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1-4

「エリィ」



 今となっては、そう呼ぶのは一人しかいない。春の陽射しにうつらうつらしていたエレノアは、兄の声に目を覚ました。


 まったりとした空気の重さからか、ゆっくり目蓋をもたげれば、白い小花の咲く庭園で兄が妹を見下ろしていた。



「お兄さま」

「また、こんなところで居眠りをしていたのかい」



 ええ、と言いながらエレノアは小さく首を捻る。


 どうやら、盛りを迎えた花々を一望できるベンチに身を委ね、微睡んでいたらしい。膝の上には一冊の本があって、たしかにそれを読んでいたはずなのにいつのまにか春の光にさらわれていたようだ。


 社交シーズンを迎えたいま、領地から出てきた貴族たちは昼夜問わず忙しく活動している。


 エレノアも例年ならば――もちろんお披露目を迎えてからだが――そうだったはずだが、こんなにも静かな春を迎えたのはいつぶりだろう。


 社交デビュー前も、淑女教育が始まってからは春は忙しない季節であった。お茶会や夜会に誘われていく両親や兄を送り出しながら、そわそわと邸の中も外も気にして落ち着かない日々を過ごしていた。


 白い箱庭に囲まれて、ゆっくりと微笑むエレノアにフレデリックは小さく息をついた。



「まるで微睡の国のお姫さまだな、我が妹は」

「お兄さまは王子さま、それとも騎士さまかしら」

「さあな、もしかすると槍をもった衛兵かもしれん」



 軽口を叩きながら、兄は高い襟の中で肩をすくめる。



「フレディにいさまが庭園にいらっしゃるなんて珍しいのではなくて」



 おもむろにエレノアが立ち上がると、しぜんと腕が差し出された。エレノアもまたその腕に手を添えた。



「お姫さまを探さねばならなかったのでね。紳士クラブに顔を出す予定だったが、クラバットを結ぶのを諦めてこうしてやってきたわけだ」



「まあ」と笑ったエレノアに、「あとで褒賞をいただかねばな」と、彼は鷹揚に言ってのける。


 母が采配を振る庭は、甘い香りに包まれていた。王都の喧騒など素知らぬふうに、二人を――エレノアを、穏やかな春の中に閉じ込めていた。



「風が心地好いわ」

「風というよりかは、蝶の羽搏きのような弱々しさだ」

「それなら、蜜蜂たちが安心して蜜を集められるわね」



 花たちの間に設けられた小径を進んでいると、向こうから侍女のミリアが日傘を持って慌ててやってくるのが見えた。


 お仕着せのスカートの裾がいそいそと揺れている。


 空から降りそそぐ光が目映い。夏の烈しさはまだ遠く、やや霞がかった景色の中を光が照らしている。撥ね返る光が、多いからかしら。エレノアは目を細める。



「さて、我が眠り姫にも働き蜂になってもらわねば」



 こそこそとフレデリックが耳打ちをする。手にとった腕を軽く叩いて、ふふ、とエレノアは緩やかな巻き髪を揺らす。



「父上が王宮より戻って来られるそうだよ。晩餐には間に合うだろうか、なにやら客人も連れているそうでね」



 ミリアのほかにも、家令であるマークソンが庭園の入り口に佇んでいるのが見えた。



「それは張り切って働かなくてはならないわね」

「そうさ、我らが女王がおまえを探していたよ」



 先にそうおっしゃってくれればいいのに、唇をちょこんと尖らせた妹にフレデリックは貴族の継嗣らしからぬなんともいたずらな笑みを返すのだった。



 アドリアンの告白から一週間、つつがなく手続きは行なわれ両家の長年に及ぶ婚約は解消された。リディストン家の応接間にて受けた衝撃に比べればあっけないほどの終わり方で、ひとつの婚姻が白紙になったとしても世界が大きく変わることはなかった。


 実際には、国を牽引する伯爵家同士の婚姻の瓦解が、貴族社会に衝撃を与えなかったわけではないが、それでもエレノアがなんとなしに頭の隅に浮かべていた天変地異などは起こりはしなかったのだ。アドリアンと婚約していない人生など、アドリアンのいない人生など想像もできなかったが、エレノアの不安をよそに新しい朝はやってきた。


 ただ、やはり小さく見ればエレノアの世界は変わったのだろう。変わらざるを得なかった。貴族令嬢としての務めである社交をせずに自宅にこもり、日がな一日ぼうっと過ごしている。


 病をわずらったわけではないが、なにをするにも億劫で、身体も心も薄衣(うすぎぬ)に包まれその柔な檻の中で膝を抱えている。心配をした母や兄のおかげで、リディストン家を訪れた次の日から全ての社交を断り不必要に外出をしなくて済むようになったが、それにしてもずいぶんと静かになってしまったのだ。


 どちらかといえば快活にものごとを考えるエレノアだったが、邸に閉じこもっているのもあり今や立派にベルウォルズ伯爵家の深窓のお嬢様となってしまったのだった。



「ああ、そこにいたのねエレノア」



 母、グレイスが落ち着いた深緑色のドレスの裾を揺らしながら家政婦長のガラルド夫人とともにやってきた。



「お連れしましたよ、お母上」

「クラバットはどうしたのです、フレデリック」

「ちょうど、我が妹に選んでもらおうと思いましてね」



 母親の冷ややかな視線にも動じず、わざとらしく肩をすくめたあと、そらきたと兄妹にしかわからない顔でウインクを送る。



「父上は、このような春の城にどなたをお連れになるつもりか。まさか女神の眷属たる精霊たちの生贄にするのではあるまい」

「滅多なことはいうものではありません、フレデリック。ミュリルーズ子爵とおっしゃる、ご立派な紳士ですよ」

「ミュリルーズ子爵、王国では聞かぬ名ですね」


 フレデリックは顎に手を当てて思案を巡らせるふりをした。


「ミュリルーズ、ミュリルーズ、ミュリルーズ……父上のご専門か」

「いずれは貴方に継いでいただく予定のね」



 片眉を跳ねておどけるとフレデリックは胸許から白いクラバットを抜き出し、恭しくこうべを垂れてからその場を辞した。



「さあ、あなたはまずそのドレスから着替えてもらいますよ」



 それが身内にだけ見せるものだとは理解していても、息子の軽薄さには目が余るのかこめかみをそっとさすっていたが、グレイスはエレノアに向きなおると、口の端をキュッと持ち上げ仕切り直しに軽く手を叩いた。


 ウォーキングドレスから客人をもてなすにふさわしいアフタヌーンドレスに着替え、日に当たってかすかに赤みを帯びた頬には粉をはたく。



「まあ、唇はみずみずしい桜桃(さくらんぼ)色ですこと。口紅はなくてもようございますね」



 蜜蝋をうっすらと小指で塗ってつけて、鏡の中の睡たげな瞳のどこか気だるくも見える様に、ミリアはいたく満足そうだった。


 ボンネットで崩れた髪も、彼女たちの手により美しいシニョンに生まれ変わったし、顔の横に垂れたカールはおろか後れ毛ひとつとっても完璧に仕上げられていた。こうして家族ではないだれかのために着飾るのは一週間ぶりだ。たったの一週間ではあるが、きびきびと身なりを整えられる感覚が久しくも感じられた。


 うっかりするとまた眠ってしまいそうになりながら、ミュリルーズ子爵とはいったいどんな方だろうと、あれこれミリアが話すのをぼんやり聞き流しながらエレノアは考えていた。


 客人を迎えるように選ばれたドレスは、パフスリーブの目映い大理石色のシュミーズドレスだ。重々しいシルクの何重にも飾られたドレスからは解放され、いまの流行りはこの神話時代を彷彿とさせる簡素な装いだった。


 高いウエストラインにすとんとしたシルエット。肌が透けてしまいそうなほど薄い綿紗を数枚重ね合わせて自然に膨らみを作る。冬には寒くて着られなかったが、ようやくちょうどよい季節が巡りめぐってきたのだ。


 もはや行き遅れた身としては、独身女性の証でもある白やクリームをまとうのは気が引けたが、それでも仕方がないから光を乱反射する衣装に袖を通した。



「奥様がお嬢様にお贈りになったドレスですね。こんな軽くて織り目の美しいドレスは、めったに見たことがありませんわ」



 二の腕までのグローブのボタンを使用人たちが丁重に留めていく。祖母から贈られたネックレスを首許につけ、ようやく仕度は完了だ。



 ミリアを伴い母のもとへ戻れば、間もなくマークソンから当主の到着が告げられた。



「ようこそお越しくださいました」



 応接間で出迎えた客人は、母の言葉どおり若い紳士であった。


 若いといっても兄フレデリックよりかは齢上だろう、次期伯爵として威厳を学びつつある彼より余裕のある落ち着いた佇まいで、緩やかにカールしたブルネットの髪は思慮深い彼のまなざしにとても似つかわしかった。なにより深い青色の上衣が彼の髪色にとてもよく似合っていた。



「こちらは隣国リエフ王国のミュリルーズ子爵、ウィリアム・エーレ・ミュリルーズ郷だ」



 父セオドアの紹介により子爵は右足を引き紳士の挨拶をした。流れるような仕草は洗練された都会のそれで、彼がいかに教養深いかをすでに物語るかのようでもあった。


 きっと、たとえだれが相手であっても、彼の高貴さを損なうことはできないだろう。



「このたびはこのようなご歓待、誠にありがとうございます。ベルウォルズ伯爵夫人にご令息、そしてご令嬢」



 上背はかなりあるほうだからともすると気圧されかねないが、決して偉ぶる様子もなく額の上に巻き髪が落ちる姿さえ気品が感じられた。


 深い眼窩の奥、長いまつ毛が淡い色彩の瞳を覆っている。順に挨拶を交わし、エレノアの手をとりそっと唇を添え見上げた彼のその目は、夜明けの薄い空の色をしていた。



「それで、父上、ミュリルーズ子爵とはどのようなご関係で?」

「おまえはまた不躾に」

「いいじゃあありませんか。父上が自分から客人を連れてくる、それも待ちきれずに当日の先触れのみでなど! いったいどれほどの人たらしなのでしょうね、ミュリルーズ子爵は」



 フレデリックの気安い態度にも子爵は感じのいい笑みを浮かべ、ベルウォルズ家の中で当然彼の印象は悪くなるはずがなかった。



「王宮に缶詰めだったと聞いておりましたがね、父上」



 フレデリックはまだ父に話しかけていた。

「ああもちろんそのとおりだ」と、答える父の顔はその働きぶりを感じさせるようにややくたびれていた。



「では、そちらでお会いに?」

「いや、もとより領事館繋がりで顔を知る仲でね。ちょうどこちらへ来ていると知ったものだから、ぜひにと誘ったのだ。おまえたち、急な来客ですまなかったね」



 とんでもございません、と夫の労いに答えたのはその妻だった。



「このような静かな家に来ていただけるだけで、とても嬉しく思いますわ」



 母の言葉にエレノアも微笑を浮かべる。それでもあの眠気に似た気だるさは抜けずに、茫漠に客人を見つめていた。



「我が息子が失礼にもあのような態度をとり、なんと申し上げてよいやら。それでも、旦那さまが自分からどなたかを喜んで招待なさった、そしてそのお相手であれば、我が家はいつでも歓迎する気持ちがあることには変わりませんわ」



 父と並ぶと、かえって父の疲れた顔つきが際立つ。ふだんからあちこち呼ばれては赴くのが父だが、殊この数日はこれまで以上に忙しくしていたのを家のだれもが知っていた。


 新緑のようなひとだ、とエレノアはミュリルーズ子爵をみて思った。



「そういうことですよ、父上」

「まったくおまえときたら」



 鷹揚な息子をよそにやれやれ妻に視線を向け、その流れでエレノアを見つめて伯爵は微笑を浮かべた。


 エレノアはその視線の意味をふと考えようとしたが、それより先に父が切り出してしまった。



「さて、立ち話もなんだ。ただ、私たち二人とももう仕事の話はうんざりでね、かといってすぐに晩餐の席に着くのは今日ほどもったいない日はないだろう。まだまだ陽射しが明るい、ほがらかな季節の風を浴びるのに絶好の日じゃないか」



 そんなことを言うのは父らしくないというか、突拍子もないことだとだれもが思った。


「ええ、まあ、そうでしょうね」とフレデリックが得心しない様子で相づちを打つ。


「ということは、やるべきことは一つだ」父が言った。



「ミリア、エレノアのボンネットと日傘をとってきておやり。ミュリルーズ郷に我が家のとっておきの花園を見てもらうのはいかがだろう」



 エレノアがまつ毛を瞬くうちに、かしこまりましたと言ってミリアが応接間から出ていった。

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