9.夢から醒めるとき
「大出世だな、我が義弟は」
やれやれといった調子で、焼き菓子を口へ放り込みながらフレデリックが言った。
慣れ親しんだベルウォルズ邸の居間とどこか趣の似たピッツヴェルドの邸宅で、二人は久しぶりにティータイムを共にしていた。父は通常どおり王宮へ、母は夫人たちと社交に忙しい。
またしても自分だけ深窓の令嬢になってしまったものだとエレノアはいたたまれない気持ちを通り越してこの状況に呆れてもいた。
テーブルに並んだ美しいデザート皿の横には折りたたまれた新聞が置かれている。朝一番にアイロンがけをしたものと異なり、すでにインクは褪色し始めている。書かれている言語もノーゼリアの公用語ではない。
「まさかこのタイミングで新たな爵位に叙されるとは思っていなかったけれど、功績を考えれば真っ当なことだわ」
焼き菓子で頬を膨らませつつ、「たしかに」とフレデリックは言った。
「技術革新の時期を思えば、少々遅すぎるくらいか。リエフの国議会にどのような意図があるかはわからないが、それでもまあ、ウィリアム殿が偉大なお方だというのは、まちがいない」
放蕩息子と母から平たく見られる兄からの称賛に、エレノアは口許を手で隠しつつ声を洩らして笑う。
「なんだね、我が妹よ」
「いいえ、お兄さま。我が夫はお兄さまから羨望と尊敬のまなざしで見られていて、ほんと誇らしいことだわ」
照れ隠しだろう、ふんとそっぽを向いたフレデリックに笑いながら、エレノアはテーブルの上へ差し出された新聞に視線を落とす。
リエフの首都で最も大きな新聞社である、ウィーズグリーン社によって出版された新聞だ。
大きく打ち出された見出しに書かれるのは、近日国内で行われた叙爵式のことであり、新たな叙爵者の中にはエレノアの夫である「エイザー・デル・ディ=ソロム=アルムント伯爵」が連ねられている。仰々しいその爵位は、ミュリルーズ子爵であるウィリアム・エーレ・ミュリルーズが新たに賜ったものであり、先の技術革新の際に率先して領地での技術開発を進めた功績への褒章のひとつであった。
隣国では発掘された新燃料をもとに蒸気機関が生まれ、紡績機はもちろん蝋燭よりも何倍も明るい照明や、現在では新たな移動手段が開発されているという。ここだけの話、と以前耳打ちしてきたフレデリックによれば、近い将来、遠方から行き来するのに馬車を乗らなくてよくなるだろうとのこと。
その波がようやく今となってノーゼリアにも入ってきている、といったところだが、ミュリルーズ子爵領では数年前には蒸気機関を利用した紡績業の発展を担い、すでに工業地帯では夜にもかかわらず皓々と灯りがついている。その技術的革新ののちに立ち上げた貿易会社によって、ミュリルーズ子爵は東や南の大陸との貿易を進め、国の経済的発展にも寄与したのだった。
「しかしこの場合長いから、エイザー伯爵とよべばよいのか。ディ=ソロム=アルムント伯爵とよぶべきか。王族に比べればなんてことないとはいえ、これでは夜会で招待客を告げる従僕たちの苦労がしのばれるものだ」
フレデリックは咳ばらいをすると、居住まいを正し、低い声で、「リエフが栄光、エイザー・デル・ディ=ソロム=アルムント伯爵、ならびにミュリルーズ子爵、ウィリアム閣下のご来場です」と言った。
この場に母がいればなんとやら、変わることのない兄の姿にエレノアは一緒になって肩を震わせる。
「そうね、たいへんね」
「そうさ、エリィ。おまえの名前を読み上げるのも一苦労さ。エレノア・グレース・ウィスコットという単純だったのが、エレノア・グレース・エーレ・ラ・エイザー・デル・ディ=ソロム=アルムントだなんて。手紙を書くにも、もしかすると書き損じの封筒が山積みになるかもしれない」
他愛もないことでひとしきり笑ったあと、エレノアは新聞に手を伸ばした。
ノーゼリアで発行されている新聞のおよそ半分のサイズであり、蛇腹折りになったそれは記事面が全部で六面あった。一週間以上前の日付のもので、内容はほとんどが新たな爵位の叙爵についてである。
儀式当日の様子が三面、叙爵者に関する記事が二面、残る一面は国王への賛辞に時事問題。叙爵者の紹介記事には姻戚関係までもが詳細に記されており、エレノアの名は偉大なる功績者の新たな妻として記されていた。
ノーゼリア国内ではいまだ特別許可証の手配が済んでいないが、すでにリエフ側では国議会から発行された許可証へと記入を終えた。ウィリアムがリエフから戻ったその足でピッツヴェルド邸へやってきた日、彼が手ずから持ってきたそれに名を記した。互いに意思を確認しあったすえに、両親と侯爵夫妻のいる前で誓約欄へペンを走らせる瞬間の緊張と高揚は、なんとも表現し難かった。
嫁入りの準備も――といってもこれは以前準備していたものもあるが――結婚式も終えていない身ではあるが、エレノアはすでに令嬢ではなく伯爵夫人として前へ踏み出した。
夫婦となる二人と、証人としてベルウォルズ、ピッツヴェルド、そしてレイヴェンヴェルグ、フィスティーユ、計四家門の署名と印章を載せた許可証は、ウィリアムの侍従であり会社の社長補佐の一人でもあるユーゲントが自国へと提出しに行った。国議会へ直接提出せずともかなうため、レイヴェンヴェルグ領の役所へ出してもらうつもりである。
今ごろ、国境付近を走っているころだろうか。ノーゼリアが大国ではないとはいえ、そう簡単に行き来できるものでもない。最短で、とウィリアムから言われて顔を引きつらせていた侍従の様子を思い出し、エレノアは申し訳ないと思いながらもウィリアムがそう望むのをうれしく思ってもいた。
エレノアは新聞に記された、エレノア・グレース・エーレ・ラ・ディ=ソロム=アルムントの名を指でなぞり、幸福を実感する。
この新聞を発行される日には当然許可証の提出は済んでおらず、それどころかウィリアムもレイヴェンヴェルグ領に着いていないころだったというのに、新聞社に強いつながりがあるかどうかはさておき、堂々と妻として彼女の名前を載せてくれた、その事実がなおのこと嬉しかった。
「しかし、リエフの古代語で“太陽が光を抱く大空”とは、まったく恐れ多い義弟だ」
フレデリックに言わせれば、「退路を断たれたな、我が妹よ」ということであったが、それすらも笑って受け止められてしまった。
逃げ道など必要ない、もう彼以外、伴侶として見るつもりもない。自分はすべて、受け入れた。そして、エレノアもすべて渡すつもりだった。
「ま、ウィリアム殿がついていれば、我が妹も安心だ」
兄はどこまで知っているのだろうか。ウィリアム・エーレ・ミュリルーズというその人が、公国の公子であるということ。そして、ラダマス・セリフィス・ノーゼリア・リエフ……大陸の北西地域で起きていることの鍵を握る人物であるということを。
軽率を装いながらも、ベルウォルズの血を濃く受け継いだ兄のことだ。家を離れているあいだ、教育機関で教育を受けながらいくつもの国へ足を運んでもいたことは記憶に新しい。それが父の補佐としての仕事のひとつであり、また、ベルウォルズがために課された宿命であったとエレノアは察していた。
ウィリアムから半生を打ち明けられたとき、動揺しなかったかと言えばうそになる。
心臓はいやに動きを速めたし、目が回りそうにもなった。しかし、その身一つで自分のもとへ駆けてきてくれた姿をみてこみ上げたのは動揺でも困惑でもなく安堵と歓喜だった。自分が求めていたものがなんだったのか、謙虚で従順な淑女の鎧をまとわずとも手にしたいものがなんだったのか、アドリアンと婚約をしていた二十一年ものあいだ追いかけていた虚像と満たされなかった心の答えを、一挙に手にした心地であった。たとえエレノアが地位や名誉のなにひとつを持ってなかったとしても、ウィリアムなら満たしてくれるだろうと思えるほどに。
もうこの人いがい、ほしくない。この人がいてくれればきっと、自分は生きていける。
おぼろげになった記憶の中で、訥々と話してくれた少年の瞳の色を思い出した。世界のひとつの現実と事実、明け渡してくれた心の深い傷は決して軽いものではなかった。しかし長いまつ毛の向こう、伏せた瞳は明け空の儚くも美しいあおいろだった。
手をつなぎたいと思った。抱きしめて――もしかするとあのころは抱き着いて、と言ったほうが正しいかもしれない――根拠もなく、だいじょうぶ、と言ってあげたかった。無力な自分が情けなかった。そして今も、それは変わりがないが、それでもすべて受け止めようと躊躇することなくしぜんと思えた。
マクシミリアン・ギョーム・ルーヴロア・ヴァラントワール・アルパ=デルメ――それが、両親を政争で失い自分も命を狙われながら、必死で祖国から逃れなければならなかった子どもの名前だ。
ウィリアムという名は、彼の幼名であったラダマス語のギョームを読みかえた呼び方だった。成年になり受け継ぐことになったミュリルーズという家名は、隣国レイヴェンヴェルグにゆかりある家のものであった。
マクシミリアン・ギョームは死んだ。ラダマスで数百年続いたアルパ=デルメ朝最期の公子は、白亜の城に打ち首となった。その陰で、ウィリアムは母親の侍女の子を身代わりに、死んだようにして生きながらえた。彼の中で生きていたはずの少年は、現実ではもはや存在すらなかったものに等しかった。
初代建国の祖である英雄の血を引き継ぐ由緒正しい大公である父と、レイヴェンヴェルグに繋がる公国有数の貴族家出身の母をもち、正統性に欠けるものなどひとつもなく、いずれ公国の君主になるのだろうとだれもが思っていた。
しかし、かつては良主とたたえられた先々代大公一家の末路は、悲惨なものだった。
いつしか心を病み狂気に飲み込まれていった王たる偉大なアレグザンドル三世。幾度もの戦争を隣国セリフィスとの間に引き起こし、民を重税に苦しめ飢餓に苦しむかれらを顧みることなく、自ら贅の限りを尽くすという悪政の末にセリフィスの手を借りたルイ=フェリペに討ち倒された。
雪の降る、寒い冬の火。美しいラダマス建築の城は血の海となった。悪逆非道を尽くしたという大公一家の首は一か月以上、城門に晒された。……
エレノアとウィリアムはさまざまなことを話した。彼の祖国のこと、彼の育ち暮らした国のこと、彼の抱いてきた葛藤や絶望、多くのことを。
此度のラダマスでの政変、動き出した大陸の各国。凪いだ湖面の下、迫る何かが確かにある。
エレノアは、人びとは、時代の動くその瞬間を目の当たりにしようとしている。
「フレディにいさま」
子どものころからの呼び方で兄を呼べば、フレデリックは嬉しそうに顔を上げた。
「ウィリアムさまは、なにがあってもウィリアムさまよね」
ふ、と考え込むようなしぐさをして見せたが、肩をすくめて頬杖をつくと、「おまえの言うとおりだ」と得心顔で言った。




