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2.ウィリアム・エーレ・ミュリルーズという男

 ノーゼリアの南、緩やかな丘陵地帯を抜け山岳地帯を越えた先にリエフという国がある。


 北はレイヴェン山岳から東のディヴァンヴァルドの大森林まで、山と森が連なる形で自然の要塞を築き、西南部には大陸最大の軍港都市であるヴェストを擁する荒ぶる女神の海と言われたグラン=ティタス海が広がっている。


 領土戦争時代には難攻不落とも言われ、数々の戦いで勝利を手にした国境線をもつ国と言われていた。あれから百余年。多くの血によって赤く染まった大地も、今では草花が芽生えている。険しいレイヴェンヴェルグの山岳地を越えれば、広がるのは途方もない穀物地帯だ。収穫期には一面が金色に染まり、風吹けばどこからか麦浪が寄せては返す。そうして金の海原を眺めているうちに、北東部「ミュリルーズ」にたどり着く。


 海に囲まれた影響から北向きの風が吹きやすく一年中を通して冷涼な西岸部や、ときに酷い大雨によって川が氾濫を起こす南部にくらべ、内地に位置するミュリルーズは穏やかな気候とほどよい降雨量に恵まれている。北部に穀倉地帯があることからもそれは計り知ることができるだろう。気温と日照量と、そして降水量、どれをとっても、農作物にとってまたとない地であった。


 レイヴェンヴェルグ同様、代々領地で栽培していた小麦に加え、戦後の需要により始めた綿栽培もその優れた環境によって今では国内随一の生産量を誇っている。さらには時代が追い風となったといっても過言ではないが、リエフで興った神話時代主義のあおりを受け、絹のドレスから綿のドレスへ人々の関心が移り変わったことでミュリルーズの産業は大躍進を迎えた。だれもが軽くて柔らかいミュリルーズ産の綿紗を手に入れたがり、近年ではその余波は国内にとどまらなかった。


 ミュリルーズはいまや単なる綿花の産地ではない。広大な畑で収穫された綿花は蒸気機関の備わった工場へ運ばれ、日夜、綿糸やその他の製品へと生まれ変わる。かつては東大陸の独断場であった紡績、綿布といった綿織物工業も、新たにミュリルーズで花開いた。


 二十年ほど前まで、国内外問わずほとんどの人が話題にすることもなかった田舎の土地を、これほどまで有名にしたのは一人の男の活躍がある。


 治水や整地など土地の改革から始め、技術革新の風に吹かれてからは土地の一角に新技術である蒸気機関の揃った工場地帯を設け、販売ならびに貿易を担う会社を立ち上げた。



 ミュリルーズ子爵――ウィリアム・エーレ・ミュリルーズ、御齢三十歳。


 額の上でカールしたブルネットの髪、ナイフで削いだような秀でた鼻梁、深い眼窩の奥に冴え冴えと光る青白色の瞳は、リエフの田舎領主にしては尊大で高貴な印象をたたえていた。有り余る上背と逞しい体つきもあってか、人びとは彼がどこかの国で聯隊に所属していただとかやんごとない身分の方の用心棒をしていただとか、あることないこと勝手なことをうわさした。というのも、この現子爵が先代子爵の実の息子ではないのを多くの人間が知っていたからで、どこかからやってきて、いつのまに先代子爵と昵懇となり、養子として家に迎え入れられた彼の出生を好き勝手言うのは人々の暇つぶしの一つだった。


 先代子爵を騙し、この若者は地所も爵位も奪い取ったのではないか。豊かな土地を妬んだ他の貴族の差し金か、利を絡げとろうと国から差し向けられた役人ではないか。いまに税金が高くなるぞ。


 幸運にも国内で技術革命が起こり、その革命の担い手として工場を数多擁しその手で会社を立ち上げてからはそうしたうわさは減ったが、それでも地所外の人間、とくに昔からの貴族たちは懲りずに若き子爵について陰であれこれ言い合った。家令や側近を通して事業をするでなく、子爵みずから取締役につきあちこち出向いて商いをするのだから、四代前に国王から直接賜ったご自慢の爵位もついに手垢がつくのか、と。


 実際にはそのどれもが外れ、若き子爵は着々と事業を成功させさらに富を生み出していった。




 ノーゼリアは王都、フェリシティア。ベルウォルズ伯爵家のタウンハウスから帰宅し、ウィリアムは書斎の寝椅子に腰かけながら一輪の押し花を眺めていた。


 リエフからやってきてすぐに手に入れた邸は、王都の貴族街から外れた場所にある。商売で財を成した資産家や投資家たちが多く住む界隈で、昼も夜もひっきりなしに馬車が往来を駆けるが、めぼしい邸宅からは少し離れているためミュリルーズ子爵邸はひっそりと緑に包まれているのだった。


 その近隣で最も豪奢な家構えに比べたらさほど広くはないが、暮らすには十分と言える大きさだろう。向こうから連れてきた使用人が十名とこちらで雇ったのが数名ほど。今夜はすでに侍従も下がり、邸の中は静まりかえっていた。


 大きな窓を背に設えられた執務机、壁面を飾るように並べられた書架。広々とした室内で、ウィリアムの座る寝椅子は隅にひっそりと置かれている。脇に置かれたロウソクの火がなければ、とっぷりと闇に飲み込まれていただろう。


 執務が終わるやいなや、寝室に戻ることもなくこのソファーで夜を明かしていた。習慣とは恐ろしいもので、リエフにいたころから彼の寝床は書斎の片隅であった。この日も、彼の高貴で優雅な顔つきからは想像できないようなだらけた態勢で、寝椅子のひじ掛けに足を放り出して一枚の紙を眺めていた。


 手漉きの分厚く目の粗い紙で、そこに押しつけられた白色の花は可憐だが凛と天を向くように咲いていた。花びらの形が瞬くの光のように、幾重にも重なっている。リエフには咲かず、大陸のどこを探してもきっとノーゼリアにしか見つけることはできない。かなりの年月を経ているからか、紙は端がほつれ花びらやがくのところどころも傷んでいる。そっと触れたとしても、ポロポロと剝がれてしまいそうだ。


 ゆらゆらと、薄だいだいの光が花の上で揺らいでいる。ロウソクのともし火の向こうに、古く、遠い記憶がちらつく。


 感傷に浸るために、寝室にもいかず寝椅子に寝ころぶわけではない。爵位を受け継ぎ事業を起こしてから、寝る時間すら惜しまず働かなくてはならなかった。目の前に広がる時間は有限のようで有限ではなく、ウィリアムにとってはひたすら鳴り続ける秒針の音が所かまわず彼の耳元でその存在を主張し続ける、それだけのものでしかなかった。


 寝台の上でそんなものを聞き続けなくてはならないならば、喜んで睡眠というものを差し出そうと、いつしか彼の寝床自体が東の大陸から取り寄せられた猫足の寝椅子に変わってしまった。


 男一人が寝るには窮屈な大きさで、上体を起こして脚を載せても先がはみ出てしまう。綿を満杯に詰めたクッションをいくつか使用しちょうどいい塩梅の背もたれを作り、首を丸めるようにして目を閉じるのだ。夜着に着替えることもないから、侍従に苦言を呈されることも一度や二度のことではなかった。


 寝ている間にも思い詰めるように、腕を組んで固く唇を引き結んでいた。


 用意された蒸留酒にも、さほど手は伸びない。


 ただいつもならば早々に火を消すのを、今日ばかりは名残惜しむかのように橙の光を見つめていた。


 取るに足らないはずの感情だったはずだ。抱えきれない感情など、零れ落ちては救い上げられないものなど、自分には必要ないと押しとどめて消し去ったはずだった。


 すべては過去だったが、なんの因果か今になって手の中に戻ってきてしまった。正確に言えば、ずっと手の中にあったのだ。けれど見て見ぬふりをして、素知らぬ顔で生きていくつもりであった。



 ――そっか、羊毛より柔らかいのですね



 小さくほころぶ、その微笑は美しかった。


 かつての少女は大人になり、美しく聡明に育った。幼い時分の無垢な笑みは淑女の顔の奥へと隠されたが、それでもその瞳や頬に浮かぶ微笑は、彼女のものに違いなかった。


 おそらく、彼女は憶えていないのだろう。


 それもそうだ。自分だって、二度と会うことがないだろうと思っていたのだから。世界のどこかで、自分たちは別々に生きていくのだと頭で理解していた。


 だというのに、



(この手でつかんでしまったのだ)



 彼女の手を、そして人生を。


 湧き上がる感情を、どう説明すべきか。


 今でもウィリアムは、かつて自分を救った少女の涙を、そして笑みを鮮明に思い出すことができる。


 ウィリアムは大きく息を吸い込み、たまらずに目を閉じた。


 小さな、ウィリアムの太陽。


 ――そんな彼女と、結婚する。

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