7.女神の息吹
屈辱的な夜会からすでに日が経っていた。新聞は面白おかしく醜聞を載せ、街には不名誉なうわさが流れ始めていた。
<“B”伯爵令嬢は、鼻持ちならない高慢な令嬢? 長年連れ添った“R”伯爵令息に愛想を尽かされ、婚約破棄の申し出を突き付けられた?>
社交界の真実という見出しのつけられた記事は、夜会の直後、日を待たずに王都へ広がった。
「奴ら新聞社を抱え込んだか、それとも、もともとこうする予定だったのか」
兄フレデリックなどは心底忌々しげに吐き捨てたが、たしかに新聞に掲載された「真実」とやらは、“B”伯爵令嬢を貶めようと明確な意図がなければ書くことができなかっただろう。
バーナビー侯爵家でのあの夜、少なくない貴族たちが目撃したのは、公爵家の令嬢とその婚約者の令息が泥酔した状態でやってきた挙句、品位の欠片もない様子である伯爵家の兄妹を侮辱した光景だ。もとより不参加を告げていた賓客が唐突にやってきたと思えば、わあわあと喚き散らしながら夜会を破壊していった。
たとえ当該の伯爵令嬢に対しあまり良い印象を抱いていなかった貴婦人でさえ、その光景は衝撃的であり、酒精に狂わされただろう男女の姿に恐怖の意を感じたに違いなかった。
あの場を見ていた人間ならば、到底、件のような記事を書くことはできなかっただろう。侯爵・伯爵家の嫡子のみならず、彼らの両親、祖父母、つまりは当主夫妻や先代当主夫妻、そして彼らと婚姻・婚約を結んだ先の家の人間、多くの地位ある目撃者が存在していたのだ。そこにはバーナビー侯爵令嬢の婚約者である、国防を担うスタインウォール公爵家の後継者までもが含まれていた。そうした状況下で、事実を歪めるには相当な勇気と覚悟が必要だったはずだ。
「こんなくだらない話、だれも信じちゃいないさ」
と、兄は言ったが、関係者たちが公には口を噤んでいることから、卑劣な記事に火がつき、今では王都中を覆っている。
女神の眷属の名を抱いた都市が、斯様な醜聞で燃えるとは。
エレノアはいまだ信じられない気持ちを抱きつつ、あの夜が現実であったことを実感していた。
生まれたころから共に育った彼は穏やかで、心優しい人間であった。幼少期の教育で目一杯の少女を色とりどりの花で労わる気遣いをできる人間であったはずだったのだ。しかし、温和をその身で体現していた彼が、あれほどにも露悪的な人間に変貌してしまうとは。
たしかに、婚約の破棄を申し出てきたとき、その片りんは見せていたが、あまりの変化にいまだに思考が混乱してしまう。
アドリアンは、優しかった。
誠実だった。
けれど、もしかすると自分は仮初めの姿を見ていただけで、実際にはそちらのほうが彼の性根だったのかもしれない。長年、彼に勝手な印象を抱き、作り上げた偶像を慈しんでいたのは自分自身だったのか。
手を取り合って伯爵家を盛り立てていこうと幼いながらに熱心に語り合った思い出は、いまや鈍器によって粉々に打ち砕かれてしまった。
深く案じることはないと兄や友人たちは言ったが、エレノアはあれからずっと考えていた。考えずにはいられなかった。新聞に書かれた記事は意図的な悪意があるのは確かだとして、「愛想を尽かされた」というのは事実でもあったからだ。
どこかの時期に、エレノアの知らない場所で公爵令嬢と出会い、彼は親交を深めていった。ただの社交儀礼上の付き合いであるならばまだしも、男女としての性愛を彼らはそこに見出してしまった。エレノアとアドリアンの間にはすでに超えることのできない深い溝ができていて、それを修復することもなく、その機会を与えることもなく、彼は別の女性の手を取った。
一心に彼を信じていた自分は、なんだったのか。そもそも、信じていたもの自体が虚像だったのか。このように考えることこそが、鼻持ちならない高慢さを生み出しているのか。エレノアはどこで間違えたのだろうと考えてはひどい悲しみと無力感に苛まれ、ウィリアムのいない日々をただひたすら空虚に過ごしていた。
この際、領地で静養するのはどうだろうと、うわさを耳にした叔父家族から心配とともに提案されたが、それでもエレノアは諦め悪くも王都でウィリアムを待っていた。
リディストン伯爵夫人の体調が優れないというのを聞いたのは、夜会から二回ほど安息日を過ぎた日のことだ。多忙にしていた父セオドアが数日ぶりに邸へ戻ってきて、皆で晩餐を囲んでいると深刻な面持ちで重い口を開いた。
曰く、ベッドから起き上がれないほど衰弱し、意識が朦朧としてしまうことがあるという。
その話題になってすぐに母グレイスはすべての使用人たちを下がらせ、晩餐室には家族だけが残った。
「心労と激務が重なって、ということでしょうか」
フレデリックはセオドアに訊ねた。
「医者はそう言うが、夫人と私の見立ては違う」
静かに口許を白布で拭った父に、フレデリックは顔色を変える。
「まさか――」
「おそらく、想像どおりだ。証拠はまだ確保できていないが、関わったであろう使用人を数名、こちらで捕えて事情を訊いている」
堪えきれず、母が隣でわっと顔を両手で覆った。嗚咽は聞こえないが手や肩が震えていた。
「夫人はどうなさるのです、タウンハウスを離れて療養というわけにはいかないのでしょう」
信じがたい。否、信じたくないというのが本音だった。
父が日夜家を不在にしていた理由や兄が深刻な顔つきであちこちに出かけていた目的を、エレノアは心のどこかで察していた。察していながら、結局なにもせずにいた。
ただの醜聞で済めばよかったものを、侯爵家での夜会で起きたことは、ベルウォルズ伯爵家のみならずその場を主催していた侯爵家や参加していた貴族たちにとって断じて許せるはずのないことであり、社交界はおろか国を、政を担う貴族院をも揺るがすほどの事件に発展したのである。
貴族院に属する家々は当然この動きを見逃すはずがなく、これを機に長らく公爵家として地位と権力を擁してきたカデリア家をその椅子から引きずり下ろそうと画策する派閥も出てくることだろう。
ある種、「だれも信じちゃいない」という兄の言葉は正当であり、まともな貴族家であれば馬鹿馬鹿しい三文誌の記事を鵜呑みにすることはなかった。なかった、のだが、それでも煽情的な記事はエレノアの感情を揺さぶることに成功してしまった。
家族が奔走するあいだ、自分はいったいなにをしていたのか。
現実はボールルームよりももっと広い。たとえば海原に漕ぎ出で、どちらに風が吹くのか、風はどこから吹いているのか、それらを見極めるのと同じで、社交界がどう動くか政局は世情は……常に目と耳を凝らし選択をするのだ。自らの浅慮さにエレノアは打ちひしがれた。
しかしもはや呆然と立ち尽くすわけにもいかないのだ。
「しばらく、夫人には我が伯爵家の人間をつける。領地や爵位のことなど諸事の仕事があまた有るため、やはり邸を離れることはできない。ただ、それらはベルウォルズの人間の補佐のもと、ブラウン氏が代わりに請け負う」
新たな名を耳にし、エレノアは目を開いた。
「ルイスのおじさまが?」
「ああ、領地から呼び出し、明日には執務につく予定だ」
ルイス・ブラウンというのは故リディストン伯爵の実弟であり、領地で診療所を営むブラウン家の長女と結婚し、自身も医師として働いていた。貴族としての責務の有無はともかく、領地の経営からもすでに遠く離れた生活をしてはいたが、勤勉な性格と確かな能力はエレノアの父もよく知っていた。
「ということは、父上」
フレデリックが神妙な声を出した。
「……ああ、夫人には爵位継承人の変更を貴族院へ提議してもらう」
身の毛がよだつような、静かな衝撃というのはこういうものなのだろう。
「お父さま、それは、可能なのですか。伯爵がお亡くなりになられた今、爵位継承位を覆すことなど……」
セオドアはかぶりを振った。それは否定ではなく、ある種の逃避に近かった。
「もとより、リディストン伯爵の遺言は条件付きのものであった。ただ、夫人も私も彼が亡くなった時点では覆す必要などないと思っていた。だが、このような状況になり、夫人との話し合いの末、もはや庇い立てできないと結論づいた」
約一年前、故リディストン伯爵の葬儀のあと、親族たちが集められ遺言が執行された。遺言執行人としてベルウォルズ伯爵セオドア・ウィスコットが指名され、親友であった故人の遺志を公開した。
遺言は資産や領地に関することが主であり、主たる相続人、つまり推定相続人には唯一の嫡子であるアドリアンが指名された。
エレノアは父伝手に後からそれを聞かされた。
ベルウォルズ伯爵家の令嬢エレノア・グレース・ウィスコットを妻に迎え、共にリディストン伯爵家の繁栄に努めること。
そのとき、父は言い聞かせるようにエレノアに強く念を押した。
アドリアンにはエレノアがいなくてはならない、とにかく彼を支えてやりなさい――と。父の言葉はただ、貞淑な伴侶としての心構えであり、父親を亡くした幼なじみへの労わりと愛情なのだと、エレノアは思っていた。
「アドリアンはもしや」
「むろん、推定相続人から排除し、提議が承認されれば彼はリティストン家から除籍となる。すでに裁判所へは遺言の再執行を申し立てており、正式に受理された」
つまり、事はすでに動き出している。リディストン伯爵家のタウンハウスで、エレノアが荒唐無稽な彼の告白を押し付けられたとき、こうなることをだれが予想していただろうか?
アドリアンの幸せのためだからと身を引く決心をしたエレノアを家族は許し、彼らもまたアドリアンの新たな門出を様々な思いがあるとはいえ受け入れたのだと思っていた。たとえ、アドリアンが見初めたのは昔王族の臣籍降下によって興った公爵家の三の姫であり、伯爵家とはいえ格下のベルウォルズ家から抗議を申し入れるなど至極困難だったとしても。彼は彼の幸せを掴もうとした。そしてその彼の選択を、彼らは尊重した。そうではなかったか。
アドリアンが、リディストン伯爵家から事実上の追放となる。長子相続が前提の爵位継承法において、廃嫡という手段はそう簡単に許されるものではない。厳格に法律が定められているうえに、長子相続という絶対的な枠組みを超えることは非常に難しかった。それに加え、跡継ぎたる長子を廃嫡し一族から除籍処分とするのは貴族として著しく不名誉であり、現実において長子側に重大な瑕疵があった場合でも、よほどのことがない限り彼らを外へ出すということはしなかった。それが、貴族というものであった。
たとえ、偶然にも長子が病や事故で逝去する例があったとしても、歴史上、貴族院を通し継嗣たる推定相続人に除籍を申し立てたという例は、この数十年のうちに一件もなかった。
「でもお父さま、万が一条件の不履行があったとして、婚約の解消だけでは根拠は成り立ちませんわ」
たとえ条件としてエレノアとの結婚が責任づけられていても、法律上の身分に関する行為に対しては条件自体が不当となる場合がある。
前例がないため確信を持って言うことはできないが、ただ婚姻がなくなったというだけで家から追放するというのはあまりに荒唐無稽なのではないか。
しかしセオドアはワインに口をつけると、「問題ない」と答えた。
「あれはカデリアと婚約したのだから」
エレノアは密かに眉をしかめるが、それ以上父はその件に関して詳らかにすることはなかった。ただ、エレノアたちに向かって、この件に関するすべての話に口を閉ざすこと、余計な詮索はしないこと、そしてカデリア嬢の生誕祭には事が片付くだろうと静かな声で言った。




