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すべての人が善良で誠実であるわけではない。好意的に甘い声を投げかけてきても、実際には敵意が有り余るほど劇物のような心を抱えそれを当てつけてくる人間もいる。
婚約の解消後すぐに、新しい婚約を結んだことを快く思わない人も当然ながら存在した。たとえ事実はリディストン側の瑕疵であったとしても、その事実を世間に公表していない今、婚約を解消後、先に新たな結婚を決めたのがエレノアであるのは確かなことだった。それも、隣国の素性の知れない、貴族男性と。
蔑みの色を扇の向こうで浮かべるのなどはたいそうおしとやかなほうで、さまざまな社交場で、わざとらしく嘲笑の言葉を近くでつぶやく人間や自然を装って肩をぶつけてこようとする人間もいた。
それでも、エレノアは辛いとは思わなかった。自分のことはともかくとして、彼らがウィリアムを語るとき、その一つも事実はなく、だれもが本当の彼を知ることはなかった。爵位を買っただとか、卑しい商売人だとか、会社を立ち上げ自ら貿易をしているという点を鑑みれば商売人という肩書きは相当するが、それ以外は荒唐無稽な妄想ばかりだった。
リエフの爵位叙爵・継承の法律を知っていれば、金銭で子爵という爵号を手にするのは不可能だとすぐ理解できるはずだ。国の議会で承認されている以上、国家元首であるリエフの国王陛下の御名によってその地位が与えられているのだから貶めるなどできるはずがない。万が一、より立派な家との縁を得ようと多額の持参金によって婚姻を結ぶことを爵位を「買う」と言うのならば、ノーゼリアの多くの貴族たちがそうしていると言える。
商売人が卑しいというのだって、エレノアにとっては痛くも痒くもない。国を背負い、この先の世の中のために働くウィリアムをエレノアは尊敬していた。彼の領地への愛を、国への献身を、嘲笑する人間の一人でもその真実を知っているのだろうか。彼の綿花への、紡績産業への知識や情熱を、ほんのわずかでも知っているのだろうか。それらを知っていたら、卑しいなどという言葉が出てくるはずもない。
(みな、可哀そうなのだわ)
今、自分たちに向けて嘲笑や誹りを投げかけてくる人間たちは、そうした物事を知ることのできない人間なのだと、エレノアは傲慢にも正直に思っていた。
理解してくれる人はいる。たとえそれが少なくても、この先一生、自分だけでもウィリアムを信じ敬おうと心に決めていた(もちろん、彼を理解する人が少ないはずがないだろうけれど!)。
父もウィリアムも詳細を打ち明けてはくれないが、近い将来、世の中が大きく変わりゆくだろう。その中で人びとはどのようにして生きていけるのだろう。どれほどの貴族たちが、この世界に残っていくのだろう。
考えると不安がよぎることはあったが、それでもその激動の世界を目の当たりにするのが、どこか楽しみでもあった。
夜が更け、宴もたけなわというころ、エレノアとともにワインを飲みながら笑い合っていたフレデリックのもとへバーナビー卿がやってきた。エレノアに会釈をしたあと、用があるようでフレデリックに小声でなにかを告げていた。
「それは本当か」
「ああ、母上が話しているのを聞いていた。別邸のほうで休ませると言っていたが、もしかするとこちらへ顔を出すかもしれない」
苦々しげな顔をするフレデリックに、なにが起きたのだろうとエレノアはその横顔を見上げる。
「言っておくけれど、勝手にやってきたのは彼らだよ。招待状も持たずにね。あちらは今夜、貴族派の集まりに参席していたはずだ」
「知っている。だから俺たちはこうしてこの場へやってきたのだから」
「君たちがいるのといないのでは、盛り上がりが違うからね。感謝しているよ」
難しい顔をしていたのに気づいたのか、バーナビー卿はエレノアへ向けてウィンクをひとつ寄越した。
「もし必要であれば、そろそろ部屋へ案内しようか。泊まっていく予定だっただろう? 伯爵と伯爵夫人には使用人から知らせることにするから、君たちはそちらでゆっくりしているといい」
「ああ。バーナビー、恩に着る」
あの軽薄で愉快な兄が、張り詰めたような顔をしている。
「お兄さま、いったいなにが……」とエレノアは訊ねようとしたが、先に、喫茶室の外が騒がしくなった。ついに兄の眉間に深いしわが刻まれるのを、エレノアは見逃しはしなかった。
「カデリア公爵令嬢、別邸のほうにお部屋をご用意しておりますので、よろしければそちらへご案内いたします」
「まあ、そんなお気遣いはなさらなくて十分だわ! だって、まだパーティーは続いているのだし、存分に向こうで踊ってきたから足は疲れたけれど、知らない顔の皆さま方とワインを飲みながら語り合うのもすてきなことよ!」
「しかし……」
「メアリアンがいいと言っているだろう! 下がれ!」
動けなくなっているエレノアの腕を、「行こう」とフレデリックが引こうとする。喫茶室は廊下からと、隣のカードルームから行き来する扉がある。せめてそちらへ引っ込んでしまえば、新たな客とは顔を合わせることがなかった。
しかし、そう上手くいくはずもなかった。エレノアがグラスを置き足を踏み出す前に、廊下側の出入り口から、輝くようなベリー・ゴールドの髪が飛び込んで見えた。
「あら、エレノア・ウィスコットじゃない! あの日ぶりだわ! こんなところで会えるなんて!」
その傍らで、翠色の瞳がぎろりと輝くのをエレノアは見た。
「フレディにエリィ! ああ、愛しい友よ! ついに再会だ!」
両手を掲げて開き、大仰なしぐさで歩み寄ってくる。
「あれからずっと会えなかったから、寂しいと思っていたんだよ。僕たちは円満に婚約解消したのだから、たとえ婚約者でなくなったとしても二十年の絆が消えるはずもない。これからも家族でいようじゃないか」
立ちすくむエレノアの前に、フレデリックが壁を作る。フレデリックがなにか言おうとして、今度はそれをバーナビー卿が遮った。
「申し訳ないが、リディストン卿、貴兄はずいぶん酔っておられるようだ」
アドリアンとフレデリックの間に割り入って、にこやかに告げる。
「バーナビー卿、心配はご無用です。僕は至ってまともに、この場に立っておりますよ。頭だって冴えている!」
「さよう、それではカードでもいかがかな。ご令嬢もよろしければこちらへ案内いたしましょう」
しかし、アドリアンはそれを一笑すると、隣立つマリエンヌ嬢の腰を抱き寄せ、見下ろすようにして顎をしゃくり上げた。
「逃げるのか、エレノア・ウィスコット! すまし顔をした、相手を心の中であざ笑うことしかできないお前と、おれとメアリアンがこれからもよろしくしてやろうと言っているのに!」
もはや彼らの独断場であった。静かにその場から立ち去ろうとしていたのに、エレノアは引き止められ、抵抗することもできずに舞台の上へと引きずり出されてしまった。
和やかに談笑していたはずの賓客たちも彼らを密かに注目していた。
「たいそう元気なご挨拶を感謝する、リディストン伯爵令息」
エレノアの手をしっかりと握りしめながら、ついにフレデリックが言った。
「リディストン伯爵令息だなんて、フレディ。あんなにも仲がよかったのに、よそよそしいじゃないか。この先、俺が君よりも早く爵位を継いでも、閣下なんて呼ばずにこれまでのように気楽にしようと伝えたかったんだ。ほら、そういう複雑なことはお互い望まないだろう?」
兄の手が震えていた。力強い握りにエレノアの胸は痛んだが、それよりも目の前にいる“怪物”が、あのアドリアンだというのが信じられなかった。
彼はどちらかというと内向的であったが、決して、腐ることなく人を侮辱することも馬鹿にすることもなかった。尊大な態度をとって相手を嘲笑し貶めることなんて、一度もなかったはずだ。いつだって、彼は自分がこの場にふさわしいか、リディストンの名を穢してはいないか、思慮深く案じてばかりいた。
けれどそれは、もしかすると自分の思い込みだったのかもしれない。ゆりかごからの婚約者やその家族という存在が、彼には窮屈でたまらない鎖だった。
運命を見つけたとき、それをエレノアに正直に告白したとき、ようやく彼はその鎖から解放された。差し伸べられた手は女神の手だったのか。羊飼いエーリクも、藁をも掴む必死な思いだったのか。妻がいようと子がいようと、彼はただ救いを求めていたのではないか。
あのときよりまなざしは陶酔し、頬は上気し大胆に吊り上がっている。愉悦に満ちたその表情の向こうに、はっきりと侮蔑と憎悪が浮かんでいる。
そんなにも、わたしが憎かったのか。二十二年という日々が、疎ましくてたまらなかったのか。
「ところで卿、リディストン伯爵夫人はお元気かな? 王室とのやりとりで夜会へ出る暇もないどころか、夜も存分に眠られないほど忙しくしていらっしゃると耳にしたが」
顔をしかめるアドリアンの横で、それを知ってか知らずかメアリアン嬢が給仕から酒を奪い悦に入った笑みでそれを一気にあおり飲んだ。
「お義母さまは当主の仕事など不慣れなのだわ、可哀そうに! すぐに代わってあげなくちゃ、アドリアン! あなたなら立派にやり遂げられるもの!」
空になったグラスをその場で床へ放り捨てた。ごとりと重い音が響いてグラスが絨毯の上へ哀れにも転がった。
これが現実だとは、にわかにも信じたくなかった。けれど、もはや疑いようもなかった。
脚が床にくっついて剥がれない、それどころか身体が鉛玉のように重たい。しかしエレノアは小さく息を吸って、翠色の瞳をまっすぐに見据えた。
「そうですわね、きっとご令息ならば、たいそうご立派に領地を治められることですわ」
吐き出してすぐに、カッと喉から全身が熱くなるようだった。しかし、その熱へ冷や水を贈ることなく、エレノアは育てることにした。
「もはやわたくしどもの力など、貴方にとって灰塵と同じことでしょう」
もう縁の切れた仲だ。彼のこともその運命の相手のこともエレノアにとってはもはどうでもいいことで、詮索する気もなかったし、アドリアンが幸せのために決断したことならそれはそれで彼の責任だから、口を出すことも邪魔をすることも一切考えてなどいなかった。エレノアにとって、すでにアドリアンは過去の人だった。
だけれど、消え炭となって静かに崩れていったはずの火は、いま、燃え滓とならずに烈しく焚き付けられてしまった。ただそれは彼がエレノアを捨てたという事実よりも、そうした真似をしておきながら厚顔無恥な振る舞いをできる、彼への怒りと侮蔑の念であった。




