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家族四人で夜会に参加したのは、実に数年ぶりだった。
婚約者がいたエレノアは兄や父に連れられる必要もなく、たまに婚約者のいない兄のお供をすることはあったが、その場合にはたいてい両親は他の場所へ招待されていた。折よく家族がそろうことがあっても、そこには必ずリディストン家のだれかがそこに加わっていた。
長いことそうだったから、この夜は久々に家族というかたちを思い出して、どこかこみ上げてくるような言い様もない感覚を味わっていた。
バーナビー侯爵家自慢の庭園で開催されるガーデン・パーティーの前に、侯爵一家と晩餐をとり、招待客が見えてきた折をみて会場へと移動する。
ノーゼリアの春は殊心地好い季節で、この日もショールなしでも夜を過ごせるうってつけの気候だった。
すっかり日の暮れたバーナビー邸は幾千もの蜜蝋蝋燭で照らされており、軽いダンスを披露できる舞台やテーブルに並べられた泡入りのワインがきらきらと光を撥ね返していた。室内で開かれるなんとも目映いパーティーとはちがい、窮屈さから解放された穏やかで爽快な空気さえ感じられた。
ダンスを披露するのは若者たちに委ねられたため、バーナビー侯爵令嬢とその婚約者である公爵令息と、数人の男女、そしてフレデリックとエレノアが舞台へ上がった。
今年は何人の婚約の声が上がるだろうと大手の新聞社たちはこぞって予想をしていたが、彼らがこの舞台を見たとすれば落胆の声を上げもしただろう。
侯爵令嬢と婚約者以外は、そのほとんどが血縁関係の相手だった。フレデリックの友人であるバーナビー卿も、連れているのは末の妹。彼の弟や他の高位貴族の令息たちも、それぞれ姉妹や従姉妹をパートナーにダンスを踊っている。
未婚令嬢たちからすれば、きっと羨望と覚悟の募ったまなざしを向けざるを得ないのだろう。舞台上のほとんどの男性たちが独身の、それも有望な貴族の跡継ぎやそのスペアにあたる息子たちだというのだから。エレノアから見ても錚々たる顔ぶれで、どれほどかと言うと彼らと踊るのがちょっとばかりいやになるくらいだった。
けれども、世間が面白おかしく語れるような色っぽさは皆無だった。少女たちは彼らに夢をみていないし、彼らもまた家族としての愛情と礼節を返すばかり。
バーナビー卿も兄も、結婚よりかはいまは政やそれぞれの領地での事業だとかに没頭している。
爵位を継承するには、まず先に婚姻が条件とは知っているけれど……。
クラブだなんだと駆け回っているほうが好きなのは、子どものころから変わらないのだ。
エレノアがそう考えてつい笑みをこぼすと、フレデリックはやけにご機嫌な妹に眉を上げて悪戯っぽい顔つきをした。
「なにか面白いことでも思いついたかな、我が妹よ」
「いいえ。ただ、お兄さまがたが婚約されたら、そのときは大騒ぎになるのかしらと思っただけよ」
妹ながら、兄がどのような人を見初めるのか、想像できないでいた。
きっと自分も結婚が決まっていなかったら、兄の未来に大騒ぎしたのかもしれない。
「それに関しては、否定はしないな」と、フレデリックはニヤリと目を輝かせた。
「だれもかれもが、他家のお家騒動を楽しみに待ちわびている。我々のそのほとんどが話題を提供できないのは至極残念だがね、こうして妹と思い切り踊れるのはこちらとしてはうれしいものだよ、なあバーナビー」
「私は先週も踊らされたから、正直満足だよ、ベルウォルズ」
平たい目で兄を見つめる末妹に、バーナビー卿は慌ててそっぽを向いてエレノアの前へやってきた。
「おめでとう、エレノア嬢」
「ありがとうございます、バーナビー卿」
振りに合わせて次々と向かい合って踊る相手を変える。舞踏会の演目として最初に踊られるこのダンスは、ノーゼリアで伝わる古い民話に由来している。
女神が降臨したその日に、人々が歓迎と感謝を表し、手を取り合い音楽を作った。喜びと幸福の象徴そのものだった。
楽団によって奏でられる軽快な楽曲が、楽しい宴の始まりを予感させた。
「ベルウォルズ伯爵はさすがだよ」
バーナビー卿が言った。
明るい胡桃色の髪は、整髪油で几帳面にまとめられていた。いつもならば彼のその物腰のように柔らかいカールを描いているが、今日ばかりは多くの令嬢たちが憧憬を抱くような完璧な王子様と言わんばかりのいでたちだった。
「他家に婚約の列を並ばせる前にさっさと相手を決めてしまうのだから。チャンスがあれば、私もぜひその列に並ばせてもらいたかったのに、まったく出遅れてしまった」
男女に分かれて二列に並び、女性は淑女の礼を模した振り付けを、男性はそれを見届けたあと女性の手をとりそつない動きでリードをする。
「あら」とエレノアは微笑した。「そんな言葉をソーンゼット卿に聞かれでもしたら、大変ですわ」
仏頂面でもいけないし、笑みを浮かべすぎては軽薄と気味悪がられる。女性にとって舞踏会は結婚相手を手に入れるためのいわば勝負の場でもあるが、男性にとっても悩みの種であっただろう。
ダンスを得意としていれば問題なくとも、澄ました顔で優雅に女性の手をとりステップを踏まなくてはならない。女性を満足にリードできなければ、紳士としては落第者だと笑われる。
もちろんこの場には失敗をする人間はひとりもいなかったのだが。涼やかな顔でエレノアをリードするバーナビー卿は、その王子様然とした見目とは違って兄と似た悪戯者の片りんをその頬に忍ばせていた。
「ま、チャンスがあったとしても、ベルウォルズに並ばせてもらえなかっただろうけどね」
「見目麗しいバーナビー卿がお相手とあれば、女性も男性も二の足を踏みたくなってしまうものですから」
「ソーンゼット嬢もそうだと思うかい?」
さきほどまでの軽口と違って、やや真剣みを帯びた声にエレノアは小さく目を細めた。
「ええ。もしかすると、ジョスリンはまだバーナビー卿のお気持ちをご存じではないかもしれませんが」
舞台は何百もの蝋燭の火で照らされている。彼の胡桃色の髪がまるでブロンドのように瞬いていたからではない。彼のその愛しみを隠せない瞳が、これ以上なく目映いと思ったのだった。
ふたたび向かい合い、やられた、といって目を回したバーナビー卿が手を差し出してくる。その手をエレノアはうやうやしくとった。
「ソーンゼットの守りは堅すぎる。妹君に会わせてももらえない!」
「ふらふらしていたお兄さまの自業自得ですわ」
隣でフレデリックの手をとり踊っていたバーナビー侯爵令嬢が冷ややかに言い捨てた。
一曲分、楽しく過ごしたあとは早々に舞台から遠ざかり、フレデリックとエレノアは知人友人へ挨拶をして回った。
「それにしても、楽しかったわ。ジョスリンとオーガスタスお兄さまがいなかったのは残念だったけれど、気の知れた方々と踊るのってこんなに気持ちいいのね」
「エリィは長いこと、リディストンに気を遣っていたからな」
喫茶室へ移動し、エレノアが果実水を、フレデリックが蒸留酒を飲みながらテーブルに並べられた軽食へ手を伸ばす。
「気づいていらしたのね」
「うちのだれもが気づいていたさ。小さいころはあれほど天真爛漫だったエレノアが、齢を重ねるたび静かで大人しくなっていく。それが淑女のさだめなのだと周囲は言うだろうけれど、それでもエリィの成長はあまりにも早かった」
まだ、二、三口しか口にしていないとないえ、すでに深く蒸留酒を浴びたような高揚と酩酊感が胸の裡から身体を満たしていた。
「人のことを大きく言えるわけではないが、甘やかされて育ったリディストンの生来の性質があれだから、エリィはしっかりせざるを得なかった」
美しい陶磁器の小皿にフレデリックがフルーツや菓子を取り分ける。
「立派な伯爵夫人になるには、仕方がなかったのよ。それに、わたし自身がそうなろうとしてたのだから」
「心構えとしては、けっして間違いではないさ」
複数皿に載せたところで、フレデリックはそれをエレノアに渡す。
兄が選んだ軽食はどれもエレノアの好みで、思えば、かつて幼なじみの元婚約者といっしょに参加した夜会ではあまり食べることのできなかったものたちばかりだった。
もう、背伸びをすることも、我慢をすることもないのだなと皿の上の色とりどりの食べものを眺めてエレノアは思った。
「現にエリィはすばらしい淑女に成長した。貴族家の女主人としてふるまう手腕さえ備えていると思う。これほど誇らしい妹はいないだろうな」
自分にもいくつかの食べものを皿に分けている。フルーツはひとつもなく、甘いケーキや焼き菓子もなかった。冷肉やオリーブの酢漬け、それから鴨肉のローストをいくつも載せる様は、何年も見ていなかった兄の姿でもあり、そしてエレノアが一番に知るフレディの姿だった。
「でも」彼は言った。
「俺の妹まで、おまえは連れ去ってしまった。リディストンの横でいつもあいつの顔をうかがって、あいつが望むもの、必要なもの、すべてを抱え込んで、家でもまったく笑わなくなってしまった。カレッジから戻った俺が、エリィの強張った笑みを見て、どう感じたと思う?」
「けれど、お兄さまはなにも言ってくれなかったじゃない」
エレノアは思わず声を荒らげた。しかし室内の視線を集めたことに気づいて、すぐに彼女は口を噤んだ。
「エリィ」フレデリックは言った。
「情けなかったとは、わかっている。でも、それをおまえが望んでいると思ったから。俺も父上も、母上も、エリィが必死であいつの背中を支えようとしていたから。口を出すことではないと決めつけてしまった。今思えば、もっと様々なことを話すべきだった。――アドリアンにも」
肩をすくめて、フレデリックはエレノアの目もとを親指でぬぐった。涙は出ていなかったが、どうにも目頭が熱くて溶けてしまいそうだった。
喫茶室にいるのが、兄妹の真剣な話に余計な詮索をしてこようとしない賓客たちでよかったとエレノアは思う。
「あと数か月したら、お兄さまと離れなくてはならないのが辛いわ」
「俺もだよ、かわいいエリィ。けど、一生の別れではないさ。それこそ、俺がリエフで結婚してもいい」
「お母さまが卒倒してしまうわよ」
伯爵家を継ぐフレデリックが他国へ婿入りすることなどほぼ不可能な話だ。例外を除きその家の嫡流長子が爵位を継ぐという絶対的だった法律は時代とともに変化しつつあるが、それでもまだ慣習は残り長子相続制は根強く続いている。ただ、慰めの言葉であっても、その気持ちがエレノアには嬉しかった。
「あと何回、お兄さまとダンスを踊れるのかしら」
「ウィリアム殿のお答えによるな。できれば、舞踏会のお相手はすべて子爵にお任せしたい所存だ」
もう、と腕を軽くたたいたエレノアにフレデリックは眉を上げて、それから優しく微笑した。
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