9-2
ウェスト・エンドの孤児院を慰問した日から早くも二回の安息日が過ぎようとしていた。
日ごと陽射しの強さは増し、冷涼なノーゼリアにも濃い夏のにおいが立ち込め始めている。
穏やかなティータイムのあと、フレデリックに誘われエレノアは中庭へと出た。あまり室内に籠っていては身体が鈍るからと午後の散歩に勤しもうと言うのだった。
社交シーズン真っ只中とはいえ、夜会や晩餐会の予定がなければ一日は穏やかなものだ。いつもならば慌ただしい時間も、すっかり落ち着いていて軽い運動をするにはうってつけだった。
兄の手を取りながら、日傘を片手にベルウォルズともルスベリーとも趣の異なる庭をそぞろ歩く。
路沿いに撒かれた砂利と寸分の隙なく美しく整えられた生垣、向こうには灌木林と石積みのアーチが見えてくる。
あおあおとした生垣は自然の迷路を作っていた。風が吹けばその間から風が吹き抜けてくるようで緑の強いにおいがした。路の端にところどころ植えられるのは花ではなくハーブで、頭上から射し込んでくる陽射しは目映い。
邸もこの時間は静かだった。整えられた庭には兄妹以外に人影はなく、思う存分大きな迷路を楽しむことさえできてしまいそうだった。
「どうかしたのか、エリィ」
ふいに足を止めた妹に、フレデリックは顔をのぞきこんだ。
「いいえ、なんでもないわお兄さま」
「そうか。それにしてもこの庭は、いかにもピッツヴェルドといった感じがするな」
太陽が眩しいから、日傘の柄を強く握り直してエレノアは兄の隣を歩く。
幼いころ、母に連れられてやってきたときには、彼とともに一生懸命緑の路をたどった。いい子に座っているよりも、二人とも外で遊ぶほうが得意なたちであった。
成長した今もこうしてすぐ庭へ飛び出してきてしまうのだから、母はいまだに心配事が尽きないだろう。
「増設されたほうのお庭とちがい、こちらは邸ができたときからのものだもの。伯爵時代からの由緒ある造りだから、ここだけは手を出せないとロザリンドおばさまも嘆いていらっしゃったわ」
「なるほど、それでは侯爵閣下はひとつ胸をなでおろされただろうな」
ベルウォルズのタウンハウスよりもはるかに歴史のある邸は、城といっても過言ではない重厚かつ壮健な造りをしている。
数代前の当主が王家への忠誠と戦での貢献を認められ、当時の国王から賜ったという邸だ。現代風の華やかな作りとは異なるが国とともに歩んできたというその歴史に相応しいものであった。
かつて、視界を覆う堅牢な城壁は、まるでひとつの監獄であるかのように感じたものだ。
母の友人であるロザリンドが社交界に名を馳せるほどの流麗な貴婦人であったからこそ、幼いころは不思議でならなかった。どこか異国のようで、慣れるまでは兄から一瞬たりとも離れられなかった。
「エレノアはよく、あのアーチの下で泣いていたな」
「お兄さまとはぐれて、帰り路がわからなくなってしまってね」
「エリィを置いてかないでと言うわりに、いつも先に手を離すのはおまえだったよ」
加えて、今では単純に思える迷路も、当時まだ五歳にも満たない子どもにとっては立派な迷宮だ。
一度迷ってしまえばもう出られなくなってしまうのではないかと初めて来た日には本気で思ったほどで、まさかその場所でこれほど長く過ごすことになるとは、想像もしていなかった。
「一度、侯爵閣下がうさぎを放してくれたの覚えてる?」
「ああ、あったな。必死になって追いかけまわすものだから、あちこち服を破って母上に叱られた」
「あら、破ったのは服だけじゃなかったわ。あそこと、ここと、それからあっちも。生垣にぽっかり大きな穴を開けて、傷だらけになってうさぎを捕まえたもの」
「よくもまあそんなことまで覚えているものだ」
光に当たり、透きとおった兄の髪を見つめながらエレノアは目を細める。
子どものころの記憶と、真綿の中に包まれている記憶と、気を抜けばすべてが混じり合いそうになる。けれどあの日の出来事は紛れもない現実で、エレノアのもとにウィリアムは戻り、そして彼の妻となった。
幼いころ兄とはぐれて泣いていたエリィはもういない。時は平等に、人々の頭の上を過ぎていくもの。戻ることはできず、ただ、歩んでいくのだ。
空白の中に立ち止まり、うずくまってばかりではいられない。
もう、いいかげん、現実を見るときなのだ。
しばらく歩いたあと、葡萄棚のガセボで一休みすることになった。
木陰に入ると暑さはやわらぎ、これからやってくる季節のことをひととき忘れさせてくれる。もう少ししたら、外に出るのもいやになるだろう。熾烈な午後の陽射しは春の城に籠城していたときよりも、よりはっきりと物事の影を浮かび上がらせる。
用意されたティーテーブルに就きティーなしのまま庭を眺めて、テーブルを挟んで隣にはフレデリックが座りなにを考えているのか同じようにして向こうを眺めていた。
なぜ、ここにいるのか。
なぜ、あの日の事件が起きたのか。
あの場所、あの時間……。
何発もの銃弾に襲われたエレノアと、善良な医師や無垢な子どもたち。世間に知られることなく処理された見捨てられた街の片隅で起きたひとつの事件。
結婚式を目前にした婚約の不履行、リディストン伯爵夫人の病気、夜会での乱痴気騒ぎに――「レティム」。
考えているあいだにも世界は動いている。きびきびと使用人たちが紅茶を用意し、二度目のティータイムとなる。室内で飲んだ一般的なブラックティーではなく、今度はさわやかなミントティーだ。西日の最も強い時間の慰みにはちょうどよい選択だった。
準備を済ませた使用人たちは手慣れたようにそそくさその場を離れ、葡萄の木の影には兄妹二人だけとなった。ミントティーは喉が冷えるとかなんとか言いながら、フレデリックはお茶請けとして用意されたナッツの砂糖がけを一粒口へ含んでいた。
「お兄さま、カデリアが“レティム”を持ち込んだのね」
いかにも眠たげにアーモンドをかみ砕いていたフレデリックが、やおら目を瞬いたあと、それからすぐに平静を取り戻した様子でさらに一粒ナッツへ手を伸ばした。
「なぜ、そう思う?」
エレノアはミントティーに口をつける。
「これまで起きてきたことを、冷静に考えてみただけよ」
そう、冷静に考えて、すべてのことがあまりに出来過ぎていると思い至った。
婚約破棄にも、バーナビー家の夜会での乱痴気騒ぎにも、リディストンを除けばいずれもカデリアが関わっていた。
現時点での襲撃事件への関連性はともかく、折を見たような伯爵夫人の体調不良。
父や母、兄――家族が今なお忙しなくしているのは、ただ、エレノアの婚姻のために動いているからだけではない。緊迫した空気がどことなく立ちこめるのも、襲撃事件のためだけではない。
「それだけで事を決めつけるのかい、妹よ」
「じゃあ、何者かがレティムを持ち込んだのは確かなのね」
「そうとも限らないさ」
エレノアは小さく目を回す。「言葉遊びをするつもりはないのよ、お兄さま」そう言おうとして先に、フレデリックが遮って続けた。
「――が、しかし、そうではないとも限らない。知ってしまえば、後に戻れなくなるがそれでも確かめるか?」
いつにない神妙な物言いにエレノアはつばを飲み込むが臆さずうなずいた。
「わたしは、この件に関して決して部外者ではないはずだわ。真実を知る権利があり、同時にそれらを突き止める権利がある。お父さまたちが急いで爵位継承者の変更申し立てをしているのは、なにもアドリアンの卑劣な行動を批判するためではない、そうよねお兄さま?」
フレデリックはそうともそうでもないとも言わなかった。その代わりに礼儀正しく座っていたのをやめテーブルに肘をつき妹から体の向きを逸らした。そうして庭園へ向けるようにして放り出した長い脚を組んだ。




