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――長いあいだ、エレノアが愛だと思ってきたものは、大きな木槌でもって粉々に打ち砕かれていた。ローアンの湖のあの輝くような水面も、澄み渡る空も、あおあおとした草原に寝ころび流れゆく雲をただ眺めていた記憶も、今となっては虚しさを募らせるだけだった。
アドリアンを好いていた。胸の高鳴る、恋のような初々しさとみずみずしさがあったかというとそうでもないとはいえ、エレノアなりにたしかにアドリアンを愛していたのだ。大人の女性へと成長していく中、いつもアドリアンを見つめていた。このひとが自分の一生の伴侶になるのだと信じて疑わなかった。彼の隣に並び、彼を支え生きていくのだと、それが自分の役目であるとずっと信じていた。生まれてから死ぬまでともにあるのだと、思っていた。
けれどそれは、愛ではなくなってしまった。積み重ねてきた想いも信頼も、すべてが崩れていった。愛の形を考えたとき、思い浮かぶのは粉々になった断片ばかりであった。
それらを拾い集めたとしても、きっともう元には戻らない。エレノアとて、拾い集めるつもりもない。
真なる運命を打ち明けられたとき、夜会で卑劣さを見せつけられたとき、それぞれのやり方で粉々にされてしまった。少しばかり形を残していたものも、二度目にはすでにその形さえ失い、あとは砂ばかりが残るだけ。手ですくったとしても指のあいだから零れ落ちていく。
それでも一度は取り戻そうかと思ったこともあった。相手にするのが公爵家という高位貴族であるとはいえ、爵位よりなにより二十一年という年月と親世代からつながる絆があったのだから、貴族という特権を賜った家に生まれたもの同士、家と家の約束という契約を反故にするなど許されるはずがない、と。実際に、結婚式は半年先に迫っていたうえにあらゆる婚姻の手続きも支度もほとんどが整っていたのだから。
悔しかった。悲しかった。苦しかった。決して感情を吐露することはなかったが、邸に閉じこもっていたしばらくのあいだ、涙に暮れて食事はおろか睡眠さえまともにとれない日や日がな一日ぼう然と窓から見える景色を眺めていたそんな日もあった。感情をぶつける相手は、エレノアを置いて我先に陶然とした笑みとともに新たな幸せに夢中になってしまった。感情を持て余しながら、それでも淑女としてのふるまいを世間から押し付けられそして自分自身、押し付けて、なんでもないふうにたおやかな微笑を浮かべてエレノアも進んでいかなくてはならなかった。それが、爵位を持つ家に生まれた女性としての役目であるから。家のために、国のために、惚れた腫れたにかかわらず結婚という契約を結ばなくてはならない。
アドリアンの幸せのためだから仕方のないことだと思いながら、彼の一番の理解者は自分であるのだからと滑稽なほど無垢に信じながら、エレノアは自らの人生を犠牲にしなくてはならなかった。
ベルウォルズの人間がいかに真っ当で子どもを一人の人間として尊重しているとして、両親が娘を金や地位のために世間へ売りさばくなどという考えを持つことはないと確信してはいても、貴族令嬢の生きる道は狭く、エレノアという妙齢の未婚女性にとって婚約の不履行というのは厳しく険しい道のりの始まりだった。
運命など信じてなるものか。二十一年の信頼さえ、裏切り踏みつけるのが運命などというのならば、そんなもの、手にする前にこちらから捨ててやる。
愛などという幻想を追いかけることも、運命というときめきを追い求めることも、二度としない。
愛のない政略結婚でも構わない。自分を捨てた男の成しえなかったことを、自分は完璧にこなしてやろう。なにがあっても微笑みを絶やさず、卑劣ささえ一笑にふし、自分だけは努力と苦悩とのすえに手にした矜持を裏切らずに生きていく。
そう、思っていた。
うららかな春の日、ある男性に出会うまでは。
エレノアにとって、ウィリアムは春そのものだった。厳しい寒さを越え、すこしずつ降り積もった雪を融かしていく。冷え切って頑なになってしまっていたエレノアの心を温め、ふたたび生き返らせてくれた。雪の解けた地面からは草木が芽生え、やがて花が咲き蝶や蜂が自由に飛び回る。風がそよぎ甘い香りが辺りいっぱいに広がる。やわらかな光が、エレノアを包んでいる。
人びとが春を待ちわびるように、そして決して失うことのできない季節であるように。エレノアはウィリアムを愛してしまった。そうだ、愛してしまったのだ。
冷えた手をつなぎ、あたためあおう。凍えたくちびるを指先に預け、女神に誓おう。
すべてを捧げ愛すると、たとえ死が生を凌駕しようとそばにいようと。
彼は春であり、そして、夏になる。やがて秋となり、冬となる。すべての季節が、彼となる。
「伝え損ねていましたが」
と、ウィリアムは妻の手をとった。
エレノアのレースの指先に唇を落とし、「今日も、美しいですね」とウィリアムはまなじりをゆるめた。
「あなたが贈ってくださったんですよ」
「似合うだろうと、貴女だけを想って選びましたから」
やわらかなガウンの腹部から裾にかけて、刺繍の施された薄い綿紗がたっぷりと空気をはらんで揺れる。そのやさしい手触りが、彼の視線や手つきに似ていて、エレノアはどうしようもなく胸が熱くなる。
そして、訪れた結婚式の日に、エレノアは自分を見つめるウィリアムの淡い空色の瞳を見つめながら思うのだ。
この結婚を、出会いを自分は運命と呼ぼう、と。




