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エレノアの結婚~「運命」を見つけた婚約者~  作者: 波屋ぽんち


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5-3

 それからというもの、エレノアは平常どおり社交を再開しいくつかの茶会や演奏会など可能なかぎり足を運んでいた。要らぬ詮索をする人間もいなくはなかったが、表向きは円満な解消というのが理由であったためエレノアが笑みを返せばそれ以上訊ねようとはしなかった。腐っても伯爵家、王家の忠臣と名高い父の苦労と献身には感謝しなくてはならない。


 ウィリアムとは何度かベルウォルズ邸で顔を合わせ、競馬やボート遊びに誘われたり人気の演劇を見に行ったりもした。気を抜けばふさぎ込んでしまいそうな陽気の中で、彼の存在はいかに大きなものだっただろう。出会って幾日も経っていないが、ウィリアムと過ごすのはなによりも楽しく、長いこと感じることのなかったような胸の高鳴りや陶酔に似た昂揚さえ感じるようになっていた。



「エリィ」



 エントランスホールで立ち止まり、侍女にボンネットの位置を整えられているエレノアに声をかけたのはフレデリックだった。階段から一段、二段とゆっくり降りてくる様子からおそらく朝方までクラブの紳士方とカードかビリヤードにでも明け暮れていたのだろう。


 昨日は馬で遠乗りをすると言っていたから、郊外のどなたかの邸で遊んだあと日の出とともに少しの睡眠をとって帰宅したにちがいない。


 糊付けのされたシャツではなく、よれたシャツに癖づいた髪。寝ぼけ眼をこすってこそいないが、すこしうつろな目はかつてローアンのリディストン邸でアドリアンの年上の従兄弟たちと夜通し遊んだあとの彼を思い出させる。


 大きなあくびを拵えて、朝一番に兄の部屋の前にやってくる妹を、「はやいなあ」とうれしそうに迎える。



「お兄さま、すっかりお昼の時間よ」

「これくらいが起きるのにはちょうどいい時間さ。ウィリアム殿とジョージ・ルイス・ギャラリーへ行くんだったな」

「ええ」



 兄の言うとおり、午後は美術館へ向かう予定だった。


 ジョージ・ルイス・ギャラリーは二百年前にできた王立美術館であり、ノーゼリアの芸術を花開いたと言われるジョージ・ルイス・ヘンリック・アルバート王子にあやかって設立された。幾度となく戦禍に見舞われ作品の過半数を失った歴史があるものの、長い年月を経て今ではノーゼリアから失われた作品や気鋭の芸術家の作品など、多くの美術品を展示している。


 社交の季節がやってきたことで大規模な特別展が始まることもあり、ちょうどウィリアムの知人が所有する作品が数枚展示されるということで彼から誘いを受けていたのだ。



「なんと羨ましいことだろう。俺も婚約者と<女神降臨>を見に行ってみたいものだ」

「そう思うのなら、気になる女性の一人でもお母さまにご紹介なさって。お母さまはいつでも花嫁リストをお兄さまに公開する気でいらっしゃるわよ」



 苦い顔をしたフレデリックにエレノアはくすくす笑う。



「お兄さまに婚約者ができたら、バーナビー卿が悲しむわね」

「逃げ切って、逃げ切って、ここまできたというのに。しょうがない、バーナビーといっしょに見に行くとするか」



 ついに階段を降りきる気持ちを失くしたのか、手すりに身体をあずけながらフレデリックは手を振った。


 すぐに馬車の音が聞こえてきて、エレノアは婚約者の到着を今かと待ちわびた。


 すっかりさなぎから羽化した蝶である。沈黙の時間が嘘のようにエレノアは外出を楽しんでいた。周囲からは短い婚約期間を慌てて満喫しているようにも、新たな婚約者に熱を入れているようにもどちらにも見えるだろう。けれどもあれだけ億劫だったのがいまやちっとも気にならない。元のエレノアに戻ったとも言えるかもしれないが、このように純粋な気持ちでフェリシティアの街を楽しむのは、王都へ出かけることを楽しみにしていた十代のころのようでもあった。


 成人しておよそ二年。社交界へ顔を出すようになってからはもう五年以上も経っている。目新しさなどとっくに消え失せていたが、いまエレノアの目に映るフェリシティアの街並みはどこもかしこも新鮮で知らない場所へとやってきたみたいだった。



「それでは、オーディール産のブランシュ・ワインを召し上がられたことがあるのですね」



 美術館へ向かうまでの道のりをウィリアムの手を取りながら歩く。



「ええ。ほのかに赤みがかって、とても美しい色でした。ルージュ・ワインよりも軽く甘みがあるので女性にも飲みやすいとあちらの社交界では人気のようですよ」



 屈託のない青空だった。噴水広場の大理石が、水飛沫を浴びてきらきら輝いていた。



「ノーゼリアでもオーディール産のワインは人気なんです。外国産のワインはとくに輸入の面から希少に見えるのもあって、夜会で出されているとわかればそれだけで新聞の一面に載るくらいですもの。ブランシュとなればこちらではめったにお目にかかれないですわ」



 ゆっくりと散歩を堪能してもいいが、特別展を拝観したあとに附属の植物園に寄る予定もあるから少しの辛抱だ。上品なライトネイビーの上衣に黒いハット。ステッキ片手に歩くウィリアムの姿はノーゼリアン・スタイルに沿っているが、どこか華美な印象を受けた。見事な刺繍の施されたシルバーのウェスト・コートのせいかもしれない。



「オーディールのお隣、シャンレーズのペティアン・ワインは? 醸造したてのものを味わうと天にも昇るような気持ちだとか」



 饒舌に語りかけるエレノアに、ウィリアムは頬に微笑を浮かべて返す。



「そうですね、一度だけ。現地ではなくリエフへ輸出されたものをたまたま口にする機会がありました。気泡が細やかで風味もさわやかでした。もちろん現地でしか飲むことのできない自然派のものには及ばないでしょうが」

「コルペトのスプマンテは一度、あちらの外交官の方々を迎える晩餐会でいただいたことがあるのですが。シャンレーズ産のペティアン・ナチュールはより上品で口当たりが心地好いと評判ですよね」



 ウィリアムが仕事で訪れた先々の国の話は興味深いものばかりだった。北西大陸の国々はもちろん、海を越えた国の話もある。退屈する暇もなく、二人は淀みのない調子で話を続けて、ギャラリーの中へ入ってからは絵画や彫刻、さまざまな芸術作品について語り合った。


 出会った当初、寡黙で無骨だと思っていたウィリアムも、如才なくワードレイの<祝福されし子>を語る様を見れば彼のその教養深さと繊細な感性が重い緞帳を引くように伝わってくるばかりだ。


 知的で落ち着いた様はエレノアの中に隠された幼心をそっと手をひいて連れ出してくれる。だが、勢いよく駆け出すことはなく、ただ寄り添って歩いては立ち止まってそばに佇んでくれる。柔和と言えるほど彼の容姿や物腰は柔らかくないが、だがどこか硬質な穏やかさと優しさがエレノアにとっては心地好くてたまらなかった。


 展示室をひとつふたつと回り、二人は見どころともいえるメイン・ギャラリーへとたどり着いた。壁には大きな絵画が飾られている。



「ワードレイ、<女神降臨>。ユリアス歴、458年」



 天井まで届かんとそびえる大作をウィリアムが見上げて言った。


 彼はそれ以上、余計なことを口にはしなかった。エレノアもまた「運命」を前に立ち尽くしていた。


 一人の羊飼いと創世神とも言われる「(せい)」を司る女神イテュイア。枯れた大地に、暗澹とした荒野に、二人は手を伸ばしあう。

 

 黄金の雨が、空から降っていた。


 これほど圧巻とした大きさのワードレイの作品を目の当たりにするのは始めてであった。かつてリディストン家の客間で見たものよりも、はるかに(おお)きく厳かであった。



 ――エリィ、これは運命なんだ



 今はもうこの絵画の前で昂揚し胸を膨らませることもない。むしろ、気を抜けば萎縮してしまうほどの圧迫感がエレノアに襲い掛かる。けれど屈することなく、彼女は見つめていた。



 ――わかってくれるだろう、エリィ?



 運命などというのは、美しく至上のものであるとは限らない。


 男には妻と子がいた。勤勉で善良な穏やかな青年だった。光輝燦然たる創造主へ、彼は手を伸ばした。新たな大地を生み、育み、彼らは地上の楽園を築いた。


 これを「運命」と呼ぶならば、なんという冒涜か。


 烈しい感情が腹の底に湧くのを感じていた。全身に熱が回るのも時間の問題だっただろう。エレノアは自らに冷や水をかけまっすぐにそれと対峙していた。

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