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「きょう――なんですって」
「“狂症”です。犬が突然狂って暴れ出すものがあるでしょう、あれと似た症状で、急に奇怪な行動を起こすのです。突如機嫌よく歌い出したかと思えば、次の瞬間には猛烈に怒り出し泡を吹いて卒倒する」
百年前の戦争時代、民衆を扇動した王が患っていたという。覇王とまで言われた時代の立役者が、後年、その命を削るほどに狂気に身をやつしたのは、戦の精に魅入られたか、はたまた豪奢極まる生活の産物か。
王侯貴族の間で稀にではあるがその症状が見られることから、民からは“ぜいたく病”と言われているが、原因はいまだ解明されていない。
心身の喪失からなる憂鬱症や神経症などとは分けて考えられ、一種の特異な病とされている。
「彼らの親は、皆、その“狂症”で亡くなったと」
「そうです。ウェスト・エンドの貧民地区で、ここ一か月のことです。トビーの親などは、ある晩突然家じゅうを金づちで壊しまわり、その勢いで奥方を殺めたあと、不気味なほど笑いながら泡を吹いて帰らぬ人となりました」
トビーと呼ばれたのは長椅子に座って空を見つめている鳶色の髪の少年だ。頬は痩け、首や肩など見える部分の骨がすべて浮き上がっている。
デニング牧師によって告げられたあまりにも凄惨な事情に、思いがけず小さく悲鳴を洩らしそうになりエレノアは慌てて息を飲み込んだ。背後に控えていたミリアと護衛のヘンリーが身動ぎをしたのが聞こえた。
「アリーシャは母親が狂ったように酒を飲み――もしかするとこれは酒精のせいかもしれないのですが――その後茫然と座ったまま、息を引き取られた」
彼らの親のほかにも、貧民地区には似たような症状の人々が多数見受けられるそうで、デニング牧師はそのたびに街へ赴いては彼らを弔って回っているという。
「エレノア様にお伝えするか、至極迷われたのですが」
今春を迎え、保護される孤児が例年より増えている報告をエレノアは受け取っていた。此度の慰問は、通常の支援に加えその実情を訪ねてみようとも思っていた。だが、このような実態があったとは思いもよらなかった。
牧師は手紙でも、現在貧困地区で起こっている事態を告げようとしてくれていたという。しかし、事情が事情だ。あまりに凄惨な内容と、そもそも“狂症”の全様が把握できていないこともあり、文にしたためるか迷ったデニング牧師の当惑も致し方ないだろう。それでも、世のご令嬢たちにふさわしくない話であれ、主たる支援者であるエレノアに伝える決心をしてくれたことは称賛に値した。
「とんでもございませんわ」とエレノアは言った。
「お伝えくださりとても感謝しております、デニング牧師。ですが、ウェスト・エンドの状況をどなたか医師の方はご存じでいらっしゃるかしら?」
「それが、ちょうど教区の診療所が閉鎖されることになったのです。どうにか古い友人のドルイド医師に報せを出してつい数日前から人びとを診てもらっていますが、状況は芳しくなく」
「診療所が、閉鎖された?」
「ええ、資金繰りがどうとかで、突然のことで私どももどうしてよいか困惑しどおしで」
牧師の知古であるその医師は現在も貧民地区へ赴き、当該の症状や兆候が出ている患者がいないか調べているという。
“狂症”――戦争の遺物とも、過去の遺産ともいえるそのような奇病が、ウェスト・エンドという狭い地区で同時期に多発することなどあり得るのだろうか。ぜいたく病とまで言われた病気が、だ。
「ドルイド医師と話をすることは可能ですか」
卒中の一種だろうか、とエレノアは思った。異常な興奮状態に陥ったとき、神経性の虚脱が起こり卒倒してしまうことがあると以前書物で読んだことはある。頭には脳があり、全身の動きを司るその分野が突然障害を起こすことによって、発作症状が表れる。
(けれど、その症状ですら短期間に同じ場所で何例も起こるというのは、無理があるわ)
エレノアの知らない新たな病か、集団で罹患するような伝染性の病の一種か。
「もちろんでございます」と、デニング牧師が言った。
「少々お待ちいただくことにはなりますが、直ちに職員に呼びに行かせます」
「いえ」エレノアが小さくかぶりを振った。
「患者もいることでしょう。ドルイド医師のいらっしゃる場所を教えていただければ、わたくしのほうから出向きます」
デニング牧師は目を見開き、手の先で祈りを捧げるしぐさを示した。
「貴女様をあのような場所にお連れしたとあれば、女神様も放っておかれませぬ」
「ですが、もしかすると一刻を争う問題かもしれませんわ。ヘンリー、ゴードンを邸に戻らせお兄さまにこのことを報せるように伝えて、ミリアは馬車からケープを持ってきてちょうだい」
そばに控えていた二人が頭を下げ、聖堂から出ていく。
「ほ、本当に向かわれるおつもりですか」
焦った牧師の声に、子どもたちの一人がこちらを向いた。それを皮切りにいくつかの瞳がちらほらとエレノアたちを認め始めた。
彼らに笑みを返し、「おいしい焼き菓子がじきに焼きあがるわ」と告げると、デニング牧師に向き直った。
「どなたかおひとり、案内をしてくださる方はいらっしゃるかしら」
いよいよ牧師の顔は青褪め、卒倒しそうになりながらその手で祈りを捧げ続けていた。
エレノアたちをドルイド医師のもとへ連れて行ったのは、想定外にも聖堂で呆然と説教卓を見つめていたトビーだった。馬車は目立つため護衛たちが乗ってきた馬で向かうことになり、エレノアとミリアが単騎で、ヘンリーがトビーを乗せ、ウェスト・エンドの街へ急いだ。
馬車の中から見るのと、外で見るのとは当然異なるものだ。貴族街とは打って変わり、昼間というのにもかかわらずあちこちで地面へ座り込んだり横になっている者たちの姿があった。空気はどこか湿っぽく、雨など降っていないはずなのに地面もぬかるんでいる。春の青々としたにおいなど素知らぬふうに、屎尿の臭いが風に乗って立ち込めた。思いがけず顔をしかめそうになって、エレノアは胸が苦しくなった。孤児院へ初めて訪れた年、母方の祖父母とともに街中を見たときよりも酷い有様であった。
孤児院へ顔を出しておきながら、その他のことに目を向けなかったという戒めを、今まさにエレノアは胸に抱いていた。やっぱりエレノアはただの「令嬢」にすぎず、お茶会や夜会、恋やドレスや宝石など、世の中の綺麗な側面にしか興味関心を抱いてこなかった。
自分はなにも、してこなかった――!
叫び出したい衝動に駆られながらエレノアは必死で唇をかみしめてトビーのあとを追った。馬に乗ったまま、エレノアたちは悪路を進みとある邸宅へ向かう。二階建ての住居で、邸宅と呼ぶにはあまりにもみすぼらしかった。窓ガラスはおろか壁には大小問わず亀裂が入り、二階部分は一部が崩れ野ざらしになっていた。その一階が、ドルイド医師の開いた臨時的な診療所のようだった。
馬から下ろしてもらったあと、聖堂での姿とは違って勝手知ったる調子で住居へ入っていくトビーにエレノアは意を突かれるが、彼女たちも少年の後を追って中へ入った。
一台のベッドに、腐りかけのテーブルセット。ベッドの上には一人の女性が横たわっている。そのそばで女性の手首に手を当てる初老の男性がドルイド医師だろう。トビーは部屋の隅で丸くなっていた犬に孤児院から持ってきたパンをやっていた。
医師は突然やってきたエレノアたちに怪訝な顔をしたが、トビーの頭を撫でてやるとエレノアを丁重に椅子へと案内した。どうやら仔細を口にするまでもなく、用を理解しているようだった。
深刻そうな様子で眉間に深いしわを寄せた医師は、ミリアとヘンリーに人除けをお願いした。ヘンリーなどはむろん場を離れることを渋ったものの、エレノアに言いつけられてはそれに従うほかなかった。診療所の入り口に、二人は中へ背を向けて辺りを立哨している。室内は建付けが悪くそこかしこから風音がしていた。使い古されたテーブルは、元の色がわからないほど黒ずんでしまっていた。
横たわる患者の横で、口を閉ざしてしまった少年が無邪気にも犬へ肌を寄せている。微笑ましく、また、哀しい光景だった。
「デニングにはまだ告げていないのですが」
話し出した医師の声に、犬が顔をあげた。
「おそらくこれは、“レティム”のしわざです」
「“レティム”……創世神話の?」
トビーが犬のあごを撫でている。ドルイド医師は首肯した。
死をつかさどる女神「レテュイア」。彼女はかつて生をつかさどる女神「イリステア」と並び、人々から尊び慈しまれていた。
「女神の名を与えられた、この世に数少ない妙薬。もっとも、一般的には別の名で知られていますが」
医師は口には出さず、テーブルにその名を指で書き記した。まさか、言葉を失ったエレノアに彼はつづけた。
「およそ百年ほど前でしょうか、北方戦争のさ中、東の大陸から“レティム”はもたらされた。もとは鎮痛作用ある薬として用いられる薬草の、亜種として」
「しかし、ミスター・ドルイド。“女神の息吹”は、わが国では禁止されているわ」
レティム――かつて、全線で戦う兵士たちの必需品として知られていた、“女神の息吹”という麻薬だ。気分の高揚をもたらすことから、戦争での恐怖心に打ち克ち勝利へ導くものとして用いられた。死と隣り合わせの毎日、神経をすり減らし命を削り祖国のためを思い戦う兵士たちにとってそれはまさしく女神の祝福であった。粉末にしたそれを一息にあおれば、たちまち女神の吐息が感じられるだろうと彼らはこぞって常用した。戦には勝ったものの、後に残ったのは多くの亡者のような廃人であった。
悲惨な戦の末路に、大陸の列強国では“女神の息吹”の使用はおろか輸入・栽培すら禁止された。
「レティムの厄介なところは、ちょっとやそっとじゃ人を殺せないことです。だから戦争にも用いられたといっても過言ではない。軍の士気を上げたいのはいいが、肝心の駒たちを死なせてしまっては元も子もない。わずかであれば精神不安を取り除く妙薬、一定量を毎日服用したとして、悪くとも廃人になる程度」
だが、その女神からの祝福が、結局は多くの死を手招いた。人々は領地の奪い合いに熱狂し、死の恐怖すら感じることのないまま犬死にし、やがて平和が訪れたあとも街には廃人と多くの寡婦や孤児があふれた。国が大きく豊かになると見せかけ、何万、何百万、もしかするとそれ以上の命が犠牲となった。女神がもたらしたのは、果たして祝福であったか?
「では、なぜそのようなものが、今になり、この場所で? この地区の人々にそれを与えて何の意味になるというのです?」
「レティムが見つかるとき、それは国が大きく動くとき」医師は大きく息を吸った。「東の大陸では、この薬草が名もなき毒として、宮廷で多く用いられた。致死量を与えられとしても、彼らはただ享楽に耽り、その心の臓を破裂させたのだと、宮廷医たちもレティムの罪を暴き追及することはかなわなかった。彼らは、傲慢な欲深い人間の犠牲となった」
やる瀬なくかぶりを振って、ドルイド医師はトビーと寝台に横たわる女性を見遣った。
いったい、だれがこのような状況を信じることができただろうか? 王都の片隅で、鮮やかな生活の裏で、なにが理由で罪なき人々を死に追いやることができるというのか?
「不敬を承知でお訊ねします。この地区へレティムを流し、得をするのはどなたですか」
医師はエレノアから目を逸らすことなく、まっすぐその目を見据えて言った。
「得、ですって?」
言い換えます、と彼は躊躇せず続けた。
「多くの大人たちが町から消え、取り残された子どもたちが行く先はどちらでしょうか」
エレノアは目を見開いた。「ヘンリー!」ただちに外に控える護衛へ合図を出そうとした。しかしそのとき、パアン、とけたたましい破裂音がすぐそばで響いた。
「伏せてください、お嬢様!」
トビーが耳を押さえてうずくまっている。雑種の犬は、怒り狂ったように吠え続けていた。素早い動きでエレノアをテーブルの陰へ押しやったドルイド医師だが、エレノアはその手から逃れて部屋の隅へ、悲鳴すら上げることのできない少年のもとへ駆け寄った。
無我夢中だった。何度もの発砲音の中で、少年の小さな骨ぎすの身体を抱きしめながら、エレノアはウィリアムの夜明け空のような瞳を強く思い描いていた。




