10.安寧を守りし者たち
帰還後のノーゼリアでの生活は、以前にも増して目まぐるしく緊迫した日々であった。
さっさと育った国をあとにしてしまったことで、いくらか煩雑な処理を(もっともこれは完全に自業自得ではあるが)しなくてはならなかったというのももちろんあるが、ついに悲願を果たす日が差し迫っていたというのもあった。
リエフとノーゼリアで結んでいた二国間貿易をより強固な形にする。
ウィリアムがこれまで取引のために東や南へ向かっていたのを他の社員へ任せ、ほぼ埋まっていた予定表をひっくり返してでもノーゼリアへ足を運んでいたのも平たく言えばこの日のためでもあり、大陸の平和と安全を切望する者たちにとっての約束の日でもある。
北西大陸のよく言えば独立性の高い各国の希薄な連帯の中、北の公国、そして西の帝国を含めた四か国で貿易協定を締結すること。そのための会合を秘密裏にノーゼリアで開催する。
そこには経済の発展を促進するほか、国同士の連帯を深め、他国を牽制するという意味合いがある。
世界には三つの大陸があり、東と南、そして北西、あとはいくらか島々が確認されているが、ノーゼリアならびにリエフ、今回集う国々があるのはより広大な面積を誇る北西大陸だ。面積が大きいということは、それだけ異なる部族が存在し個々の生活圏を作り、文化を形成していったわけだが、さまざまな生き方の人間たちが集えばそれに応じて諍いも多くなる。北西大陸には無数の国が群雄割拠し、戦争の歴史とともに崩壊と繁栄を繰り返していた。
大陸の北西を占める五か国もむろんその戦争の上に成り立っている。領土戦争が終結し、もはや百余年。終戦条約の締結後、各国の領土・領域が改められたことはもちろん、新たな国境線に基づいた政治的・軍事的不可侵という鉄則が定められ、民はようやく平和を手に入れ始めていた。ただ、数年、数十年、戦の爪痕が消えはしても、国家間の均衡がひとつでも崩れれば、またあの時代へ逆戻りすることは想像に難くなかった。
そしてその想像は、早いうちに現実となっていた。
大陸の中でも、西側諸国の関係の冷え込みは想像に反して深く広がりつつあり、あとはいつ一石が投じられるか、その一石をどこまで見過ごすか、大義があれば何が起きてもおかしくはなかっただろう。
東はノーゼリア、西は帝国、南のリエフ、北のラダマス公国。このリング状に連なる国々で貿易の協定圏を構築する。西側諸国は東側に対抗することのできる、大きな力を手に入れる。
だが、なによりそれらの国々に囲まれたセリフィスを牽制する包囲網をこれで築き上げることこそが目的であった。
セリフィスとラダマスの対立は、大陸の中でも苛烈な歴史をたどってきた関係の一つだ。近年は穏健派と言われる親セリフィス政治をとってきたが、国家の成り立ちという理由により二か国間には領土戦争以前から争いが絶えなかった。終戦条約が締結され不可侵の鉄則が明文化されてからも、その関係は大きく変わらなかったと言える。
たびたび国境線で戦争が起き、世界に報じられるのはラダマスの旧大公派、「アルパ=デルメ過激派」による侵略行為だった。旧王朝が倒れてからというものラダマスが兵を大挙すれば、その先はセリフィスであり、セリフィスの北部国境線で戦いが起これば、それはラダマスからの侵略である。すべてが蛮族であり「死の国」の使徒であるラダマスによるもの。あらゆる北部の戦争はラダマスから起こされたものであり、そして、それらは「アルパ=デルメ過激派」が指揮していた。セリフィスは侵略行為から自国民を守るため武力でもってそれを制せねばならず、国の平和と安全そして大陸間の秩序のために戦うのである。数えきれないほどの戦いのたび、「アルパ=デルメ過激派」は侵略行為の責任を負い、セリフィスの支援を受け国境防衛軍がそれらの鎮圧に乗り出し、関連した家門の領地や財産を取り上げることで、多額の賠償金をセリフィスへ支払ってきた。これが長らく大陸での歴史であった。
だが、歴史は覆された。「旧王朝の負の遺産である過激派組織」「蛮族によって繰り返し引き起こされる戦争」像というのは、まったくのでっち上げだったのである。ラダマスからの侵略と言われてきた過激派組織による戦争の勃発事由は、いずれも過激派の構成員を偽装したセリフィス側の干渉により起きたことであり、セリフィスはその捏造された侵略行為への対応をもってして過激派へ――ラダマスへ攻撃を仕掛けていたことが明らかになった。
セリフィスと結託したルイ=フェリペ側の奸計により、幾度となく旧王朝にかかわりのあった家門が根絶やしにされ、不自然な形で領地や知財権利、さまざまな利権がセリフィスへと流れていた。
領土戦争以降、北西大陸は秩序のもとに置かれ、平和と安全を享受することのできる楽園と称されることもあったが、いまやもはや薄氷の上に建つ幻影のようなものだ。
さらには前述したラダマスへの不当な内政干渉と侵略行為に加え、近年の各国の国境付近での紛争の乱発。表面上は国内情勢の問題として解決されてきたが、その裏で糸を引く存在こそがセリフィスだったという証拠もすでに各国が押さえている。
多くの国の渇望に近い富と領土への飢えは、過去の悲惨な戦争で暴力的な過激な形でおおむね満たされた。今や、大戦を望む国も少ない。楽園という幻想が崩れつつある中でなお、その幻想を今一度作り上げ現実にしようと動き始めていた。それが、西側諸国における貿易協定圏の構築であった。
戦後秘密裏に定められてきた各国の“監視者”や“平定者”たちがすでに、セリフィスの蛮行を裁こうと腰を上げている。その腰を下ろすのは、もう間もなくか。
ウィリアムはノーゼリア国内でリエフの人間たちとの最終調整に入っていた。
「予定どおり四か国会議は、南の離宮で開かれる」
王都は貴族街にあるリエフ領事館。ユースタス・ウィーズグリーンが差し出してきたのはたった今彼が目を通していた新聞で、ノーゼリア国内でも有数の発行部数を誇る新聞社のものだった。彼らの間に置かれたソファーテーブルにはゴシップ紙から専門紙に至るまでいくらかの新聞が並べられているが、いずれもひとつの話題を大きく取り扱っていた。
「おおむね、順調といったところだな。帝国もすでに南部領入り済み、公国はあすの夜分に到着予定、夜が明けて直接離宮へ向かうとのこと。王太子ご夫妻のご懐妊の慶事に合わせ、各国から使者が集まっているからちょうど国内外の目は欺けたわけだ」
むろんユースタスが渡してきたのもそのとおりで、一面に記載された記事は「国の新たな王孫」に関するものだった。このところの連日の報道でその賑わいぶりがうかがえるが、王太子夫妻の第一子が誕生してから数年ぶりとあって、王家の盤石な存続を期待するとともに王国民の喜びはひとしおであるようだった。
それに従い国内はもちろん諸外国も動きが活発になったが、そのおかげで各国が動きやすくなったのは想像に容易い。続々と祝辞を送る各国の使節に乗じて、此度の貿易協定の綱をにぎる人間たちがすでにノーゼリアに集まっていた。
この国は次代の王に恵まれたなとウィリアムは思う。要人たちが入国しているにもかかわらずいっさい協定に関する話題が新聞にも世間話にも上がらないのは、紙面を賑わす張本人である王太子アルバートの功績があってこそだ。
慎重派路線を行く自国の政治傾向の中で、まずリエフとの二国間貿易を改め双方の連携を強固にする意向を受け入れてくれたのが王太子であり、外交部の要人であるベルウォルズ伯爵とともに貿易関係の在り方を模索し、協定実現のためにウィリアムたちリエフとともに奔走してくれた。
用心深く協定の実現を推し進めなくてはならない現状で、セリフィス派の貴族や諜報員たちの目をかいくぐり自国での会合開催を英断したこともそうだ。二国間貿易から四か国での貿易協定路線への舵取りを受け入れてくれたことはもちろん、そのうえ好機のために自らの妻の懐妊の報道を利用することを辞さなかった。
ウィリアムは新聞を受け取り、ユースタスに倣い目を通すと最後のページに至るまで、会合の話題はもちろんのこと件の貧困地区での襲撃事件にまつわる報道がないことを確認すると、テーブルへと新聞を戻した。
「あちらの件も、侯爵閣下が問題なく進めているって?」
ウィリアムはああと答える。




