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1-5

 たいていはここで紳士たちは紳士たちの話に興じるのが、一般的な流れだった。


 男性たちが好むのは政治の話のほかに世界情勢や領地経営のこと、主にそうした仕事の話や女性が好まない女性の話などで、夜会や茶会でもすぐに男女別の部屋に籠ってカードや酒やら嗜みながら意見を交わすのがいわばルールでもあった。だれかの訪問があったときでも、やむを得ない状況をのぞいて女性が男性とともに過ごすというのは、めったにないことであった。


 エレノアはなぜ父がそんな提案をしたのか、不安に思いながらミュリルーズ子爵とともに庭を歩いていた。


 年上の男性――それも出会ったばかりの――といきなり庭を散歩させるだなんて。エレノアに客人を任せるうえで、父は母と兄に話があると言っていたけれど、礼節を欠かさない父にしては珍しく、また貴族としてのひいては娘の貴族令嬢としての体面を大事にしてきた父にしては、らしくない行動だった。


 とはいえ、しっかりミリアをお供につけさせるという采配は抜かることはない。


 エレノアと子爵のうしろをミリアがやや離れたところで歩いている。庭にはさまざまな白い花が咲き、絢爛たる景色が広がっている。


 甘い香りと、春霞の空気と。幸いにもまだ日は高かったが西陽は強く、強引に現実に引き戻されたかのように戦列に網膜を灼きつける。


 父の仕事の関係からも、夜会などでさまざまな人と話すことには慣れていた。ありがたいことに国の外交の任を負っている父に連れられあちこち顔を出していたこともあるし、淑女教育と並行してそうするやり方を学んできた。幼少期は他国へ赴くこともあり、また外国からやってきた使節団をもてなす側になったこともある。だから、青い上衣にそっと手を添えるのも難しいことではなく、その延長でまさに今も子爵の隣を並び歩いていた。


 とはいえ、お披露目を終え、アドリアンを除いて父や兄以外の男性のエスコートを表立って受けたことはない。


 そうだ、アドリアン――。

 ふと思い浮かんだが、子爵が話しかけてきた。



「こちらの庭園は、伯爵夫人が手掛けられのですか」


 唐突なことだったから最初は驚いてしまったが、すぐに気を取りもってエレノアは答えた。



「はい。季節ごとに異なる花を植えるのですが、とりわけ春はこのように白い花を一面に並べるのが、母の好みなんです」



 そうなったのは、いつからだったか。覚えてはいないが、以前は春にもいろとりどりの花を植えていた。今ももちろん場所を変えれば違う色の花を植えているところもあるが、この時季には王都でも話題に上るほど母の生み出した白い花園は美しく幻想的だと有名だった。



「ミュリルーズ子爵は――」



 エレノアが言うと、「ウィリアムで構いません」と彼はすかさず言った。



「……ウィリアム卿は、背が高いのですね」


 本当はそんなことを言うつもりはなかったが、口にしてすぐにエレノアは、なんでもありませんと顔をそむけた。


 足もとで花が揺れる。白い小径を抜け、野ばらのアーチをくぐり小さなガセボの下へやってきた。



「心地好い天気ですね」



 ガセボは他の場所よりもやや高い位置にあり、なだらかな傾斜を下るようにして庭が一望できた。


 ウィリアムは白い花園を眺めながらエレノアに言った。



「ええ、穏やかで風もあたたかいです」



 すぐそばにミリアがいるから二人きりということはないが、それでも辺りは静けさに満ちていた。人の声はおよそ聞こえず、遠くに馬車の車輪の音が聞こえてくる。その合間に吹く、そよ風の音さえも聞こえてきそうだ。



「夢みたいだ」



 ぽつり、彼はひとりごとのように口にした。


 それこそ、風の音に消されてしまいそうなささやかな声で。意図せずこぼれてしまったそれは、彼の心の内から湧き出た清らかな水のような言葉であった。


 余計なことは話さない性分なのか、おしゃべりな兄と違って口数は少ない。ぶっきらぼうであるわけでもなく、ただ彼はその沈黙のあいだにある余白を、春の静かさの中のあたためられた空気でさえも味わっているかのようにひとつひとつの言葉を紡いだ。


 いつも頼りなく、話の接ぎ穂を探そうと必死になっていたアドリアンとは正反対で、エレノアが安心させるようにもうひとつの手を腕に添える必要もない。


 楽しませる話題を用意せずとも、端正な横顔が雄弁に物語る。


 なにをせずとも、いまこの瞬間を楽しんでいるのだと。愛想笑いを浮かべているのとは違う、確かな感情だった。



「ミュリルーズの綿花は、種まきを終えたころでいらっしゃいますか」



 エレノアが問えば、彼は小さく目を瞠目させ、それから薄い唇で柔らかに弧を描いた。



「よくご存知で。北をのぞいてほとんどは種まきを終えたところです。ここから二、三か月して花が咲き、秋には綿の珠が弾け白い綿でいっぱいになります」



 それはさぞ見甲斐があるだろう。大陸でも北側に位置する王国では、綿花を栽培できる地域は限られている。ある程度の温度と、なにより湿度が必要な綿栽培にとって、気温はともかく南部の地域をのぞいてからりとした王国の気候は適さない。その土地的条件は、人々の着る服飾にももちろん影響していた。



「摘みたての綿は、やわらかいんですの?」

「もちろん。羊毛よりも手ざわりが柔らかく、軽くて、弾力があります」



 エレノアは思い描くようにある光景を思い出した。



「一度、馬車の中から、綿畑は見たことがあるのですが、そのときな見ただけで終わってしまって。広大な畑の中で、白い綿があちこちに弾けているのがとても美しかったのを覚えています」



 まるで、雲海がどこまでも続いていくように。それでいて、ころんとした綿花ひとつひとつは愛らしかった。



「そっか、羊毛より柔らかいのですね」



 思いがけず頬がほころぶ。ウィリアムはエレノアを見下ろしながら、笑みを深めた。



「摘みたての綿をぜひ籠いっぱい、馬車いっぱいに贈りましょう。飾るのも可愛らしいですが、それでクッションを作ると格別です。お好きな刺繍の布を使って、洗い晒した綿をたっぷり詰める。しかしまずは届いた瞬間、綿の中に飛び込むのが一番ですがね」



 それまでの無口さとは異なり饒舌に語る彼に、エレノアはしぜんと肩を揺らして笑っていた。


 摘んだばかりの綿花のにおいはどんなだろう。想像して思い当たったのは、ウィリアムだった。あたたかくて、やわらかい。実際にまとう香りが、紳士のそれであっても、目の前にいる彼からは、そのあたたかなにおいがしてくるような気がした。


 そよ風が吹き、花のにおいに誘われた蜜蜂が一匹、ガセボの下を通り抜けていった。





「それで、子爵はただ商いをしにこちらへやってきたのかね」



 衣装替えのために部屋へ戻ったエレノアを捕まえたのはフレデリックだった。



「あら、お兄さま。嫉妬はお見苦しいわ」

「なにせ唯一の客人を我が妹が独り占めするものだからね」

「文句がおありならお父さまに言ってくださいまし」



 西日の中を歩いたものだから、室内へ戻るころには頬がほてっていた。ボンネットの下も薄く汗をかき、一度湯あみを済ませてしまいたい気持ちであった。


 ベルウォルズ伯爵家の子どもたちは、小さなころから国内のことだけでなく周辺国のことも詰め込まれる。ミュリルーズ領が綿花の栽培をしていることを知っていたのもその教育の賜物であった。そして豪奢で奢侈な時代が終わったいま、薄手の綿紗や華奢なレースを紡ぐための綿糸の多くが、そのミュリルーズ領から王国へ輸出されていることもエレノアは知っていた。


 思えば、今着ているドレスももとはと言えばミュリルーズ産の生地を使用していたはずだ。


 時代は変わりゆくとはいえ、いまだ商いをする人間は卑しいという固定観念も残るが、彼はみずから貿易会社を設立し彼の治める土地で生産された綿織物を他国へ売り込んでいる。多くの貴婦人たちがこぞって求める生地を作り世に送り出す、もはや国家事業としての取引に近いはず。賞賛しこそすれ、軽蔑することはない。



「いや、なに。おまえがなにも言わないというならまあ、兄としてもなにも言うまい」

「なにをおっしゃるのだか、お兄さまったら。穏やかで飾らない、いい人よ。お父さまが気に入って連れまわしたくなるのもうなずけるわ」



 釈然としない顔の兄をよそに、エレノアはミリアの手を借りてボンネットを脱いだ。


 扇であおがれる妹の横でフレデリックは腕を組み、彼女の座る化粧台の背後でカウチの背もたれに腰をあずけた。



「父上の話はアドリアンのことだった」



 鏡の中で、エレノアは伏せていた目を持ち上げて一度兄を見た。



「そう、元気にしていらっしゃるかしら」

「半年後に、結婚式を挙げるそうだ。そのままあの大聖堂でね」



 すぐに瞳を伏せなおして、エレノアはカールのきつくなった耳横の髪をそっと指先で撫でつけた。



「公爵家がお相手とあれば、王宮の庭園で挙げられるのでなくて」

「さあ、本当はそうしたかったのかもしれないが、そうなると公式行事として上が動かなければならなくなる。国も表立ってうちを敵に回すようなことはしたくないらしい」



 彼が幸せならば、自分はなにも構わない。そう思っていたのだが、エレノアの胸の奥はぎゅうと締めつけられ、息をするのさえこの瞬間疎ましく思えてしまった。




 晩餐の時間は間もなく訪れ、正餐室にろうそくの火が入れられた。


 格式ぶるつもりはないというのが主人である父の主張であったが、結局はだれ一人として紳士淑女のふるまいを乱すことなく、粛々と食事が始まり、進んでいった。


 季節の野菜ややわらかな雛鳥を使った料理たちを堪能し、宵は静かに更けていった。



「我がベルウォルズ伯爵家とミュリルーズ卿との縁を結ぶことを考えている」



 改まって伯爵が切り出したのは、ほとんどのメニューを出し終えフルーツとワインを嗜むタイミングになったときだった。使用人たちが全員退出したあと、彼は指先をナフキンで綺麗にぬぐい静かな声で言った。



「と、いいますと、父上」


 フレデリックが訊ねた。



「ミュリルーズ卿とエレノアの婚姻だ。卿と話したところ、卿は二つ返事でエレノアを妻に迎えたいとおっしゃってくださった。私としてはぜひにと思っているが、どうかね、エレノア」



 青天の霹靂とは、まさにこのことだった。


 理知的な父のこれまでにない唐突な申し出に、だれもが面を食らっていた。


 母も兄も客人がいる手前騒ぎはしなかったが、今この瞬間に打ち明けられたのだろう。フレデリックなどまさかといった調子で、うろんな様を隠すことなく父を見つめていた。


 ウィリアムとの、結婚。


 エレノアにとっても全く予想していなかったことだった。だって前の婚約がご破算になったばかりなのに。卒倒しはしなかったが、急激に喉が渇き口の中がからからになっていた。


 小さく息をのんで父を見据えたエレノアは、そこでウィリアムが自分を見ているのを感じた。無表情に近い父の隣で、彼は精悍な顔つきのまま、まっすぐエレノアを見つめていた。


 ろうそくに照らされ、ブルネットの髪が白銀に瞬いている。


 長いまつ毛の奥で、夜明けの淡い空の色がエレノアを包んでいた。薄くやわらかな色彩だというのに、今だけはその奥で焔が揺らめいているようにも思える。


 エレノアは小さく息を吸うと、ウィリアムを見つめたまま、「はい、お父さま」と答えていた。

次は明日の8時、夜の20時に更新です!

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