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エレノア・ウィスコットの人生は、運良く爵位のある家に生まれた以外、特筆すべき事由はないだろう。
父は宮中で外交方を担っているとはいえ、母は地方の伯爵家の出身、兄が一人いるがアカデミーを卒業したのち外遊に向かい、今は祖国であるノーゼリアで悠々気ままに暮らしている。
幼いころからの淑女教育、親の決めた婚約、他の貴族令嬢と比べても秀でて差があるわけでもないとエレノア自身もそう思っている。
強いて言えば、婚約者であるリディストン伯爵令息アドリアン・ハワードとの仲だっただろうか。婚約はエレノアが生まれる前にさかのぼることになるが、いわゆる一般的な「政略結婚」とは事情が少し異なっていた。
父同士がアカデミー時代の友人だったこともあり、互いに子どもが生まれたら婚姻させようという酒の場の言葉が始まりだった。
充分に酒に酔っていたとはいえ、双方ともに本気だったらしく、子どもが異性同士であったならばぜひと語り合ううちに、母親たちも賛同して仮ではあるが婚約が決まったのだ。
そうしてベルウォルズ家の長男であるフレデリックが生まれ、残念ながら彼は伴侶を得る機会には恵まれなかったが、第二子であるエレノアのときにその約束が果たされることとなった。
本人たちの意思とは関係なく結ばれる婚姻は、この時代に珍しいことではない。
爵位を持った家に生まれたからには家門を盛り立てなくてはならず、他家と縁を繋ぎ、家を発展させるのが貴族子女の務めとも言われている。
女性への爵位の相続が許されていないノーゼリアでは、なおのこと貴族令嬢は婚姻によってその役目を果たさなくてはならなかった。
けれど、エレノアは自分の境遇を嘆いたことはない。早すぎる婚約は、同じく政略結婚を約束されている令嬢である友人たちからは、ある種「運命」のようだと羨ましがられた。最も幸せな政略結婚だと、言う人もいた。
父たちのせいでと恨み言のひとつやふたつ浮かばなかったわけでもないが、エレノア自身もまたアドリアンとの婚約をやぶさかではなく思っていたのだった。
言葉を話せないときから引き合わされ、自分の足で立てるようになったころからずっと隣に立っていた人である。幼少期こそはおとぎ話に憧れるその気持ちと似たようなものだったが、物心ついてからは、アドリアンはエレノアにとって唯一無二の「伴侶」であり「運命の男性」であった。
それだから、大きくなっていわゆる思春期と呼ばれる時期に差し掛かっても、よその少年たちに目もくれることなく一心にアドリアンを見つめていた。
アドリアンへの気持ちがエレノアの誇りであり、人生であり、エレノアそのもの。アドリアンもそうだと、エレノアは確信していた。
ただ、ふたを開けてみれば、事実は異なったわけだが。
正式な婚姻まで数か月と迫った今日、アドリアンはエレノアの知らない女性を隣に連れ、気恥ずかしそうに頬を染めて笑っていた。
アドリアンの笑顔など空で描けるほど見慣れていたというのに、今となってそれがどんなものだか思い浮かべられもしない。
見たこともないアドリアンの面差しに、エレノアは困惑する間もなく打ちのめされ、そうしてみずからの「運命」を受け入れざるを得なかったのだった。
「運命の出会いをしてしまったのだと、アドリアンさまはおっしゃられたのです」
言い放たれた言葉の温度も冷めぬうちに、エレノアは父にそう告げていた。
ふだん温和な物腰で立派に伯爵として尊敬される父も、その報告には虚を突かれたのだろう。眉をしかめずにはいられなかったようだった。
「アドリアンが、たしかにそう言ったのだね」
執務のさいにかけている眼鏡を鼻先に落として、こちらをのぞくように父は言う。
「はい、たしかにリディストン家の応接間でこの耳にしました。わたくしだけの言葉が信じられないのであれば、侍女のミリアがその場におりましたので確かめてくださってかまいません」
父は虫でも払うようにぞんざいに手を振った。彼にしてはめずらしいしぐさであった。
「エレノアがうそをつくわけもあるまい。とくに、そのような悪趣味なうそをな。そうか、あの息子がそんなことを」
彼の誠実で穏やかな性格さえも、このときばかりは礼儀正しさを繕えなかったのだ。
そうした事実に、エレノアは父の書斎机のまえでちょこんとソファーに腰かけたまま、重ねていた右手を左手の下で小さくにぎりしめた。
「あれと婚約して、何年だったかな」
「かれこれ、二十一年と六か月になります」
「そうか、あれはあと半年が待てなかったのだな」
結婚式はちょうどエレノアが二十二歳になる誕生月に行なわれるはずであった。
当然ながらその数年前から準備は本格化しており、式当日の半年前となる今では王都一の大聖堂を貸切る手はずも、招待客の招待も、食事や飲み物のあらゆる手配も、そしてなによりエレノアのための花嫁衣裳も完全に用意されていたのだった。
そもそも、国で成人を迎える二十歳のときに婚姻を済ませる予定だったのが、リディストン側の事情により延期になっていた。
アドリアンの父でありリディストン伯爵であるモーリスが病に倒れ、治療の甲斐なく儚くなってしまった。友人の突然の他界に父セオドアも悲嘆し、またリディストン家のごたごたを友人の遺言どおりに彼が片づけなくてはならなくなり、やむなく娘の婚姻は延期せざるをえなかった。
現在、家門の当主を亡くしたにもかかわらず、アドリアンが伯爵として爵位を受け継いでいないのも、そこに理由がある。
ノーゼリアでは成人を迎えた男子に爵位の継承権はあったが、伴侶を迎えていなければ爵位は認められない。本来ならば、アドリアンがエレノアと結婚して伯爵となるところ、現在はリディストン伯爵夫人のゾーイが代理として特別に家門を維持している。
王家の定めた婚姻法では喪が明けていなくても婚姻を結ぶことは可能であったため、それこそ時期問わず二人の成婚を先に済ませてしまうこともできたが、故人の遺志を優先してこの形となった。
父セオドアもそれこそエレノアも、悲しみに暮れるアドリアンと夫人を家族として支えていくつもりであったのだが、モーリスの遺言を実行するには、爵位継承はおろか、婚姻自体を延期しなくてはならなかった。
アドリアンが爵位を継ぐまで、あと半年。
彼は「運命の女性」を見つけてしまった。
「でも、お父さま」
とエレノアは落ち着き払った調子で話の穂を継ぐ。
「アドリアンさまがよろしいのなら、あの方を妻に迎えていただいてわたくしはかまいませんわ。それで、リディストン伯爵家も、アドリアンさまのもとつつがなく存続できるのでしょう」
悲しくないといえばうそになる。悔しさだって、当然あった。
しかし、アドリアンをそばで見てきたエレノアにとって、彼の幸せこそが彼女の幸せだった。
好いたひとには幸せになってほしいのだ。長年、彼を幸せにするのは自分なのだと信じてやまなかったが、あのアドリアンの顔を見てしまったらその信念すら揺らいでしまった。
「お父さま?」
ただ、リディストン伯爵家の――夫人と、その息子の後見人である父の表情は依然思わしくない。
「青二才が、余計なことをしやがって」
いつもは穏やかで理知的な父の吐き捨てるような呻きに声に、エレノアは隠した手のひらを強く握りしめずにはいられなかった。