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Glitch Noise 00  作者: ころん
2/3

《Prolog》と《Epilog》② 

[ PHASE #−003 / INIT | PROLOG AND EPILOG №2 ]




事前の報告では、“軽度の構造ノイズ”──B2-α。

分類上は市民生活に一定の影響を及ぼす干渉として対応班の出動対象ではあったが、危険度は低いと判断されていた。


空間の揺らぎ、数メートル単位の座標のずれ、空間の一時的な断裂。

──いずれも灯科市では“よくある現象”であり、日々繰り返される情報層(インフォレイヤー)の波打ちのようなものだった。


しかも、それが発生したのは──“零区(ゼロく)”と呼ばれる場所だった。

デフラグ・バーストのあと、C.O.D.E.(コード)によって厳重に封鎖された、都市の“死角”。

市民の立ち入りはもちろん、正規の許可がなければ隊員ですら踏み込むことはできない。

安全と認識、その両方の観点から、都市の中でもっとも厳しく管理された区域である。


ゆえに、一般市民が事故に巻き込まれた可能性は限りなく低いと判断された。

実際、C.O.D.E.(コード)の監視ログにも、直近72時間以内における人影や通信端末の接続は一切記録されていない。

端末IDの照合結果もゼロ、座標追跡にも異常は見られなかった。


よって現場には、「念のため」の確認として、最小限の編成で対応班が派遣された。


──C.O.D.E.(コード)灯科支部 戦術・支援観測員、秤屋はかりや ゆい

同組織、秤屋 結の部下、支援特化観測員、御影みかげ みお


任務内容は、零区の境界域で検知された「軽度の構造ノイズ」の観測任務──


本来、それだけの“形式的な対応”にすぎないはずだった。


だが、その場所には──

予定にない人物が、もうふたり。


一人は、加瀬 (かせ)(ゆう)

本来は支部待機であるはずの戦術特化観測員。

だが今回は、「支部長からの伝達事項を届ける」という名目で、偶然を装って現場に現れた。


──というのは建前で、実際には神山に「ついでに零区でも見てみる?」と軽くそそのかされ、特に断る理由もなくついてきただけ。

それでも本人なりに、“任務”のつもりではいるらしい。


そして、そのもう一人。

灯科支部 支部長・神山(かみやま) 遥歩(はるほ)


今回の“そそのかし”の張本人にして、悠を現場に連れてきた本人である。

「君もたまには現地を見ておくといい。視野が広がるよ」などと、妙に教育的なことを言いながら、どこか楽しそうに歩を進める姿は、まるで“現場”というより“散歩コース”の延長であるかのようだった。


──本来なら少人数で済むはずの低リスク任務。

けれど、いくつかの偶然が重なった結果、気づけば妙に人が集まっていた。


その違和感は、当初誰にも深く問われることはなかったが……

結果的に、それが“救い”とも“導火線”ともなる。


[ PHASE #−004 / INIT | PROLOG AND EPILOG №2 ]


色彩とリズムを変えながら浮かび上がる幾何学図形と情報コードが、

空間に二重の構造を描いて広がっていく。

澪はその中心で、異常の兆しがないかを丹念に確認していた。


神山は相変わらず、悠の横で「いやあ、きれいですねえ」「ビューティフォー……」「まるで妖精の舞踏ですよ」などと感嘆の言葉を並べながら、悠の肩をやたらと揺すってきた。

芝居がかった調子と鬱陶しいくらいの距離感に、悠は小さくため息をつく。


──が、すぐに目線を落とし、自分のSIGシグ-Nodeノードへと意識を戻す。


表示されているのは、格闘ゲームの画面。

無音で淡々とコンボを繋げる姿勢はもはや職人芸だ。

もちろん、本来こうした機能をSIGシグ-Nodeノードに導入するのは明確な規則違反である。


……だが、悠は「戦闘シミュレーションの一環だから」とそれらしい理由をつけ、半ば強引に技術班に組み込ませた。

技術班も最初は渋ったらしいが、「やらせてみたら、たしかに動きの反応速度が上がった」とかで、今では黙認されている。


そんな二人の様子を、結はやや距離を置いた場所から見ていた。

ため息をひとつ。

──けれど、その瞳には微かに呆れと共に、どこか認めるような色が滲んでいた。


規則は守らない。態度も軽い。

それでも──彼が現場で“結果”を出してきたことは、紛れもない事実だった。


結は、しばらくのあいだ二人の様子を黙って見つめていた。


神山は悠の肩を揺らしながら、楽しげに何かをまくし立てている。

その隣で悠は、黙々と格闘ゲームに没頭していた。

どう見ても、ここが“危険区域”であるという空気を読む気はない。


──まったく、騒がしい上に緊張感もない。

けれど、どこかで安心してしまうのも、また事実だった。

そんな中、不意に小さな声が割り込んだ。


「……これって……」


澪だった。

SIGシグ-Nodeノードのホロウィンドウを見つめる彼女の眉が、わずかに曇っている。


結は即座にそちらへ視線を向けた。


「どうかしましたか?」


その声音は静かでありながら、一瞬で空気を引き締める鋭さを帯びていた。


澪はもう一度、手元のホロウィンドウに指を滑らせ、波形の誤差値を確認する。

──間違いない。任務前に確認していた“軽度干渉”とは明らかに異なる数値。

波形の奥に、別のパターンが“隠されて”いる。


「……やっぱり。これ、改ざんされてた」


震える声を押し殺すように、澪は呟いた。

唇を少し噛み、落ち着こうとする仕草。

けれどその目は、明確に“危機”の輪郭を捉えていた。


「報告のB2-α──“軽度の構造ノイズ”って分類、外れてます。

解析範囲を拡張したら、内層に別のパターンが隠されてた。

“B2-α”のラベル自体が上書きされてたんです……」


結が澪の視線を追い、ホロウィンドウの表示に浮かぶわずかな歪みに目を凝らす。

澪の手が止まり、眉が寄る。


「……誰かが、“人為的”に低レベルを装って報告を偽装したな」


その声には、心当たりがあるかのような含みがあった。

軽口ではない。だが、確信というより“思い出しかけている”ような調子。


そして──そのとき、すでに悠はゲームを閉じていた。


ふざけた様子は跡形もなく、画面の光が消えたSIGシグ-Nodeノードの前で、

彼は静かに目を細めながら、澪のホロウィンドウを見つめていた。


その声には、いつもの軽さも皮肉もなかった。

状況を察し、即座に切り替えた目だった。


その時──


「……ありえない……っ!」


澪が叫ぶように声を上げた。

震える指先でSIGシグ-Nodeノードを操作しながら、目を見開く。


「灯科の──C.O.D.E.(コード)の情報防御機構は、世界の拠点の中でもトップクラスなんです!

こんな改ざん……本来なら、絶対に不可能なはずなのに……!」


言葉の端に、驚きと、かすかな恐怖が滲んでいた。


いつの間にかSIGシグ-Nodeノードの画面は沈黙し、指も動いていない。

悠は真剣な眼差しのまま、澪のホロウィンドウを覗き込むように言った。


「……意図的に改ざんされたってことは、裏で動いてるやつがいるってことだ」


その声には、いつもの軽さも皮肉もなかった。

状況を即座に見極め、戦闘態勢に切り替えた声。


澪の手元で、ホロウィンドウが何度も瞬いた。

視線が上下に走り、呼吸を浅く整える。

けれど──その目は確実に“異常”を捉えていた。


──「人為的」。


その言葉が耳に届いた瞬間、結の身体がわずかに硬直した。

無意識に背筋を正し、視線をホロウィンドウから逸らさずに、反射的に身構える。


それは単なる操作ミスや情報誤差ではない。

“誰か”が意図を持って構造を歪めた──あの特有の違和感。


脳裏をよぎったのは、過去の事例。

観測網をすり抜け、報告を偽装し、都市構造そのものを破壊へと導いた存在。


2年前の──あの事件。


口の中で転がすように、その名を呟いた。


「……アグノシス」


その名が漏れた瞬間、空気がわずかに張り詰めた。


《アグノシス》。


結の口から静かに紡がれたその名に──

澪は、まるで何かに触れられたかのようにハッと息を呑んだ。


かつて、情報層(インフォレイヤー)の深部にまで潜り込み、観測網そのものを欺いた存在があった。

都市のSAFEセーフ-LAYERレイヤーを無力化し、WAVEウェーブ-COREコアによる修正を阻み、支援の手を遅らせ、

結果として灯科市の一角──渚区を“記録ごと”消失させた未曾有の情報災害。

それが、デフラグ・バーストだ。


そして、その背後にいたのが──《アグノシス》。


彼らは、今の世界の現実層(リアルレイヤー)そのものを“神のかたち”と見なし、

そこに生きる者たちが定義され、観測されることこそが“救済”だと唱えている。

構造の外にあるものを“歪み”と呼び、観測に抗う者を“異端”として排除しようとする、思想信仰型の宗教団体である。


彼らにとって、定義とは祈りであり、記録とは祝福だ。

だからこそ、救済を拒む存在を、

一度“命を終わらせ”、その上で生まれ変わりと称し“書き換える”。


──その存在が本来そこに“いなかった”かのように。

それが、《アグノシス》のやり方だった。


その狂信的な思想は、ただのテロ組織ではなく──

構造そのものに救済を見出す“宗教”の姿をしていた。

彼らは「救済を拒む存在は“罪”である」と断じ、

構造に抗う者を“歪み”として排除してきた。


ただの過激思想ではない。

その信念は、すでに信仰の域に達していた。


指先がわずかに震え、ホロウィンドウの表示が揺らいだ。

視線を結に向けることもできず、澪はただその場に立ち尽くしていた。


そしてその様子を、神山は一歩引いた場所から静かに見つめていた。

表情は変えず、肩の力も抜けたまま。

だがその目は、明らかに状況の“裏側”を読んでいる者の眼だった。


「……いくら密閉した部屋にしても、虫ってのは入ってくるものなのです」


悠と澪が顔を上げる中、神山は相変わらずの口調でぽつりとつぶやいた。

白衣の袖を軽く払うような仕草をしながら、どこか楽しげな笑みを浮かべている。


「そういう存在なんですよ、《アグノシス》ってのは。

入れないはずの場所に、“なぜかそこにいる”。

隙間をこじ開けたわけでもないのに、図々しくも気づけば部屋のど真ん中に座ってる。

……まるで最初からそこにいたみたいにねぇ」


飄々とした声音。

だがその言葉の裏には、かつての現場で痛みを知った者にしか出せない実感が滲んでいた。


その空気を、ひょいと横からすくい取るように、悠が口を開いた。


「……なんかそれって、俺たちみたいだな、支部長」


少し笑うような口調。

けれど、その言葉の中には“自分たちもまた情報層(インフォレイヤー)に触れる側の存在だ”という自嘲の色が、わずかににじんでいた。


神山は笑ったまま視線を外す。


「そう思うようになったら、もうC.O.D.E.(コード)の末期ですねぇ」


神山が肩をすくめるように笑う。

その隣で悠も小さく息をつくように笑っていた。


結はそんな二人を、しばらく無言で見つめていた。

まったく──とでも言いたげに、ほんの少しだけ肩をすくめる。

そして、わずかなため息をこぼすと、視線をすっと澪へと戻した。


「澪。状況の整理をお願いします」


声の調子は落ち着いていて、

けれど確かに、空気を“任務の時間”へと引き戻す力があった。


澪は小さく息を呑み、頷くとホロウィンドウを再起動する。


「……っ、はい。干渉コードは……E5-αβ相当、複合干渉タイプ。座標誤差、ノイズ応答、境界流出率……」


彼女は言いかけて、喉を詰まらせた。


「……どれも、“軽度”じゃ済まない値です……」


指先がわずかに震える。

ありえない、という言葉を飲み込みながら、澪は端末の画面を睨みつけるように見据えた。


「──これ……待ち伏せされてた可能性すらあります」


声は震えていなかった。

けれど、内側で警鐘が鳴っているのは、誰の目にも明らかだった。


そして──その瞬間だった。


視界が、ふっと歪む。


上下の感覚が抜け落ち、足元から空間の支えが崩れていくような感覚。

地面が天井に張りつき、空が足元へと沈み込んでいく。

重力も風も音すらも、すべてが内側へ引きずり込まれるように変質していく。


都市を包む“現実”の外郭が、まるで皮膜のように裏返り始めていた。


認識の膜がきしみながらめくれ、

現実層(リアルレイヤー)”と“情報層(インフォレイヤー)”の境界が、音もなく崩れていく。


「反応……っ! 結先輩、これ──攻撃を受けてます!

境界ごと……揺さぶられてるっ!」


……だが、何かがおかしい。

ホロウィンドウに映る構造波形は、異常が起きているとは思えないほど滑らかだった。

あまりにも整いすぎている。


本来、これほど安定した波形など──ありえない。

それは“正常”ではなく、“正常を装った異常”だった。


そしてその一方で、現実の空間は確かに──崩れ始めている。


観測と実態が、わずかに──しかし、決定的にズレている。

まるで、こちらに“観せたい情報”だけを意図的に送ってきているかのようだった。


その気配を感じ取ったのか、悠の口元がわずかに引き締まる。


「……ずっと観られてた、ってわけか」


低く、落ち着いた声。

けれどその奥には、確かな火種のようなものが灯っていた。


悠の視線が、静かにホロウィンドウから外れ、

周囲の気配を探るように──じり、と移動する。

そして、ゆっくりと腰のホルスターへと手を伸ばす。


右手が、透き通るような一本の柄に。

左手が、深い闇をそのまま凝縮したようなもう一方の柄に触れた。


一本は、《プロローグ》。

まるで空気をそのまま結晶化させたように透き通っており、

透明なガラスの刃身には、まだ何ひとつ“物語”が刻まれていない。

これから始まる出来事すべてが、この刃に初めての軌跡を描いていくのだ──

そう思わせる静かな美しさがあった。


そしてもう一本は、《エピローグ》。

その刃は正反対だった。

まるで、何十冊もの物語を上から鉛筆で塗りつぶしたかのように、

深く、暗く、幾重もの“終わり”が染みついているようだった。

透けることはなく、光さえ吸い込むような黒──

すでに何度も物語を“終わらせてきた”刃だった。


始まりと終わり。

無垢と深淵。

“物語の始まり”と“結末”をなぞるように、

二振りの刃が、静かにその鞘の中で揺れた。


[ PHASE #−005 / INIT | PROLOG AND EPILOG №2 ]


一手、遅れた。

それだけの事実が、場を静かに冷やしていく。


澪は──自分の声を聞いた瞬間、悟っていた。

あれは「警告」なんかじゃなかった。

もう始まっていたことに、ただ“反応した”だけだったのだ。


観測したのではない。

気づいた時には、すでに侵入されていた。

彼女が言葉にしたそれは、“過去形”の事実にすぎなかった。


わずかに肩が揺れる。

声を出した自分の喉に、妙な重さを覚えていた。

誰かに責められたわけではない。

けれど、その沈黙は、誰よりも正確に彼女自身の責をなぞっていた。


彼女の視界には、結の横顔があった。

ほんの数歩の距離。

しかし、その背に滲む緊張が、何よりも雄弁に“間に合わなかった”ことを語っていた。


その事実は、声よりも鋭く、胸を突いた。

けれど──本当に痛みをもたらしたのは、次の瞬間だった。


彼女の手に握られたSIGシグ-Nodeノードが、

まるで叱責のように赤く閃き、

警告ログを容赦なく──連打するように吐き出し始めた。


▶ SYSTEM ALERT: BOUNDARY INTERFERENCE DETECTED

// システム警告:境界干渉を検出


▶ STATUS: COLLAPSE IN PROGRESS — REALITY_LAYER ↔ IRREAL_LAYER

// 状態:崩壊進行中 ― 現実層(リアルレイヤー)情報層(インフォレイヤー)の区画が不安定


“すでに起きていた”どころか、

いまも、さらに深く侵食されている。


▶ WARNING: ZONE STABILITY COMPROMISED

// 警告:ゾーン安定性の喪失


▶ SYSTEM WARNING: THREAT LEVEL E5-αβ — COMPOSITE INTERFERENCE TYPE

// システム警告:危険レベル E5-αβ ─ 複合干渉タイプ


▶ DETECTED: SAFE_LAYER INTEGRITY FAILURE / COORDINATE REVERSAL

// 検出:SAFE_LAYER破損/座標反転を確認


▶ STATUS: EMERGENCY RESPONSE PROTOCOL RECOMMENDED

// 状態:緊急対応プロトコルの発令を推奨


澪の呼吸が、かすかに止まる。


まるで、“観測員としての敗北”を突きつけられたかのようだった。

これが“開戦の合図”だと言わんばかりに鳴り響く警告音。


SAFE_LAYERはすでに破れ、空間座標が断続的に反転を始めていた。

風の向きが逆巻き、音が引き込まれ、視界は上下の認識すら曖昧になる。

まるで世界の“輪郭”そのものが、ぐしゃりと内側へ折り畳まれていくようだった。


そんな異常の只中で──


「……澪」


悠の声が、静かに届く。


そのまま彼は一歩だけ近づき、

ためらいもなく、澪の頭へと手を伸ばした。


ぐしゃり──と、容赦のない手つきで撫でまわす。

乱暴とも言える動作だが、そこにあるのは優しさだった。


澪は驚いたように小さく瞬きをし、次いで、視線を伏せた。

責める言葉も、茶化す台詞もなかった。


「……よくやった。お前の報告がなかったら、全員やられてた。ナイスだよ」


淡々とした口調だった。

けれど、そこには冗談めいた色は一切なかった。


悠はまっすぐに澪を見つめ、

静かに、けれど確かに──笑ってみせた。


驚いたように澪が見上げる。

その表情に、まだ強張りが残っていた。


悠はポケットを探り、小さなあめ玉をひとつ取り出す。

ピンクの包みに、くしゃっとシワが寄った。


「ご褒美だ。あめちゃん、どうぞ」


澪は小さく頷きかけるも、まだ揺れる瞳の奥に、迷いの色が残っていた。

その様子を見て、悠はふっと肩の力を抜くようにして言葉を紡ぐ。


「──お兄ちゃんたちに任せろ」


声色は冗談めいていたが、その目は真剣だった。


「お前は、お前のやるべきことをやれ。

状況を分析して、冷静に見ててくれ。……頼りにしてるからさ」


一瞬、澪の動きが止まる。

けれどそのあと、彼女は深く息を吸い込んで、ゆっくりと頷いた。


その声は優しく、それでいて確かだった。

情報が錯綜する中で、唯一、彼女を“現実”に繋ぎとめてくれる声。


──そして、澪の目がわずかに引き締まった。


「座標誤差、3.2m。構造層に揺れ」

「敵、非実体型。質量ゼロ。存在反応のみ──対応を優先」


澪の声が、先ほどまでの震えを一切含まず、澄んだ音で空間に響く。

眼差しはSIGシグ-Nodeノードの|情報(ノイズ)《ノイズ》に集中し、手元の操作は一分の隙もなかった。


彼女は“支援特化観測員”としての顔を取り戻していた。

加瀬 悠の言葉が、迷いを振り払っていたのだ。


ほんの一瞬だけ、空気に安堵が満ちる。

だが──それはあまりにも脆い均衡だった。


かすかに、空間がきしむ音。

耳の奥で何かが“裂ける”ような、嫌なノイズが走った。

それと同時に、足元の感覚が崩れ落ちる。


空間の“底”が、ずるりと蠢いた。

まるで、この都市そのものが意思を持ち、

この場に立つ四人を“奈落”へ引きずり込もうとしているかのように。


視界の端では、建物の輪郭が歪み、遠くの空が裏返った。

SAFE_LAYERはすでに破れ、境界はむき出しのまま揺れている。


視界の端で、都市が“裏返る”。

床が上へ、空が下へ──

まるで世界そのものが、自分たちを“正しく認識していない”。


敵の姿は見えない。

けれど確かに、何かがこちらを“視て”いる。


「……観測されてる」


結の声が落ち着いた響きを保ったまま、冷たく空気を断ち切った。


その直後、わずかな間を置いて──

神山が、まるで詩を読むように口を開いた。


「……此方ここの眼は、まだ届かないのに」

彼方かなたの瞳は、とうに此処を覗いている」


とばりの向こうで笑っているんですよ。まるで……幕が上がるのを、待ちわびている観客のように」


ひどく静かな声音だった。

感情の起伏は少ないはずなのに、

その言葉には、どこか悔しさにも似た色が滲む。


「ずるいですね。不公平でしょう」


宙を仰ぐように視線を逸らしながら、神山は小さく笑った。

その瞳の奥には、どこか諦念めいたものと──

それでも立ち向かおうとする気配が同居していた。


閉じられていた糸目が、ほんのわずかに開く。

その奥に覗いた光は、冗談や余裕とは無縁の、研ぎ澄まされた“現場の目”だった。


背筋に走るのは、微細な緊張。

それは、彼が本気を出す時の“印”だった。


神山は、ゆっくりと懐に手を差し入れた。

そして取り出したのは、どこか懐かしさを覚える旧型のパーソナル端末。


今や主流となった薄型のタッチ式SIGシグ-Nodeノードとは対照的に、

彼のそれはまるで旧世代の折りたたみ携帯電話のような形をしていた。

角ばった本体に、パチンと指で開閉するヒンジ構造。

ボタン一つ一つには刻印が施され、どこか時代を逆行するような佇まい。


けれど、どの面も丁寧に磨かれ、埃ひとつついていない。

それはまるで、長年使い続けた道具への敬意すら感じさせる、

儀式具のような“何か”だった。


「ログ照合……対象:記録No.83、“らざる視座しざ”。召喚を開始します──」


──神山のグリッチ・アビリティ「データ・セアンス」は、“召喚型”。

都市に沈殿する“未解決バグ”や“記録に残らぬ怪異噺”を、情報層(インフォレイヤー)から一時的に呼び出すというもの。


C.O.D.E.(コード)に所属するアビリティ保持者の多くは、

比較的「自己の身体能力や周囲への影響」に限定されたスキルを行使する。


しかし神山は──“外部の何か”をこの世界に引き込む。

しかもその“何か”は、都市の記録すら掠めることができなかった、原因不明のバグばかり。


それは、構造的な召喚ではない。

過去の都市災害記録、観測されなかった存在、住民たちのうわさ話──

そうした“曖昧な情報”に名前を与えることで、神山はそれを現実に顕現させるのだ。


その異能は、C.O.D.E.(コード)の中でも特異中の特異とされ、

制御の難しさから一時は「封印対象」にすら分類されていたという。


彼の指が空をなぞるように動き、指先に淡い光のコードが浮かぶ。


▶ ACCESS [RECORD_ID: K-87X-PERCH]

// 記録ID:K-87X-PERCH──視認不可能な干渉痕に関する未確定現象記録を参照


▶ VERIFY CATALOG_NAME: 《The Nameless Gaze》

// カタログ名照合:《識らざる視座》


▶ CLASS: UNVERIFIED PHENOMENON / TYPE: NON-PHYSICAL ENTITY

// 分類:未確認現象/種別:非物質的存在


▶ INITIATE SUMMON_PROTOCOL

// 召喚プロトコル、起動


▶ AUTHORIZATION: COMMAND_LEVEL_7 (KAMIYAMA_HARUHO)

// 認証:コマンドレベル7(神山 遥歩)


▶ PERMISSION: OVERRIDE-ALPHA / STATUS: GRANTED

// 許可:制限解除アルファ適用/ステータス:発動承認済


▶ MODE: SUMMON_FROM_RECORD

// モード:記録からの召喚


▶ ELEVATION: NULL_POINT (PHASE_LAYER: -3.7)

// 位相層:-3.7階層/ノールポイントにて顕現


▶ OBSERVER: DISABLED

// 観測装置:無効化(外部記録による干渉を遮断)


▶ EYE: CLOSED

// 視認回路:閉鎖中(視覚干渉を遮断)


▶ RECORDING: SUPPRESSED (INVOCATION UNLOGGED)

// 記録:抑制中(この召喚はログに残されない)


▶ SOURCE: FOLKLORE_NOISE / FORMAT: ORAL + SYMBOLIC TEXT

// 出典:伝承ノイズ/形式:口伝+象徴記述による


▶ SUMMON_CONDITION: TRUE_NAME FIXED

// 召喚条件:真名が確定していること(不完全な呼称では発動不可)


▶ BINDING_RITE: COMPLETE

// 拘束儀式:完了


▶ MANIFESTATION_TYPE: SHADOW_TRACE

// 顕現形式:影の痕跡(実体は発生せず、存在痕のみ残す)


▶ SIGNATURE: INVERTED / VANTABLACK REFLECTIVITY

// 反応特性:構造反転/完全吸光性(ベンタブラックレベルの黒)


▶ CAUTION: “DO NOT STARE BACK”

// 警告:「視返してはならない」


▶ INVOCATION: SUCCESSFUL / PRESENCE CONFIRMED

// 召喚成功/対象の存在が確認された


──《視られることなき眼差しが、あらゆる情報の上位に立つ》


一瞬、言葉に“噛み”かけたのを誰かが察した。

だが今回は、奇跡的に滑舌がもった。


世界が、一瞬だけ凍る。


次の瞬間──空中に“黒い円環”が浮かび上がった。

まるで誰かの眼窩を模したような、空洞の視座。

その中心は空虚でありながら、すべてを見通す“視えない眼”が潜んでいた。


黒環から滲むのは影──いや、未観測の記録。

現実でも幻想でもないものが、視点として定着する。


──情報層(インフォレイヤー)が震える。


《識らざる視座》は、“誰にも観測されていない視点”を召喚し、

その場所を“未観測地点”に変換することで、現実と非現実の干渉をぼかす。


──観測されなければ、現実は確定しない。

──確定しなければ、侵食は、成立しない。


「空間安定処理、六十秒は稼げます。今のうちに──結くん、判断を」


そう言って神山は、コードの嵐の中でなお穏やかに微笑んでいた。


時間を稼ぐための召喚。

《識らざる視座》は、“確定しない視点”によって境界を“未確定”へと戻した。


現実は揺らいでいる。

けれど、その揺らぎの中に、一瞬の静止が訪れていた。


その隙をどう活かすか──

それは、いまこの場に立つ彼らの判断に委ねられていた。


[ PHASE #−005 | PROLOG & EPILOG №2 / STATUS: EXIT → NEXT PHASE ]


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