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エレノアの結婚~「運命」を見つけた婚約者~  作者: 波屋ぽんち


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6-3

 地位や権力というものは常にウィリアムにとって範疇の外側にあるものだった。それは決して自分に属することはなく、それらもまた自分を属し得ない。硝子の向こう側にあるもので、自分からは一番遠いところにある。


 近くにあると言うのならば、それはきっと虚像に違いない。硝子に映った先の、妄想の産物。対になった自分の、自分ではない何か。


 爵位を手にしたのも、それが必要であったからであり、すべてが終わればいずれは手放していたものだった。自分は人々の記憶に名を刻むことなく、歴史の裏で闇に葬られるべき者。なにひとつ残すことなく、手に入れることなく、ただ目的がために生きる。


 もとより、死んだはずの人間であったから。


 今もその気持ちは、ほぼ変わることはない。硝子に手を伸ばしたところで、虚像を掴むことなどできないのと同じで。


 ウィリアムがリエフという国で暮らし、かれこれ二十五年ほど経つ。そのうち王宮へ()()()召喚されたのは片手で数えられる回数にすぎない。


 ただの食客としてリエフ最大の城砦レイヴェンヴェルグに滞在していたころはもちろん、貴族の末席にその名を記すことになった後でさえ。爵位の継承のために一度、それから先の技術革新の際、特別に宮中晩餐会に招待されたとき、そして、今回。伯爵位以上を持つわけでもない一貴族にとって、象徴とはいえ一生に一度でも王族に拝謁できれば御の字だ。ウィリアム・エーレ・ミュリルーズは、あくまで田舎の子爵にすぎないのだから。そしてそれはこの先も変わることはないはずであった。



「領事館を通じて依頼が来たときは新手の悪戯と思ったが、ここまできてはもはや疑いようがないな」



 眼鏡を外し、今しがた目を通していた書類から顔を上げたのは、フィスティーユ侯ニクラウスだ。


 議事場に執務室を持つ人間は数少ないが、フィスティーユ候はその中でも一等広い部屋を賜っている。


 貴族の邸のサロンと言っても憚らない規模で、肘掛け椅子や寝椅子はもちろん飾り棚やティーテーブルなどそれぞれの調度品が深褐色のヤニクスで作られていた。色の深さ、艶、そのどれをとっても格式高い様は、国内最高のヤニクスを使用しているとひと目見てわかる。


 女神信仰の深いノーゼリアに比べればいささか慎ましく、また昨今流行となりつつある神話時代的な観点から言えば、暗く硬質な印象を与えるが、いかにもリエフ式のそれも軍港であるヴレストを抱えるフィスティーユ侯らしい一室であった。


 室内には彼ら二人しかおらず、しかしながら後ろで手を組みつんと顎を上げて直立不動にしている「弟」に、フィスティーユ候は柔和に笑う。



「父上に会っただろう。お前が戻ると聞いて、滅多に顔を出さない場所にまでやって来たものだから、皆萎縮してしまって大変だったんだ」



 温かみを感じさせるブラウンの髪は、苛烈な父親と較べると賞賛したくなるほどに優しい色だ。日に当たると銀色に瞬く色調は父親と母親、両方の血をうまく受け継いでいる。


 血の繋がらない、「兄」のうちの一人。幼少期、ただ居候として過ごしていただけなのだから、もちろん書類上でも実際の兄弟にはなり得ない。それでもレイヴェンの子獅子たちは、巣穴に転がり込んできた小さな狼をよくよく可愛がってはくれた。


 ウィリアムを見る瞳は、青白色をしている。辺境伯家は濃淡はあれど代々青い瞳をしているが、彼はその中でも隣国の侯爵家に嫁いだ叔母であるロザリンドの色によく似ている。


 ただ彼らに共通する特徴の中で、この次兄だけは垂れたまなじりを持っていた。兄弟の中で唯一()()()()()()目をしていたために、優男と揶揄されているのをウィリアムもたびたび耳にしていた。



「兄上には大変、お世話になりました」



 礼儀正しく口にしたウィリアムに、フィスティーユ候は苦笑を深める。



「ここ一か月は議場が騒がしかったが、お前によって齎された功績に比べれば、蝶の羽ばたきにも満たないさ」



 柔和な見目やふるまい、そのどれをとってもいささかレイヴェンらしくはないだろう。顔に大きな傷をつくり、毎日のようにいっとう巨大で丈夫なレイヴェンの馬を乗り回す長兄とはまさに正反対だ。しかし、あの城にいてただの凡夫に育つはずもないことも確かだった。


 実際に、少年期を獅子の城で過ごしたウィリアムは、この次兄が兄弟たちに負けて涙を呑む姿を一度も見たことがない。兄のヨハネスはもちろん、勝気なルートヴィヒでさえ彼を相手に勝負をしかけようとすらしなかった。彼こそ兄弟の中で最も弁が立つ強者であることは、現在、彼の得た地位からしても一目瞭然である。


 リエフの守護者たるレイヴェンヴェルグ家の次男であり、歴代多く文官を輩出しながらも海軍の指揮権をも有してきたフィスティーユ侯爵家へ婿養子となった男。その能力と人望の篤さから国議会の議官に抜擢された。


 幼いころ、荒涼とした土地で拠り所のないウィリアムを根気強く励ましてくれたのは、ニクラウスでもあった。彼自身、銀獅子の息子らしくひと通りの武芸に精通していたが、厳しい鍛錬に倒れこむウィリアムを幾度となく助け支えてくれた。今でも、この次兄には頭が上がらない。


 そして今は、ウィリアムにとって上官であり、信頼に足る人物であり、運命の糸を握る人間の一人である。



「許可証はすでに用意している。提出には新婦となるベルウォルズ嬢の直筆の記名と、新婦側の保証人二名の記名並びに印章の押印――つまりは貴族籍を持ち、かつ爵位を証明できる人物の許しが必要となる。また、本人の記名も正式な名称でなくてはならない。君が記入するのも、陛下からの叙爵後がいいだろう」



 ウィリアムは丁重に感謝を述べて受け取り、傍へ丸めて携えた。



「叙爵といえば式典だが、急に決まってすまなかったな」



 今回、国議会から召喚状が届いたのは、爵位にまつわる諸事のためだった。事が落ち着き次第、新たな爵位が授けられるだろうと目の前の男から聞かされてはいた。技術革新の一端を担った功績を称えることから、ウィリアムのほかにも叙爵者は数名その名が挙がっていた。


 当初の予定であれば、半年かもしくは一年後か。国内外の情勢によって(そして此度のノーゼリア滞在のため)日程が不確定であったのだが、急きょ叙爵とそのための儀式が行われることとなったと領事館に報せが届いたのだった。


 諸般の都合上、ノーゼリアを離れることは控えたかったのだが、秘書官や従僕に代理を頼むことなく馬を走らせたのはこのためであった。



「特別許可証の請願が届いて、すぐに議会で議題に上がったんだ。これには陛下もとても乗り気でね。そのおかげか滞っていた叙爵に関する議論が早急に解決した。君には一度戻ってきてもらうことになってはしまったが、まあ許してくれ」



 とんでもない、とウィリアムは言った。想定外の出来事ではあったが、自らの行動による結果であるため受け入れていた。



「度重なるご配慮、心より痛み入ります」



 フィスティーユ候は笑みを絶やさず、「ほかでもないヴィルヘルムのためだからな」と言った。



「次に会うのは、叙爵式の日かな。手続きもいくらかあるし、しばらくはこっちで過ごすだろう? 忙しないとは思うが、どうか少しでも身体を休めてくれ」

「有難く存じます」

「晩餐にでも招待したかったが、まあ、それは奥方と帰ってきてから正式に招かせてもらおう」



 張り詰めた議場の空気からすると、格段に和やかであった。そのまま場を締めようとフィスティーユ候が軽く手を挙げたところで、慌ただしく扉が打ち鳴らされた。


 刹那にして、室内は緊迫の様相となった。身じろぎすることなく二人は目を合わせると、「入れ」とフィスティーユ侯が応えた。



「失礼致します。首都のミュリルーズ邸から使いがやって来ております。急を要する報せのため、急ぎ拝趨したとのこと」

「通したまえ」



 扉が開き、男が一人勢いよく頭を下げた。急いだからかその肩が大きく上下している。仕着せを着たその男は、たしかにウィリアムの雇った首都邸の人間であった。


 男は言葉を紡ぐ余裕もなく、室内へ立ち入るとすぐにウィリアムへ一通の手紙を差し出してきた。



「部屋を用意するかい、ミュリルーズ卿」

「いいえ、こちらで構いません。ただ、すぐに人払いをお願いしたい」



 ふむと首肯したあとフィスティーユ候はその場にいた人間たちに目配せをする。ほどなく執務室にはウィリアムとフィスティース候の二人だけとなった。


 先ほどと打って変わり、重苦しいまでの空気が室内に張り詰めた。



「まさか、ついに見つけたのか」

「――ええ」



 封を解いた手紙の中には、ただ一言。


 

〈女神の祝福、今、齎されり〉



 走り書きの筆跡ではあるが、どの人物が筆を取ったのかウィリアムには考えるまでもなくすぐに理解できた。



「では、私も動こう」



 印章のついた指環を人差し指から外し机上へ置くと、フィスティーユ候は笑みを深めた。これまでよりも、いっそう深く。


 国が――世界が動く前夜。密やかに、しかし忙しなく、まもなく激動の時代がやってくる。


 心臓が強く拍動していた。待ち侘びていた瞬間を迎えた高揚と、勇み立つ心からだったか。だが、それだけではないことをウィリアムは理解していた。


 焦燥。苛責。様々な感情が腹の底で渦を巻いている。


 ウィリアムは深く、息をした。


 すべらかな陶器の肌、あたたかい亜麻色の髪が意識の向こう側で揺れている。


 太陽の瞳が、こちらを見つめている。


 戻らなくてはならない。ウィリアムは強くそう思った。

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