上がっていて、その愛らしい顔立ちには殺気に近い敵意が浮かんでいた。
彼女は上から下までじろじろとアリスの姿を眺め、それから「フン」と高飛車に鼻を鳴らした。
無遠慮に見つめられるのは普段と同じなのに、不思議と気まずく思わないのは彼女の視線に下心を感じないからだろうか。
アリスは首を傾げ、もじもじと両手の指を突き合わせた。
「あ、あのぉ……?」
「……確かに顔はいいみたいだけど、それだけじゃないの。わたくしには卑しい性根が透けて見えているわ」
隠すつもりもない侮蔑の表情に、アリスは紫紺の瞳を丸くした。
どうやら先程感じた棘のある視線は彼女のものだったらしい。けれどその敵愾心に溢れた態度を、アリスはむしろ好意的に思う。何せ、彼女はアリスの本質をばっちりと見抜いていたからだ。
「どうせ、この学園に来たのも贅沢をするためでしょ?」
正解である。
周囲が噂しているような「きっと彼女は類まれなる魔法の才能を世に役立てるために来たんだ」「人々を救うために魔法を学びに来たんだ」などという高尚な目的はない。学園で学んだことは全て金儲けに使うつもりだし、一番の狙いは学園の食堂にある高級料理だ。
「そのたどたどしい喋り方だって、きっと訛りを誤魔化そうとしているだけだわ」
正解である。
周囲が噂しているような「きっと彼女は幼い頃に海外で暮らしていたんだ」「だからまだこちらの国の言葉に慣れていないに違いない」などということは全くない。単純に田舎の訛りがきつすぎるため、それを標準語に直すまでに時間がかかっているだけだ。
「その貧乏臭いハイエナ根性で、一体どんな卑しいことを企んでいるのだか」
正解である。
あわよくば貴族の生徒たちが捨てた衣服やアクセサリーなどをこっそり回収し、手を加えて売りさばこうと企んでいた。
何もかもを言い当てられ、アリスは思わず背筋をピンと伸ばした。
彼女の口調は確かに刺々しい。が、その全てが正しくアリスの本質を見抜いている。
だからアリスは傷つくよりもむしろ、
(こ、この人はわたしのことをよう分かってくれとる……!!)
と、涙ぐんでしまうほどに感動した。
心当たりのない賛辞ばかり浴びせられてきたアリスにとって、彼女はこの学園で初めて出会った理解者だったのだ。身に覚えのない噂話に比べ、直接投げかけられる正論の、なんと風通しのいいことか。
アリスは彼女に凄まじく好感を抱き、そして「どうにか彼女と仲良くなりたい」と思った。そのためには、まずは名前を尋ねることから始めなければならない。
けれど。
「それに──わたくしの婚約者であるレイモント様に近づくなんて!」
怒りで顔を真っ赤にした彼女にそう言われ、アリスは石になったみたいに固まった。
(こ、こん……婚約者……?)
頭を固い鉄の棒で殴られたようだった。
この可憐な乙女の婚約者が、あの、“アレ”……?
いやいや、流石に“アレ”呼ばわりはいけない。きっとアレ……じゃなかった、レイモント様にも、何か、そう、良い所があるのだろう。
いや待て、そもそも婚約者が居るにも関わらずあの男はあんなに無遠慮に距離を詰めてきたのか!?
先程女生徒の一人が言いかけていた言葉の意味が分かった。
あれは、「レイモント様には婚約者が居るのにいいの?」という意味だったのだ。しかしそんな疑問すら結局は水に流されてしまうほど、彼の人望は厚いらしい。
(いっ、言いてぇ……! お願いじゃけぇアレはやめとけって言いてぇ……!!)
彼女にはいち早く目を覚ましてもらいたい。が、アリスにそんなことを言う権利はない。だから顔色を悪くして、こぶしを固く握りしめることしかできない。
そんなアリスの様子を見て、彼女は一層顔を顰める。
「身の程を弁えなさい。今度レイモント様に近づいたら許さないわよ」
「そ、それは、もう……!」
アリスは何度も頭を下げた。
元々近づくつもりなど毛ほどもなかったが、今の話を聞いてより一層レイモントへの拒否感が増した。そして、彼女の態度がこれほどまでに物々しい理由も理解した。自分の婚約者に近づく(近づかれただけなのだが)女など、彼女にとっては目障りなだけなのだ。
「彼女と仲良くなりたい」という淡い期待を砕かれ、アリスは涙目になりつつその場を去ろうとする。
しかし、その時。
「──それは聞き捨てならないな」
(ゲッ!!!!)
突如乱入してきたその声に、アリスは思わず歯茎を剥き出しにした。
振り返るとそこには、「やれやれ」と言わんばかりに両手を挙げるレイモントの姿がある。
「言いがかりはやめろ、リリー」
「レッ、レイモント様……!」
リリーと呼ばれた彼女は、突然現れたレイモントに動揺し、顔を青く染め上げた。図らずも彼女の名前を知ることができたアリスは、その点においてはレイモントに感謝をする。
しかし次の瞬間、レイモントに気安く肩に手を置かれたことで、その感謝も一瞬で消失した。
「先程は私の婚約者がすまなかったね」
「い、いえ……」
その婚約者の前で、別の女に堂々と触れるとは、一体どういう神経をしているのだろうか。ちらりと目線を動かせば、リリーはやはり鬼の形相をしていた。
アリスは激しく首を横に振り、レイモントから距離を取りつつ言う。
「言いがかりじゃない、です。あの方のお言葉、全て本当の、こと」
「庇い立てなどする必要ない! 私は先程のやり取りを全て聞いていたんだ。風の魔法を使って、ね」
レイモントに微笑まれながら言われ、アリスは両目の瞼を痙攣させた。
彼はアリスとリリーの間に立ち、腕を組んでため息をつく。リリーは下唇を強く噛みしめ、口元を手で隠しながら言った。
「わっ、わたくしは、レイモント様の婚約者として、当然のことを言ったまでで……!」
「謂れのない悪評で彼女の繊細な心を傷つけることが、か?」
「ッ……!」
「それに、“身の程を弁えろ”か。フッ、それこそ全くの見当違いだ。何せアリスには、隣国の王家の血が流れているのだぞ?」
(ハァッッッ!?!?!?)
貴族の会話に割り込むのも失礼かと思い黙り込んでいたアリスだが、あまりにも聞き捨てならないことを言われ、思わず泡を吹きかけてしまった。
隣国の王家? 一体何の話だ。本当に何の話だ。
「なっ……そ、そんなの根も葉もない噂話でしょう! 出鱈目に決まっています!」
リリーがこぶしを握り締めて叫び、アリスもそれに何度も深く頷く。
「その通り、です。わたし、ただの村娘。田舎の、小さな村で育ちまし、た」
「そう……彼女は高貴なる身分にも関わらず、不幸にも僻地の貧しい村に追いやられたのだ。薄幸の麗しき姫君、か。まさに彼女を表すに相応しい言葉だ!」
しかしアリスの否定も空しく、レイモントは更に話に尾ひれをつけてきた。
アリスは更に首を横に振ったが、彼に「そうでなければ君の美しさに説明がつかない。だろう?」と言われてウインクされてしまう。
全く話を聞いてくれない。この男の耳には一体どんなしつこい汚れが詰まっているのか。
というか、何が“不幸にも”だ。確かに貧しいのも僻地で育ったのも本当だが、アリスは自分を不幸だと思ったことなど一度もない。よしんば思っていたとて、それを赤の他人が言うのは違うだろう。
アリスはそろそろと片手を挙げ、「あのぉ」と引き攣った声で言った。
「レイモント様には、リリー様という、素敵な婚約者様が居られるのですか、ら。わたしのような平民の女と話すの、は……」
「リリーの言葉を気にしているのかい? 大丈夫だ、アリス。名目上の身分が何だ。そんなもの、私たちの間では何の障害にもならないのだよ」
「いえ、そういうことではな、く……」
「全く、私の婚約者には困らされる。健気で愛らしいばかりだと思いきや、まさかこんなに腹黒い一面を隠し持っていただなんてね」
「いや、だから……」
「けれど、どうか私に免じて彼女を許してやってくれ、アリス。きっとリリーは、君の美しさに妬いてしまっただけなんだ」
レイモントはそう言って、アリスの頭をポンポンと撫でた。
アリスは危うく失神しかけたが、何とか口の中の肉を嚙みしめることによって正気を保った。きっと自分よりも、リリーの方が余程不愉快な思いをしているに違いないと思ったからだ。
懸念した通り、リリーは顔を真っ赤にして俯いていた。きっと彼女のプライドは取り返しのつかないほどに傷つけられたことだろう。自分がその間接的な原因になってしまったことが酷く苦しい。
彼女の震える両手を見て、アリスの頭にカッと血が昇る。もう不敬になろうと知ったことか。アリスは彼の胸倉をつかみ、「失礼なこと抜かすんでねぇ!」と叫ぼうとした。
しかしそれより先に、リリーが逃げるように立ち去っていく。アリスは「あ……」と呟き、遠ざかっていく彼女の背中を目で追いかけた。
(リリー様……)
レイモントが何かをまくし立てているが、全く耳に入ってこない。
アリスの頭の中は彼女のことで埋め尽くされていた。また会えるだろうか。それとも、きっと酷く嫌われてしまっているだろうから、もう二度と話すことは許されないだろうか。
アリスは肩を落とし、彼女との繋がりが絶たれたことに項垂れた。
──の、だが。
しかしリリーという少女は、そう簡単に折れるような人ではなかったのである。
とどのつまり、この日から彼女によるアリスへの嫌がらせが始まったのだ。
リリーはアリスを憎んでいた。
幼馴染であり、昔から一途に思いを寄せていた相手、レイモント。懸命な努力の末に、遂に彼の婚約者の座を勝ち取ったというのに、突然現れたぽっと出の女に、「美しいから」というただそれだけの理由で全ての関心を奪われたのだ。
恋心もプライドも何もかもを踏み躙られて、彼女を恨まないわけがなかった。
しかし、どうすればレイモントの興味を取り戻せるのかも分からない。
だから目障りなアリスの心を折って、この学園から追い出そうとしたのだ。
だがしかし、アリスにとってその嫌がらせは、嫌がらせでもなんでもなかった。
ケチでがめつく欲深いアリスにとっては、最早“恵み”と呼んでしかるべきものだったのだ。
例えば、彼女が主催する茶会に呼び出されたことがある。
無論、アリスにはドレスコードもマナーも分からない。だからリリーは礼儀を知らないアリスの振る舞いを晒し上げ、取り巻きたちの前で嘲笑った。
「あら、なんて品のない食べ方! よっぽどお腹を空かせていたのかしら?」
「り、リリー様……。その、これ以上は……」
「何よ! わたくしは見たままのことを話しているだけじゃない!」
取り巻きたちは美しいアリスを貶めることに抵抗があったが、リリーはそんな制止を振り切ったのだ。
けれど肝心のアリスはというと、生まれて初めて食べる超高級なお茶菓子たちにいたく感動するばかりだった。
(うっ、うんめぇ~~ッ!! なんじゃこの高い味のするお菓子は!!)
こんなに美味しいものをタダで食べさせてくれるだなんて、彼女はどれだけ気前が良いのだろうか。
アリスは涙ぐんで彼女に感謝を捧げた。
「あのっ、ありがとうございま、す……! わたし、こんなに美味しいもの、今まで食べたことない、です!」
「まあ、アリスさんったら文句の一つも言わずに……」
「あんなに頭を下げて、なんて謙虚なのかしら……!」
「~~~~ッ!!」
天使のように微笑んで、傷ついた顔一つ見せない(傷ついていないからである。)アリスの健気な姿に、リリー以外の取り巻きたちは強く胸を打たれた。リリーは下唇を噛み、テーブルの下で手の甲を真っ白にすることしかできなかった。
またある時には、学園寮の自室に大量の花がばら撒かれていたこともある。
それは不吉な花言葉を持つ花で、つまりは教室の机の上に花を飾るのと同じ陰湿な嫌がらせだった。
勿論犯人はリリーであり、アリスの精神を脅かすことが目的であった。
しかしアリスは、両手を挙げてその嫌がらせを歓迎した。
その花がとても芳醇な香りを持つ種類であり、サシェやキャンドルといった様々な工芸品の素材となったからだ。作った品々をこっそりと学園内に流通させることで、アリスにとってはいい小遣い稼ぎになった。
また別の日には、リリーに植物園の世話を無理やり押し付けられたこともあった。
「花が好きなあなたならこれもきっと大喜びでしょう? ……そうそう、植物園にはウジャウジャと虫が居るでしょうけど、あなたならそれも我慢できるわよね?」
彼女の言葉の通り、植物園内には沢山の虫が湧いていたため、貴族だらけの学園では皆が手入れを避けていたのだ。
そんな誰もが嫌がる仕事を前に、アリスは紫紺の瞳を盛大に輝かせた。
何せ、実家に居た時から日常的に土いじりを行っていたのだ。それどころか、腹を空かせた時にはおやつ代わりに虫を食べていた。
つまりアリスにとって、虫だらけの植物園はお宝の宝庫だったのだ。勿論高級ビュッフェやお茶菓子は素晴らしいが、それはそうとこういう慣れ親しんだ味が恋しくなる時もある。
(な、なんて最高なんじゃ……!!)
食べられる野草も回収できるし、空いている花壇に野菜を植えることもできる。この天国のような仕事を与えてくれたリリーに、アリスは心の底から感謝をした。
そんな彼女の姿は、周囲の目には誰もやりたがらない仕事を文句も言わず率先して引き受ける聖人のように映り、美しい指先を土で汚すことを厭わない彼女の姿勢に皆が深い感銘を受けた。
こうした数々の嫌がらせ、もといリリーとの触れ合いは、息苦しい羨望の視線と、執拗に絡んでくるレイモントから逃げる日々の中で、唯一の光り輝く癒しであった。
どうやら彼女が自分の心をへし折りたいのだということは分かっていたが、それにしたって彼女の行う嫌がらせは、どれもこれもアリスを喜ばせるものばかりなのだ。彼女に対する好感度がうなぎ上りになるのも致し方あるまい。
しかしその一方で、心配なこともあった。
日を追うごとに、リリーの周囲から目に見えて人が減っていくのだ。
アリスがどれだけ「全く自分は傷ついていない」「むしろ感謝をしている」と伝えようと、全ての言葉が捻じ曲がって解釈され、「まあ、なんてお優しい人なの……!」と誤解される。そしてそれを聞きつけたレイモントがまたリリーを咎め、彼女の中で更にアリスに対する憎悪が膨らみ、嫌がらせがエスカレートするという悪循環。
そのためにリリーの周りからは人が離れていき、彼女は孤立するようになってしまった。
(リリー様……)
アリスはどうにか彼女を助けたかった。
しかし何を言っても容姿のせいで上手く伝わらない自分が、どうすれば彼女の役に立つことができるのだろう?
そうして悩んでいるうちに、一か月、また一か月と時が過ぎ、気付けば学園の一大イベントが目の前に迫ってきていた。
そう、それはダンスパーティである。
学園の大広間で行われるそれは、単なる学園行事というよりも、生徒たちの婚約を発表したり、家同士の繋がりを強めたりと言った、政治的な側面が強い。特に誰にエスコートされるか、そして誰とファーストダンスを踊るのか、ということが、「自分はこの人と最も親しい関係にあるのだ」という対外的なアピールになるのだ。
「アリスさん! 是非僕にエスコートをさせてください!」
「いや俺が!!」
「いっ、いえっ、私がッ!!」
アリスも多くの生徒から誘いを受けたが、その全てを断った。
そもそもダンスパーティに参加するつもりがなかったからだ。何せアリスは高貴なドレスなど一着も持っていない。ダンスの作法も知らないし、貴族たちとの政治的な駆け引きに利用されるのも御免だった。
少し驚いたのは、レイモントがエスコートを申し込んでこなかったことだ。聞いてもいないのに隣でベラベラと喋られたので、彼が婚約者であるリリーをエスコートするつもりであることを知った。流石に婚約者以外の女を連れて行こうとしない程度の常識はあったのか。
アリスは安堵すると同時に、少しだけ胸が痛むのを感じた。レイモントの隣を、幸せそうに微笑みながら歩くリリーの姿を思い描くと、心臓に小さな針が刺さったような心地になる。
けれど自分は、彼女にとって邪魔な存在でしかない。だから痛みを感じる資格などないのだ。それならばやはり、ダンスパーティになど行かない方が良い。
だがしかし、そんな決意は覆されることとなった。
パーティが近づいてきたある日、アリス宛にドレスが届いたのだ。
「こ、これは……!」
送り主は、なんとリリーその人であった。
『どうせあなたはロクな服も持っていないんでしょう?』という手紙と共に送られてきたのは、大量の布で作られた真っ白なドレスである。
無論、アリスに恥をかかせようという魂胆であった。
このドレスは随分と昔に流行した型のものであり、つまりは今の価値観から見れば非常に野暮ったく古臭い。ゴテゴテに盛られたフリルも、傘のように膨らんだシルエットも、豪勢ではあるがダンスパーティには全く向かない代物だった。それに(内面さえ知らなければ)クールで理知的な美しさを持つアリスには、このドレスは全く似合わない。
つまりこれをそのまま着ていけば、流石のアリスでもその場から浮くこと間違いなしである。
けれどアリスにそんなことを知る由はない。
彼女は一方的に慕っていた先輩から高価な贈り物をもらったことで舞い上がり、ドレスを抱えたまま自室でくるくると回った。
「ふふ、んふふ! こりゃあ、なしてでも行かにゃ!」
パーティになど絶対に行きたくなかったが、憧れの先輩から直々にドレスをもらってしまったとなれば話は別だ。
アリスは鼻歌を歌いながら一人で踊り、そして。
「あっ」
勢い余って机にぶつかった。
不運なことに机の上には、キャンドル用に煮出していた花の煮汁が置いてあった。その煮汁の入った小瓶が倒れ、白いドレスに濃い紫色の染みを作る。
「ヒッ!!」
アリスは顔を真っ青にして、慌てて染みを取ろうとした。
しかし花の煮汁はドレスの奥まで染み込んでしまっていて、洗っても取れそうにない。
浮かれたあまり、折角貰ったドレスを台無しにしてしまった。後悔の念がアリスの胸に押し寄せる。
しかし、そこでアリスは思いついた。どうせ染みが取れないのならば、いっそのこと全てをこの色に染め上げてしまえばいい。
幸い、実家ではボロ布を縫い合わせて様々な衣類を作っていたため、針仕事には自信がある。
この大量の布全てを染められるほどの花の煮汁はないので、申し訳ないがこの布たちのほとんどは剥ぎ取らせてもらう。勿論決して無駄にはせず、小物として作り変えるのだ。
……必要以上に華美な装飾を持たないそのドレスは、彼女のスタイルの良さを遺憾なく引き立てていた。
豊かな香りを持つ花で染め上げられた布は、偶然にも彼女の紫紺の瞳と揃いの色をしている。その深い紫色の上で布本来の持つ星屑のような質感が煌めいて、まるで夜空を纏っているかのようだった。
宝石の類など身に着ける必要もない。毛先にかけて淡く紫立ちたる銀色の髪をはためかせるだけで、どんな高価な宝珠もその輝きの隣では色褪せて見えるだろうからだ。
パーティの夜。
誰もが彼女に見惚れ、言葉を交わすことすら忘れて心を奪われていた。凶器と呼んで差し支えないほどの美貌が、誰もの心臓を貫いていた。息をするのも忘れるほどの美しさのために、死人が出ることすら何ら不思議ではない夜だった。
そして皆、それとなく彼女の周りを見渡し、彼女のエスコート役を探す。彼女の手を取る無上の栄誉を授かったのは一体誰なのかと。
しかし当然、アリスは一人である。
エスコート役など連れていては、満足にパーティ会場の料理を頂けないからだ。流石貴族御用達の学園、パーティにも随分な金がかかっている。
(折角来たんじゃから、一週間分は食って帰らんと……!!)
次から次へと皿の上の料理を平らげていくアリスだが、そのあまりの手際の良さのために、彼女が会場の料理を根こそぎ食い尽くしていることに気づく者はいない。というか彼女の美しさに皆目が眩み、彼女がフードファイターさながらの動きをしていることを認識できないのである。
その細い身体の内側に存在する奇跡の胃袋に上等な料理を収めながら、アリスは会場内を見回した。
無論、リリーを探しているのだ。いくら彼女に嫌われているとは言え、このドレスの礼を言わないわけにはいかないだろう。つまり、彼女と話をする絶好の機会である。このチャンスを生かして、少しでも彼女と仲良くなりたいのだが。
「……あっ!」
すると、視界の端に艶やかなピンクブロンドを捉えた。
アリスは勢いよくそちらの方へと振り向き、そして硝子細工のような顔を綻ばせる。
(リリー様、お綺麗だ……)
彼女はウェーブのかかった髪を結い上げ、淡い桃色のドレスに身を包んでいた。その可憐なシルエットは、彼女の愛らしい顔立ちによく似合っている。
アリスは口元を押さえて彼女に見惚れた。そして意を決し、彼女に声をかけようと一歩踏み出す。
「あの、リリーさ、」
「アリス!!!!」
しかし絞り出した声は、それより巨大な声量によって掻き消された。
そうして視界に飛び込んでくるのは、派手に着飾ったレイモントである。学園の王子様枠らしい彼の登場に、会場から黄色い悲鳴が上がる。ついでにアリスも悲鳴を上げる。
そんなアリスの絹を裂く声を他の歓声と一纏めにし、金髪を後ろに撫で付けた彼は、自身の婚約者であるリリーを後ろに置いて、アリスの下へと駆け寄ってきた。
リリーのエスコート役を務めているのは彼なのだから、彼女の居る所にレイモントの姿があるのは当然である。しかし彼の存在を頭の中から消し去っていたアリスは、出鼻を挫かれた気持ちになった。
「おお、アリス……! 普段の君も美しいが、今日の君はまた格別に麗しい……!」
「あ。どうも。それで、リリーさま、」
「そのドレスは私のために誂えてくれたのかな? ふふ、私が紫色のタキシードを着ることを知って用意したのだろう? なんと健気な!」
「や。違いま、す。このドレス、は……」
「そう照れずともいいのに。君はどこまで謙虚なんだ?」
思わず「ええい! 鬱陶しい!」という言葉が喉から飛び出かける。リリーに話しかけに行きたいにも関わらず、神がかり的なディフェンス能力でレイモントが割り込んでくるのだ。
いっそのこともう足を踏んでやろうかと考えていると、そこでレイモントが後ろへ振り向いた。
「全く。リリーも彼女の慎み深さを見習ったらどうだ?」
「っ……」
アリスの胸が酷く痛む。どうしてこの男は、彼女を下げるようなことばかり言うのだろう。それでアリスが喜ぶとでも思っているのだろうか?
やはり思い切り足の先を踏み潰してしまおうか。しかしこの男はリリーの婚約者。彼女の愛する人なのだ。彼女が大切に思っている人を傷つけるわけにはいかない。
アリスは歯を食いしばりながら、恐る恐るリリーの顔色を伺った。
「……ぁ」
彼女の顔には、怒りの感情は見当たらなかった。
それはまるで、何もかもを諦めてしまったような顔だった。怒ることに疲れ、もう全てがどうでも良くなってしまったような表情。
リリーはふっと笑って、一歩前に進み出た。そしてアリスの姿を見つめ、掠れた声で呟く。
「……本当。目障りな、女」
「リリー!」
面と向かってアリスに罵倒を浴びせた彼女に、レイモントは非難の視線を向ける。
否、レイモントだけではない。会場に居る全ての生徒たちが、公然とアリスを侮辱し始めたリリーを冷たい目で眺めていた。──アリスだけを除いて。
「古臭いドレスでも着せて、笑い者にしてやろうと思っていたのに」
「……」
「なんで……あなたはそんなに、憎たらしいほど綺麗なのよ」
「……」
「あなたがそんなに美しいせいで、わたくしの人生は滅茶苦茶だわ」
力なく呟くリリーの表情は、まるで処刑を待つ囚人のようだった。抗うことに疲れ切ったから、いっそのこと早く楽にしてほしいと祈っているように、アリスには見えた。
「っ、もう我慢がならない!」
するとレイモントが叫ぶ。
彼は大舞台に立つ主人公のように腕を広げ、部屋の隅々まで行き届くような大声を出した。
「リリー・フラウィン! 君のアリスに対する暴言や侮辱、悪質な嫌がらせの数々にはもうウンザリだ!」
こんな公衆の面前で一体何を言い始めるのかと、アリスは大口を開けてレイモントを見る。
「前々から思っていたのだよ。君の媚びた態度の裏には、醜悪な本性が隠されていると」
「……は」
「幼馴染としての情も最早これまでだ。アリスの美しさに嫉妬し、彼女の心を傷つけ続けた君に、私の婚約者でいる資格などない!」
リリーは静かに俯いていた。彼女の首筋にほつれた髪が一束垂れる。
彼女を一心に見つめていたアリスだけが、「どうせ、初めからそのつもりだったくせに」という彼女の呟きに気が付いた。
そうか。
レイモントが彼女をパートナーに選んだのは、つまり。
「君との婚約を、ここで破棄する!!」
学園の生徒のほとんどが集まるこの華々しい舞台で、見せしめのように彼女との婚約を破棄するためだったのだ。
リリーは初めからその覚悟を決めていたのだろう。だからあんなにも諦め切った顔をしていた。
彼女を庇う者は居なかった。
何せ彼女は嫉妬に狂って美しいアリスを虐め続けた悪女である。彼女がアリスに刺々しい態度を取っていたことは周知の事実であるし、アリスは悪質な嫌がらせの被害者だ。
誰の目から見ても、ぶりっ子の悪女VS悲劇の美女という図式は一目瞭然。よって彼女の味方をするものなどいない、はずだった。
意気揚々と婚約破棄を宣言したレイモントは、次いでアリスの肩に腕を伸ばす。
「そして私は──新たな婚約者として、このアリス・ノーランド嬢を迎え入れる!!」
「あ。嫌です」
「…………へっ?」
アリスは伸ばされた手を身をかがめて避け、誰の耳にでも届くような凛とした声できっぱりと断った。
堂々と空振りの婚約を宣言したレイモントも、新しい美男美女カップルの誕生を祝福しようと手を掲げていた生徒たちも、皆ポカンとした様子で固まる。
「な……て、照れ隠しは、もう十分で」
「嫌、です。絶対に、嫌」
「は、えっ?」
「そんなことよ、り」
アリスは彼の横を素通りして、リリーの正面に立った。
俯いていた彼女が顔を上げる。その瞳には、婚約破棄の予想図とは全く違う展開を歩み始めたことへの困惑が浮かんでいた。
そんな彼女の前で、アリスは深々と頭を下げた。
「リリー様。申し訳、ありませんでし、た」
「……はっ?」
「ずっと、傷つけてごめんなさい。何もできなくて、ごめんなさい」
「……何、言ってるのよ」
「あなたが傷ついていたこと。分かってた、のに。どうすればいいのか、分からなくて。ずっと、謝りたかった、です」
長い銀髪がさらさらと揺れる。
突然の謝罪に、混乱した周囲が騒めく。けれど一番心を揺らされているのは、他でもないリリーその人だ。
彼女は震えた声で、「何よ、」と呟いた。
「なんで、あなたが謝るのよ。わたくしは、あなたを虐めていたのよ?」
「わたしには、そんな覚えはありません、よ」
「……っ、あなたがそんなだから! わたくしが惨めになるのよ!」
涙を流し、頭を掻きむしりながら、リリーが叫ぶ。
「どれだけ嫌がらせしても全然へこたれないし! 何やっても喜ぶし! 周りの皆はいっつも美しいあなたに無条件で味方するし! あなたなんて、あなたなんて、顔がすこぶる良いだけのくせに!!」
「え、ええと……」
「いいわよね、何の努力もせずに綺麗に生まれた人は! わたくしみたいに、必死にかわいこぶって、太らないよう努力して、ちょっとでも可愛く見えるようにと気を揉まずに済んで! わたくしがこんなに頑張ってるのに、あなたはバクバク好きなだけお菓子食べて、そのくせ肌荒れ一つ起こさない! どうなってるのよ! 不公平よ!!」
「あ、あの……」
「そうよ、嫉妬よ! あなたが羨ましかったの! それなのにあなたに頭まで下げられたら、もうどうすればいいのよ! わたくしをより惨めにして、さぞかしいい気分でしょうね!?」
彼女の悲痛な叫びが、アリスの心を鋭く抉る。
言いたいことも、言うべきことも沢山あるのに、言葉が詰まって上手く出てこない。口下手な自分では、きっと何を言っても彼女の心に手が届かない。
どうすればいい。
どうすれば、自分の気持ちを伝えられるのか。
アリスは固く目を閉じ、そして思いついた。
「──はっ?」
リリーの口から、裏返った声が漏れる。
アリスの紫紺の瞳が輝くと同時に、宙に巨大な幕のようなものが出現したからだ。
その幕に映っているのは、図書館で大量の本を抱え、勉学に励むリリーの姿だ。
突如自分の姿を巨大な画面に映されたリリーは、涙を引っ込めて「何よこれ!?」と至極真っ当なことを叫んだ。
──これこそアリスの得意とする“記憶投影魔法”!
名前の通り、過去に見たものをそのまま目の前に映し出すぶっちゃけ法外な魔法である!
尚この魔法が発現したのは、彼女が写本のバイトに明け暮れている最中である。彼女の金への執着がこの魔法を生み出したのであった。
「ちょっ……何なの!? 何でわたくしが映ってるの!?」
「すみません! えっと、その、これはわたしが盗み見した光景を、勝手に映して、ます!」
「勝手に映さないでくれる!?」
勿論、これが彼女のプライベートを侵害する行いだということは、アリスも重々承知である。
しかし、こうでもしなければ伝わらないのだ。
自分がどれだけ彼女の姿を追いかけていたか。
彼女がどれだけ懸命な努力を積み重ねていたのか。
「わたし、ずっと。リリー様が頑張ってるところ、見てまし、た」
そう告げると、リリーがはっと息を呑む。
画面には、彼女がひたすら机に向き合っている姿が映されている。
何冊も難しい書物を読み込み、ひたむきに魔法について学んでいる光景が。
彼女の成績はいつも上位だったけれど、そのために重ねた努力を他人にひけらかさない性質だった。だからきっと、誰も彼女の本質を知らないだろう。
画面が切り替わる。
そこには彼女が朝早くから走り、身体を鍛えている姿が映っている。
画面が切り替わる。
そこには彼女が誰も練習しないような基礎魔法を、泥まみれになりながらも愚直に練習する姿が。
画面が切り替わる。
画面が切り替わる。
画面が切り替わ──。
「もう良いわよ!! というかあなた、どれだけわたくしのことを見てるのよ!?」
顔を真っ赤にしたリリーが、アリスの肩を掴んで揺さぶる。
アリスは銀色の眉を下げ、「だって」と呟いた。
「リリー様は、わたしの憧れ、だから」
「──は」
「初めて会った時から、わたしの本当の姿を見抜いてくれて、嬉しかった。だからどうしても仲良くなりたくて、でも、話しかけられなくて。それで、ずっと見てまし、た。ごめんなさ、い。気味の悪い、ことをして」
「……べ、別に。気味が悪いとまでは、思わないけど」
リリーは目を逸らし、自分の右腕を摩った。
意外な彼女の一面を見て、周囲の生徒たちは気まずそうに顔を見合わせている。確かに彼女がアリスに嫌がらせを行っていたことは事実だ。だが、それだけが彼女の全てではない。
アリスの目に映る彼女は、いつも一生懸命で、不器用で、自分の感情を表現するのが苦手で、そしてコロコロと変わる表情がとても魅力的な人だった。
「……あ。それから」
アリスは手を叩き、レイモントの方へと顔を向けた。完全に場違いになってしまったレイモントは、嫌な予感に背筋を震わせる。
彼はもうリリーの婚約者ではないのだ。リリーの方も、もう彼への愛情に見切りをつけた様子。ならばここで公開してもいいだろう。
アリスは指を宙に向け、記憶投影魔法で映した。
代わる代わる別の女性と密会し、それぞれの女性に愛を囁くレイモントの姿を、である。
『私は確かにアリスを妻にしようと思っている……だが彼女はあくまで平民だ。公爵家の正妻には相応しくないだろう? だから君には、正妻として彼女のことを支えてもらいたい』
『私は君のことも確かに愛しているんだ。その愛情に差などない』
『君との未来を必ず約束しよう』
『だから……今夜、私の部屋に来てくれるか?』
彼は学園の女生徒たちを口説き、自室へ連れ込んでいたのだ。これは何とかレイモントを遠ざけるための弱味を握れないかと彼を探っていた際に見た光景である。
レイモントは陸に打ち上げられた魚のように口を開けては閉じ、顔中から汗を垂らした。
「そ、その……これは、違うんだ。何かの間違いだ」
「……間違いッ!?」
その瞬間に、女生徒の一人が怒りに満ちた声を上げる。
彼女はレイモントに言い寄られた女性の内の一人であった。
「何が間違いですかッ!? あれだけッ、あれだけ愛していると言ったくせに!!」
「い、いや、それは、その……」
「私だって! 私のことも騙していたんですか!?」
「アリスさんが相手なら二股も仕方ないかと納得していたのに! 他の女性も口説いていたんですか!?」
「じゃあ何!? リリーさんには無理やり婚約を取り付けられたって言ってたのは!? あれも嘘だったの!?」
「というか一体何股かけてたのよコイツ!!」
「サイッテー!!」
「クズ!!」
レイモントは明瞭な証拠付きで十六股をバラされ、自分が蔑ろにしていた女性たちから次々と制裁を食らった。
これだけ大勢の将来有望な貴族たちの前で緩すぎる恋愛事情を暴露されれば、彼の立場も揺らがないわけがない。貴族の情報ネットワークは優秀であるからして、このことは彼の両親の耳にもすぐさま届くだろう。その先には地獄よりも厳しい再教育が待ち受けているはずだ。
アリスは魔法を閉じ、それからリリーの方へと振り返った。
自分の元婚約者がこんな男だったと知って、彼女はショックを受けてしまっただろうか。
本当ならば、もっと円満に済ませる方法もあっただろう。
けれど、どうしてもこの事実を黙っていることができなかったのだ。こんな最低な男のことを好きでいてほしくなかったから。
アリスは躊躇いながら瞼を開けた。
そうして、リリーの瞳に悲しみの色が浮かんでいないことに安堵する。
「……いや、流石にあんなもの見せられたら百年の恋も冷めるわよ」
「え゙ッ。わたし、声に出てました、か?」
「顔を見てれば分かるわよ……」
「そ、そうです、か」
「……ああもう本当。ばっかみたい! わたくし、何であんな男のこと好きだったのかしら!?」
「な、なんで、なんです、か?」
「顔よ顔! 一目惚れだったの!!」
「顔」
「そうよ! 面食いで悪いッ!?」
「い、いえ……」
リリーは両手で自分の顔を覆った。
アリスはそんな彼女の手を取る。彼女の顔を覗き込む。
彼女が「な、なによ、」と上擦った声で言う。
「……わたし、リリー様の言う通り、卑しい人間なんです、よ」
「っ……そ、それは、わたくしが、あなたを傷つけるために言っただけで……」
「いいえ。リリー様は正しい、です。だってわたし、リリー様の婚約が破棄されて、喜んでしまった、から」
「え……」
アリスは彼女の手を包み込むように握り締めた。
「わたし、本当は、リリー様と一緒に踊りたかった。リリー様をエスコートするのは、わたしが良かったん、です」
「──へっ?」
「でも、婚約者の居る方を、お誘いするわけにはいかなかった、から。諦めてたんです、よ」
けれど、もう遠慮をする必要はない。
今の彼女には決まった相手が居ない。ならば正式に、彼女にファーストダンスを申し込んでも許されるだろう。
「リリー様」
「えっ? へっ?」
「わたしと、一緒に踊って頂けませんか?」
かつて彼女に“卑しい性根”と言われたことを思い出す。
全くもってその通りだ。だって自分は、ずっと虎視眈々とこの時を待っていたのだから。
リリーの顔が茹でられたように真っ赤になる。
彼女はアリスの手を振り払い、「な、な、なっ、」と小刻みに声を震わせた。
「おッ……踊るわけないじゃない! わたくしはあなたが嫌いなのよ!?」
「嫌いです、か」
「そうよ! だってわたくしは、あなたを妬んでいるんだもの! あなたに嫌がらせばっかりしてたのよ!?」
「そうです、ね。でも……」
アリスは彼女の手を握り直し、自分の方へと引き寄せた。
絹のような銀色の髪がリリーの頬を撫でる。
全てのパーツが計算しつくされた完璧な位置に配置された、造形主の狂気すらも感じるほどに美しい顔が彼女に近づく。
長い睫毛が麗しくはためき、その隙間から冷たく鮮やかな紫水晶が覗く。
それは正しく“絶世”。
意志あるものならば老若男女問わず人生を壊されるであろう美貌が、例に漏れずリリーの脳を破壊し尽くす。
国すら傾ける魔性の笑みが、最悪な初恋から冷めたばかりの乙女ただ一人に注がれればどうなるかは、推して知るべしである。
「──リリー様。わたしの顔、好きですよ、ね?」
事あるごとに「顔だけのくせに」「顔が良いからって調子に乗るな」と彼女が口にしてきた意味がようやく分かった。
どうやら彼女は、この顔に随分と弱いらしい。
アリスの思惑通り、リリーは喉の奥から「きゅう」という悲鳴を上げた。
そして彼女は「好きに決まってるじゃない…………」と呟いて、俯きながら白旗を挙げたのだった。




