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「申し訳ございません、奥様。大切なお客様なのだから行儀よくと話してはいたのですが、奥様がいらっしゃると聞いたそのときから興奮してしまっていて」
「構いませんわ、デニング牧師」とエレノアは柔らかに笑う。
「ここのみなが家族であるのと同時に、わたくしもベルウォルズの人間もみなの家族だと往々に伝えていたのですから。ねえ、アリー。おひさしぶりね」
4,5歳だろうか、茶色い髪をふたつに結わいた少女はエレノアの足を今一度ぎゅっと抱きしめながら、彼女の手に心地よさそうに笑みを浮かべている。
これには牧師も降参したようで、隣立つウィリアムに恭しくこうべを垂れた。
「閣下も、ようこそおいでくださいました。なにもない小さな場所ですが、どうぞ、気を休めてお楽しみいただければ幸いです」
ウィリアムは愛想よく、とまでは言えないが口許をゆるめてうなずいて返した。
つぎつぎとあいさつにやってくる子どもたちを迎え入れ、ゆっくりと庭を歩き院内を見学する。
「じきに開かれる王宮舞踏会を境に、リエフへと出立されると拝聴いたしました」
牧師の話では、おおよその混乱は落ち着いたようでほとんどの子どもたちが健やかに過ごしているという。部屋をひとつひとつ巡るあいだ、都度彼らの様子を丁寧に教えてくれる牧師の話しぶりからも、そのおだやかさは手に取るようにわかった。
「ええ」と牧師の声掛けに応えたのはウィリアムで、エレノアもその側に佇みながらたおやかな微笑を浮かべていた。ただ、牧師の言葉にやわらかに曲線を描いた眉がかすかに下がっていた。
「舞踏会を終えれば、社交の季節も幕を閉じましょう。お会いしたい方々へあいさつが済み次第、こちらを発つ予定です」
いやはやと感慨深く牧師が言った。
「時が経つのはなんとも早いことです。奥様がまだベルウォルズの奥様のドレスのすそを掴んでいらっしゃるころからのお付き合いでございましたから、なんとも形容しがたいものです。出会いがあれば、別れもある。この世に生を受けた者には抗いようのない普遍的なことで、いつしか人は別れを経験しなくてはならない。しかし、別れがあれば、出会いもあるように、われわれの前には常に道は開かれ天から目映い光が降り注ぐことでしょう」
重ね重ねではありますがと言葉を添えて、牧師は改まって結婚と新たな生活への祝辞を述べた。
「エレノア」
教会の聖堂へとつながる回廊で、牧師は他の職員に呼ばれて席を外した。
子どもたちから贈られた花や木の実、それから小石を大切そうに手のひらの上で転がしている妻の髪をウィリアムはそっと耳へとかけてやった。
名前を呼ばれた瞬間はふと不思議そうにしていたのに、すぐに面映ゆくはにかんで、「なあに」とエレノアは答えた。
小さなものではあるが結婚式を挙げ、ふたりはイースト地区にあるウィリアムの邸宅で暮らし始めていた。式の当日にはまだよそよそしいともいえたふたりの距離も、今となってはより近しいものへと変化していた。
太陽の瞳がかすかに潤んだことには、しっかりと気が付いていた。
生まれ育った地を離れるのだから、当然のことだ。気丈にふるまう彼女ではあるが、心の準備期間があったとはいえ数か月前まではこの国を出ることのない人生を送るはずだったのだから、気持ちの整理がつかなくてもおかしいことではない。
実際にはとっくのとうに決心はついていても、ほんの少しのことで寂しさやわびしさを思い出してしまうのだろう。それを懸命に隠す姿が、切なくもいじらしいと感じた。
ウィリアムが用事を告げる前に(といっても本当はそんなものなかったに等しいのだが)、聖堂の方向から少年が駆けてきた。
「あら、トビー」
痩せぎすだった少年が、胸に色とりどりのの花を何輪も抱いていた。北方にあるグラヴロア領の領花で、星を抱いたような花びらの形が特徴的だった。
少年は笑みを浮かべはしなかったものの、その目の色は嬉しそうに喜色ばんで、エレノアを見上げたあとウィリアムにもお辞儀をしていた。
「お花をくれるの?」
腰を折ったエレノアの問いかけに、トマスは何度も首を上下に振る。エレノアが花束を受け取ると、庭先から犬がやってきた。泥だらけの犬はひとしきり駆け回り、それを年長の子どもが必死に追いかけている。けれど結局、犬はその手につかまることなく、トビーと呼ばれた少年のもとへやってきた。
トビーはうれしそうにその泥まみれの身体を抱いて撫でてやる。
まだ痩せ気味ではあるが、それでも子供らしい体つきに近づいていた。彼らを見守るように、聖堂のほうからこっそりのぞく少年少女たちの顔つきも、以前よりかはぐっとあどけない年相応のそれに戻っていた。
エレノアにとびかかろうとするハンク(その犬の名前だ)を、彼を追いかけてきた少年がすんでのところで回避して、それを見ながらその場には笑い声が響き渡っていた。
手を振るトマスに手を振り返し、かれらを見送る。その背を眺めるふたりのあいだに風が吹いた。
薄紫色のドレスの裾が揺れる。光に照らされ透き通った亜麻色の髪が風にそよぐ。
手のひらから一輪の花をとって、彼女の耳の上に挿し込んだ。
「美しいですね」
ふたりだけに聞こえる声の大きさでささやけば、彼女はサッと頬を赤らめた。
建国祭の夜に開かれる王宮舞踏会は、その季節一番の盛り上がりを見せていた。
国で一番美しいとされるフェリシティアン・ホールで開催され、例年の規模よりもはるかに豪華絢爛な夜会となった。空に抜けるような高い天井にはいくつものシャンデリアの光が輝き、その下で色とりどりの大輪が咲く。楽団の音楽は優雅に鳴り響き、人々は手を取り合い笑みを交わす。
一時は社交界はおろか国じゅうに震撼が走ったものだが、時は平等に過行くもの。すでに人々は生活を取り戻し、それまでの平和を慈しむようにして毎日を送っている。
「ようやく一息つけたものだ、ヴィルヘルム」
エレノアは知人や友人に囲まれていた。どうしても外せない所用のために離れたが、遠くからそれを見守っていたウィリアムのもとへやってきたのは、よく見知った顔であった。まさかここで顔を合わせることになるとは互いに一度も想像しなかっただろう。リエフから離れた場所で、しかも公式的に。
ウィリアムは手にしていたグラスを給仕係に渡すと、恭しく礼をした。
「フィスティーユ候には多大なるご尽力をいただき、感謝しております」
これまでは影として生きてきたゆえに、血の繋がらないこの兄と社交の場で隣立つことは一度もなかった。何者でもないウィリアム少年だったころ、ベルウォルズ一家を迎えたあの夜以来だ。今思えば、あの場に平民の少年が参加していたこと自体が不思議なのだが、あの数日がなければ現在は訪れず、自分もまた何者でもないままであったのかもしれない。
フィスティーユ候ニクラウスはウィリアムの慇懃な態度に相好を崩し、手のひらで制止するとちらと義弟の妻を一瞥した。
「あの小さな妖精が、ね。たいそう美しくなったものだ」
ウィリアムは大きくため息をついた。
「その顔は見るなとでもいいたそうな顔だな」
「お分かりになっているなら、口に出す手間が省けました」
言動が読まれたことへの不甲斐なさもあるが、つくづくこの兄が一番侮れないとウィリアムは思い至った。
「思えば、ルートヴィヒがあの子と話すたび、おまえはきつくあいつを睨んでいたな」
「……睨んでおりません」
「そうか、こちらの勘違いか。父や兄などは彼女がレイヴェンの妖精になってくれたらと思っていたようだが、まさかヴィルヘルムにかっさらわれるとは。人生はかく面白いものだ」
「それを聞かされる身としては、あまり面白くはありませんが」
苦々しく目を細めるウィリアムにニクラウスは声を上げて笑う。
「我が弟が人間らしくなってくれて、実に喜ばしい」
レティムの一件で、フィスティーユはセリフィスとノーゼリア、リエフの三国間で暗躍した。ウェスト・エンド13番地区で使用された銃弾をもとに、その流通経路をたどりシャンレーズに行き着くと、彼は自身でセリフィスに渡り「死の畑」を見つけてみせたのだ。その確固たる証拠をもとに貿易協定は締結された。
狙った獲物を決して取り逃さないあたりは、家紋に使用されている黒豹のとおりだだろう。レイヴェンヴェルグ産の、黒豹の皮をかぶった銀獅子かくありけり。
協定の締結後は、各国の“監視者”たちとともに国際機構の発足人として奔走している。今回、この王宮舞踏会へやってきたのも、そうした経緯からだ。リエフの外交官として、そして大陸の“監視者”として。
もっとも今この瞬間は、ただウィリアムの「兄」の一人としてだろうが。
友人たちと話していたエレノアがこちらへ気づいたようだった。人前だから決して破顔することはないが、彼女はウィリアムと目が合うとやわらかく微笑を浮かべた。
「なるほど、いつもそんなふうに番犬をしているわけだ」
「……」
「さすがはアルパ=デルメ産の狼だな」
やがてニクラウスは給仕係から新たなグラスを二つ取り寄せてウィリアムへ差し出した。
テラスへ出た彼らは、ガラス越しに会場を眺めている。すっかり夜の帳は下りて、辺りは紺色に染まっていた。室内の皓々しさはあふれんばかりに宵闇を灯している。エレノアが見える場所で、その横顔や巻き髪の落ちた額やうなじを眺めながら、ウィリアムはグラスに口をつける。
「しかし本当によかったのか、ラダマスの公爵位はおろか王位継承権まで返上するとは。父上が知ったら腑抜けだなんだと懇々と苦言を呈されるだろうに」
「しばらくレイヴェンには立ち寄らない予定ですよ」
まさかと瞠目した兄にウィリアムはワインを飲みながらふっと口許を緩めた。
ハッ、とニクラウスは笑うとしてやられたとばかりに目を回した。
「妻を思えば、名誉のために持っておくのも悪くないとは思いましたが、本気で国を治めるつもりのない人間が手にするにはあまりにも大きすぎる。自分の生まれた国であり、父や母を育んだ土地でもありますが、それでももう私の国ではなかったですから」
ニクラウスは肩をすくめた。
「欲がない人間だ。ま、それでこそおまえだとも言えるか。ヴィルには肩書などなくとも、あの国のためにできることなど、たくさんあるだろうからな」
ウィリアムはそっと瞑目し会場から洩れてくる音に耳を澄ませた。穏やかにリズムが奏でられる。風が吹き、頬を撫でる。自分もまた、この世界の一員なのだと、疑うことなく、実感する。
「忙しくなるぞ」
ニクラウスが言った。
「もとより、ミュリルーズの領地を継いだときから、覚悟しています」
世界は動く。歴史は日々新たに塗り変えられ、明日を描いていく。
まぶたの裡に、エレノアの姿が浮かんでいた。たっぷりとした光の中で、亜麻色の髪を揺らしながら彼女は微笑んでいる。
いつか。
いつか――……。
目映い丘を子どもたちが駆けていく。
彼らを受け止めるやさしい腕。明るい声が蒼穹に響き渡る。風はあたたかく、白い花々の甘い香りが辺り一面を満たしている。やがて明るい瞳がこちらを見上げた。太陽が、ウィリアムを見つめていた。
――こみあげてくるこの想いを。
この目映い瞬間を、なんと呼ぼう。
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初の異世界恋愛もの、つたない箇所が多々あったかと存じますが、皆様の貴重なお時間をいただき・そして拙作をお読みいただきありがとうございました。
投稿中、皆様のブックマークやリアクション、評価が心から励みでして(なにせ、読まれないのではないかという覚悟をブルブル震えながらしていたので……)、本当に感謝しております。
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質問や疑問などもありましたら、どうぞ、お気軽にお尋ねくださいませ!
興奮からか、書き上げたそばから執筆中の記憶がごっそり抜け落ちて(怖い……)、裏話や小話、想いのあれそれをつづる余裕が霧散してしまっているのですが、落ち着いたらそれらについてもじっくり語れたらいいな……と、思います。令息三人のお話なども……!
では、長らくありがとうございました!
皆様の毎日が輝かしいものでありますように。
またどこかの作品でお会いできたらうれしいです!
波屋ぽんち




