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エレノアの結婚~「運命」を見つけた婚約者~  作者: 波屋ぽんち


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8-3

 想像していた言葉とは、大きく異なっていた。自分がそうであったように、彼女も「会いたい」と思っていてくれたらと願ってはいたが、常に淑女としての完璧な立ち居振る舞いを身に着けた彼女から、まさかそのように心情を吐露してもらえるとは思ってもみなかった。


 こみ上げる感情は、誰もが思うよりも複雑に絡み合っていた。これ以上にない喜びと感動と、怒り哀しみ、不安、苦しみ。しかしなによりも大きかったのは、愛おしさであった。


 懇願するように額へと押し付けた指先が、やがてその手から逃がれウィリアムの輪郭をかたどるようにたどっていく。頬、瞳、鼻、唇。そうして、差し出された手のひらに、ウィリアムら頬を預けた。


 彼女は微笑みながら泣いていた。どうにもならない感情の糸を、絡まったそれをほどこうにもどうにもできないのだと言うように。



「私も……」



 思いのまま、すべてをさらけ出し後悔しないか。彼女を飲み込んでしまわないか。逡巡は瞬く間に失せていた。



「あなたを心からお慕い申し上げております」



 その涙をぬぐう資格を与えてほしい、そう思った。この瞬間だけでなく、この先ずっと。すべて彼女に捧げよう。


 ウィリアムはレースのグローブに包まれた腕をたどり、その細い肘を掴んだ。レースの下の柔い肌に触れた。しかしその先を暴くことはせず、ウィリアムはついに懇願した。



「どうか、このつまらない男の話を聞いてくださいますか」



 彼女は確りと首肯いた。もちろんです、と薄紅色の唇から溢れた声は感情の発露のすえに掠れてしまっていた。それでも、少しも美しさを損なっていなかった。


 ウィリアムは彼女の手をとり、再び額へとそっと押し付けた。どこか女神へ祈りを捧げるしぐさに似ていた。



「私の生まれは、大陸の北、“死の国”ともいわれるラダマス公国です」



 そうしてウィリアムは打ち明けた。



 険しい山嶺、潮渦巻く北海、厳しい寒さと一年のほとんどを覆う雪。環境的要因から大陸じゅうに敬遠され、蛮族の地とされたその地に少年は暮らしていた。


 今はもう遠い記憶。硝子の向こうに広がる、一面の銀世界。皓々と燃える暖炉の火。揺れる安楽椅子に精緻な柄の毛織物。あたたかな日々。冬が過ぎ短い春に芽吹く草木。枯れた森がわずかに緑を取り戻す、そのときのあおあおとしたにおい。


 父は良き君主であった。母は慈愛に満ちた立派な国母であった。そのふたりのあいだに少年は生まれた。小さな国家ゆえに領土と領海をめぐり長いあいだ戦禍にあったが、ようやく訪れた春に国じゅうが疲弊した体と心を癒しているさ中だった。


 しかし、悲しいことに切望していた安寧は長く続くことはなかった。良き君主は突然の狂気に飲み込まれ、次第に正気を失っていくことになる。暴君と化した君主は隣国との戦火をふたたび交え、血に飢えたように人々を戦争で殺した。民が不安と貧困にあえぐ中、嘲笑うように贅を尽くし、美しき春を瞬く間に喰らい尽くした。


 もはや人ならざる怪物に、民たちが不満や怒りを募らせるのは当然の帰結であった。国家を討とうと反逆の機運が高まっていくのを、誰ひとり止めようがなかった。そして深い雪に覆われたある日、城は新たな君主の手に渡り、国を混沌のさ中に陥れた大罪人たちは一人残らずその場で刑に処された。


 公国の死神とまで言われたアレグザンドル三世。アルパ=デルメ朝最後の大公――彼こそが、ウィリアムの父であった。


 なにひとつ理解していなかったあのころ、あたたかな母の腕に抱かれ微睡さえ感じていたあの日、最も残酷な方法で彼らはこの世を去った。


 城の広間には多くの血が流れ、悪名高き大公一家の首は朽ち果てるまで城門に晒されていたという。むろん、さらされた首の中に、第一の皇位継承権をもつ皇子とみられる幼児の頭も並んでいた。


 ただ、大公妃であるイザベル付きの一人の侍女とその息子が、不自然にも粛清の場から忽然と姿を消していたことには、誰一人――とある軍人をのぞいて気づいていなかった。


 ウィリアムは話した。


 母の歌声が聞こえる、しずかな部屋。ときおり暖炉の火が音を鳴らして小さく弾ける。安寧の象徴ともいえる腕の中で、まどろみながら母の声を聴いていたこと。わけもわからず引き離され、泣きわめこうとする口をふさがれ古びたクローゼットの中に押し込まれたこと。真っ暗な道を、途方もなく進んだあと、気がつけばベッドの上に横たえられていたこと。


 一人の無垢な少年の命と引き換えに、ウィリアムは侍女の手により外祖母の祖国であるリエフへ秘密裏に亡命した。


 長いこと伏せてきた話だ。今さら他人のことを話しているかのようにさえ思えた。しかし、同時に逃げようのない事実なのだった。


 幼かった子どもは混乱し、孤独の中で混乱と絶望を味わった。父と母と、膨らんだ腹の中で育つ弟妹とともに、明るい未来を築くはずであった。それだのに現実は、そのうちのたった一つでさえ彼に残してはくれなかった。


 救いだったのは、それこそ彼が幼かったことだろう。平穏な生活に次第と記憶を失っていく。命の危険にさらされることなく、なにひとつ不自由なく過ぎていく毎日。


 そして、失った過日の真実を知ったのは、少年が祖国から逃れて数年ののちだった。


 新たな兄弟たちに揉まれリエフ屈指の辺境軍で心身共に健やかに(あるいは屈強に)成長した真っ新な布のような少年に、容赦なく、おびただしい量の血に塗れた真実が打ち撒けられた。


 レイヴェンの主に連れられ、初めて城の奥深くにあるギャラリーへ踏み入った日のことだ。父に守られるように重厚な造りの椅子に座る母と自分、母とその両親、兄妹……。レイヴェンヴェルグを背負う歴代の人間たちの肖像画の中に、彼らは存在していた。


 そして、父の若かりし姿絵に描かれた、ひとりの男……。


 あっけにとられ、壁一面に飾られた肖像画たちを見渡す少年に、リエフの銀獅子は告げたのだった。


 民を苦しめ死に至らしめた狂った君主の息子こそ、自分(ウィリアム)である――と。


 父がなにをしたか、どのように国は傾いていったか、その末路はいかに悲惨であったか。しかし、世紀の狂人が行なったのは悪政だけではなかった。


 長く争いの続いた国に、たしかに安寧をもたらそうとした。人々の、子どもたちの、生まれてくる小さきいのちたちの明るい未来のために、自らを呈してでも動こうとした。


 では、なぜ賢君は愚かに成り下がったか?


 政の一切も知らぬ幼子さえ、ギョームという名の小さな公子でさえ、白亜の宮殿に晒し首になった。だというのに、なぜおまえ(ウィリアム)はそこにいるのか。


 与えられたのは、ただの平穏な生活ではなかった。ウィリアムにはたしかに、青き血を持つ貴き者としての義務があったのだ。


 無垢に、堅実に、健やかに育ってきた少年には、あまりに重すぎる現実だった。従叔父に押し付けられた過去と宿命をすぐに受け止められるはずもなく、偉大な彼を恨み、嫌悪さえした。しかし、ウィリアムにはひとつの道しかなかったのだ。


 目を背けることも、背を向けることも、いっそのこと振り切って逃げだすことも、ウィリアムの過去が、ウィリアム自身に眠っていた父や母、弟妹、多くの人間の記憶が、彼らから与えられた愛情が、抱いた愛情が、決して許しはしなかった。


 平和とも言える穏やかな日々のあと、憎悪と絶望のただ中で少年は過ごすことになる。おそらくそれさえ従叔父の狙いだったのだろうが、彼が他人の復讐劇に興味があるわけでもない。あたたかな巣の中で、落ちてきた幼鳥をただ健やかに育てるだけのはずがないのだ。


 彼はあくまで、獅子であった。絶壁の頂上から、子を突き落とす獣王たる男だった。ウィリアムをひとつの駒とさえ思っていたに違いない。それは、おそらく現在でさえ。銀獅子の前では、多くの人間が手のひらで揺動する小さき存在だ。


 何度も壁に突き当たり、諦めようとした。すべて棄ててしまおうと思いもした。初めのうちの激情も、月日が経てば角が取れ丸くなっていった。手負いの獣は、死ぬか、飼いならされるか。いつしか諦念の中で漠然と生きていた。生きていくことに、疑問さえ抱いていた。生まれ、育ち、生来背負ってきた義務を、与えられた宿命を、果たせる力など自分にはない。


 すべて無駄だ。なにもかも、自分にとって無意味だ。ただ、罪と後悔と、懺悔を抱いて生きていくべきだ。――それで、ほんとうにいいのか?


 なにひとつ果たすことなく、多くの犠牲の上にのうのうと暮らしていこうと考えているではあるまい。


 おまえの手を離した母、おまえを抱き息子を残し祖国を逃れた侍女、一国の公子の代わりに是非もわからぬうちに首を差し出した幼子、父の大きな手を、強くたくましく、家族たちを抱いたその腕を、そしてすべてを覆う赤黒い血を罪のない民たちの魂を。すべて忘れることなど、できようか。忘れずになど、いられようか。


 少年は身を割く思いで牙を折り、眠れる獅子となり死んだようにして生きていこうとしていた。



 その少年を、燦然と瞬く太陽の腕が抱きとめた。



「あなたは私の光だ」



 ウィリアムははっきりと一抹の躊躇もなく、エレノアに告げた。



「茫漠とした世界に、射し込んだ唯一の希望。まばゆく、そして、あたたかい……。レイヴェンの地で会ったあのときから、私の心はあなたのもとにあった」



 慰めでもいい、幼い少女のその場限りの言葉だとしても。あのとき心を渡した少年に、それでも彼女は応えてくれた。それだけで、前を向いて確かに生きてこられた。


 二度と会えなくてもよかった。あの出会いを忘れてしまったとしても、それは仕様のないことだった。遠い地で幸せに暮らし、穏やかに年老いていく。彼女が生きていてくれるのならば……。



「その涙をどうか私に捧げてください」



 ――幸せな人生を崩したのは、自分だ。彼女を引き込み、いばらのへ進ませてしまった。



「渇いた大地を潤す、この世にまたとない慈雨を」



 ウィリアムは彼女の手からグローブを抜き取り、その指先に口づけた。グローブの下の指先は、ほのかに桃色に染まっていた。


 とめどなくあふれ、頬を濡らした涙をひとつずつ親指のはらで拭っていく。



「たとえ、イテュイアの目を欺くことになったとしても――この先ずっと、私があなたを守ると、誓います」



 恵みの雨の下、まばゆい太陽がウィリアムを見つめていた。

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