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エレノアの結婚~「運命」を見つけた婚約者~  作者: 波屋ぽんち


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8.マクシミリアン・ギョーム・ルーヴロア・ヴァラントワール・アルパ=デルメ

 ウィリアムの中に残る、一番古い記憶は暖炉の焚かれたあたたかな部屋だ。壁紙の模様や天井のシャンデリアの数などは覚えていないが、部屋の隅にはピアノフォルテが置かれ暖炉の近くには安楽椅子がありそこにウィリアムはいた。あたたかな腕の中に抱かれゆらゆら眠気に誘われながら、優しい空色の瞳を見上げていた。


 ギョーム、噛み締めるような呼び声がする。


 お母さま、とウィリアムが答える。


 暖炉の光を浴びて、銀色の髪がほの赤く染まっていた。ゆらゆらと瞳の中で火が揺らいでいた。


 ギョーム、再びその名を呼び、彼女は特徴的な柄の大判の織物をかけた腕の中で息子の体をきつく抱きしめる。



「愛しい子……。どうか、生き延びて……」



 頬が額に触れたのも束の間、妃殿下、と声がかかった。



「もう、そこまで来ているのね」

「ええ。旦那様が今、客間へ案内しておられます」



 子どもながらに思ったことは、これが遊びではないということ。もう一度あたたかな腕の中で眠りたいと思ったが、きっともう無理なんだろうと漠然と悟っていた。


 母の腕から、侍女の腕へ移る。いやだとドレスの胸元を掴む息子を、母親はどう見ていただろう。



「頼んだわ、ロエ」

「はい、殿下」



 母が故郷から連れてきたという、若い侍女に抱かれながら、離れゆく母に手を伸ばしていた。



「おかあさま、おかあさま」



 あれほどにも詳細に見えていた織物の柄が、空色の瞳が、その微笑が彼のもとから呆気なく遠ざかる。


 ウィリアムと同じ年嵩の少年が、母の隣に並んでいた。奇しくもウィリアムによく似た、ブルネットの髪であった。またそれはウィリアムを抱いた侍女のものと同じでもあった。


 そうして叫ぶ子どもの口に手をやり、侍女はクローゼットの中へと姿を消した。


 いやだいやだ、手の中でしきりにくぐもった叫びをあげていた。



「レテュイア様……。 どうかあの子を連れていかないで……」



 世界が闇に包まれる手前、最後に見えたのは母の泣きそうな顔であった。




 父親の顔は、肖像画を通してしか思い出すことはできない。


 半夜を彷彿させるブルネットの髪と繊細でそれでいて精悍な目鼻立ちは、なるほど自分によく似ていると成長したウィリアムは思った。


 祖国を出て、外祖母の実家に身を寄せてから数年。城という名にふさわしい広大な邸宅の奥の奥、レイヴェンの血を持つ人間のみしか入ることのできないギャラリーにその肖像画は置かれていた。


 命をかけて仕える主人の子を祖国から連れ出した侍女は、少年を獅子の腕に渡してすぐにこの世を去った。 残されたのは一本の短刀だけ。 国を出るとき、真っ白な大馬に乗った騎士が与えてくれたものだった。


 その短刀の鞘と柄に掘られた紋様は、遠き日に見たあの織物のそれとよく似ていた。


 記憶はおぼろげになっていく。 確かに好きだった母の声さえ、父の大きな手の感触さえ、もはや今、ウィリアムの中には少しも残ってはいない。 悲しむにも懐かしむにも時間が過ぎてしまった。


  彼の中にただ残るのは、祖国を、彼の唯一の家族を、生まれるはずだった弟妹の命を奪っていった者たちへの疑念と静かな憤りであった。 ふつふつと時間をかけて育ててきた感情は、彼を支配することなくその腕の中で今もなお大事に抱かれている。


 剣を向ける先は十分に仕込まれた。 身のこなしも立ち居振る舞いも、すべてはウィリアム・エーレ・ミュリルーズのもの。 果たして、それを除いた先になにが残るかは、だれにもわからぬことだった。



「行くのか」



 漆黒の上衣に身を包んだ男に、リエフの銀獅子が言った。 すでに辺りの灯りは消えていた。 背を向けたレイヴェンヴェルグ城の数か所がガス灯の光をたずさえている。


 全身を覆う上衣は、ウィリアムを闇の中に隠してしまっていた。 ただ月の淡い光の中で、銀獅子の冴え冴えとした青い眼がウィリアムを捉えていた。



「マクシミリアン・ギョーム」



 その名で呼ぶのは、もはやこの男だけだろう。 尤も人前でその名を呼んだことはなかったが。


 マクシミリアン・ギョームはすでに死んだ。クローゼットに隠れたその瞬間から、もっと前、母の腕から離れたそのときだったかもしれない。確実なのは、もうその名前の無垢な少年は存在しない者になったということだった。


 彼が彼であったときの記憶はすでに薄れ、もはや何者であるかの実感は正直に言えば彼の中にも確かにあるわけではない。ただ、少女に明け渡した心が、彼が彼である輪郭を繋ぎ止め強く線で結んでくれた。


 鋭い碧眼がこちらを見据えている。


 はい閣下、とウィリアムは低い声で答えていた。


 幼いウィリアムを受け入れ、家族同然に育てたこの後見人を、恐れながらもウィリアムは尊敬している。決して見捨てず、強い力で、引き上げ続けてくれた逞しいその腕を。



「果たせ」



 なにを、と訊ねす必要はなかった。 仕草だけで答え、ウィリアムは黒馬に乗って駆け出す。


 向かう先はただひとつ、エレノアの待つ場所であった。




 かつて大陸は小さな一つの果実であった。


 女神は愛する子どもたちに果実を与え、その種子を好きな場所へと埋めさせることにした。種を受け取った子どもたちは喜び、ある子どもは遠い東の海に、ある子どもは南の果てに、残る二人の子どもはお互いの果実を奪い合いながら、やがては北と西へ種を植えると、世界に四つの大地ができあがった。


 できたばかり大地にはなにもなかったが、昼を照らす女神と夜を照らす女神がそれを見て喜び、かれらに見守られながら子らはそれぞれ大地を育んでいった。


 東の海には果てなき砂の大地、南の果てには緑豊かな楽園、北と西の子どもたちはいつもいがみあっていたために、いくら経っても大地は育たない。小さく荒れ果てたまま、枯れゆく大地をそれでもふたりは顧みなかった。見かねた女神は大地を一つにつなげ、手を取り合うことを約束させることにした。次々育っていく東と南の大地と異なり、ひと繋がりになったとはいえ北と西の大地は小さいまま。ふたりはいよいよかれらの大地を慈しむことにした。


 やがて大地は美しく育ち、子どもたちはそれぞれ大地へ「ヒト」という恵みを齎した。女神は喜び、そして彼らを祝福した。女神の子どもたちによって育まれた大地は「ヒト」に愛され、そうして繁栄を続けていった。


 北と西も、同じように恵みを齎した。大地はすぐに栄え、荒野だったころの姿が嘘のように立派な大地になった。


 そのころには、昼も夜も安心して子どもたちを見守っていたが、やがて大地が大きくなるにつれ北と西では諍いが増えることとなった。


 北の大地と西の大地、ひと繋ぎではあるもののかれらはもともと異なる大地を育むもの。大地を愛する「ヒト」たちも違えば、愛する大地も違う。互いの大地を育むがために争うようになり、多くの生き物たちの犠牲を伴いながらかれらは己が大地のため他の大地を略奪していこうとする。


 そこに目覚めたのが、レテュイアであった。


 創造神イテュイアと共に在り、その存在はまたイテュイアでもあった。レテュイアは死をつかさどる女神であり、破壊を象徴するものであり、死そのもの。イテュイアの奥深くに眠っていたレテュイアが、やがて禍いとなり大地を死で覆い尽くした。


 北と西の子どもらは懇願した。昼と夜はそれを断った。しかし、次に東と南に救いを求め、東と南の子どもらは彼らを助けた。レテュイアはふたたび眠りにつき、大地には安寧が訪れるが、もはやそこはかつての大地ではなかった。


 草木は枯れ、大地は割れて窪み、あらゆる死がそこに横たわっていた。子どもら必死で祈った。犠牲となった大地に、女神が子らの慈しむ「生命」がために。やがてひび割れた大地に、一滴の雫がこぼれ落ち、小さな芽が芽生えていく。


 子どもらは今もなお、祈り続けていた。イテュイアが愛した大地がために、レテュイアが慈しんだ大地がために。


 ふたたび、「死」がその地に目覚めんことを……。

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