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ピッツヴェルド侯爵邸は、ノーゼリアが王都フェリシティアの北に位置している。王宮から直線に伸びたセントラルストリートの先、緑豊かなジョージ三世・パークが侯爵家の敷地であった。かつてノーゼリアの賢王とたたえられたジョージ三世が、現当主からさかのぼり五代前の当時のピッツヴェルド伯爵に分け与えたのが始まりであり、領地とはべつに王都の広大な自然を侯爵家は代々守り繋いできた。
花々は盛りを迎え、いよいよ緑は色濃く生い茂っている。夜露に濡れた草花と土の甘い匂いが立ち込めていた。夜が明けてすぐの薄明の空に、堅牢な邸が浮かび上がる。街では街灯に火を入れ始めるころか、新聞を届ける少年たちの姿すらまだないだろう。
静謐に満たされた世界をウィリアムは駆けていた。鳥たちが西へ向かう。馬が地面を蹴る音、馬鞍がぶつかりきしみあう音、衣擦れ、そしてウィリアムの荒い息遣い。羽織っていた上衣のフードが落ちるのもいとわずに駆け抜けていく。
やがて馬は邸にたどり着いた。客人たちが行き来する門前ではなく、使用人たちが出入りする裏手の戸口であった。
勢いよく大きな馬が駆け込む。その勢いは、まどろみにいざなわれていた見張りの下男が驚いて腰を抜かしてしまうほどだった。
「ど、どちらさまで」
訊ねられたウィリアムは馬上で懐から懐中時計を取り出して見せた。銀色の重厚なつくりをしたそれを見た下男は慌てて飛びあがり、邸の中へ駆けこんでいく。まもなく従僕らしき使用人がやってきて、ウィリアムは室内へと案内された。
入ってすぐの居室はどうやら下男下女のためのものだろう。レイヴェンヴェルグ城には劣るがピッツヴェルドのタウンハウス――というにはあまりに豪勢だが――もこの街の中では異質な大きさだ。ウィリアムの想定どおり、表とは完全に居住空間が分かれている。限られた者たち以外、使用人というのは基本的には主人や客に見えないように仕事をさせるのだ。早朝ではあるが、馬で駆けてきた男のことを外部の人間は怪しむ余地もない。使用人用口は多くの人間が出入りするのだ。
「三度目に会う従甥が、まさかこれほどの無作法を働くとは思いもしなかったわ」
そうして案内された居室でウィリアムが直立の態勢のまま手袋を外すと、ピッツヴェルド侯爵夫人ロザリンドが現れたのはそれからすぐのことだった。
案内されたのは客間ではなく、いわゆる裏口からすぐの使用人たちの居間で、本来ならば夫人が足を踏み入れることのない場所ではあったが、彼女は化粧着に真紅のガウンを羽織り優雅に扇子を手にウィリアムのもとへ姿を見せた。
「失礼をしてしまい大変申し訳ございません、いとこ違いのおば上」
ロザリンドに応えるように呼称を合わせると、ほんのわずかではあったが彼女は眉を上げまなじりを細めた。そして、「湯を沸かして、それから軽い食事をこちらへ」使用人たちへ指示を出し、一切の人間たちを躊躇なく追い払った。
「表向き、現在エレノアは行儀見習いとして我が家へ滞在していることになっているわ」
いくつかの足跡が遠ざかり、ロザリンドは口を開いた。その名を聞き、ウィリアムはようやく深く息をついた。
ノーゼリアの社交界の重鎮とも名高い、ピッツヴェルド侯爵夫人。レイヴェンヴェルグからピッツヴェルドへ嫁いだ辺境の寵姫であり、ウィリアムにとっては母方の従叔母にあたる。彼女の父である先代レイヴェンヴェルグ辺境伯の妹が、かつてリエフから遠き北方の小国へ嫁いだ一の姫であり、ウィリアムの外祖母であった。
そのロザリンドのもとに、婚約者であるエレノアは身を寄せている。すでに夜会でも目にしたとおり、ふたりの仲は単なる侯爵夫人と伯爵令嬢という他人行儀なものではない。エレノアの母であるベルウォルズ伯爵夫人とピッツヴェルド侯爵夫人の交友は彼女が生まれる前からのもので、ロザリンドはエレノアの代母でもあった。
今回、エレノアが長期間過ごすにも外聞を気にする必要がないだろうことは容易に予想がつく。それでなくとも、ピッツヴェルドに匿ったのはさすがの采配だとしか言いようがない。
何者かによる襲撃があったと報せを受けたのは、叙爵式の直後であった。
リエフでの仕事はいくらか残っていたが、居ても立っても居られず煌びやかなテイルコートをすぐに脱ぎ捨て、彼は予定されていた夜会で再度王の御前に侍ることもせずに北へと馬を走らせていた。
首都から辺境まで、通常数日はかかる道のりを昼夜走り続け、二日とかからずにレイヴェンヴェルグ領へ。儀式すら参列しなかったのだろう元後見人の男がウィリアムを迎え入れ、そうして半日と休まずに馬だけを替えて再び走り出した。ノーゼリアに入り王都に着いたのはそれからさらに二日のことだった。
「命に別状は」
埃と朝露でどろどろになった上衣を脱ぎ、ウィリアムは乱れた髪をかき上げる。
「ちっとも。数か所、擦り傷を受けたけれど、それももうほとんど治癒していつも通りに過ごしているわ。ええ、こちらが驚くくらいね」
髪を撫でつけたその流れで、埃まみれの顔を拭おうとした手が止まる。
戸口のそばで扇子をあおぐ従叔母の顔には呆れではなくやるせなさが滲んでいた。言いたいことがすぐに理解できてウィリアムは眉根を寄せた。
「相手は銃を何丁も持っていたのよ」
従甥の視線を受けて堰を切ったのか、おばはあおぐ手を速めやや潤んだ声を上げる。
商談や夜会の際に見せた上流階級の貴婦人らしい、残酷ささえ感じさせる怜悧なたたずまいは今だけは捨て去られていた。
「それも、一人じゃなかった。何発もの銃弾を受けて、たとえその身に傷がなかったとしても、決して無事であるはずがなかった。それなのに!」
ウィリアムは静かに目を閉じる。ひとつ息を深く吐き出して、長く手綱を握っていたために、黒ずみ、その下で赤く腫れ上がった手のひらを握りしめた。
「相手の素性に目星はついているのでしょうね」
「ええ、数名はその場にいた護衛たちが処分したけれど、うちに一人、夫がお招きしているわ。フレデリックが上手く動いてくれたおかげで――というよりも、これも元をたどれば先に邸へ報せたエレノアの采配なのでしょうね――初動に滞りなく、かつ水面下で速やかに処理できているから安心してちょうだい」
呼吸をしながら、しかし息苦しさを抱えウィリアムは上衣の胸許を強く掴む。
平静を取り戻したのだろう、扇子を閉じテーブルの上へ置いたあとロザリンドは水差しからグラスへ水を注いだ。
「どうしてあの子だったのかしらと、口惜しさが拭えないわ。私は母親ではないけれど、小さなころから、それこそゆりかごの中で穏やかに眠っていたころからあの子を見ていたものだから。何度も、何度も思うの。なぜあの子だったのか、どうしてあの子がこんなにも傷つかなくてはならないのか。あの子は一点のシミさえなく、輝かしいまま嫁いでいくはずだった。他の少女、女性たちと変わりなく」
手ずから差し出されたそれを受け取り、ウィリアムは一息にあおり飲んだ。渇いた喉を、一杯の水が潤しきれるはずがなかった。
「こうしてあなたという眠れる獅子を起こし、その首に手綱をかけてしまったことに関しては、おばとしてはこの上なく喜ばしいことだけれど」
幼い子どもをあやすように、額へ落ちた髪を真紅に彩られた指先が丁寧によけた。
「あの子に、大きな怪我がなくてよかった。鼓動を失うことがなかった、それだけで、感謝しなくてはならないわね」
ロザリンドはため息をこぼし、ガウンの衣囊から何かを取り出した。几帳面に折りたたまれた白い紙の包みであり、中身がなんであれ、薬包の形状であった。
「ウェスト・エンド、13番地区」
そう告げる顔は、すでに親身に令嬢を案じるおばのそれではなかった。
ウィリアムは受け取るとすぐに外套の内側へしまいこんだ。
「襲撃地と同じですね」
「ええ、奇遇にも。ベルウォルズの寵姫が支援する孤児院のある場所だというから、なんともあからさまだとは思うけれど。“良き監視者”として、もはや静観していられる時期は過ぎたようね。レテュイアの御目覚めよ」
空いたグラスにふたたびロザリンドが水を注ぐ。
災いの先、待ち受けるのは、破滅か、それとも――。
やがて若き従僕が軽食を運んできた。同時に用意されたぬるま湯の入った盥の中で手を洗うと、ウィリアムは立ったまま薄切りの冷肉といくらかの葉野菜が挟まれたパンをほおばった。
夜会以来、初めて私的な場で対面したおばは、その野性的な流儀に眉をひそめたが、文句を言うことはなくむしろやれやれと肩をすくめただけだった。
その後は入浴をし、ウィリアムは柔らかな綿のシャツに袖を通すと濡れている髪が乾かぬうちに従僕に連れていかれた。緻密な刺繍の施されたベストも艶やかなタイやクラバットもなしに、まるでレイヴェンの城で兄弟たちと剣を交えていたときのようだと思った。
自分はいま、人を欺くような重厚な鎧も、地位や名声を示すための数々の貴金属も、なにもかも脱ぎ去ったのだ。そうして一室の客間にたどり着いたとき、言い様のない充足感に満たされた。これ以上に必要なものなど、なにもないように思えた。
「エレノア嬢」
カウチソファーの上に彼女は座っていた。白い綿紗のドレスがレースのカーテンから射し込む光に輝いていた。
くつろげられた胸許のその陶器の肌、薄っすら色づいた頬や桜桃色の唇。決して手を伸ばしてはならないような皓々しさと、艶めかしさと。亜麻色の髪がわずかに首許に落ちていた。太陽色の瞳がウィリアムを映していた。
特別飾り立てたものなどなにひとつない。しかし、そうだとしてもその魅力はウィリアムを離すことはなかった。
ソファーの座面に刺繍された鮮やかな色彩の花鳥の模様が、かえって彼女の美しさを強調しているようにさえ感じられた。
つんと上を向いた小ぶりの鼻、心の奥底を見抜くような切れ長の聡明な瞳。丸い額にかかるやわらかなカールの髪。
ウィリアムには、手の届かないほどの美しさだった。けれど、いくらこの身を焼かれ己を滅ぼそうと、もはや失うことなどできないのだ。
「ウィリアムさま」
長いまつ毛がふるりと揺れる。柔らかに微笑を浮かべる。その気丈さがかえって痛々しい。
「怖い思いをされたと聞きました」
「お兄さまったら、ウィリアムさまにも報せたのね」
その微笑が崩れることはない。しかし太陽色の瞳がいまにも溺れてしまいそうだ。
姿勢よく腰かけていた彼女の前にひざまずき、無事でよかったと差し出した手の上に重ねられた指先に口づける。
思い起こすのは、彼女に襲い掛かった悲劇を知ったときのことだ。王城の控えの間へと騒々しく駆け込んできた使いの男。白い紙に刻まれた文字の羅列――歪んだ視界。とうてい、まともに呼吸などできなかった。
ウィリアムが視線をあげると、大粒のしずくがはらはらとこぼれ落ちた。
「お慕いしております、ウィリアムさま」




