6. 歩き食べの幸福と、追跡者たちの影
宝石店を出た後、私は広場の一角から漂う甘い香りに足を止めた。
「あら……。あそこに並んでいるのは?」
そこには、鉄板の上で薄い生地を焼き、フルーツとクリームを包み込む――前世で大好きだった『クレープ』にそっくりの屋台があった。
「なんだ、あのような卑俗な食べ物は。食事なら最高の三ツ星レストランを予約してあるのだが」
「でも、とっても美味しそうですわ。殿下、あのような場所で食べるのも、また一興ではありませんか?」
私が小首をかしげて微笑むと、殿下はあっさりと陥落した。
「……ふむ。君がそこまで言うなら、試してみるのも悪くない」
焼きたてのクレープを受け取り、私は大きく一口頬張った。
口の中に広がる優しい甘さとモチモチの食感。公爵令嬢時代、淑女の教育として「歩き食べ」なんて言語道断だった私にとって、これは背徳的なまでに美味しい。
「……んん、美味しいっ!」
「……ほう。意外といけるな。それにしても君は、宝石よりもそのクレープ一つでそんなに嬉しそうな顔をするのか。……面白い女だ」
殿下が見惚れたように私を見つめる。
その後ろで、ヴィンセント様が幸せそうに頬を膨らませる私を見て、眼鏡を曇らせながら魂を抜かれたような顔で見惚れていた。
ふと視線を外すと、少し離れた物陰から派手な帽子を被ったマリアと、付け髭をしたカイルがこちらを覗いているのが見えた。
(……バレバレよ、二人とも)
マリアは呆れたように首を振っている。
一方のカイルは、尾行の空腹に耐えかねたのか「……俺も買ってくる」と呟き、屋台へ向かった。
戻ってきたカイルは、二つのクレープを手にマリアへ一つ差し出す。
「ほら、食うだろ。聖女様」
「……気が利くじゃない。お礼に半分あげてもいいわよ」
そんな二人の様子を遠目に見ながら、私は(あら、意外とお似合いじゃない?)と、復讐を忘れてニヤニヤしてしまった。
◇
平和な時間は、広場に響いた女性の悲鳴で破られた。
「泥棒! 誰か、そのカバンを捕まえて!」
人混みを縫って逃げるひったくり。
エドワード殿下が「なんだ、騒々しい」と眉をひそめた瞬間、ヴィンセント様が弾かれたように動いた。
「――逃がしません」
風のような速さで犯人を追うヴィンセント様。
同時に、物陰から「おっと、仕事か」とカイルが飛び出し、鮮やかな連携で犯人の進路を塞いだ。
ヴィンセント様が犯人の腕をひねり上げ、地面に押さえつける。
その無駄のない、凛々しい動作。
「……かっこいい」
思わず声が漏れた。
いつもは「田中君」として挙動不審な彼が、今は国を守る本物の騎士に見える。
私の胸が、少しだけ熱くなった。
「ヴィンセント、よくやった! ……ん? 待て、そこにいるのは……マリアか!?」
騒ぎのどさくさで、殿下がマリアの変装を見破った。
マリアは「ちっ」と舌打ちして姿を現す。
殿下は一瞬驚いたものの、すぐにニヤァと、これ以上なく下劣で勝ち誇った笑みを浮かべた。
「そうか、そうか! 私のデートが気になって追いかけてきたのだな! 仲良く私を奪い合うとは、女とは度し難いものだ」
マリアとレティシア、二人の肩を同時に抱こうとする殿下。
「よし、今日からは二人とも、俺の女にしてやろう!」
「「…………」」
マリアは氷のような無表情で「クズが」と即答した。
ヴィンセント様の背後からは、もはや物理的な冷気が吹き荒れ、殺気が広場を包み込む。
カイルは「……俺の存在には気づきもしないのか、あのバカ」と虚無の表情でクレープの最後の一口を飲み込んだ。
私は、王子の腕を華麗にかわしながら、そっとヴィンセント様の横顔を見た。
彼の青筋が立った拳と、それでも私を案じて真っ直ぐに向けられる瞳。
(……早く、あの田中君――じゃなくて、ヴィンセント様と一緒に笑い合えるようになりたいな)
復讐への決意と共に、少しだけ、私の心に新しい風が吹いた気がした。




