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「閣下はおいそがしいのかしら?」
エスコート役のバーナビー卿へ暇を告げると、(告げられた側は名残惜しそうにしていたが)ジョスリンはさっとエレノアの腕に自分のそれを絡ませる。
「そうね、かつてないほど忙しいかもしれないわ。巣から落ちてしまったひな鳥を元の場所に戻していらっしゃるの」
不思議そうに眉根を寄せたジョスリンに、エレノアはすぐそばの木立を見遣る。
「まあ、あんなところまで」
「お兄さまもいっしょになって木登りに精を出してしまって、わたしとミリアはここに放り置かれたわけなのよ」
「フレデリックさまもあいかわらずね。まさかウィリアムさままで木の上にいるとは思わなかったけれど」
後方で応酬を繰り広げる二人を放って、エレノアとジョスリンは大きな広葉樹のもとへと歩み寄る。本来ならば夫と兄と揃って親友たちを迎えるはずだったのだが、すっかり彼らは手助けに夢中になってしまっていた。
「この木に実る御方たちが、ひとりは公国の公爵でひとりは伯爵家の跡取りだとは」
「そうね、まるで小さいころに戻ったみたいだわ」
木漏れ日に目を細めながら、さらに枝を登ろうとしている二人のすがたを見上げる。
あれこれと相談しながら鳥の巣をさがすふたつの背。少し前までは決して近づくことのない他人同士で、知り合ってからも互いを意識するようによそよそしい距離があったというのに。まだ違和感は残るが、まるで昔から知っているような少年たちの姿であった。
上衣を放り出し、ベスト姿でシャツの腕をまくる姿は母が見たら卒倒してしまいそうな有様だ。そろそろ首から抜き取られたクラバットがするりと落ちてくるだろう。
この数か月のあいだに起こったいくつものできごとを思い返せば、なんと平和な時間だろう。生命の息吹がいっそう強く感じられる季節を迎え、青い風が池のほうから吹き寄せてくる。
「落ちたひな鳥を助けようとするなんて」
ジョスリンの呆れ声を聞き入れながら、新しく兄弟になったふたりの背を見上げてエレノアはふと頬を緩める。
「きちんと巣に戻してあげたかったのよ」
ようやく目指していた枝まで上がれたのかふとこちらに気が付いたフレデリックが片手をあげた。それに手を振り返すと、ひなを巣へ戻していたウィリアムがエレノアに気づいた。
フレデリックほど陽気ではないが、満足げに微笑んだのを見てエレノアも笑みを返す。
数日後、エレノアとウィリアムは王都の教会で式を挙げる。大聖堂を借りて大々的に行うというかつての計画からすればあまりにもささやかな式ではあるが、親族と身近な友人たちを招いて、女神の御許に正式な夫婦の契りを交わしたいというのが二人の願いであった。
すでにリエフで婚姻許可証の受理がされているといえど、あまりにも性急に事が進んだものだから婚姻の喜びや余韻を味わうことができていなかった。夫婦というには未熟で、あいまいな距離。世間が慌ただしく、そして当事者の二人こそよそのことに気を取られなくてはならなかったのだから、当然のことでもあった。
だから、せめて夫婦になるという実感を取り戻したいと、エレノアはウィリアムと話して式を挙げることに決めた。
結婚というのは、互いの情の上に成り立つものではない。皮肉にも、愛の先に結婚があるなどというのは、多くの貴族たちにとって幻想のようなもので、あくまで結婚は家と家を繋ぐ契約の一つであり、そこに個人の感情というのは関係がなく、互いに利を得るために結ばれるものである。
しかしそこに、愛というのは生まれるのである。結果論であったとしても、結婚のもとに愛は生まれ、育まれていくものでもある。
「エリィ、昔は乳母に隠れて、いっしょに木に登ったよな」
兄が声を張って、木の上から言った。
「お兄さま、そうはしゃいで許されるのはローアンだけよ」
なにをどうして話していたのかは聞こえなかったが、フレデリックの顔からしてウィリアムに過日のおてんば娘の話を切り出したにちがいない。
いつもより腹に力を込めて返せば、フレデリックはからりと笑って木から降り始めた。ときおり足を滑らせそうになって義弟の手を借りるが、そんなときもふたりは仲睦まじく軽いやり取りを交わしているようだった。
「兄さまにだけ話してごらん、実はのぼりたかったのだろう?」
地上へ降り立ったフレデリックはエレノアに耳打ちする。
「もう、お母さまにお兄さまがお茶会へ参加したがっていたと伝えますからね」
「それは困ったな。美しいご令嬢たちに囲まれてひと月は身動きがとれなくなる」
いまだ婚約者の決まっていないフレデリックだ。そろそろ実を固めても遅いくらいだが、彼は身軽なうちにまだやらなければならないことが多くあるからと、あまたの誘いを断ってきていた。彼なりに信条があってのことだから家族のだれもがそれに対してなにかをいうことはないが、世間はもちろんそうではないことは確かだ。
ジョスリンの兄であるソーンゼット卿とまた彼女の婚約者のバーナビー卿とともに、長いこと未婚の令嬢たちのあこがれの的でもあり、多くの母親たちのお目当てでもあった。妹たちはさぞ複雑な心境であったが、一方では彼らを誇らしくも思っていた。
いつかは兄も伴侶を得るのだろうが、そうなったときはそれで寂しくも思うのだろうとエレノアは眉を下げる。
「デクラークの栄誉たる公爵閣下にごあいさつ申し上げます」
フレデリックに続いて木の幹から飛び降りたウィリアムに、ソーンゼット卿がいの一番にこうべを垂れた。バーナビー卿とジョスリンも続いて紳士淑女の礼を見せる。
ウィリアムは小さく目を見開き、それから横でにやにやと笑う義兄を一瞥すると拳を口許へ添えて咳ばらいをした。
「面を上げよ」
落ち着き払った低い声は、耳さわりのいい音だった。威厳を感じさせながらも、どこまでも包容力がある。
気まずそうに前髪をかき上げるが、エレノアはそれが彼の照れでもあるとわかってもいた。
ひとつの運命に関する悲惨な顛末のほかに、明かされたことがもう一つあった。大陸を揺るがすほどの衝撃的な真実であったと言っても過言ではない。
長らく、北の公国の暗黒の歴史とされたアレグザンドル狂大公にまつわるものである。狂症に侵され、慰みのために奢侈にふけるあまり国庫を貪り尽くし他国への侵略戦争を繰り返した人物だ。多くの民から金と食料を奪い、死の苦しみと絶望を与えたとして、クーデター勃発時に即時処刑となりその首は城門に晒されたとされている。
かつてない独裁者であり大罪人として語り継がれてきたが、此度のラダマス内の政変で、アレグザンドル大公はセリフィスと手を組んだはとこのルイ=フェリペ一派によって「レティム」に侵され、そのすべての戦争や政治の責任を押し付けられていたことがリエフ大公家から正式に発表された。
大公の療養発表時、彼は城の牢へと監禁され身体の自由はおろかその命までもルイ=フェリペらに握られ蹂躙されていたことが明らかとなったのだ。また、ルイ=フェリペはアレグザンドル三世の祖母である、マリアンヌ妃の庶子ルイ=オレールを父に持つことも明かされた。病を得て蟄居をよぎなくされた大公妃マリアンヌは、セリフィス旧王朝につながるとある貴族と姦通したことにより秘密裏に毒杯をあおった。庶子であるルイ=オレールはマリアンヌ妃の生家に引き取られたが、長いこと環境に虐げられたことによりアルパ=デルメへの恨みを肥大させていった。それは子に受け継がれ、そしてその意志はセリフィスのものとなった。アルパ=デルメの血を憎悪こそがセリフィスの、神聖帝国の黄金の雨となろうとしていた。アレグザンドル三世が狂症に侵された後も、公の場に姿を現した大公はすでに薬物によって意識混濁状態にあり、ルイ=フェリペらによるただ玉座に座る人形と化していたのである。
失われた多くの命が戻ってくることはないが、故人の名誉を取り戻すために大公家はこの真実を明かし、前大公であるルイ=フェリペとその妻であるシャンレーズ侯爵家のかつての姫を皇族殺害ならびに国家反逆罪として刑に処すことを決定した。そして正統なラダマス建国者の血筋である、アルパ=デルメ家を公爵家として復活させ、悲劇の末に亡くなったとされていた公子の存在を明らかにした。




