《Prolog》と《Epilog》④
[ PHASE #−008 / INIT | PROLOG AND EPILOG №4 ]
悠の着地と同時に、敵の輪郭が滲む。
黒い影が風に流されるように崩れ、破片も残さず空間から溶け落ちた。
──ヒーロー特撮のような派手な演出も爆発もない。
火花も閃光も、断末魔すらない。
ただ、存在が静かに“消去”された。
それはまるで、誰にも看取られず記録の底へ沈んでいくデータファイルのような、寂しく無音の“終わり”だった。
数秒の沈黙が、世界を包む。
風も吹かず、誰も言葉を発さない。
瓦礫の隙間を縫って砂塵だけが漂い、SAFE-LAYERの防御機構が再び展開される音が、わずかに耳奥をくすぐる。
沈黙ののち、澪が口を開く。
「構造ノイズ、現在値以下。反応消失。……以上です」
淡々と報告を続ける澪の声には、わずかな“含み”が滲んでいた。
その微細な変化を、秤屋 結は聞き逃さなかった。
静かに足音を忍ばせて近づくと、端末を閉じかけた澪の背に穏やかに声をかける。
「お疲れ様です。澪」
その声は柔らかく、ほんの少しだけ間を置いて──問いが続いた。
「……“何もない”ことに、逆に違和感を覚える……と考えているのですね?」
澪はわずかに目を見開いた。
まるで自分の心の内を、先回りして見透かされたような気がして──ほんの少し息を飲んだ。
結はその反応を見ても、特に表情を変えなかった。ただ、ごくわずかに目を細めるだけ。
澪はふと、ホロウィンドウの静止したログ画面に視線を戻す。
──まるで、最初から何も起きなかったかのような、完璧すぎる静寂。
「何もない」……それは本来、安心をもたらすはずの言葉だった。
だが今は違う。ただの“不在”ではない。
“最初から消されていた”としか思えないような、不自然なまでの静けさ。
その違和感が、澪の胸の奥で淡い霧のように広がっていく。
それは数値でもログでも示せない、ただの“気配”にすぎなかったが──
観測員である彼女の直感は、それを見過ごしてはならないと告げていた。
「……けれど、戦闘中に“不審な動き”は確認できませんでした。
記録上も、視覚ログも、広域スキャンも──異常反応は一切なしです」
少しだけ言いよどむように、言葉を区切る。
「──今回の件が、仕組まれていたのは間違いありません。
ですが……何の痕跡も残されていないんです」
淡々と語りながらも、その声音には確かな違和感が滲んでいた。
「戦闘ログも構造波形も、すべて正常。
……まるで“痕跡そのものを残さない”ように、綺麗に処理されていた印象で」
彼女の言葉は、データには表れない“空白”の輪郭をなぞるようだった。
「──この舞台を用意した奴、どこかで観劇していたんじゃねえの」
悠がふと呟く。
「……文字通り、どっか遠くから“観察”してたんだろ。演者の息遣いも届かない場所でさ」
その口調には、皮肉というよりも、確信に近い何かが滲んでいた。
「……はっきりわかったじゃねえか」
声とともに、悠がすっと澪の隣に腰を下ろす。
軽い調子のようでいて、瞳はどこか冴えていた。
「沈黙こそが最大の雄弁。
──その空白こそが、“答え”ってやつだろ?」
思わず彼の横顔を見やる。
悠はいつも通りの調子で笑っている。けれど、その笑みの奥にある静かな確信が、どこか胸に引っかかった。
──戦闘中。
澪は敵の観測と同時に、“この事件の背後にあるもの”を探り続けていた。
その最中──確かに、微かに“見られている”ような感覚があった。
戦場の敵意とは、どこか質の違う“視線”だった。
ログにも、センサーにも反応はなかった。
それでも、確かに“誰かの意志”が、この戦場を見下ろしているような妙な感触だけが残っていた。
そして──
澪はその視線に“見覚え”のようなものを感じていた。
思い出せない。いつ、どこで、どんな状況で──それすら曖昧で、心当たりもない。
それでも、その視線を“初めてではない”と感じたのは確かだった。
まるで、ずっと前から──ずっと遠くから、同じ眼差しに晒され続けていたかのような、得体の知れない感覚。
そして何より、その視線には、はっきりとした“悪意”が宿っていた。
直接的な殺意でも敵意でもない。
もっと冷たく、もっと深く、対象の輪郭だけをなぞるような──
“観察のための悪意”。
存在を試すように、価値を測るように、ただ静かに見下ろす目。
澪はその気配を──皮膚の奥にまで染み込んでくるような冷たさとして確かに覚えていた。
──そのときだった。
張り詰めた空気の中に、“ぐぅ……”という低く長い音が控えめに──けれどしっかりと響いた。
視線が、ごく自然に隣の人物へと向かう。
悠と澪が無言でそちらを見ると、そこには──
まっすぐ前を見据えたまま、表情一つ変えず立っている秤屋 結の姿があった。
静寂。
そして──
「……私ではありません」
結は涼しい顔でそう断言したが、誰も何も言っていない。
悠がじわりと口元をゆがめる。
「……いや、でもタイミング的にそれ、もう無理だって」
結は目を逸らさず、まるで任務の確認でもするように眼鏡型のSIG-Nodeを操作しながら、ぼそりとつぶやいた。
「……グリッチ・アビリティの行使により、通常時より体力消費が増加していたようです。
──適切なタイミングでの補給が必要ですね」
その言葉のあと、わずかに間を置いて──
「……だってさ、神山さん」
肩をすくめた悠が少し声を張るが、呼びかけは届かない。
瓦礫の陰にしゃがみ込んだ神山は、耐震収容器を手に、何か独り言のように呟き続けていた。
「……神山さん?」
今度は語尾を少し上げて、念押すようにもう一度呼びかける。
けれど神山は、まるで何も聞こえていないかのように、
耐震収容器の表面を静かになぞりながら、小さな声で何かを呟き続けている。
「ふーん、純度が低いですね……干渉が浅かったか」
「これは……? あ、ただの金属片か。紛らわしいなぁ」
「ふーむ……これはゴミですね。……ん? いや待て、組成が……」
「いや、やっぱりゴミですね」
悠と澪が視線を向けるも、神山は完全に“ひとり神山研究所”の世界に入り込んでいた。
瓦礫の隙間にしゃがみ込み、耐震収容器に結晶体を収めながら何かをぶつぶつとつぶやいている。
そこに他人の視線があることなど、最初から気づいていないかのように。
「……真面目なんだか、抜けてんだか……」
悠が苦笑しながらつぶやくと、隣の結が淡々と補足する。
「昔からあのような研究馬鹿です。平常運転なので問題ありません」
神山 遥歩と秤屋 結の関係は、現場での上司・部下というより、もっと過去にさかのぼる。
結がそう口にしたとき、神山はすでにひとり、“研究者”としての顔になっていた。
結晶体に指先を当て、ノイズの痕跡をじっと観察している。現場での緊張感よりも、その現象そのものへの興味が勝っているようだった。
それも当然かもしれない。
神山 遥歩は、かつて秤屋 結の一族が経営する秤屋統合機構──H.I.S.の研究部門に籍を置きながら、
C.O.D.E.にも同時に所属していた“二重所属”の技術者だった。
グリッチ・マテリアルと呼ばれる、グリッチ・エンティティの崩壊時に情報層から滲み出る異常性物質に強い関心を持ち、その解析と応用において両組織を跨いで数々の成果を残してきた。
それらの知見は、都市構造制御技術の発展にも寄与し、C.O.D.E.への兵装技術提供という形で現場にも還元されていた。
結が灯科支部に配属された頃、灯科支部長として再び結の前に姿を見せた神山との再会は、ある意味では自然な流れだったのかもしれない。
C.O.D.E.の管理者でありながら、神山 遥歩の本質は今も研究者のままだ。
本来は前線に立たぬ立場でありながら、彼は自ら現場に赴く数少ない例外である。
「ふむ、これは……不安定ですが、構成上興味深いな……」
ぶつぶつと誰に聞かせるでもなくつぶやきながら、ノイズ結晶核に指先を滑らせている姿は、まるで過去と変わらぬ“神山研究員”そのものだった。
結が淡々とそう言う横で、神山は未だに目の前の破片に夢中だった。
まるで、神山 遥歩という人物の奇行を“気象条件”か何かのように受け流すその声音に、
悠は思わず小さく吹き出した。
「……それ、ちょっとひどくない?」
「……事実ですので」
そう短く言い切ると、結は視線を僅かに伏せ、眼鏡の奥で端末の操作を始めた。
フレームの側部を指先でなぞるだけで、視界に情報ウィンドウが次々と展開されていく。
「再出現の兆候もありません」
隣で澪が冷静に報告を重ねる。
端末にも、異常の兆候は表示されていなかった。
撤収プロトコルの確認。SAFE-LAYERの再安定化状況。周辺構造の残留ノイズの再走査──
結は無言のまま、粛々と任務の締めへと移行していった。
澪もすぐにその背に続く。
動きには迷いも無駄もなく、まるでこのやり取りも“日常の一環”であるかのように、静かに現場の後始末を始めた。
グリッチ・エンティティの残骸はもう存在しない。
だが、その場に残された違和感と、誰かが仕組んだ空白だけが、しつこく残響のように周囲に漂っていた。
零区を出て、再接続ポイントを抜ける。構造層の切れ目を慎重に通過し、
外周に待機していた車両に合流。乗り込むと、エンジン音が静かに響いた。
その静けさの中で、誰かが何かを言った。
たぶん最初に声を上げたのは悠だった。
食べる仕草をしつつ、財布を叩く真似をした。
隣で澪が肩をすくめ、手を胸元に当てて何かを数えていた。
その指は三本立っていた気がする。
その直後──
ふと静まり返った車内に、聞き覚えのある乾いた音が鳴った。
お腹の音だった。
一際はっきりと、空気を振るわせて響いた。
誰のものかは、見なくてもわかった。
わかっているから、誰も何も言わなかった。
神山はわずかに眉を動かしただけだった。
返す言葉はなかったが、その表情がすべてを物語っていた。
やがて車両は、零区を背に街へと戻っていった。
ひと息つくような静けさのなか、澪がふと笑った気がした。
任務の終わり。
一日の終わり。
そういう些細な空気が、何よりも“現実”だった。
[ PHASE #interlude / INIT | PROLOG AND EPILOG №4 ]
少し時間はさかのぼる。
悠たちが異形の蛇を撃破し、情報層のざわめきがいったん静まり返った頃──。
ノイズを纏った人影が、“仮面”越しにじっとモニターを見つめていた。
その輪郭は揺らぎ、現実から浮かび上がった影のように、そこに静かに佇んでいる。
薄暗い空間の壁一面に、旧時代のブラウン管モニターが所狭しと並ぶ。
砂嵐混じりの映像は、灯科市の各地から拾い集められた断片を、ひたすら垂れ流していた。
だが──その視線だけは、確かにモニターの奥へと突き刺さっていた。
それは、“仮面”と呼ぶにはあまりにも歪で、幼稚なものだった。
茶色くくすんだ布のような質感に、黒いペンで雑に描かれた目と口。
左右非対称の丸い眼孔は、どこか不気味な“笑顔”を無理やり貼り付けたような印象を与えている。
輪郭はノイズにかき乱され、形を定めきれないまま絶えず揺れていた。
その不明瞭さが、“模倣の失敗作”のような不完全さをいっそう際立たせていた。
その稚拙な外見の奥には、
本来あるはずのない“何か”が、確かに潜んでいた。
ただの仮面には決して宿らない気配が、静かに、しかし確実に滲んでいた。
映像は時折ノイズを挟みながらも、一定の順を追って再生されていく。
──現実と虚像の境界が曖昧になった禁足領域へと足を踏み入れる秤屋 結の後ろ姿。
──背後を警戒しながら進む御影 澪、そして遅れて加瀬 悠と神山 遥歩が現れる。
──戦闘開始。情報層が崩れ、異形が暴れ狂い、応答ログが乱れる。
──それでも彼らは連携し、撃破へと至る。
──そして、戦闘後の短い会話──
《……いや、でもタイミング的にそれ、もう無理だって》
《……グリッチ・アビリティの行使により……》
──小さな笑い声と共に、緊張の解けたひととき。
それすらも、カメラの視界は逃さない。
それは、もはや“ただの観測映像”ではなかった。
撮る者などいないはずなのに、
血の温度も汗の匂いも、情報層のざわめきも──
すべてが現場の鼓動として刻み込まれていた。
まるで監視の意図でもあるかのように、
その視線は静かで、的確で、どこまでも執拗だった。
──映像が途切れる。
一度、また一度と、何度も繰り返される再生。
やがて──
何回目かの再生の果てに、映像はふと止まった。
少女の後ろ姿が、静かに画面を満たす。
淡い青の髪は、毛先でかすかに赤を滲ませていた。
だがその色彩は、まるで“誰かの手”で上書きされたかのように、現実と虚構の狭間で揺れていた。
その少女を見つけた瞬間、人影は人差し指と親指でルーペのように輪をつくり、
ぐっと画面に近づいて覗き込んだ。
「……これは、きれいな色だなあ。まるで……アジサイみたい」
その声音は、男とも女ともつかぬふたつの声が微妙に重なり合っていた。
まるで季節外れの花を見つけたかのように、嬉しさと奇妙な熱が入り混じっている。
モニターの映像がわずかに揺れ、
揺れる髪の色彩、その淡さが画面を支配していく中──
「……植え付けた種は、やがて芽吹き……そして、花となる」
低く、独り言のように呟かれた言葉は、モニターの淡い光に溶けていった。
映像は唐突に、角度を変えた。
先ほどまで映っていなかったはずの、少女の横顔が映し出される。
伏せられた瞳、揺れる睫毛、わずかに開いた唇。
「……ふふっ。まさか、“世界が世界であるための情報”のひとつが、生まれていたとはねぇ」
影は身を乗り出し、喜びを隠しきれない様子で声をあげた。
まるで長い間忘れていた宝物を、偶然見つけたかのように。
「パチ、パチ……」と、小さな拍手の音が響く。
その音は、いつの間にか手を打ち鳴らしていた“影”の動きに重なっていた。
芝居がかったそのリズムが、空間の静けさをじわりと揺らしていく。
それに呼応するように、影の輪郭を覆うノイズが脈打った。
まるでオーディオスペクトラムのように、音の波形をなぞるように明滅しながら──
仮面に描かれた黒い目と口も、わずかに震え、歪み、笑うように動いていた。
「存在を肯定する力ね」
嬉しそうに呟きながら、影はモニター越しの澪に視線を絡める。
まるで、愛おしさと確信を同時に抱え込んだ者のように。
仮面の奥の気配が、ひくひくと揺れる──こみ上げる笑いを必死に堪えているのが、輪郭のノイズ越しにも伝わってくる。
肩がわずかに震え、情報の揺らぎは弾むようにリズムを刻み始めていた。
影はひょいと空中をスワイプするように手を動かし、いくつかの映像を軽やかに送り飛ばす。
その動きに合わせて、モニターがぴょんぴょんと跳ねるように切り替わっていく。
影は「ふんふん♪」と鼻歌まじりに、ご機嫌な様子で指先を滑らせていた。
だが──その指先がふと止まった。
映し出されたのは、並んで立つ秤屋 結と神山 遥歩の姿。
「……おやおや?」
仮面の奥で口角がゆっくりと上がり、空気がひときわざわつく。
そして──
「おやおやおや、おやおやおや……おやおやおやっ」
声音が跳ねる。
一音ごとに熱が帯び、まるで胸の奥から湧き上がる歓喜を押さえきれないかのように。
「なるほど、なるほど……」
影は小さく頷きながら、映像に映る二人の動きや表情を細かく目で追った。
まるで微細なノイズの揺らぎすら情報として咀嚼するかのように──
指先が空中をなぞるたび、映像の一部が拡大・反転し、幾重にも重なったデータ群が仮面の視界に流れ込んでいく。
そして、ほんの小さく吹き出すように笑った。
「こいつらが、このパーティーのリーダー格ねぇ」
影は仮面の下で唇をすぼめ、ひと呼吸おいてから小さく肩をすくめる。
「……まぁ、強いんだけどさ」
空中に漂う映像の一部を指先で軽く弾く。波紋のように揺らめくノイズが、ほんの少しだけ色を失った。
「どうにもね、決定打に欠けるというか……劇的じゃないんだよねぇ。主役にはなれないタイプ」
その声は、軽口とも感嘆ともつかず、ただ一歩引いた場所から舞台の展開を味わう者の静かな愉悦が滲んでいた。
そして影は、静かに肩をすくめると、小さく吐き捨てた。
「……やっぱり、つまらないな。こいつらは」
影は肩をすくめ、つま先でリズムを刻むようにモニターへ近づく。
ひょいと空中をスワイプするその仕草は、まるで退屈な広告を飛ばすかのように軽やかだった。
映像は音もなく切り替わり、先ほどまで映っていた二人の姿はあっさりと視界から消えた。
それより──と、影は弾むようにモニターをスワイプし、ある映像でぴたりと手を止める。
「うんうんうん、この子だ、この子──」
嬉しさを隠そうともせず、まるで何かを確信するようにモニターに釘付けになる。そのノイズの輪郭が、まばたきのように明滅を繰り返した。
そこに映し出されているのは──
二本の刃を手に、疾風のように駆ける少年の姿。
加瀬 悠。
敵の影を切り裂きながら、その瞳だけがどこまでも静かだった。
──そして、映像はループする。
颯爽と駆け、斬りつけ、また跳び下がる。
二本の刃が空気を裂くたびに、同じ場面が繰り返される。
何度も、何度も。
攻撃の軌跡さえ、記録された映像のように正確で。
まるで“完璧な動き”を、誰かに見せつけるかのように。
「もーっ……っすっごいよ、ほんと……っ、鳥肌止まんないよ……!」
その声に呼応するように、影の輪郭が大きく波打つ。
オーディオスペクトラムのような光の帯が、その周囲をより激しく、喜びをなぞるように踊り出す。
そして──そのノイズを纏った人影は、ヒーロー番組を見終えた少年のように、映画帰りにガラスに映る自分を真似て拳を構える子供のように、嬉々として身体を動かし始めた。
悠の動きを、そのままなぞっているようだった。
構えも、跳躍も、斬撃も──似てはいるが微妙にズレている。
意志ばかりが先走り、身体が追いつかない。それでも、人影は楽しげに繰り返していた。
壁に投影されたモニターの光が、ゆらりとその輪郭を照らす。
人影は、映像に合わせるように、手を──体を──静かになぞらせていく。
それは、この部屋そのものが悠の残響を何度も反芻しているかのようだった。
やがて、ひと通り動きをなぞり終えた人影は、その場でぴたりと止まり、満足げに一息ついた。
肩がわずかに上下し、ノイズを纏ったまま──まるで幕間に入った役者のように、黒いメッシュの椅子へとゆっくり腰を下ろす。
背もたれに体を預けたまま、ゆっくりと視線を流す。
モニターの先では、ひとりの少年の映像が──何度も、何度も再生されていた。
「……非常に興味深い子だね、この子は」
囁くようなその声には、抗いきれない好奇心と、確信めいた静けさが混じっていた。
「お行儀よく並んだピースを、ぐしゃって崩しちゃうタイプ。
──台本なんて知らないよって顔で、好き勝手に暴れる役者。
ふふっ、やっぱり“物語をひっくり返す”なら、そういう“トリックスター”じゃなくっちゃねぇ」
面の奥で、かすかなノイズが瞬いた。
それは観察者の眼差しではなく、次の一幕を“仕掛ける”者の視線だった。
ややあって、仮面の下から細い指が顎へと添えられる。
人差し指と親指で輪郭をなぞるようにしながら、影は沈黙のまま、ゆっくりと思考の淵へ沈んでいく。
ノイズに縁取られたその輪郭はわずかに揺れ、“迷い”という情緒そのものを形にしているようだった。
「それにしても、なんだよね……」
重なった声が低く唸り、空間に微かな振動を残す。
まるで何かを“確信しかけている”のに、あと一歩が見えないかのように。
「構造も、揺らぎの出方も、漂ってる“情報の匂い”まで」
そう呟いたまま、影はゆっくりと天井を見上げる。
視線の先に何があるわけでもないのに、しばし無言で思索を巡らせる。
やがて椅子がわずかに傾き、沈み込むと、人影は足先を使ってくるりとそれを回した。
まるで退屈を紛らわす子供のように──静かに、そして楽しげに。
「“あの子”と一緒なんだよなあ……」
影は楽しげに息を漏らすと、ぽつりと続けた。
そのまま、映像に釘付けになったまま、椅子の上で身を乗り出す。
モニターに映る悠の姿に、顔が触れるほどの距離まで近づけていく。
「……まるで、“アンダースタディ”だね」
囁きながら、影はゆっくりと椅子の背もたれに体を預け、微かな軋みとともに揺れを戻す。
仮面の唇に添えた指先が、笑みの形をなぞるようにゆっくりと滑っていく。
「──ふふっ」
その声には、隠しきれない満足が滲んでいた。
まるで他の誰よりも先に“答え”に辿り着いたことを誇示するかのように。
仮面に描かれた口元がゆっくりと歪み、ノイズが輪郭を曇らせていく。
その様は、優雅に勝利を味わう道化のようでもあり、舞台裏で手を叩く策士のようでもあった。
「……虚数遺物」
椅子を揺らしながら、影は愉しげに息を吐く。
その声には抑えきれない笑いが混じっていて──
「ほんと、予想以上に面白くなってきたじゃない!」
仮面の奥で何かが弾けたように、声が一段階“跳ねる”。
「ほかの"神の指"は、まだここまで辿り着けてないみたいだしねぇ」
やがて、影は椅子からひょいと立ち上がった。
その動作にはまるで重さがなく、遊びの続きを思いついた子供のような軽やかさがあった。
「──まずは、ここまで」
仮面が仄かに光を反射し、浮かんだ笑みには滑稽さと悪意が同時に滲んでいた。
それは舞台の裏で手を叩く道化の笑み──
次の幕が待ち遠しくてたまらない、そんな顔だった。
「一歩リードってとこかな」
言葉とは裏腹に、声色はどこまでも楽しげで、
まるでそれが“使命”ではなく“遊び”であることを隠そうともしなかった。
そしてそのノイズを纏った影は、愉快そうにワンテンポ遅れて一礼し、
くるりと身を翻すと、軽やかにスキップを始める。
その足取りは、舞台袖から出番を待つ道化師のように、どこまでも軽やかで──どこまでも不気味だった。
だが。
影の動きがふいに止まる。
仮面が、スキップのリズムを失ったまま、ぴたりと空間に静止する。
「……いけない、いけない」
まるで自分自身に言い聞かせるように、ぽつりと呟く。
仮面の頬に添えた指先が、気怠げに──ポリポリと掻くように動いた。
「うまく物事が進んでいる時ほど、何かが潜んでいるものだから。
慢心はね、敗者のフラグって決まってるからね」
仮面の奥で何かが瞬き、ノイズが小さく脈打った。
再び軽やかに踵を返すその背に、揺らぐ気配が一瞬、影のようにまとわりつく。
男とも女ともつかない、幾重にも重なる声が、空間にふっと滲むように響いた。
まるで複数の存在が、ひとつの意志で笑ったかのように。
「さて……これからが、本当の“演目”だよ」
ポン、ポン──
間の抜けた、けれどどこか楽しげな足音が、ノイズ混じりの空間に跳ねる。
まるで古いアニメに出てくる、気まぐれなキャラクターのように。
影は暗闇の奥へとリズムを刻みながら、ぴょんぴょんと軽やかに遠ざかっていった。
数秒後、ひとつ、またひとつと画面が闇に沈んでいく。
カチッという小さな音を最後に、中央のモニターが点を描くように収束し、
白い残光だけを残して、消えた。
まるで舞台の幕が再び開き、本編へと移る直前の静けさのように──
部屋には静寂とノイズだけが取り残されていた。
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