4-3
恋であるなどとは微塵も思っていなかった。そんな俗な感情ではなくもっと崇高なものだと、傲慢にも思ってさえいた。しかし離れてなお消えず、無意識のうちに育ててしまった感情は、気づいたときには手遅れなほど大きくなってしまっていた。
崇高だなんだと言っていたが、実際には大の男が無垢な少女に縋るような、穢れた感情である。自覚したときにはウィリアムは自分に狼狽えた。とはいえ、消し去ることはできなかった。それが唯一の光であったから。それでも押し殺して生きてきた。
初めて会ったあのときから、十数年。いま、その長年の思慕を放ってしまうのが、恐ろしい。これまでも、この先も、慈しみ続けると決めた光。それを、この手で掴む――畏れ多い、怖い、苦しい。けれど、これ以上の幸せはない。
自分はとうに国へ戻ることは諦めた。国が在るべき形を定め始めた今、そこはもうすでに少年の帰るべき場所ではなかった。けれど、命を賭してくれた者のために、国の、民のために、彼には成さなくてはならないことがあった。
セリフィス――かつて黄金の雨が降った場所。女神の恩恵を受けた地としてその名を残す太古の聖域。
公国を長く苦しめてきた姿の見えない怪物の息の根を止める。それが、自らに課せられた宿命なのだ。そのために自分は、この世に生まれた――それは、変わらない。
しかし、なによりあのころの太陽のような少女が、目映いたったひとつの光が、自分の手の中にやってきたのが、心から嬉しかった。
一生、離すものかと、ウィリアムは強く思ってもいた。
ピッツヴェルド侯爵家の夜会は、社交シーズンの盛栄にふさわしく舞踏会形式で開かれるようだった。あちこちで社交場が開かれるようになって王都はいまや絢爛と喧騒の時を迎えたが国有数の高位貴族であり王家の指南役も務める家門の夜会とあれば、この年にお披露目を迎えた少女たちもこの日をいまかいまかと待ち侘び ていたに違いない。
忙しない往来を進み、子爵家の紋章入りの馬車は貴族街にあるベルウォルズ伯爵邸へ向かう。
陽はすでに傾き、辺りは薄っすらと宵の色を帯びていた。家々の火が入り始めるころ、出迎えの使用人たちが手に洋燈を持って馬車の前に駆け出してくる。
薄明の景色に浮かび上がるベルウォルズ邸は、その見事なまでの建築美から、畏敬の念さえも感じさせるほどであった。遠い日の思いが沸々と熱く煮えたぎり、全身を震えさせるようでもあった。これほどまでに感情を、ウィリアム・エーレ・ミュリルーズという人間の根幹そのものを大きく震わせるものが、いまだかつてあっただろうか?
足を踏み出すのが恐ろしい。
あの手をとってしまえば後には戻れない。
馬車を降りてこれから行く先に、彼の人は待っている。
躊躇しなかったわけではない。
彼女へ結婚を申し込むということは、彼女をこちらへ引き摺り込むことであったのだから。
その手を拘束し、目と口とを塞いで人質にするようなものだ。
だが、選んだのは自分だ。
なにごともないようの澄まし顔をしてみせながら、この運命を選び掴んだのは他でもない自分だったのだ。
(……らしくもない)
らしい、とはなんだ? ウィリアム・エーレ・ミュリルーズという人間を形作るものはなんだ?
馬車が完全に止まるまでのあいだ、ウィリアムは瞑目し深く息をついた。
「ようこそ、ミュリルーズ子爵様。お嬢様がサロンに紅茶を用意してお待ちです」
ウィリアムは従僕へハットとステッキを渡すと、家令であるマークソンの案内を受け邸へ足を踏み入れる。
長い歴史を持つベルウォルズ家のタウンハウスは、王都フェリシティアの中でも有数の敷地面積を誇る。庭園の見事さに加え、邸は小さな城と言ってもいいほどその建築美は見る者を圧倒する力がある。
大きな邸を維持し続けられるというのはその家が盤石であることを示し、またその家の歴史を多く物語る。
豪勢なエントランスホールを正面に突っ切るとサロンへと案内された。レイヴェンヴェルグの城と比べればその規模は幾分も小さいが高い天井には甘い香りのする蜜蝋蝋燭が何本も並べられたシャンデリアが室内を照らし、趣味のいい調度品に片隅にはピアノフォルテが。数十人程度の舞踏会ならば十分すぎる広さだろう。幼い兄弟が手を取り合いくるくると音に合わせて回る、その姿がシャンデリアの灯りの下に見える気がした。
マークソンの登場にカウチソファーや安楽椅子に腰かけていた面々が顔をあげた。ウィリアムが歩み寄りまず伯爵夫妻へあいさつをする。それから、婚約者に視線を向けると彼女は小ぶりなあごをすうとそらし上げ口許に微笑をたたえた。
美しい、とウィリアムは思った。それ以外に形容する言葉がとっさに浮かばないほど。
カウチソファーから彼女がおもむろに立ち上がる。気だるげにも見えるしぐさで、ゆったりとした優美さは酷い焦燥を覚えさせた。差し出された手にウィリアムは唇をそっと寄せる。手刺繍の施された繊細なレースの指先からは、甘い彼女の香水のかおりがした。
世界がぐるりとひっくり返され、人知れず罵倒したくなる。
「ミュリルーズ卿、今日は我が妹をよろしく頼みます」
互いに言葉を交わす前に我先にと言ってのけた兄君に、彼女はふっと相好を崩した。
「お兄さまこそ、叔父さまの宝石であるクラリスのエスコートをしっかりなさらないと」
この兄妹の仲の良さを思うと――否、この家族の、だろう。あまりに互いを思い合っている――目の奥がちかちかする。
二人の横に見慣れない顔があるかと思えば、まさに社交デビューを迎えたばかりの少女だった。先日王宮での拝謁を終えたので、領地にいる親戚に代わって伯爵家の彼らが面倒を任されたという。
従姉妹同士と言うには似ているのは尖った鼻の形くらいで、ブロンドベージュの髪を綿密に編み込み、真っ白なシュミーズドレスを着こんだ姿は初々しさに満ちている。色合いや施された刺繍の図柄から、おそらくあれは冬に売り込んだ綿紗のひとつだっただろう。
兄の横で緊張と高揚の入り混じった顔つきの少女に微笑み、先に出発するエレノアは家族へ向けて淑女の礼をしてみせた。
ゆっくりとたわんで流れたドレスの裳裾が、シャンデリアの光を浴びてきらきらと瞬く。至極薄い綿紗を重ね合わせ、ベルトや裾、それから左の腰から足先にかけて流れるように神話時代を象徴する美しい刺繍が施されている。
純白を重んじるシュミーズドレスにおいて刺繍は白い糸で施すのが一般的だが、彼女のドレスには瑠璃を砕いてつくった染料でもって繊細に染めた淡い青白色の糸を用いていた。肩や胸などには真珠や宝石が散りばめられ、白磁の肌をより艶めかせる。耳と首許には、婚約者を彷彿させる天青石がきらめいていた。
すべてが、彼女のために存在しているようだった。
「今夜はだれもが貴女から目が離せないでしょう」
「もったいないお言葉ですわ。でも、ありがとうございます」
「お世辞でもなんでもありません。ただ、事実でしょうから」
薄くまなじりを細めた彼女の指先に今一度唇を寄せる。おそらく彼女は彼の告げた言葉に様々な意味が含まれていると思っているのだろう。たしかに、彼女は少なからずこの夜会で注目を浴びる理由があった。もちろんそこには自分も関係している。新たな婚約を結んでから初めて参加する夜会。このひと月、沈黙を守り続けてきた令嬢の再起。ともあれば人々の興味関心が向くのも自然の摂理だった。
自分が守るとは口に出して言うことはできないが、それでもウィリアムは彼女のそばを片時も離れるつもりはなかった。
宵が深まり、夜会は厳かな空気の中で始まった。最初は招待客の中で最も高位の男性とピッツヴェルド侯爵夫人が踊り、次に爵位順に男女がフロアヘ緩やかに滑り出していく。舞踏会としてのお手本といってもいいような流れで、最後に社交デビューを迎えた若者たちが加わるとホールは一気に賑やかさを増した。
ダンスの演目はリエフとは大差がない。数組で代わるがわるパートナーを変え踊る演目から唯一のパートナーと曲の終わりまで共にする演目もある。いずれも侯爵家お抱えの楽団が見事な演奏を披露し、それに合わせて人々は身を委ねる。
パートナーと向き合い、一礼。手を取り、優雅にステップを踏む。くるりくるりと隣り合い向き合う顔が変わり、やがてエレノアのもとへと帰ってきた。ホールへ入場するまでは蒼白だった顔が、今は少しだけ血色を帯びている。目が合うとふと微笑み恥ずかし気にウィリアムの手をとった。
常に愛想のいいたちではないが、ウィリアムもそれに応えるように口許を緩めた。
音楽と歓声が鳴り止むことはない。夜じゅうこの大人たちの戯れが続くが、一通りの踊りを終え満足した者から輪を外れるとそちらでまた社交が始まっていく。ウィリアムもエレノアもこの日は踊りはほどほどに周囲へのあいさつ回りが主な活動予定だった。
予想どおりフロアから離脱すればちらほらと隣立つ婚約者を眺める目があった。ただし、遠巻きに見ているだけで声をかけてこないのにはお行儀のよさを感じてしまう。悪し様にこちらの事情を語る人間がいてもおかしくはなかった。この世界は――社交界というのは、そういうものだ。一つでも瑕疵があれば、猛獣たちの前に投げ出された肉と同じく、貪りつかれる。だから当然、相応の謗りなどは覚悟をしていたのだが、噂話でさえ聞こえてこないあたり主催側の手腕が優れているのだろう。
ピッツヴェルド家とベルウォルズ家が夫人を通して昵懇の仲であるのは有名な話で、侯爵が王家の相談役という類稀なる地位に着いていることはさることながら、社交界の重鎮と名高いピッツヴェルド侯爵夫人を前に余計なことを口走る人間はいないのだろう。
好奇的な目で見てくる人間もいるが、多くが社交界の花の一輪を愛でたいと邪な感情を視線に載せているばかりだ。
(この中の何人が、彼女との婚姻を望んだことか)
隣立つお人は目を瞠るほどの美しさで、裳裾が揺れるたびに彼女の肢体を艶めかしく描きだしている。
ああもっと頑丈な布地でその躰を覆いたい。だがその神話時代の皓々しい美を只人が損なうのは、なんと傲慢で罰当たりなことだろう。
淡い青色で彩られたドレスが、彼女のまとう光をいっそう目映くする。
亜麻色の髪がうなじや頬、丸い額の上で揺れていた。幾千のろうそくの灯火が彼女の瞳を濃い金色に映し出していた。
「どうやら、隣国の若き紳士は我が国の春の姫にご執心なようね」
艶やかな赤い唇が愉しげに歪み、深い紅色のドレスが彼女の動きにあわせてたなびく。
「ロザリンドさま」
エレノアが完璧な淑女の礼を披露した。ウィリアムもすぐに片足を引きうやうやしくこうべを垂れる。
ピッツヴェルド侯爵夫人。ノーゼリアの社交界を牽引する貴婦人のうちの一人。
アッシュグレーの髪と淡いブルーの目は、彼女の凛とした顔立ちをより高貴に印象づける。
高級な羽根をたっぷり使った扇子の向こうで、薄明の空を閉じ込めたような瞳がウィリアムを見つめていた。




