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アドリアンとの最初の出会いは、前述したとおり、おそらく一歳にも満たない乳幼児のころのことだろう。
王都のタウンハウスで互いの父母か乳母に抱かれ、顔合わせとは言えない顔合わせをしていたに違いない。そのころの記憶は当然ないから彼との最古の思い出をふり返ることは不可能だが、物心がつく前からエレノアにとってアドリアンはそれほど近しい存在だった。
二十一年もの記憶をたどるには相当な苦労をしなくてはならないが、それでも彼との思い出は考えるだけでいくつも浮かんでくる。
文字を学び、文を書けるようになったよろこびから、毎日のように手紙のやりとりをしたこと。街へ出かけて、互いに似合うものがあれば、購入し贈りあったこと。タウンハウスでの思い出、領地での思い出。
その中でもいっとう鮮明に思い出されるのは、ローアンの湖畔での日々だった。
昨年、アドリアンの父モーリスが亡くなるまで、ベルウォルズ家の避暑は毎年リディストン家の所有する湖畔の別荘で行なわれていた。
両家の父親がまだ爵位を継承する前のただの跡継ぎだったころからその慣習は続いていて、多くの貴族子女が通う寄宿校で二人が顔を合わせその肩を並べて勉強するようになってから、もちろん互いの家庭で子どもが生まれてしばらくは邸から離れられないこともあったが、大人になってからも、社交シーズンが終わり茹だるような季節がやってくるとリディストン伯爵領地の北部にある美しい湖へと両家の馬車は向かっていった。
王都から領地へ、美しく整備された街道は先代伯爵の時代にできたもので、領地経営を学び始めたばかりの若者二人が、競うように互いの能力を高めていく中で成し遂げた功績のひとつだった。
今では数日のうちに王都と領地を行き来できるようになったが、父親たち二人がまだ学生だったころには今よりも倍の時間をかけて通っていたのだという。
王都から両領地に向かうにはほとんど同じ道を通り、やがて左右に分かれ道をたどる。領地視察に行くにも馬車で片道何日間も、それも悪道を揺られなければならないことを考えると、これ以上の無駄はないと若き次代伯爵二人は思ったのだ。彼らの父親たちまでの時代は領地が隣り合っているとはいえさほど関係がなかったために、互いの領地を繋げようなどという考えはもとより、同じ方角へ向かう街道を整備しようなどとは思わなかったが、息子たちは遂に手を取り合うことに成功した。
王国内の貴族とはいえど、結局はうちはうち、外は外だ。自領の特になることはすれど、他領のことなどみな無関心にも近かった。街道を整える案自体はおそらくこれまでの領主たちの頭にも浮かんだだろうが、王都から道を繋げるとしてかかる費用も労力も莫大だ。だれもやろうとはしなかった。だから、若き次代の伯爵ふたりは、協力して領地への美しい道を作り出したことを、楽しそうにそして誇らしそうに子どもたちに語って聞かせた。
道は王都からのみならず両領地を繋ぎ、それまで没交流だった互いの商業や文化を発展させていった。その輪は二領地にとどまらず、地方のの街道整備の事業へと繋がっていった。
百年前の戦争以後、解体され再築されたノーゼリアの各領地を、ふたたび最盛させることに成功したのだ。父親たちが生み出した偉大な業績を、両家の子どもたちは毎年馬車に揺られ美しい景色を眺めながら尊敬し胸をいっぱいに膨らますのだった。
そういうわけで、その輝かしい友情と努力の結晶に守られながら避暑を過ごすのが毎年の恒例で、物心がつくようになってからはいつも夏がくるのを待ち侘びていた。
美しいローアン湖のほとりで過ごす甘美な時間はもちろんのこと、なによりアドリアンと毎日顔を合わせ朝から晩まで長い時間を共にできるのが嬉しかった。
王都でも頻繁に顔を合わせるとはいえ、三区画の隔たりなく、おだやかな湖畔で互いの存在だけを感じていられる。その特別感がなによりの宝物であり優越感とともに安堵を抱かせてくれたのだった。
ローアンでの最初の記憶は、湖畔の広い邸宅で両親と兄に連れられて一人の男の子と顔を合わせた記憶だ。
王都でもすでに何度か顔を合わせていたはずだが、エレノアの中でのアドリアンの記憶は、それがはじめてだった。兄に手を引かれ恥ずかしがるエレノアを、アドリアンはほんの少し早く産まれた威厳からかおおらかにそして鷹揚に迎えてくれたのだった。
あるときは庭園を駆け回り、あるときは湖畔の野原に転げ、またあるときは広葉樹にのぼり輝く水面を眺める。兄とアドリアンに連れられ、おてんばに過ごす夏の日々はなんとも楽しかった。
淑女教育が始まりその頻度は減っていったものの、三人が顔を合わせればとたんに湖畔が騒がしくなるのを両親たちも微笑ましげに見守ってくれていた。
今でも、鮮明に思い出すことができる。
さわやかな湖畔の風が開け放った窓から流れ込んでくる。白いレースのカーテンが、ゆるやかに風にそよいでいる。
静けさに満ちた真綿の空気の中、羽ペンを握りながらまろやかな光を見つめていた。
王都のごみごみとした空気とはちがい、その中に含まれる微粒子さえも澄んでいる。晴れ渡る空はどこまでも広い。
手もとに広げられた紙には家庭教師から教わった外国語が、まだたどたどしい子どもの字でびっしり書き連ねられている。
流れゆく雲を、見つめていた。夏の雲は青空の中ではっきりとその輪郭を浮かび上がらせていた。
やがて、こつん、と壁を打つ音がした。
おもむろに下げた視界に、鮮やかな朱色の花がひとつ手向けられた。あか、白、黄色。小さな手によって、御齢何十歳の窓枠にさまざまな花が並べられていく。
「アドリアン?」
あっという間に、色とりどりの花でいっぱいになった。小さな花屋の完成だ。
エレノアの声かけに、ふっと息を洩らすのが聞こえた。窓枠の向こうから、ひょっこり花屋の少年が顔をのぞかせた。
「おつかれさま、エリィ」
丸い翠色の目が細まる。にいっと無邪気に白い歯を見せて、蜂蜜色の柔らかな髪がたっぷりと光を撥ね返し揺れている。……
ローアンの地での美しい記憶。甘く、穏やかな光の日々。
アドリアンはローアンそのものであり、ローアンもまたアドリアンだった。
成長していくエレノアの、心のいちばん柔な部分を支え守ってきてくれた。