5.再会
アドリアンと一緒に社交の場に赴くとき、自分はなにを考えていただろう。
一般的な話をすれば、その日だれがいらっしゃるかとか、だれとどのような話をしようだとか、パートナーはドレスを褒めてくれるか、他の令嬢に後れをとっていないか、その日一番のステップを踏めるかどうか。招待状を受け取ったその瞬間から会場へ向かう馬車の中でさえ、考えごとには事を欠かない。
おそらく自分もそうだったに違いないとエレノアは思うが、実際に数々の場面を思い返したとき一番に浮かぶのは彼の安堵した横顔で、整髪油で固めた髪からこぼれたわずかな蜂蜜色の髪が彼の耳の横で揺れるのをエレノアも安堵した心地で眺めていた。
あれは、いつのことだったのだろう。
思い出の中の彼は輝いた笑顔を浮かべている。ローアンの湖畔で、太陽の中で、彼はいつだってエレノアの「王子さま」であったはずだ。けれど、ふとした瞬間によみがえる彼の瞳は、その溌溂とした色彩とはうらはらに翳りを帯びて不安や戸惑いを浮かべていることのほうがはるかに多かったのだった。
「ルスベリーのご令嬢から、野鳥でも見に行かないかとお誘いが来ているが、我が妹は今日はそういうご気分ではないかな?」
朝食を終え、本を読もうとソファーに腰かけあれこれ侍女のミリィに言いつけをしているところだった。使用人から手紙を預かりそれぞれ送り主を検めていたフレデリックは、飾り棚の前の安楽椅子にどっぷりと座りながら一枚のカードをエレノアに掲げて見せた。
「わたくし宛の手紙が混ざっていたのね」
「いや、宛名書きは連名だ。“妹といっしょに王立公園に歩きに行く予定だがそちらはどうだ、よければ二人そろって青い鳥探しを手伝ってくれると嬉しいのだが――と我が妹が言っている”」
「オーガスタスお兄さまは、根からの正直者よね」
カードに記載する文面としては再考の余地があるが、それはさておきソーンゼット兄妹からの誘いとあればエレノアも乗り気であった。
「お兄さまは、ご予定のほうはよろしいの?」
「バーナビーに呼び出されていたが、まず午前に奴が起きていた試しはない。ロブソン・パークでそぞろ歩いてからでも十分間に合うさ」
「バーナビー卿にご迷惑がかからないとよいのだけれど」
「ソーンゼットに会っていたと聞けば、向こうも強気には出られないさ」
その他の手紙の返辞に関する指示を出し、フレデリックは立ち上がる。高く立てた襟の隙間から首を撫でつつ――この場に母がいたら二人の数々のふるまいに眉を吊り上げかねないが、運のよいことに家政婦長のミセス・ガラルドに乞われて邸のロング・ギャラリーに赴いていた――外に待つであろう使いへ報せを届けさせるため、彼は近くに控えていた若い侍従に声をかけた。
「バーナビー卿がジョスリンに気があるというのは、本当なの?」
「それはもう。ソーンゼットに訪問を拒絶されるほどには」
誘いを受ける旨を伝え、やるべきことを済ませたフレデリックは、入れ替わりで他の侍従が持ってきた上衣を羽織り、こちらを見遣っていたミリアにうなずいてみせた。
「ということは、存外、青い鳥は近くにいたものね」
エレノアの言葉に、フレデリックはわざとらしく肩をすくめた。
「エレン、待っていたわ!」
ロブソン・パークの東、王城を北の木立の向こうに見据える池のほとりで、ジョスリンは兄であるオーガスタス・ソーンゼットを連れて二人の到着を待っていた。
この時季の水辺は肌寒いからと深緑色のスペンサー・ジャケットを羽織り、肩に薄手のショールをかけている。
隣立つソーンゼット卿はジャスリンよく似た整った見目をしているが、その表情は仏頂面でさも険しい目つきをしていた。ただ、妹の手を支える腕はその角度もたたずまいも完璧であった。
「急に誘って、申し訳なかった。エレノア嬢も、朝早くにお付き合いいただき感謝している」
フレデリックが、「まったくだ」と言った。
「使いがやってくるのがあと十分遅ければ、母上に捕まっていたところだった。ちょうどよく声がかかったからいいものを、リティを連れて慌てて家を出てきたよ」
彼の戯言に、生真面目にも(おそらく彼には嫌味とかそういったものは通用しないのだ)、「それはよかった」と答えたあとソーンゼット卿はエレノアに顔を向ける。
「婚約おめでとう、エレノア嬢」
表情の変化に乏しい友人の兄ではあるが、エレノアに向けられた顔は、柔らかなものだった。かすかに緩んだ頬が、彼が笑っていることを示している。ジョスリンと同じ、榛色の瞳がまろみを帯びていた。
ふだんは近衛兵として王城に勤めている彼の、不器用だが実直な祝辞にエレノアはしぜんと頬を持ち上げた。
「ありがとうございます」
「ミュリルーズ子爵は、物腰の柔らかな感じのいいお方だと聞いている。ピッツヴェルド侯爵家での夜会では、二人の仲睦まじい姿が見られたとさぞ話題になっていたようで、それを聞いたこちらも安心した」
そうよ、とジョスリンが割り入った。
「お兄さまは、ミュリルーズ子爵がとても整った顔をしていらっしゃる方だと聞いて、本当はいてもたってもいられなかったのよ。さるお方のような方だとしたら、どうやってエレンを救い出そうか思案していたくらいなのだから」
「なるほど、リチャード殿下は生粋の色男であられたからな」
「そうなのよ、フレディ兄さま。あの方のおかげでいくつの婚約が壊されたことかしら」
「だとしたらソーンゼットの苦しみもさぞ深かったことだろうな。まさかあのお方の手腕を彼の義妹が引いているとは思わなかったが、かの家ではそういう教育方針でもあるのかもしれない」
こら、ジョス、と妹を諌めたものの、すぐ横でにやりと笑う友人にソーンゼット卿はついに額を覆ってしまったのだった。
先の戦争から百余年。王家は威信を守り、人々はその王家のもと平和を手にしてきた。細かな歴史を見ればおそらく綺麗事ばかりではなきが、それでも人々の多くは明日の命を心配することもなく、ただ期待を胸に眠りにつくことができるようになった。そうして天下太平のもと絢爛の時代を迎え、人々は奔放になっていく。貴族のみならず、それは国家たる王家も類に洩れなかった。
今から十年近く前のことだ。口に出すのははばかられようなさる高貴なお方の浮名があちこちで流れていたのは、高位貴族の間ではよく知られたことだった。年ごろの令嬢をもつ貴族の間では母親たちが自分の娘がその甘い誘惑にのらないか胃をキリキリさせていて、身元のしっかりした厳しい付き添い人をつけようと人気の婦人たちの取り合いが起きた。中には玉の輿を狙おうとあえて脇を緩くした家もあるが、よほどでない限りそんな不名誉な形で関わり合いを持ちたいと思う貴族は多くなかっただろう。
父セオドアが外交のために国を離れていたころのことだ。まだ社交デビューもしていない少女のときだったが、王都での華やかな生活に憧れなかったわけではない。晩餐会や舞踏会、子どもでは楽しむことのできない世界。淑女教育を始め、すっかり幼少期の高慢で身勝手な行動は顧みたとはいえ、大人たちに許された夜の社交界にエレノアも夢を抱いてもいた。
だが、決して明るいことばかりではなかったのは、当然のことだった。国が豊かになり平和を享受する半面、王家の醜聞に貴族の堕落が露呈していく。放蕩と言えば耳障りはいいが、理性と良心を失い己の欲と利のためだけに夜ごと集っては淫蕩に過ごす彼らの姿は、優美で洒脱な社交界からはかけ離れておりいわば「崩壊」を象徴するにすぎなかった。
もはや遠い昔のことではない。現陛下の齢の離れた王弟を中心に巻き起こった出来事は、社交界のみならず国家を巻き込んだ大きな騒動となった。貴族たちの不貞や汚職の横行、贅を凝らした生活の裏に隠された数々の横領や悪事。そうして膨れ上がった爛熟の時代が弾け、新たな時代へと到達した。
まさか、あのころ大人たちの世界での出来事だと思っていたものが、自分に起こるとは。
貴族間での婚約の解消が全くないわけではない。様々な理由で家のために結んだ婚約が立ち消えになることはままある。けれど一般的に言えば、婚約を一方的に破棄しようとすることは大変な無作法であり、相手に甚大な苦痛と不名誉を与えたとして訴えられてもおかしくはないのだ。
エレノアがアドリアンにそうした行動をとれなかったのは、ひとえにアドリアンの運命の相手が上位貴族であったから。国を代表する四大貴族のうちのひとつ、そして女神の眷属としての名を賜った稀有な家門。
カデリア公爵家。
一の姫のもとに王族であるリチャード殿下が婿として降嫁した。いくら父が王宮へ出入りしていたとして、適う相手ではないのだ。
抗議の余地すら、エレノアにはなかった。アドリアンが幸せになるならそれでと家族を送り出すような気持ちで彼らの申し出を受け入れたが、「現実」がエレノアから力を奪ったことは確かだった。
だとしても、もう、過去のことだけれど。
アドリアンに幸せになってほしいという思いは、嘘ではない。今でもエレノアは願っている。彼はエレノアの人生の中で、失うことのできない大切な人であったことには代わりがないのだから。




