6.激動の前夜
王都から続く長い街道は、諸外国を見ても見事なものであった。相当な距離を繋ぐものであるから、当然管理が行き届かなくなってもおかしくないが、フェリティシアから北の地へ続くリディストニア・ベルウォルズ街道は、その景観も美しく立派に道路を維持しているのだった。
一昔前ならばそれはもう途方もない道のりだったと貸し馬車屋の馬丁は言った。多くの道がそうであったように、悪路のために迂回したり足止めになることは日常茶飯事。あるときは森の中を馬車で無理やり進んで、傷だらけになりながらひたすら走ったこともあると笑いながら彼は言った。
時代は移り、北部への道は美しく整然と生まれ変わった。街道沿いには宿場町が興り、行き来する人間で栄えていた。
それらを目の当たりにしながら、細い雌馬でひたすら駆けること約二日。北部のラエズへたどり着いた。
ラエズは河川沿いに繫栄した街である。東ラエズと西ラエズとで分かれており、東側は葡萄栽培、西は染織や工芸品を主とした手工業で賑わっている。
北東の山嶺から解け出した雪解け水は甘味があり、飲み水としてのみならず、豊富な栄養分を大地へ運びのどかで豊かな人々の営みを育んできた。
花の季節を迎えたとはいえ、北部は風が冷たかった。朝方、吐く息は白く凍り、石畳や家々の窓ガラスは水を掃いたように湿り気を帯びていた。近くの川から立ち篭もる薄い霧の中を、ウィリアムは外套を翻し進んでいた。
街は凡そ眠っているものの、ときおり荷馬車が潜むように通り過ぎた。
「ありゃ、<女神の雫>なんじゃないか」
「ラエズリー商会か。このごろはとくに羽ぶりがいいからな」
車輪の音にちらほら軒先に出てきた男たちが、馬車の走っていった方向を眺めている。
「透き通った液体に、ふつふつ上がる小さな気泡。一口飲めば、まるで天にも昇るかのうような味わいだってうわさだ」
「それも、こんな下町の工房主なんかにゃ関係のないことだがな」
違いないと笑って男たちは軒先に四角いガラス製の容器を吊るした。
正面から痩せぎすの青年が駆けてくる。手には金属製の箱を提げており、もう一方には先端に火のついた長い棒を持っている。家々の前で立ち止まり、軒先に吊るされた四角いガラス製の容れ物へ火へ入れるとすぐに横を通り過ぎていく。
「それにしても、領主様はご無事なのかね」
「なんでも流行性の病に罹られたとか。本当なら、今ごろ町長様とトレルヴァの山嶺に向かっておられるはずだっただろうに」
水気を帯びて、艶めいた石畳に明かりが灯っていた。
「先代の領主様も天に召され、奥方様も病に臥せられた。そのうえ、町長様もお齢を召されて今や無理ができない。婿殿のイジドール様がおられるからいいが、まったく、気の滅入ることばかりだ」
「イジドール様がペティアン・ナチュールをわれわれに振る舞ってくれたら、憂いも一気に吹き飛ぶけどな」
男たちはそうしてひと頻り笑うと、自らの店へと戻っていった。
街はいまだ辺り全体が白く、朝霧の中に包まれていた。
獣脂を固めて作ったであろう蝋のにおいが、湿った青々しい空気に混じっていた。
「もともと、国境に近いローアンじゃ外からの品が多く取引されてたんだ」
男はサシャと言った。あの下町のブティックで見せた姿とは異なり、今はしっかりとノーゼリア風の佇まいをしている。
風貌はもちろんこちらの貴族にはないものだが、黒い見事な煙突帽に顎のすぐ横にまで到達する高いスタンドターンドダウンのカラーのテールコートと、細身のパンタロンを着こなす姿は王立公園で乗馬をする男たちと然程違わないだろう。テールコートの下は目が冴えるような金の刺繍の施されたクリーム色のウェスト・コートを着ていた。
洒落た伊達男。サロンに招かれればおそらく貴婦人方が彼の周りに集うに違いない。ただ、それがフェリシティアならばの話であり、北部の田舎町にはいささか態とらしさが目についた。
「貴族のお忍びにはうってつけだろう」と片目を瞑ってみせた男に、ウィリアムはもはや無反応を貫いた。
サシャは使いもしないモノクルのチェーンを弄びながら、鄙びた木製の窓辺から外を眺めている。
「服飾品をはじめ、塩漬けや植物油など、もちろんそこには酒類も含まれていた。多くは他領を通行し、ローアン湖畔の領主の館を経てラエズへ運び込まれた」
階下には荷馬車が停まっており、男たちが木箱を下ろしている。
「国を越えての取引は昔から厳重だった。小麦一粒から精査されると商人たちがたびたびぼやくほどだ。領主の性格もあって、ラエズにやってくる品はそのぼやきどおりに細かく検められた」
箱の中身は内地では手に入りにくい塩や魚介の乾物や油漬けのようだった。ノーゼリアに海はないため、北のアズエールという国から品物を輸入している。
「ラエズリー商会が他国と取引するのは月に一度。それは国と他領とで定めた合意に基づく取り決めで、頻度はもちろんのこと品物の項目も細かに定められている」
ラエズは大きくないが、北部ではよく栄えた街だった。穏やかな住民性で、みな勤勉によく働く。
毎年、真夏には領主一家が避暑に訪れ、ラエズ川一帯の農地と美しいローアン湖畔の景色を堪能していた。
「近隣領地の帳簿によると、もちろん不正はないようだ。町長が代わり自治に不安視も寄せられていたようだけれど、合意自体は破られていない。――表面上は」
馬車が走り出す音がする。
「不審な馬車が町長の館に入るのを見た人間がいる。それも、一度や二度ではない。たびたび町長の館へ入っては、夜が明けるとすっかり消える。それから一年半近く前から、領主の息子の姿がよく見られるようになった」
ウィリアムはその音を聞きながら、静かに瞑目した。
ローアンの輝く湖畔で遊ぶ、小さな少女の姿がまぶたの向こうに映し出されるようだった。
「近隣領や諸外国に動きは?」
「国内ではとくに、だな。アズエールも然り。西側も今現在目立ったものはない、が、おそらくそれは北との交渉が難航しているためだろう」
馬車の音が完全に遠かった。それからすぐに、新しく蹄の音がした。
「おや、そんな話をしていたらお出ましかな」
ウィリアムはおもむろに目を開くと。カウチから立ち上がり、窓の横に控えた。
フードを深くかぶった人物が馬から下りると、階下の酒場の主人と顔を合わせ先ほどの荷下ろしでそのままにしてあった木箱から一本の瓶を取り出した。
あとからもう一頭、馬がやってきたようだった。
馬上にいる人間のフードの隙間から、赤みを帯びた金色の髪がまみえた。
「小伯爵様はああやって店を回り、じきじきに葡萄酒を選ぶそうだ」
瓶を受け取った人物の容貌は最後までわからなかったが、あとから馬を下りた人物がしなだれかかるようにして身を寄せていた。
「お熱いことだ」
サシャが口笛を鳴らした。
レイヴェンヴェルグの冬は、枯れた風が強く山岳地帯を吹きつけていた。夏は鬱蒼と生い茂る灌木林も、冬にはすっかり葉を落とし荒涼とした大地が続く。
城砦から辺りを一望すると、侘しくもその力強さをまざまざと感じさせた。
ひとり、この地へ残された少年はその硬質な大地を恐れていた。
冬にあまり雪が降らないというのも少年が生まれ育った世界とは異なり現実が受け容れられずにいた。どこへ行っても石積みの灰色の世界が続き、少年にとって温かみのあるものなどどこにもなかった。
唯一、この地へ連れてきてくれたという母が、死の間際に託してくれた厚手の肩掛けだけが記憶の底に眠る温もりを感じさせてくれた。
あのころ少年は、独りだった。
冷ややかな壁を伝って、どこか自分を受け容れてくれる場所を探していた。
はっきりとした意識があるわけでもなく、ただひたすらさ迷い歩いていた。石の継ぎ目を指先でたどり、朦朧とする中をずっと。やがて少年がひとつの部屋へたどり着くと、彼はこっそり忍び込んで冷ややかな床の上に母の肩掛けだという織物に包まれうずくまっていた。
何時間も、またある日は何日も。
城の庭に植わっていたヤニクスの木も、いつしか残っていた葉が完全に地面に落ちてしまっていた。その枝にうっすらと雪の積もったある日のことだった。
ぐったりと横たわる少年を、偉大な獅子が抱き上げた。
『父上、ヴィルヘルムがまた脱け出して……』
『おい、ヨハネス、しずかにしろよ!』
『静かにするのはおまえだ、ルートヴィヒ』
『ふたりともだよ、ヨハネス、ルートヴィヒ』
銀色の長いたてがみ。身に着けていた鎧から、やはり温もりは感じなかったが、それでも頬に当たる冷たさが心地好かった。




