11.「運命」
エレノアは夢をみた。懐かしい夢であった。忙しなく馬車に揺られながら金色の海原を眺めている。風そよぎ、きらきらと光る麦浪。透明な翅をもつ、虹色の細長い腹をした蜻蛉目の昆虫があちこちを飛び交っている。
波間のただ中に立つ人々は、エレノアたちにむかって大きく手を振った。彼らを咎める声はない。日に焼けた顔で、太陽に負けじと満面の笑みを浮かべている。やがて海原は白波に変わり、エレノアのまなざしをやわらかく受け止めた。
花が朽ち、いつかぽんと弾ける白い綿を、想像しては胸が熱く、膨らんでいくのを感じていた。
どこまでも青空が続く。甘いそよ風が吹き、遮るものなく燦然と太陽が照り付ける。
世界は美しく、輝いていた。……
事態が急速に変化したのは、エレノアがピッツヴェルド邸で過ごし始めて数回目の安息日が過ぎようとしたころだった。すっかり社交シーズンは最盛期を迎え、王都のあちこちでさまざまな催しが開かれていた。新たな王孫の誕生を喜ぶ祝宴が何夜も連続して開かれていたところである。しかしその明るい賑わいとはうらはらに一つの家門は凄惨な末路を迎えた。
かつて王族が臣籍降下したことにより興った公爵家の没落である。アルバート王太子の主導により、西側四か国の貿易協定が結ばれたという報せが国じゅうを轟かせたその日に、カデリア家は違法植物の使用・取引が明るみになり、隣国セリフィスと結託し王位簒奪の謀反を企てたとしてその爵位が褫奪された。
現王の弟であり、公爵家へ入婿として臣籍降下していたリチャード殿下も、準王族としての地位を完全にはく奪され、生涯の蟄居を余儀なくされた。当然ながら一家はセリフィスへ亡命を果たそうとしていたが、すでに身柄は国軍に拘束され、その捜査と取り調べのために監獄での生活を送っている。
そして、アドリアンはリディストン家から除籍され、メアリアン嬢とともにその罪を償うことになった。
息子らの策略により、レティムに侵されてしまった伯爵夫人の体調は回復に向かっている。投薬期間が相応にあるため、しばらくは療養が必要だが、命には別条がないようだった。リディストン伯爵家は、一連の騒動において被害者であるものの、責任を重く鑑みてセリフィス国境につながるローアン湖一帯の北部領土を王家へ返還し、また爵位の降爵の処断を受け入れ男爵位として再出発することになった。爵位は先代リディストン伯爵の弟君であるアッシュフォード氏が継承している。
バーナビー家の夜会で顔を合わせて以来、その後エレノアがアドリアンと会うことはなかった。あの煮えたぎる溶岩のような感情も、噴火することなくエレノアの身体の内側で冷えて固まってしまった。あっけなくも、衝撃的な別離であった。
事件が落ち着いたころ、父が故リディストン伯爵の残した手紙を読ませてくれたが、伯爵はまるでこのことを予知していたかのように遺言を記していたのだった。自らの命が残り少ないと知って、彼はすぐに息子へ爵位を渡す準備をするでなく、最悪の事態を想定して動いていたのだった。書斎から見つかった故人の手記によれば、彼の息子がとある令嬢に接触したのは彼が病床について間もないころで、そのころからおかしな連中と王都の隠れたクラブで顔を合わせていたことも記されていた。もしものことがなければいいが、彼は息子と親友の娘の幸せを信じつつ、一方では息子を疑い、あらゆる未来を考え動いていたのだった。
「アドリアンが怪しい行動をしていたのは、私も知っていたのだが。まさかこうなるとはな」
かつての婚約者が善良であると信じていたのは、エレノアだけではなかった。弱気なところもあったが、それでも彼は信義をないがしろにすることのない誠実な人間だと、父も思っていた。そう信じていたかったというのもあるかもしれない。
親友が、病床で明かした悩みを、「君の息子を信じようじゃないか」とまともにとりあわなかった後悔を、一連の事件の顛末を報じる新聞をそばに置きながら、ベルウォルズ伯爵は語っていた。
「父上のせいではありませんよ。リディストン伯爵も、同じように父上とともに信じていたでしょう。信じたかったはずです。だれもがアドリアンと、エレノアの幸せを願っていた。これまでもこれからも、二人を見守っていこうとみな思っていたじゃありませんか。それを裏切ったのは、ほかでもないアドリアン自身なのです。彼が選んだ道であり、彼が歩むべき道なのです。われわれには彼を救えなかった」
冷静に言葉を並べながらも、暗い表情をしていた兄の顔をエレノアは忘れない。静かに涙を流す母の肩を抱きながら、エレノアは遠い日のローアンの陽射しを思い出し、そして彼女もまた目を伏せたのだった。
つつがなく日々は過ぎ去り、忙しなくにぎやかな日常がすでにノーゼリアにも戻っていた。
「近い将来、大陸間での正式な国際機構ができるだろう」
というのはフレデリックの言葉で、ピッツヴェルドの邸で件の報道を聞いた日に彼はまっすぐな鋭い瞳で明日を見据えていた。彼の言葉どおり、貿易協定として結ばれた各国の連帯は早いうちから実を結び、大陸間の平和の維持と国家間の協力を目的とする機構の発足の声へと繋がっていた。
大陸を覆った戦火から百余年。かつて国家間の安寧のために秘密裏に置かれていた大陸の“監視者”たちを中心に、この輪は広がり、世界の平和を実現しようとしている。
過ぎ去った日々を思うと胸が締め付けられるが、明るい明日へのまたひとつの始まりに過ぎないのだった。決して、過去は消失しない。エレノアの歩んできた日々は、暗い日もあれど、ずっと今まで続いている。そしてこれからも長く続いていくのだ。
「ごきげんよう、アルパ=デルメ公爵夫人」
夏の日差しがまばゆいロブソン・パークを歩いていたエレノアに声をかけてきたのは、ジョスリンだった。兄であるオーガスタス・ソーンゼットは、彼女の隣にいる男に鋭い視線を向けながら数歩うしろを歩いていた。
かしこまったジョスリンのあいさつにエレノアは眉をさげながら、「ごきげんよう、ルスベリー嬢。この度はご婚約、誠におめでとうございます」と彼女も恭しく返答した。
「ありがとう、公爵夫人」と、返したのはジョスリンの腕をとる男性で、数か月前の輝く夜にダンスをともに披露した相手でもあった。
「バーナビー、いい加減その腑抜けた顔をひっこめたまえ」
ソーンゼット卿が低い声で抗議すると、ギャレット・バーナビーは得意そうに端正な顔を輝かせる。
「いいじゃないか、ようやく私の想いが成就したのだから。今しかない婚約期間を存分に謳歌させてくれないか、わが友よ」
「言っておくが、婚約を許しただけだ。その先は簡単に望めると思うなよ」
そう、エレノアが忙しくしているうちに、ジョスリンとバーナビー卿は婚約を発表した。パーク内で青い鳥を探していたジョスリンも、ついに身近に飛ぶ鳥を見つけたのだった。
放蕩だなんだと騒がれてきた美男子からの求婚は、もちろん彼女の兄であるソーンゼット卿をたいそう憤慨させたが、その兄の猛反対をよそに、バーナビー卿の猛烈なアプローチにより婚約が成立した。彼が長いこと婚約者を決めなかったのは、この友人の妹のためだったのだった。兄の友人程度に思っていたジョスリンも、大胆でまっすぐな想いには勝てなかったらしい。
気高いジョスリンの面差しも、その高貴さを残しつつ、今は幸福にまろみをおびている。
婚約者の隣に立つ彼女の顔を眺めながら、エレノアは自分のことのようにその幸福への喜びを感じていた。
ソーンゼットとバーナビー、ベルウォルズ、この三家の令息たちが実は大好きです……いつか彼らが主人公のお話を……書きたい……ッ!




