3.結婚
友人からの手紙は、こうだった。
「親愛なる エレンへ
花がつぼみを広げ、いよいよ私たちに笑いかけています。けれど困ったことに、花の精たちはすでに王都じゅうに魅惑の粉を振り撒いているというのに、もしかすると私のご友人もその魅惑の中に閉じ込められているのかもしれません。
――というのは、彼女流の時候の言葉で、重要なのは次からだった。
おおかたの状況は知っています。名前を言うのも憚られるあのお方が愚行にも婚約の破棄を申し出たこと、それからすぐにあのいけすかないメアリアン嬢と結婚の約束をしたこと――もしかするとこれはずっと前から計画されていたのかもしれないけれど――これらのことを考えると、ああほんとうにどうしましょう! ルスベリー邸が今にも忘我の炎に包まれてしまいそうなのです。ですから……」
かくかくじかじか、とにかく新しいうわさを聞いたのでその真偽を確かめさせてほしい――まったく友人は正直者だとエレノアは頬の内側で微笑する。
レースのカーテン越しに、やわらから陽射しが射し込んでいた。朝食を終えて使用人たちが持ってきた手紙を読みふけるのにぴったりな時間だ。慌ただしく王宮へ出かけていく父セオドアをのぞき、談話室にはいま兄と妹が揃っている。
見かけ上はご立派に見えるよう新聞を広げるフレデリックには慣れたもので、エレノアは友人から届いた手紙へと和やかな気持ちで目を通していた。
「ラダマスの政変がようやく終わったらしい」
新聞を読んでいたフレデリックが声を上げたため、手紙を再度読み直そうとしていたエレノアはその手を止めて顔をあげた。
足を組み大仰なしぐさをしていたが、それらしいポーズであるだけではなかったらしい。一家の女主人である母はあれこれ使用人へ返辞の指示を出しているし、おそらく自分に向けて発されただろう言葉を受けてエレノアは相づちを打った。
「長いこと争っていたが、これでようやく北側は落ち着くか」
フレデリックは続ける。
「次の大公はアルパ=デルメ朝最後の大公アレグザンドル三世のはとこにあたる人物らしく、すでに臣籍降下して久しく皇族からは外れていたが、長いこと国境軍を指揮していたらしい、父子揃ってラダマスの軍神として名高いお人だ」
ノーゼリアの隣、リエフと西の帝国に挟まれた小国、セリフィスの向こうにラダマス公国はある。北は北海、南はラダマス山脈に囲まれ、一年を通して寒冷な日が続き、冬には一面を大量の雪が覆う。その厳しい環境から「死の国」と呼ばれ、一度足を踏み入れたが最後、俗世へは戻って来れないと言われている。
過酷な環境ゆえ国民の気性が荒く、これまで何度も戦争と内乱を起こし、内陸の国々からは蛮族と忌避されてきた。此度も前大公であるルイ=フェリペ派ともいえる穏健派と国境軍を率いる変革派が国をめぐって争っていた。
「将軍でもあるシャルル=ヴァンサン新大公は、苛烈だというおうわさがあるけれど」
「まあそれはそうだろう。唯一の国境で長年小競り合いを続けてきた当人であれば、ペンよりも剣を握るほうが秀でていてしかるべきだ。しかし、国民にとってはこれまで重税を課し甘い蜜を吸うだけ吸ってきた穏健派よりかは、人気があるみたいだ」
国を越えた先では、現在も争いが続くところがある。大陸での土地の奪い合いは領土戦争以降下火になったが、あたたかなベッドで眠り、明るい陽光のなか朝食にありつくという至極簡単なことでさえもままならない国があるのが現実だ。
兄に言わせればさぞ皮肉で無情たる世界だ。人間は、剣を握らずに生きていくことはできないのか。
「セリフィスの動きはいかがなの、お兄さま?」
「ふむ、ここには詳しいことは載っていないが、当然歓迎はしていないだろうね」
エレノアが目の前のささいなことに喜怒哀楽しているうちに、世の中の物事は移り変わる。こうして兄に世界情勢を語ってもらう瞬間にも、戦火が鎮まる場所があれば反対にどこかへ広がろうとしているかもしれない。
「もともと前大公妃はセリフィスにゆかりのある人間であったし、前大公自身も親セリフィス派だった。そのおかげでここ二十年近くは南側との摩擦が少なかったともいえるが、果たしてこれからはどうなることか」
クラブで仕入れてきた情報か、フレデリックは珍しく神妙に言葉を繋ぐ。
「かつて海を欲しがった豊穣の国セリフィス、中世以降完全な独立を果たしたが『死の国』と呼ばれ続けるラダマス。アルフレッド新大公が領土拡大の野望を抱いているか、それにより大陸の未来が変わるだろうな」
重厚な鎧を着込み、曲刀を手に馬で駆ける騎士。ラダマスの騎士たちは険しい山岳地帯を馬で遊ぶように駆けるという。大砲や銃などといった新時代の武器を駆使しても、彼らを完全に追い払うことはできない。いつか近い未来セリフィスは北の紛争地を公国へ割譲させられるかもしれない。
あくびを拵えた兄の優しい亜麻色の髪をながめながらエレノアはそんなことを思った。
ミュリルーズ子爵ウィリアム・エーレ・ミュリルーズとの婚姻は、ノーゼリア国教会から発行される結婚に際する特別許可証をもって結ばれることとなった。
婚姻法上、教区の教会にて結婚予告を公表し数週間の説教ののち婚姻を認められるか、女神の御許に婚姻の誓いを立て誓願書を届け出るというのが一般的な「結婚」であったが、エレノアとウィリアムの場合、結婚予告も結婚式も待たずに許可証の手配が整い次第、正式に夫婦となる。
多くの貴族たちが羨望し熱望するように、王室と国教会の法的な許可を得て結婚するというのだ。莫大な費用を要するが、場所・時間に如何することなく結婚することができるために、両家はこの形式を選んだ。
ひと月にも及ぶ結婚予告も、結婚式も、待てない。
ただ、正式に夫婦になるとはいえ、手続き的にはノーゼリア国内に限る事案のため、リエフからの許可証も手配し領事館を通じて国議会へ届出をする。おそらくノーゼリアでの許可証発行の方が早いだろうと見越しての算段だが、場合によってはもちろん逆になる可能性もあるだろう。諸般の事情により手続きを急くことになったが、リエフへ渡ってから結婚式と披露宴を予定していた。
現在は婚約者として、リエフでの行儀作法を徹底して学ぶ傍ら、ウィリアムとの親交を深めている。
大人になって、親族以外の異性と仲を深めるというのはなんだか不思議な心地だった。たいていの令嬢たちはむしろこの場合が多いのだが、ゆりかごから婚約していたエレノアにとって婚約者というのはすでに家族みたいなもので、彼女にとってのアドリアンが特別だったことには違いないが、なにか訊ねなくとも相手の望んでいること欲していることがわかるのがふつうだった。横顔を見つめていればなにを考えているのかだいたいわかったし、好きなものも苦手なものもそのほとんどを知っていた。
だから、エレノアは心のどこかで困惑してもいた。家族以外の男性と、心を通わせていくことの、難しさ。エレノアにとってウィリアムは突じょ現れた婚約の相手で、好みや嗜好も知らず、彼がなにを望むのかもわからない。他人というには近すぎて、しかし家族というにも遠すぎる。ウィリアムと過ごす時間が苦痛なわけでは当然ないが、彼がなにを言い出すのかなにをしだすのか、エレノアにどうしてほしいのか、わからないのが不安でたまらなかった。
嫌われているということはないと思う。齢が離れているからといって、疎まれているわけでもない。そうであれば他国の伯爵家からの打診をそもそも受けるはずがないし、特別許可証をもって確実にかつ早急に結ばれようとする必要もない。
(わかっているわ)
昏い気持ちに覆われそうになったとき、エレノアはいつもそう自分を言い聞かせた。
もう、あんなことは起こらない。このひとは真摯で、ぶっきらぼうだけれどやさしいひとだ。
けれど懸命に湧き上がる不安や疑問を打ち消したところで、ウィリアムを前にするとエレノアは不安でたまらなくなった。
「来週の舞踏会ですが、先日合わせた衣装で問題ありませんか」
この日もウィリアムが午後の訪問にやってきて、客間であれこれ他愛のないことを話していた。ノーゼリアのこと、リエフのこと、婚約者同士としては色気がないが、互いを知るには誠実で確かな話題であった。紋切り型の話題が終わると、話はしぜんと次に参加する夜会のことになった。
婚約して初めての公式の夜会だ。降臨祭の二日目に開かれるそれは王家の指南役を務めるピッツヴェルド侯爵家が主催するもので、侯爵夫人とは母を通して旧知の仲である。いつもならば緊張することもないのだが、パートナーが変わって初めての公式の場ともあってどこか億劫になってしまう気持ちがあった。
気取られてはいけないと思うもウィリアムの問いにやや身体を強張らせながらうなずくと、彼は侍従に合図をしてなにやら一枚のレースを持って来させた。
「こちらのレースをグローヴに仕立てさせます。釦は北海で採れた珍しい二枚貝の貝釦で、ところどころ小さな真珠を縫いつけましょう」
繊細で美しく、その模様はこれまで見たこともない緻密なレースだった。恋人へのプレゼントとしてはこれほど上等で洗練されたものはなく、エレノアは憂いを忘れてうっとりと嘆息を洩らした。
「軽くて、柔らかいですわ」
「昨年採れた綿の中でも、より長い繊維で柔らかく軽いものを紡ぎました。こうして、貴女の肌にあてるとうっすら桜桃色に色づき、またとない色を見せてくれます」
羽根のような軽さで、さわり心地もなんとも言えない。けれども、なにより驚いたのは、ウィリアムがエレノアのグローブの釦をひとつふたつ外すと、そのレースを直接肌に当てたからだった。
ミリィもウィリアムの侍従も、身じろぎすることなく背後に控えている。
大きく肩を揺らしたエレノアに、薄く唇を開いた彼女に、ウィリアムは表情ひとつ変えずにレースの上から彼女の肌を撫でた。
「イヤリングとネックレスは、リエフの天青石を、間に合えば両の手につける指輪も用意いたします」
その口調はあくまで目録を揃えるような淡々としたものだった。商人たちのほうがもっと熱を込めて告げるだろうとエレノアは思った。
しかしウィリアムの低く落ち着いた声は、なによりも甘く情熱的に聞こえてならなかった。