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「十分、安静がとれたようで、このごろはピッツヴェルド邸の庭園で元気に過ごしていると手紙があった。ただ、問題がないかと言えばそうでもないが」
「当然だ、なにせ生死の危機に面したのだから。まさかあそこまでカデリアが荒唐無稽な行動に出るとは思わなかったが、いや、この場合はあちらの三の姫と運命の伴侶のご計画と言えばいいか、どちらにせよ、夫人がレティムの脅威に晒されたのは相当な衝撃だっただろうからな」
そう、「レティム」。カデリアが持ち込んだ、死を誘う劇薬。セリフィスが「レティム」を隠しているという憶測は、ノーゼリアについてからもまだ疑り深い人間たちによる過激な憶測の域を出ていなかった。まさか、それがエレノアの元婚約者である、リディストン伯爵子息の運命の相手にかかわることだとは、ウィリアムとて運命のいたずらを憎まずにはいられなかった。
今や安息日を三つ以上またいだ、過日。ウェスト・エンド13番地区でエレノアを襲った男たちは、彼女を陥れようとたカデリア嬢によって雇われた人間であった。腐っても公爵家、かつて王族の臣籍降下によって興った国内有数の家門のやり方にしてはお粗末なやり方で、あまりにもあっけのない種明かしにだれもが別の真の黒幕を探そうとしたが、そのずさんな計画のおかげで「レティム」の重要な証拠を手にすることができたとも言えた。皮肉なものだ。
さかのぼれば、「レティム」の存在を確信したのはメアリアン嬢とリディストンの令息が夜会で乱痴気騒ぎを起こしたときのことだった。アルバート王太子を推す王党派貴族の筆頭であるベルウォルズはもちろん、大陸の“監視者”として中立を重んじるピッツヴェルドも、もはや動き出さずにはいられなかったわけだ。
そうして秘密裏に捜査が進行し、戻れないところまでやってきてしまった。
ウェスト・エンド13番地区での襲撃事件は、実行犯たちの首をすべてすげ替え、あの日の出来事に関してあらゆる人間の口を封じたため、カデリア側は今もなお捨て置かれた町でベルウォルズ家の威信が失墜するのを想像しているはずだ。
「件のご令嬢はアルバート殿下と血縁上は親戚にあたるともいうが、ある意味ではカデリアに同情したくなるな」
奸計を謀るにはあまりにも世間知らずの深窓の令嬢だ。だが、純粋というには悪辣に歪んでしまっている。エレノアを巻き込んでしまったという罪悪感と、悔しさ。そして怒り。ウィリアムは苦虫を噛む思いを抑え込みながら毒づいた。
ユースタスは仕上げとばかりにレンズをシャンデリアにかざし、空虚をのぞき込んだ。
「一の姫は王弟であるリシャール殿下を婿に迎えられ、二の姫はシャンレーズへ。まるで玉座を狙うかのような勢いだったから、そのくらいが均整がとれていてちょうどいいさ。しかしよくよく考えれば、アルバート殿下がこちらの要求を体よく飲んでくれたのも、身の程足らずの野望を完全に阻止するためだったわけか。そう考えると殿下のご慧眼には驚かされる」
いくつもの事情が絡み合い、すでにこじれるところまでこじれてしまった。大陸の崩壊への猶予というのは、実のところあまりなかったとも言えるだろう。
国か、エレノアか。大陸か、彼女か。頭では理性的に考えられるくせに、冷静に判断を下す自信が今はもう薄れていた。そのことに自分で気がついて心の内で苦く笑いながら、ひざに肘突き前傾に身体をかがめたまま整えてあった前髪を一度に崩した。
「カデリアはノーゼリアを、セリフィスはそのノーゼリアと北海を、そうして大陸の西側諸国の覇権を手にしようとした。神聖帝国の再興のために」
神聖帝国――かつて北西大陸に存在した、膨大な領地を誇る国家だ。教会が広く根付くよりも前、ご神体があったとされる中央大神殿をもとに放射線状に拓かれた女神の国。黄金の雨がかつてその地に降り注いだ聖地。いまや朽ち果てた大神殿がセリフィスに残っているだけだ。
北西大陸は、神聖帝国のものと言っても過言ではなかった。その栄華は何百年と続き、そしていつしか人々にとって過去の幻想となり果てた。大神殿の跡地を擁するセリフィスは、過去の幻想にすがり、楽園を取り戻そうと躍起になっている。周囲の国を喰らい、他の大陸に負けない、強大な国家として。
「神聖帝国が崩壊し、幾星霜。よくそこまで恨みを募らせたものだ」
やってられんなとユースタスはモノクルをベストの内側にしまいこみ、カウチの背もたれにもたれかかった。
「なんにせよ、われわれの悲願の達成は間もなくだ。フィスティーユ卿がレティム畑でも押さえてくれれば……」
扉が軽く打ちならされたのはそのときだった。ユースタスが許可を出すと、従僕が入ってきて、彼に手紙を差し出した。
「話をすれば、いいところに」
ユースタスはペーパーナイフで封を切ると、すぐに手紙を読み始めた。それからウィリアムにその手紙を差し出すと、次に従僕になにやら指示を出して室内から追い出していた。
「さすがはフィスティーユだ。仕事が早い」
予想通り、封筒に記された印章は剣を抱く豹――フィスティーユ侯爵家のものであった。
内容は今しがた話していた件についてであり、彼らの期待通りに事が進んだという報告であった。ユースタスは興奮が隠せないのか目が燃えるように鋭く光っている。
ウィリアムは彼のその目を見つめ、それから手紙の二枚目を読もうとして手を止めた。封筒の中にさらにもう一つ手紙が入っていたからだった。
やけに古びた手紙であった。封蝋はすでに開かれており、フィスティーユ家のそれとは異なる。しかし、たしかに見覚えがあった。心臓がざらりと軋んで、ウィリアムは急いで隠された手紙を抜き取った。
そこには掠れた赤黒いインクで、こう記されていた。
<いま 黄金の雨 降りし刻 女神は目覚めん 白亜の城 赤く染まるべし>
ウィリアムは読み終わると立ち上がりロウソクの火に紙をかざした。燃えて消し炭になるのを眺めたあと、躊躇なく眠りについている暖炉へと放り込んだのだった。




