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「言ったでしょう、ソーンゼットはこういう男だって。婚約に舞い上がっている二人は悪ふざけだとしても、この男は純粋に最敬礼をとっていますからね」
フレデリックが言うのと同時に、ふっと息を吹き出す音がしてそちらを見ればバーナビー卿が肩をすくめていた。
「あら、フレデリックお兄様、私もウィリアム様には敬愛の念を持っていますわよ」
「それはここにいる皆が同じだとは思うが、奴は根からの近衛気質だからな」
いまだに至上の礼を崩さないソーンゼット卿にウィリアムがいやいやと髪をふるう。
「すでに公爵位は返上することに決めたんだ。ソーンゼット卿、楽にしてくれたまえ」
「光栄至極にございます」
軽薄ともいえる明るさを持つフレデリックと対照的に、無表情にも近い顔つきで彼の隣に立っていた友人の兄の姿を思い出してエレノアもつい頬をゆるめる。まだ十代の少年だったころから、寡黙という言葉が似合う人物であった。フレデリックが「動」ならば、オーガスタス・ソーンゼットは「静」だろう。
困ったように笑いながら捲ったシャツの袖を戻すウィリアムに、エレノアは微笑んだ。
正式なアルパ=デルメ王朝の血を継ぐものとして存在が明かされたあと、ウィリアムには公国の公爵位が授けられた。ノーゼリアの貴族たちにとっては単なる子爵だった人物が、高位貴族の中でも皇族に次ぐ地位を手にしたという事実はむろん世間を騒がせたが、同時にウィリアムはその爵位を一時的なものだとして返上する意を即座に公国側へ示していた。
彼の祖国での地位が復権されるという報せは、エレノアも先だって聞いていた。様々な事件の種明かしがされる中、ベルウォルズ邸へ戻ったエレノアをウィリアムが訪ねてきたときにちょうど、公国から使いの者がやってきて現大公シャルル=ヴァンサンからの皇命をその場で受け取ったのだ。使いが公国の者と判明するやいなや、ベルウォルズ家の人間はみな、ウィリアムへ跪きその項を彼へと預けていた。公国における皇族への最敬礼を捧げたのだった。
公爵位の復権となればおのずと次の大公位継承権がウィリアムのもとへ戻る。彼は公国における籍に戻った時点で、第一位の継承位が与えられるという話だった。
ウィリアムは驚くこともせず、まだ動揺も困惑も一切見せずに、君主たるたたずまいで彼らの忠誠を受け入れた。いま思えば、初めて出会ったときの、彼のあの不可侵たる高貴な面差しとしぐさの答えが、気のせいではなくはっきりと形になって表れたのだった。
けれど彼は、結局、最終的には大公家への復帰という道を選び取ることはなかった。国へ帰ればその地位と未来が確保されるが、彼はそれを甘受することは良しとせず、亡命先のリエフに戻ることを決意したのだった。
公爵を名乗るのは情勢が落ち着くまでのあいだ、一時的なもの。時期がくれば爵位はもとより大公位継承権の一切を放棄し地位や領地をすべて大公家へと帰属させるつもりなのだった。
ウィリアムの決定を誰かが拒むこともなく、ベルウォルズ家の人間も、もちろんエレノアも、彼の決意と思いを尊重することにした。
すでにマクシミリアン・ギョームは亡き者であり、罪なき少年の命を犠牲に生き延びたウィリアムという人間に、公国の未来は預けられない。名誉が挽回されたとはいえ、多くの犠牲を生み出した時代の悪政を止めることのできなかった人間の側なのだ――と。
彼が得るべきであったもの、手にするはずだったもの、それを取り戻すのは当然の権利だと父、ベルウォルズ伯爵セオドアも話したが、ウィリアムは、「栄誉を妻とその家族に与えられないのは申し訳ないが、自分には身に余るものばかりだ」とあらゆる特権を辞退したのだった。
あまりに冷静に決断するものだから、二人きりになったときにエレノアは大丈夫なのかと彼に訊ねた。彼はかすかに切なく笑いながらも、結局はもう自分はリエフの人間なのだと、ある意味では薄情ながらもまた一方では深い情を見せてエレノアに語った。
かくして、つかの間の公爵夫妻と呼ばれるようになった二人を、ベルウォルズの人間たちもまた親しい友人たちもあたたかく見守ってくれているのだった。
もちろん、一通りの事件を終えてもなお、事後処理だなんだと夫の忙しさは天元を突破しているようなものだが、ゆっくりとひとつずつ解決していきながら、ふたりで歩んでいこうとエレノアも心に決めていた。
「暑くはないですか」
すっかり、布の軽いミュリルーズ産の綿紗のガウンがふさわしい季節であった。令嬢たちのドレスは日を追うごとに薄くなり、彼女たちの装いもまた軽やかになっていた。
頬にかかっていたエレノアの髪へ手を伸ばし、耳へかけ直して甘くかすかに微笑んだウィリアムに、エレノアはうなずいた。
「ショールを肩にかけていても、ちっとも暑くありませんの。木陰へ入ってしまえば、かえって涼しいくらいです」
「ご令嬢がたの夏に間に合って本当によかった」
冬には絹やビロードといった素材がまた好まれるだろうが、羽のような軽さと太陽の光の映える淡い色彩の綿紗のドレスは彼の真心がこもっているようで、エレノアはうれしくなった。
貿易会社を設立したのも、領地で大規模な技術革新をしたのも、綿花を愛しむのも、このためなのではないかと思えてしまうほどに。実際、彼は派手な爵位や奢侈な貴族生活というものよりも、実直で素朴な生活を好み、綿製品を広く人々の生活に根付かせその手助けをする、そういったことのほうが彼にとって意味のあることのように思えるのだった。
ピッツヴェルドの王都邸で過ごしていたとき、襲撃事件の直後でだれも詳細な状況を伝えてくれないことに不安に陥ったときがあった。右も左もわからない状況で、エレノアが心配したのはウィリアムとの婚約のことだった。
『あの方が帰っていらして、こんな女はいやだと言ったらどうしましょう』
まだ彼はリエフにいて、早馬で出した手紙も届いていなかったころだ。苦笑交じりに吐露した言葉を、母は涙を流しながらただ黙ってベッドの上に上体を起こす娘を抱きしめた。
考えることはほかにもあっただろうに、ひとしきり呆然と現状を把握しようとして、それからどうしようもない不安が襲ってきた。ウェスト・エンド13番地区での件は貴族のあいだで醜聞になっていないとはいえ、貧困地区へ赴いた結果、事件の当事者となったとあれば相応の瑕疵がついたと考えて正しかった。命に別状はなかったものの、エレノアはまたしても傷ものになってしまったのだから。
新たにつかもうとした幸せすら、これでふいになってしまう。自分の浅慮が招いた顛末だったとしても、どうしようもなく怖くなった。ウィリアムは戻ってこないのではないか。このまま手紙が一通届いて、彼は手の届かないところへ去って行ってしまうのではないか。
事件の衝撃から我にかえり、最初のころはよかったけれど、広大な邸宅の中で大きな繭に守られるうちにだんだんと焦燥に駆られていくのだ。エレノアのまわりだけ当事者をのぞいて物事が進んでいく、動こうとしても手を出すことすらできない。今考えればその状況でまともな思考でいられるほうがおかしかったわけだが、自分がなぜ襲撃を受けたのか、なぜあの場所にいたのか、ピッツヴェルドに訪れたときにはそればかり考えていたというのに、やがて凪が訪れ、波紋さえも立たなくなり、孤独という湖のただ中で浮かんでいると、すると、次に起こるのは溺没だった。今すぐに考えるべきではないことまで一気に押し寄せ、やがて頭まで覆いつくしてしまう。
エレノアだって、耐えていた。命の危険を感じ、恐ろしくなかったわけがない。夜ごと拳銃の音が夢の中で鳴り響き、恐怖の中で目覚めてしまう。それに気づかぬふりをするうちに、ただ座っているだけでひどく混乱するようになったのだ。
けれども、自分の命よりそちらの心配をするのだから、貴族令嬢という肩書きは相当な枷だ。世間で起きている事件や事故よりも、彼女たちにとって最優先事項は「結婚」で、彼女たちを人たらしめるのも「結婚」だった。ベルウォルズの人間がこのように弱気でいてはいけないと理解しつつも、捨てられるのではないかと気が気ではなくなった。エレノアの中に、すでにその選択肢が刻み込まれてしまっていた。
どうしようもなく、不安で、恐ろしかった。
それでも、ウィリアムはエレノアのもとへ戻ってきてくれた。ノーゼリアを発つそのときに告げてくれた約束を反故にすることなく、必ず戻ってくるという言葉のとおり、エレノアの前にふたたび現れた。
ややくたびれていただろうか、後から聞けばろくに休まずリエフの首都から馬を走らせたのだと言っていた。彼が無事に戻ってきてくれること、ただそれだけで十分だと思っていたのに、彼がピッツヴェルドの厳かな空気の漂うあの客間に現れた瞬間、思いもよらず、丁重に隠し育てていた感情と欲とがあふれてしまった。
彼がひざまずき、手に触れエレノアを見上げる切なる瞳。柔らかなブルネットの髪が、しっとりと湿り気を帯びていた。秀でた鼻梁と、深い眼窩の奥で、明け空の瞳がエレノアを求めていた。
そしてまた、エレノアも彼を求めていた。
かき抱いてしまいたい、その手を頬に当て、あられもなく懇願してしまいたい。この手の中に閉じ込めて、ただ彼の胸にすべてを捧げてしまいたい。
わたしを失わないで――! その手を離さないで!
そして、思ったのだ。
決して、離れない――と。
彼のすべてを愛している。取り巻く空気、過ごしてきた過去、経てきた経験、抱いてきた想い。彼がどれほど辛酸を舐め尽くして生きてきたか、なにを諦め手放し絶望してきたか。すべてを知り理解することはできなくても、そのどれもを受け入れ抱きしめるだろうとエレノアは思った。
彼が見据える先。その夜明けの瞳でまなざすもの、すべて。
あらゆるものが愛おしいと、思うのだろう。
あと三話ほどで完結です!




