《Prolog》と《Epilog》①
この物語はGlitch Noiseのプロローグとして執筆していましたが、あまりにも長くなってしまったため短編~中編として加筆、修正、設定の見直しなどを含め別の作品として投稿することにしました。
また、設定の変更に伴い本編も修正していきます。
[ PHASE #−001 / INIT | PROLOG AND EPILOG №1 ]
遠い記憶の向こうで──世界は、情報に飲まれた。
増えすぎた記録、重ねられすぎた定義。
通信ログも行動履歴も、誰の意識にも昇らないまま積み重なり、
やがて情報層は世界の裏打ち構造を圧迫し始めた。
空間は軋み、形は曖昧になり、存在の重さが世界の輪郭を滲ませていく。
そしてそのひずみは、
現実を内側から侵しながら、やがて“バグ”というかたちで表層にあふれ出した。
それは、歪んだ記録とねじれた構造のはざまに現れる“矛盾”だった。
存在したはずなのに記録されなかったもの。
確かに死んだはずなのに、誰にも観測されなかった“死”があった。
その断片だけが、この世界の隙間にノイズとなって残っている。
灯科市、零区──封鎖指定区域G-03。
人が暮らし、街として確かに機能していたその一帯──渚区は、
海沿いに高級マンションや邸宅が立ち並ぶ、都市でも屈指の景観を誇るエリアだった。
潮風とともに洗練された生活が流れていたその街は、
今や“地図から消された区”として、都市構造の最下層に封印されている。
アスファルトはひび割れ、めくれ上がり、すでに原型を留めていない。
その下には、まるで情報層がむき出しになったかのような、いくつものレイヤーが重なっているように見えた。
地平線は歪み、建物はもはや“建造物”と呼べるかどうかも怪しかった。
輪郭は歪み、骨組みの一部だけが浮遊するように残され、
黒く軋む残骸は、都市の構造を模したバグの亡霊のようだった。
まるで、都市そのものがこの場所を“忘れようとしている”かのように。
──零区
C.O.D.E.》の正式許可なく踏み込めるはずもない場所。
C.O.D.E.──情報災害や都市構造の異常に対応する専門機関。
観測、封鎖、修復に加え、必要に応じて戦術的介入も行う、
“Crisis Observation and Deconstruction Executors”(危機観測および構造解体実行部隊)の総称。
その場所に、C.O.D.E.の徽章を刻んだ腕章を身につけた者が立っていた。
秤屋 結──若くして観測班を率いる、C.O.D.E.所属の実働観測員。
身にまとうのは、深い藍を基調とした凰華女学院の制服。
伝統と規律を重んじる名門校にふさわしく、そのセーラー服は隙のない意匠で仕立てられていた。
胸元には二年生を示す橙色の三角タイが整然と結ばれ、
脚には現場対応を想定した特殊素材の黒いストッキングが装備されている。
髪は左右に分けてゆるく束ねられ、首元で整然とまとめられていた。
サイドから流れる毛束が頬をかすめ、几帳面な中にもどこか柔らかな印象を残している。
そして、黒い丸フレームの眼鏡がその端正な顔立ちを引き締めていた。
装飾の少ない実用本位のそれは、視力補正ではなく、彼女専用の情報端末──SIG-Nodeでもある。
左腕に巻かれた赤い帯にはC.O.D.E.の徽章が刻まれており、
微かに脈打つ光がノイズ粒子に呼応するように色調を揺らがせていた。
制服、髪型、眼鏡。どれも整然としていながら、無機質ではない。
そこには観測班を率いる者としての沈着と統率、
そして、ただの“学生”ではないという明確な気配が宿っていた。
周囲にただよう情報の揺らぎに、一瞬だけ視線を巡らせる。
そして結は、すぐ背後に控える少女へと短く指示を飛ばす。
「澪、周囲の情報干渉レベルを。
レイヤーの浮きと、可能なら座標ノイズも確認して」
「──了解ですっ」
即答とともに前へ出る少女──御影 澪は、
掌に収まるほどの情報端末──SIG-Nodeを指先で操作しながら、緩やかに視線を巡らせる。
起動と同時に淡いホロウィンドウが立ち上がり、座標ノイズと空間干渉のデータが淡く明滅する。
胸元には凰華女学院の一年生を示す青の三角タイが結ばれていた。
深みのある藍色は制服の藍と調和し、静かな気品を添えている。
髪は左右に捻りを加え、低い位置で対称にまとめられていた。
ゆるやかな毛流れが整えられ、端正でありながら、どこか“意図されたゆらぎ”を含んでいる。
色は、朝焼けのような淡い青から毛先にかけてわずかに赤が滲む。
自然では説明のつかないその色は──2年前、渚区を襲ったデフラグ・バーストの“痕跡”だった。
災害により、渚区の構造と記録がまるごと失われ、約二十五万人が存在ごと消失した。
その中で彼女は、ただ一人“構造”も“記録”も奇跡的に残っていた例とされている。
なぜ彼女だけが消失を免れたのかは不明。
だがその髪には、色素ではなく、情報層そのものによって“再定義された構造色”が刻まれていた。
澄んだ青と赤のグラデーション──それは都市が見た悪夢の名残、
忘れ去られた“観測不能区画”が、ひとりの少女の髪にだけ残した、かすかな記録だった。
短く整えられた前髪の奥には、淡く光を宿した瞳が覗いていた。
後ろで左右にねじりながらまとめられた髪型は、几帳面な性格をそのまま写したように整っている。
不安げに揺れるそのまなざしは、それでも──尊敬する先輩の命令を、確実にこなそうとする意志に満ちていた。
「空間のズレ、A区分──座標、数メートル単位でブレてます。
干渉タイプは……α。
……境界、曖昧になってきてる。現実と、それ以外の“境”が……」
澪はホロウィンドウを睨みながら、わずかに眉をひそめた。
そのすぐ後ろ──廃ビルの影から現れた気配に、
澪はわずかに肩をすくめ、振り返る。
何かが来ると察知したわけではなかった。
けれど、耳の奥に“空間のわずかな揺れ”が残響のように刺さり、無意識に背後を意識させたのだ。
息を呑む暇もなく、その影は歩み出る。
静かに、だが妙に馴れ馴れしい気配をまとって──
「……座標ズレに、境界干渉。
報告で聞いてた“空間ごと裏返るかも”ってやつ、笑い話じゃなかったみたいだな。
冗談抜きで、次の一歩で現実から落ちるかもな」
その声に、澪は小さく目を見開いた。
「……悠先輩……!」
加瀬 悠
ゆるく癖のある黒髪が風を含むように揺れ、前髪は目元をかすめていた。
無造作に見えながらも、どこか計算されたような均衡を保ち、柔らかな印象の中に凛とした鋭さが滲んでいる。
灰色の学生服を身にまとったその姿は、一見すればごく普通の高校生にしか見えなかった。
制服は、中央区に位置する【灯科中央高校】の指定制服。
けれど、その腰に下げられた二振りの短剣がすべてを語っていた。
日常に溶けきれない異物──
その静かな違和感が、彼という存在の輪郭を際立たせていた。
「やー、偶然だな。ほんと偶然。まさか二人がここにいるとは思わなかったわー……あはは……」
言葉を濁しながらも、視線だけはそっと澪たちの方を確認している。
「……で、あの……まあ、ついでってわけじゃないんだけど……その、支部長からの言付け、預かってまして……」
口元に貼りつけた愛想笑いは、どこか引きつっていた。
誰がどう見ても不自然なタイミング。言葉よりも沈黙が雄弁に、彼の“嘘”を語っていた。
結は何も言わず、ただ一度だけ瞬きをして──
小さくため息を吐く。
そのまま悠に向ける視線を、わずかに冷たく落とした。
「……悠。あなたには、待機を命じたはずですが?」
一語一語が丁寧に選ばれているぶんだけ、逆に冷たく響く。
押し殺した苛立ちと、落胆と、ほんのわずかな“心配”さえも──その温度が言葉に滲んでいた。
悠は頭を掻いた。
居心地の悪そうな動作だった。だが、足取りは迷いなく二人のもとへと近づいてくる。
まるで、“偶然”などという言葉が、最初から通用するはずもなかったことを──
本人だけがわかっていないふりをしていたかのように。
「……すまん。でも、気になって、つい」
その声音に、反省の色があったかどうかは定かではない。
だが、彼の口調には妙な馴れ馴れしさも、軽口でもない素の距離感があった。
「加瀬さん」ではなく、「悠」。
秤屋 結がそう呼び捨てにするのは、特別な親密さの証というより──
上司と部下という関係を越えて、互いを“同じ目線で見ている”証だった。
共に任務をこなし、何度も死線を越えてきた中で自然と築かれた、言葉にしがたい距離感。
それは“友人”と呼ぶにはどこか照れくさく、かといってただの同僚とも違う。
必要以上に踏み込まず、それでも無意識に背中を預けられるような、
曖昧で、それゆえに心地よい繋がりだった。
不意に、空間がひとつ“増えた”ような感覚があった。
誰も気づかないはずの背後に、いつの間にか“誰か”が立っていた。
「いやあ、怒らないであげてくださいな。若い子は、どうにも好奇心が先に立つ」
その声は、あまりにも自然に、背後から降ってきた。
気づけば、結たちの背後に一人の男が立っていた。
くしゃっとした白衣の裾を軽やかに翻し、長身痩躯のシルエットが風に揺れる。
一見すると穏やかな印象を与える細身の姿だが、
白衣の前をラフに開け、下に着たノースリーブのインナーが覗いている。
その布地の隙間からは、鍛え上げられた上腕と、腹部に走る無駄のない筋肉のラインがうっすらと浮かび上がっていた。
柔和な笑みを浮かべながらも、彼の身体は明らかに“戦うこと”を想定して鍛えられていた。
何より印象的だったのは、その細く閉じられた目──糸のような眼差しは、まるで常に笑っているかのようでありながら、不気味なほど中身が読めない。
神山 遥歩
C.O.D.E.灯科支部の支部長──穏やかで礼儀正しく、部下にも慕われる人格者。
“最も信用していいはずなのに、なぜか信用しきれない”という奇妙な矛盾を抱えた人物だった。
柔らかな笑み。落ち着いた物腰。丁寧な口調。
だが、誰もがどこかで感じている。
その細い目が、もし開いたら──
その瞬間、何か決定的な“裏”が露呈するのではないかと。
まるで信頼を装った不信の塊。
誰よりも味方の顔をして、誰よりも本心を掴ませない男。
──世の中、見た目が九割。
そう言われれば、彼の糸目はまさに“裏切り者の顔”だった。
本人もそのことを自覚しているらしく、よく自虐混じりに冗談を言っては結に流されている。
「……神山支部長。あなたまで……」
「ふふ、偶然ですよ。ちょっと零区に興味がありましてね。
それに、悠君は“ここを見たことがない”って言ってたでしょう?
ならば、一度くらい見せてあげてもいいんじゃないかと思いまして」
相変わらずの調子だった。場の空気をまるで意に介さない飄々とした態度。
だが、その言葉の節々には、微かに──“何かを見越している”ような含みがあった。
結はその言葉に返さず、ただ静かに視線を向けた。
支部長の言動が軽く聞こえるときほど、警戒すべきなのを、彼女はよく知っている。
「さて、と──」
小さく呟くと、神山は手にした端末を軽く掲げ、くるりと踵を返す。
その背はまるで、散歩にでも出かけるかのような軽やかさで──けれど、言葉には不思議と“強制力”が滲んでいた。
「調査、続けましょうか。
前衛に一人、後衛にサポート役がいて、火力がもう一人──そして私が加われば、ちょうどライトパーティが完成です。
四人編成、役割分担、心強いじゃないですか?」
何かの合図のように、空気のどこかで金属が擦れ合うような澄んだ音が一瞬だけ走った──そんな気がした。
けれど、誰のSIG-Nodeも反応していない。
実際には、音などどこにもなかったのだろう。
神山は、気にも留める様子もなく、そのまま飄々と歩き出していく。
まるで最初から、何も聞こえなかったかのように。
どこか気の抜けた足取りなのに、不思議と迷いがなかった。
ただの気まぐれか、それとも──何かを“感じ取っていた”のか。
その背中は、読み切れないまま遠ざかっていく。
[ PHASE #−002 / INIT | PROLOG AND EPILOG №1 ]
「……しっかし、結構歩いたなあ……」
悠がぼやくように口を開く。
だがその声には疲労の色はなく、むしろ場の緊張をほぐすような軽口だった。
「仕方ないですよ」
澪が肩越しに振り返りながら、淡く笑う。
「零区内では、車両はバグの影響で制御エラーを起こしやすいんです。
専用に構造調整された車両なら進行も可能なんですけど──」
澪は少し肩をすくめた。
「……あいにく、今回は空きがなくて。歩きでの調査になってしまいました」
──秤屋 結は、眼鏡型のSIG-Nodeのフレームに右手を添え、左手の指先で静かにスワイプする。
レンズ越しに流れるログに視線を落としながら、静かに口を開いた。
「そもそも、“優先されなかった”んです」
抑揚の少ない声音。
だがその言葉の端々には、ごくわずかに皮肉めいた響きが混じっていた。
「高純度のグリッチ・マテリアルを使用した構造調整型車両は、都市の安定化作業に割り振られています。
それに……今回の調査、本部の評価では“低レベル観測”扱い。
歩いて調査できる程度の内容なら、特別な支援は不要という判断のようですね」
その瞳には、怒りも苛立ちもなかった。ただ、静かに“事実”だけを並べる観測員の顔だった。
その言葉を聞いた瞬間、悠がちらりと神山を睨む。
あからさまに不満げな視線。だが神山は、いつもの飄々とした笑みを崩さない。
「……なあ支部長。うちのチーム、毎回現場でちゃんと結果出してんだぜ?
そういうの、“ひいき”ってやつがあってもいいんじゃねーの?」
軽口のように聞こえるが、声の奥には皮肉めいた本気が滲んでいた。
「いやあ……特定のチームをひいきしてしまうと、後が怖いですからねえ。
──特に“神様たち”が見てますから」
その声音は柔らかく、冗談めいていた。
けれどそこに込められた名前──“神様たち”──が意味するものは、誰もが知っている。
C.O.D.E.本部の上層に存在する、絶対的な意思決定機関。
現場の判断をも覆す“最高権限者”たち。
軽い言い回しの奥に潜む現実に、空気がわずかに静まった。
……ふと、神山の視線がわずかに澪へと向けられた。
彼女の髪先に滲む、あの日の色。
二年前、零区の構造崩壊を“生き残った”というより、“取り残された”少女。
情報層の深部に触れた経験は、誰よりもこの空間に敏感である証でもあり、
同時に、再び引きずられる危うさを孕んでいる。
神山は何も言わなかった。ただ一瞬、その目が細く笑ったまま、どこか深い場所で何かを量るように澪を見つめて──
わずかに足を止め、ゆっくりと振り返り声をかける。
「澪さん、感知負荷が高くなってきたら遠慮なく言ってくださいね。
……あなたの探知精度は優秀です。だからこそ、深く触れすぎてしまうこともある」
神山の声は柔らかく、けれどどこか“過去を知っている者”の重みが滲んでいた。
「この場所を知ってる人は、特に影響を受けやすいですから──特に、あなたのように」
澪はわずかに目を細め、口元に小さな笑みを浮かべる。
「大丈夫です。……知ってるって言っても、記録の中だけですし」
一拍おいて、視線を前に向けたまま言葉を重ねた。
「それに……ちゃんと見ておきたいんです。
この場所が、本当はどんな場所だったのかってこと──自分の目で、ちゃんと」
澪の言葉を受けて、神山はわずかに目を細めた。
その表情はいつもの柔らかな笑みに変わりはなかったが──
沈黙の中に、ごく一瞬だけ、何かを評価するような光が潜んだ。
やがて彼は小さく頷くと、何事もなかったかのように踵を返す。
「本当につらくなったら、言ってくださいね。
このあたりなら、安置領域を形成して少し休憩も取れます」
澪が小さく頷くより先に──
「お兄ちゃんがおんぶしてやろうか〜?」
悠が軽い調子で割って入り、わざとらしく肩をすくめてみせた。
「……いりません」
澪は顔を向けず、表情も変えずに即答したが、
その声の端には、ほんのわずかに笑みが混じっていた。
一行がいた場所から、わずか数百メートルほど──
けれど、風景はまるで別世界のようだった。
空間の浸食度はさらに深まり、あたりの空気はざらつくような情報ノイズを孕んでいた。
黒く凍りついた波のような地形。
まるで時間ごと凍結されたかのように、うねりがそのまま結晶化している。
その奥、地面に突き立つのは、どこから現れたのかも分からない巨大な“仏像の手”の残骸。
指先だけで人ひとり分ほどもあるその断片は、崩れかけた彫刻のようでいて──
表面には絶えずノイズの走る歪みが波打っていた。
光の加減で一瞬ごとに形を変え、溶け、また再構成される破片たち。
仏像の一部だったのか、それとも最初から仏像ではなかったのか──もはや判断もできない。
……だが、ここ零区では、それが“普通”だった。
何がどこから現れ、何が何でなくなるのか。
その境界線は、とうの昔に曖昧になっている。
悠が立ち止まり、周囲に視線を巡らせながら言った。
「報告があったのは……このあたりか?」
澪は小さく頷くと、手元のSIG-Nodeから展開されるホロウィンドウを確認しながら静かに答える。
「はい。観測ログによれば、異常波形が最後に記録されたのはこの周辺です」
視線を上げ、風景を一巡するように見渡す。
「地形自体が少しずつ変動しているみたいで……正確な座標までは断定できませんけど、
ここが報告の“中心域”である可能性は高いです」
結はわずかに膝を折り、左手を静かに地面へと伸ばした。
荒れた舗装の表面に触れた指先が、ひび割れた情報の皮膜をなぞる。
眼鏡の奥、レンズに浮かぶUIを素早く確認しながら、
右手で操作する動きは無駄がない。
──微細な歪み。境界層のノイズ、反応レベル不安定。
短く状況を判断すると、立ち上がるより早く澪へ視線を向け、
ためらいのない声で言った。
「澪。再定義お願いします」
再定義──正式には、「事象の再定義」。
それは、観測された現象を一度“解釈から切り離し”、
異なる論理枠に置き直すことで、対象の干渉構造に対する“意味”そのものを上書きする処理。
たとえば、ノイズに侵食された地形や空間歪みといった“定義不明の現象”を、
「物質としての構造変化」あるいは「情報圧縮による密度異常」として再構築することで──
それは“異常”ではなく、“管理可能な事象”へと変わる。
不安定な空間を制御下に置くために、C.O.D.E.が用いる最前線の処理手段。
それが、“事象の再定義”だった。
結の指示が終わるより早く、澪はわずかに頷いて言葉を返した。
「再定義、了解しました」
そのまま指先でSIG-Nodeを操作し、空間に展開されるホロウィンドウに一瞥をくれる。
淡く光るSIG-Nodeの縁が脈動し、制御系の接続が順に成立していく。
▶ EXECUTE: Audio Recompile
// 実行:オーディオ・リコンパイル
▶ CONDUCTOR_MODE: TRUE
// 指揮モード:有効
▶ SIGNATURE_TRACE: INIT
// 音響痕跡:追跡開始
コマンドの実行と同時に、澪の足元を中心に空気がわずかに震える。
ノイズ粒子が密度を帯び、視界の中に浮かぶように、コードの断片が連なり始めた。
音もなく、ひとつ、またひとつ。
半透明の文字列が空間に浮かび、旋律のように配列されていく。
それはまるで、存在しない楽譜をなぞるように、澪の周囲に編み込まれていく情報の詠唱。
やがてコードは澪の指先の動きに呼応するように脈動し、
空間そのものが「演奏されている」かのように、静かに変調を始めた。
▶ STROKE_01: tempo = largo / frequency_resonance = -12.3
// ストローク①:テンポ=ラルゴ(緩やか)/周波共鳴値 = -12.3
▶ STROKE_02: wave_reflect = align(ambient_channel, noise_layer)
// ストローク②:波形反射=環境チャンネルとノイズ層を整合
▶ STROKE_03: resolution = crescendo(phantom_spectrum)
// ストローク③:解像度=幻響スペクトラムのクレッシェンド(徐増)
▶ STAGE: info_layer[∴] = deconstruct → reconstruct
// ステージ:情報層[∴]=解体 → 再構成
澪は、すっと息を整えると、ほとんど無意識のように呟いた。
▶ STATUS: ORCHESTRATION BEGIN
// 状態:指揮開始
「グリッチ・アビリティ展開します」
その瞬間、彼女の周囲に幾重ものホログラムが自動展開された。
情報コードの構文が幾何学的な軌跡を描きながら空中を漂い、
まるで呪文の詠唱のように、静かに、しかし確実に空間へと干渉していく。
同時に──澪の左右の瞳が、淡く発光を帯びた。
左目は、夜明け前の空のような薄い青。
右目は、沈みきらぬ夕焼けを思わせるやわらかな赤。
それは彼女の髪と同じ、“都市が見た悪夢の色”。
澪自身が情報層と共鳴し、空間の定義そのものにアクセスを開始したことを示していた。
──グリッチ・アビリティ。
空間に広がるホログラムが脈動を始め、
その中心に立つ彼女の姿は、どこか現実の輪郭から浮いて見える。
情報層に干渉することで得られる異能の総称。
通常、都市はSAFE-LAYERと呼ばれる防御機構によって情報層から漏れ出すバグの影響を物理空間に及ばせないよう抑制・遮断されている。
だが、ごく一部の者は、“情報層”へと接続する術を持ち、
その中から力──“定義を上書きする力”を引き出すことができた。
澪はその数少ないひとりだった。
あの日、都市の崩壊とともに“記録の縁”に取り残された者。
指で空間をなぞるように、澪は静かに右手を振るう。
その指先から──彼女にだけ反応するように、微細なノイズ粒子が淡い光を帯びて浮かび上がる。
粒子は細い光の尾となって澪の動きをなぞるように流れ、
空間にゆるやかな軌跡を描いていく。
それはまるで、見えない旋律に色と輪郭が与えられたような、情報層の残響だった。
ホログラムとコードが舞う静謐な空間の中、
神山はほんの少し目を細め、澪のグリッチ・アビリティの発動をじっと見つめていた。
「優雅ですね……まるでオーケストラの指揮でも見ているようだ」
そう呟きながら、空の中に“カップを持っているかのような仕草”で両手を添え、口元に運ぶ。
実際に何かを飲むわけではない。ただ、飄々とした表情で肩をすくめると、続けた。
「できれば、紅茶でも飲みながら眺めていたいところです」
その言葉に、結が静かに目を上げる。
コードと光の交錯する澪の姿に、わずかに見とれるような気配を見せた。
一方で──
「俺はそういうの、よくわかんねえんだよな」
悠は軽く肩をすくめ、制服のポケットに手を突っ込む。
取り出したのは、光沢のあるピンク色の包装紙に包まれた小さな飴玉だった。
包みをくしゃりと開いて、無造作に口へ放り込む。
その小さな音が、空間の静けさに溶けていった。
「範囲は半径およそ三十メートル、バグ密度は安定しています。
ただ……感知領域の縁が、少しだけ滲んでいて──境界が、あいまいに。」
澪は眉をひそめながら、空間を指先でなぞる。
指先が示す座標には、うっすらと波打つノイズが刻まれていた。
澪は右手で空間をなぞるように動かしながら、
左手に携えたSIG-Nodeから展開されるホロウィンドウに視線を落とした。
そして、淡々とした口調で言う。
「もう少し、探索精度を上げます。
……境界の揺れが細かくなってきているので、広域パターンで再スキャンします」
▶ EXTENDED_ANALYSIS_MODE: ENABLED
// 拡張解析モード:起動
▶ TRACE_SCOPE: AREA_RADIUS = {30m–60m} / DEPTH_LAYER = +4.2
// 探索範囲:半径30mから60mに変更 /音層深度 +4.2
▶ STROKE_04: harmonic_trace = isolate(signal_from_noise)
// ストローク④:信号成分の抽出と雑音の分離処理
▶ STROKE_05: phase_alignment = adjust(decode_echo, ∆delay < 0.02s)
// ストローク⑤:残響差分解析によるエコーの位相整合
▶ STROKE_06: node_rescan = multi-angle / bias_correction = TRUE
// ストローク⑥:多角度からの再スキャン+偏差補正処理
▶ SYSTEM SUPPORT: SIG-NODE(AUDIO) = SYNC
// 補助機構:音響ノードと同期
▶ CALIBRATION: RESOLUTION += 0.021 / FREQ_ERROR <= 0.6%
// 補正:解像度 +0.021向上/周波数誤差 0.6%以下に抑制
▶ STAGE: info_layer[∴] = REWRITE: SCAN_FIELD
// ステージ:情報層[∴]にスキャンフィールドを上書き展開
▶ STATUS: TRACE ENHANCED / RESOLUTION MAXIMIZED
// 状態:痕跡追跡強化/解像度 最大化
コードの最終行が追加された瞬間、
澪の周囲に展開されていたホログラムに変化が現れた。
すでに浮かび上がっていた情報構文群の上に、
さらに別のコード列が上書きではなく、まるで“重なり合うように”現れる。
幾何学的な図形と文字が、異なる色調と発光リズムで交錯しながら、
二重の構造で空間に展開されていく。
[ PHASE #−002 | PROLOG&EPILOG / STATUS: EXIT → NEXT PHASE ]