殿下、婚約解消の慰謝料代わりにこの指輪をとのことでしたが、鑑定額をお伝えいたします
王宮の応接間に呼び出されたとき、私はすでに用件を察していた。
呼び出し状には「重要な話がある」とだけ書かれていた。婚約者からの呼び出しにしては素っ気ない一文だったが、その素っ気なさこそが、内容を物語っていたように思う。
応接間には、殿下だけでなく、両家の縁者や近しい貴族たちが十数名、居並んでいた。婚約解消の場に、これほど大勢の立会人を用意するとは、と私は内心で思ったが、顔には出さなかった。
「アデライン、単刀直入に言う。婚約を解消したい」
第一王子ジョエル・ラインバルト殿下は、私と目を合わせずにそう言った。理由は語られなかったが、この半年、彼が第二王女派のセレスト嬢と連れ立って歩く姿を、私は幾度となく見てきた。舞踏会で彼女にだけ贈られる花、彼女の馬車を見送る殿下の姿。今さら驚くようなことではない。
婚約とは、家と家との取り決めだ。愛情がなくとも成り立つものだと、私は最初からそう理解していた。だから、殿下の心が別の方へ向いていたことに、恨みはなかった。ただ、これから起こることの成り行きだけを、静かに見届けようと決めていた。
「承知いたしました」
私が静かに頷くと、殿下はわずかに拍子抜けした様子を見せた。もっと取り乱すとでも思っていたのだろうか。
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「話がわかって助かる。それで、手切れの品なのだが」
殿下が侍従に目配せすると、天鵞絨の小箱が運ばれてきた。蓋を開けると、そこには見覚えのある指輪があった。ヴェルネイ伯爵家に三代伝わる「蒼の指輪」――婚約の際、私が身につけていたものだ。
「これを、慰謝料の代わりに受け取ってもらいたい」
会場にどよめきが広がった。手切れ金の代わりに、婚約者自身の家の家宝を突き返す。その言い分の奇妙さに、誰もが戸惑いの視線を交わしている。
「古いだけの品だろう。むしろ、こちらが引き取ってやると言っているんだ。感謝してもらいたいくらいだよ」
殿下は笑みを浮かべた。周囲の取り巻きたちが追従するように小さく笑う。セレスト嬢だけが、扇の陰でこちらを一瞥し、勝ち誇ったような表情を浮かべていた。
私はしばらく、指輪を見つめていた。それから、静かに口を開いた。
「では、正式な鑑定額をお伝えいたします」
「――鑑定?」
殿下が眉をひそめる。
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「殿下はご存じないかもしれませんが、私は幼い頃、体が弱く社交に出られなかった時期がございました。その間、屋敷の書庫で宝飾と鉱物学の書物を読み込み、市井の鑑定士のもとへも通っておりました」
「令嬢の道楽だろう。そんなことで指輪の価値がわかるとでも?」
殿下の声には、隠しきれない苛立ちが混じっていた。周囲の視線が自分に集まっていることに、今さら気づいたのかもしれない。
十歳の頃、私は流行り病で長く床に伏せっていた。医者からは、走ることも、長く外に出ることも禁じられた。そんな私に、亡くなった祖母が贈ってくれたのが、宝石図鑑と、鉱物標本の小箱だった。「体が動かせぬときは、目と頭を動かしなさい」と、祖母はよく言っていた。あの日々がなければ、私は今日、ここに立ってはいなかっただろう。
「わかります。この石をご覧ください」
私は小箱に手を伸ばし、指輪を灯りにかざした。
「この指輪に嵌められているのは、ただの蒼玉ではございません。光源によって色を変える性質を持つ、大陸でも産出のごく限られた変色石でございます。日中の光では深い青に、燭台の炎の下では紫がかった赤に近い色に見えます。ご覧いただけますか」
殿下が渋々といった様子で目を細める。灯りの角度を変えると、確かに石の色がわずかに変化した。会場からどよめきが漏れる。
「石の色が変わったところで、古い指輪であることに変わりはないだろう」
「はい。古い指輪です。ですが、いつ、誰から、どのような経緯で贈られた品かによって、その価値はまったく異なってまいります」
近くにいた若い令息が、興味を惹かれた様子で口を挟んだ。
「変色石というのは、確か国内でも産出があると聞いたことがあるが」
「国内で産するものは、色の変化が淡く、宝飾品としてはあまり評価されません。この石ほど鮮やかに、しかも短時間で色を変えるものは、私が知る限り一つの産地に限られます」
「その産地とは?」
「今、お話しいたします」
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私は落ち着いた声のまま続けた。
「実を申し上げますと、殿下より婚約解消のお話をいただいてすぐ、私は王宮記録院に問い合わせをいたしました。この指輪の来歴を、正式な記録として確認していただくために」
そのとき、会場の入り口から一人の文官が入ってきた。宰相補佐官ダリウス殿である。手には古びた革表紙の登録簿を携えていた。
「アデライン様よりご依頼をいただき、記録院の登録簿を確認してまいりました」
ダリウス殿は一度、私に視線を向け、小さく頷いた。三日前、私が記録院に宛てた手紙には、婚約解消の話が持ち上がっていること、そしてその際、指輪の価値が話題になる可能性があることを、事前に伝えてあった。まさかここまで早く、その通りの展開になるとは思っていなかったが。
ダリウス殿は登録簿を開き、該当の頁を示した。羊皮紙には、色褪せた文字で三代前の外交記録が記されている。
「この指輪は、今から三代前、隣国オルレイン王家より、当時の外交儀礼の一環としてヴェルネイ伯爵家に贈られたものと記録されております。使用されている変色石は、オルレイン王家の鉱山でのみ産出が確認されている稀少なもので、当時すでに国家間の贈答品として破格の評価額が付けられておりました」
会場からどよめきが起こる。近くに立っていた年配の侯爵が、身を乗り出すようにして登録簿を覗き込んだ。
「馬鹿な。オルレイン王家の鉱山は、二十年前の地変で坑道が崩れ、以来採掘が止まっていると聞くが」
「ご指摘の通りでございます」
ダリウス殿が頷く。
「あの地変以降、当該の変色石は市場にほとんど出回っておりません。現存が確認されている品は、大陸全土でも片手で数えるほどと記録院では把握しております」
「現在の相場に照らしましても、産出量がさらに減少している今、この指輪の評価額は、当時の何十倍にも上るものと記録院では見積もっております」
ダリウス殿がそう告げると、殿下の顔から血の気が引いていくのが見えた。会場のざわめきは、もはや隠しようのない大きさになっていた。「あれほどの品を古いだけと」「殿下は何を根拠に」――そんな囁きが、あちこちから漏れ聞こえてくる。
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「――そんな、話は聞いていない」
「殿下がお聞きになる機会がなかっただけでございます。ヴェルネイ家では代々、この指輪を軽々しく他言せぬよう扱ってまいりましたので」
私は殿下に向き直った。
「先ほど殿下は、この指輪を『古いだけの品』とおっしゃり、慰謝料の代わりに引き取らせようとなさいました。ですが、記録院の評価に照らせば、この指輪一つで、慣例上の慰謝料額を大きく上回る価値がございます。殿下は、ご自身が何を口になさったか、今一度ご確認いただけますでしょうか」
殿下は言葉を失っていた。取り巻きたちの笑みも消え、会場の空気は、先ほどまでとはまるで違う色を帯びていた。セレスト嬢は扇で顔を隠すようにして、そっと後ろに下がっていく。先ほどまで殿下に追従して笑っていた取り巻きたちも、今は気まずそうに視線を逸らし、互いに顔を見合わせるばかりだった。
「わ、私は、その、知らなかっただけで――」
「存じております。殿下は物の価値を、流行や人脈でお計りになる方でございますから」
淡々とした声で、私はそう告げた。糾弾するつもりはなかった。ただ、事実を述べただけだ。
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「殿下、恐れながら」
先ほどの年配の侯爵が、静かに口を挟んだ。
「一国の王太子ともあろう方が、家宝の価値も検めず『大した価値もない』と大勢の前で断言なさった。これは、ヴェルネイ伯爵家に対してだけでなく、記録院の記録そのものを軽んじる発言でもございます」
「そ、そんなつもりでは」
「つもりの有無ではございません。既に、この場にいる全員が聞いております」
侯爵の言葉に、殿下は反論の糸口を見つけられずにいた。周囲の貴族たちも、もはや誰一人として殿下に加勢しようとはしなかった。先ほどまで場を支配していた笑いは、今や完全に消え失せている。
「アデライン嬢」
侯爵が今度は私に向き直った。
「先ほどの鑑定、見事なものだった。婚約解消の場でここまで冷静に振る舞える令嬢を、私は他に知らない」
「恐れ入ります。ただ、事実をお伝えしたまでのことでございます」
私は静かに一礼した。称賛を求めて行ったことではない。ただ、間違ったまま話が進むのを、黙って見過ごせなかっただけだ。
ふと視線を感じて振り向くと、セレスト嬢が扇の陰からこちらを見ていた。先ほどまでの勝ち誇った表情はどこにもなく、代わりにあったのは、居心地の悪さを隠しきれない硬い顔だった。彼女もまた、この結果を望んではいなかったのだろう。殿下の隣に立つはずだった場が、今や誰の目にも危ういものに映っている。
私はそれ以上、彼女に目を向けることはしなかった。関わりのないことだ。その様子を見て、私はこれ以上言葉を重ねる必要はないと判断した。
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「では、この評価額に基づき、正式な慰謝料の手続きをお願いいたします。記録院の査定書は、後日改めてダリウス殿より届けていただけるとのことです」
私は一礼すると、小箱から指輪を取り上げた。
「指輪は、ヴェルネイ家の家宝として、私が正式に引き取らせていただきます。殿下のお心遣いには及びません」
言い終えると、私は静かに踵を返した。会場に残されたざわめきも、殿下の呆然とした顔も、もう振り返る必要はなかった。
◇◇◇
屋敷への帰り道、馬車の窓から見える夕暮れの空を眺めながら、私は指輪をそっと指にはめ直した。灯りのない馬車の中では、石の色はただ静かな青に見えた。
屋敷に着くと、出迎えた執事のグレンが、いつもと変わらぬ様子で頭を下げた。噂はまだ届いていないのだろう。私は簡単に事の次第を告げた。グレンは驚いた顔を見せたが、すぐに表情を整え、「お帰りなさいませ、お嬢様」とだけ言った。
自室に戻り、窓辺の椅子に腰を下ろす。祖母から譲り受けた宝石図鑑を、久しぶりに書棚から取り出した。表紙は色褪せ、頁の端はところどころ擦り切れている。十歳の私が、来る日も来る日も読み込んだ跡だった。
あの頃、この図鑑がなければ、今日の私はなかった。誰かに認められるためではなく、ただ知りたくて読み続けた日々が、こんな形で役に立つとは、当時は思いもしなかった。
扉が軽く叩かれ、父であるヴェルネイ伯爵が顔を出した。王宮からの報せは、既に彼の耳にも届いていたらしい。
「アデライン。無事に片が付いたと聞いた」
「はい。お騒がせいたしました」
「騒がせたのはお前ではない。殿下の方だ」
父は珍しく苦笑いを浮かべながら、部屋に入ってきた。
「しかし驚いたな。あの指輪が、まさかそこまでの品だったとは。私も長年、古い家宝としか思っていなかった」
「私も、確証を得たのは今日が初めてです。記録院に問い合わせるまでは、推測の域を出ませんでしたから」
「推測だけで、あの場に立てるものではないだろう」
父はそう言うと、私の手元の宝石図鑑に目を留めた。
「お前が寝台の上で、飽きもせずその本を読んでいた頃を思い出す。当時は、体を治すことばかりに気を取られて、お前が何を積み上げているのか、正直、あまり気にかけていなかった」
「気にかけていただかなくとも、私は好きで読んでおりましたので」
「それでも、だ。今日という日が来て、ようやくわかった。好きで続けたことが、無駄になることはないのだな」
父はそれだけ言うと、静かに部屋を出ていった。扉が閉まる音を聞きながら、私はしばらく図鑑の頁をめくり続けた。子供の頃の自分が線を引いた箇所、書き込みをした余白。どれも、誰かに見せるためのものではなかった。
私は再び、指輪を灯りにかざした。燭台の炎に照らされ、石はゆっくりと紫がかった赤へと色を変えていく。婚約は終わった。それは事実だ。だが、失ったものより、確かめられたものの方が多かったように思う。
これでいい。婚約は終わり、家宝は戻ってきた。それ以上でも、それ以下でもない。
明日からは、また静かな日々に戻るのだろう。婚約者のいない伯爵令嬢として、これまで通り書庫に通い、鉱物学の本を読み続ける。それだけで、私には十分だった。
私はただ、事実を積み上げただけだった。




