1.「運命」を見つけた婚約者
彼の告白を聞いたとき、エレノア・ウィスコットはかつてリディストン伯爵が話していた言葉を思い出していた。
その日はたしかエレノアの五歳の誕生日で、運悪く風邪を引いてしまったアドリアンのために、どうしてもお見舞いをしたいとわがままを言ってリディストン邸を訪問した。
リディストン家のタウンハウスは、エレノアの生家であるベルウォルズ伯爵家のタウンハウスから三区角のところにあり、徒歩でも馬車でも気が向けば容易に訪れることのできるご近所だった。
領地も仲良く隣り合わせているのだが、それはさておき、エレノアは誕生日パーティーの準備で忙しい自宅を侍女とともに飛び出して、馬車でリディストン家に向かった。
無邪気さで虫を殺せるような年頃だったから、エレノアも同年代の少年少女たちと打って変わらず、その明るい残酷さで、家じゅうの人間が困るのもお構いなしに寝込んでいる婚約者の顔を見ようと急いだのだ。
車窓の景色が移り変わるのも気に留めることなく、考えつくことといえば、「アドリアンの顔をひと目見ないと」という決心ばかりで、「婚約者に直接おいわいしてもらえないなんて、誕生日の意味がないわ!」と丸い頬をちょんと膨らませていた。
そうして突然訪問したエレノアをリディストン伯爵夫妻は優しく迎え入れてくれた。
「息子も貴女に会いたがっていたのよ、ぜひ顔を見せてあげてちょうだい」
今思えばなんと寛大な対応だろうとは思うが、エレノアは嬉々として、彼らの息子であるアドリアンの部屋に案内されるまで客間のソファーに座っていた。
ほんの少しの時間でも惜しくて、アドリアンに早く会いたいなとソワソワ(身体だけは動かさず目だけで)するエレノアだったが、リディストン伯爵であるモーリス・ハワードは少女を批難することもなくあたたかい笑みを浮かべて彼女にある絵画を紹介した。
暖炉の上に飾られたその一幅は、一人の羊飼いと女神が手を伸ばし合うという場面で、モーリスはエレノアにその絵の説明をしてくれたのだ。
彼らは互いに手を伸ばし、その手を掴もうとしている。
神話時代の逸話を描いた作品と言われ、地上に立つ男性を人間、空から手を伸ばす女性を女神となぞらえ、女神と人間が手を取り合ったことにより大地が誕生したという場面を表現したものだった。
説明の半分くらいは難しくて聞き流していたが、エレノアは不思議とモーリスの話に、そして絵画に夢中になっていた。
神々しい光を放つ女神と逞しくも美しい男。
とくにお気に入りだったのは、一説にはこれは「運命」を表現しているとも言われていて、男は女神に、女神は男に、紆余曲折があろうと手を伸ばさずにはいられない、そんな衝撃的で激情的な出会いをしてしまったという話だった。
「女神の堕落を象徴するとして、一時は物議を醸したものだけどね。運命というものに出会うと人は理性を忘れてしまうらしい。女神ですらその強い衝動には抗えず、すべてを擲ち身を投じてしまう」
運命という言葉を知ったのも、そのときだった。どきどき、ふわふわ、なぜだか知ってはいけないことを知ってしまったような気分。
白い布地を纏っただけの、半裸に近い肢体を晒け出しながら手を伸ばし合う男女の姿は、なんとも甘美で神秘的に思えたものだ。
(わたしも、こんなけいけんをしてみたい)
幼いエレノアは無垢にもそんなことを考えていた。
(ほかでもないアドリアンと。「うんめい」のふたりになれるかしら! ううん、わたしたちなら、きっとなれるわ!)
頬を赤らめたエレノアをモーリスはやさしく見守っていた。気弱にも見える温和な顔立ちで、髪と同じ茶色い眉をかすかに下げながら。
「でもね」
とやがて彼は静かな声で続けた。
「出会いには、別れがつきものだ。運命の裏になにがあるか、その先に待つものはなにか、我々はしっかり見極めなくてはならないのだよ」
そして現在、その絵画がエレノアの目の前に置かれている。
あのころと変わらず、暖炉の上方、重厚感のある品のいい壁紙の上に。彫刻の施された金の額縁に収められ、飾られている。
何度も過ごした、よく知る場所だった。ここはエレノアが、愛しの婚約者と会うために何年も通った場所でもあった。笑い声と、華やかな紅茶の香りと、あたたかなもので満ちていたはずだったのに、今日ばかりは冷え切った石の間にでもいるようだった。
「エリィ、これは運命なんだ」
甘ささえ感じる蜂蜜色の髪が、さらりと額の上で揺れていた。整髪料でまとめるとなんだか居心地が悪いと言っていたのはいつだったか、少年時代のあどけなさを完璧な形で残した姿で彼はエレノアの前に立っていた。
柔らかなベージュの上衣と揃いのパンタロン、胸許にはエメラルドのクラバットピン。
「僕はもう、彼女に出会ってしまった。わかってくれるだろう、エリィ?」
そのどれもが彼を彷彿とさせ、彼のためだけにエレノアが見繕ったものだと、隣立つ女性は知っているのだろうか。
ソファーに腰掛けるエレノアを前に、向かい合った場所へと腰を据えることもなく、一対の男女が彼女を見下ろしている。
あの「運命」の絵画を背に、「運命」を告白するとは。
――運命の裏になにがあるか、その先に待つものはなにか、我々はしっかり見極めなくてはならない。
かつてリディストン伯爵が告げてくれた言葉が、よりにもよってこんなときに脳裡に思い浮かぶなど、だれが想像していただろう。
あの日、無垢にも浮かれて、婚約者の部屋に案内されるやいなや「わたしたちってきっと運命なのだわ」と言い募った少女は、少なくともこんな未来を想像してはいなかったはずだ。
男の腕に自分の身体を絡ませながら、恍惚とした面持ちでツンと尖ったあごを突き上げ、女性はエレノアを見下ろしている。
「ベルウォルズ伯爵には、君からうまく言っておいてくれないかな。君の言うことならきっと、伯爵も聞いてくれるだろうから」
伏目がちの瞳には長い睫毛の影が落ち、肌は青白く、首も手もほっそりとしていて華奢な姿形をしている。エレノアのくすんだブロンドの髪とは異なり、彼女のやや赤みを帯びた金色の髪はいっそう彼女の可憐さと愛らしさを際立たせる。
ただ、対峙した彼女の瞳だけは、鈍くも苛烈な光をも携えていた。
その隣でアドリアンは、蒸留酒を帯びたように半ばうっとりと陶酔の表情をして、誇らしげに立っている。エレノアを見下ろしながらも今その頭には隣の情人のことしか思い浮かばないのだろう。親兄弟に見せるような穏やかな微笑ではなく、それは男女の性愛を悦ぶ男の笑み。
物心つく前から彼のことを見てきたエレノアにとって、それがこれまで彼が自分に向けてきた表情とは異なることはわかりきったことだった。
この状況が冗談でも遊びでもなんでもないことを、エレノアはとっくに理解していた。
そして、なんとも馬鹿げている、と。
半年後には、結婚式を挙げる予定だった。すでに招待状も送り、会場のあらゆる手配も、ドレスの制作も、すべて済んでしまっている。
それだというのに、だ。
「頼んだよ、エリィ。どうか、僕たちの運命を祝福してほしい」
こうして、二十年余に渡る婚約は、一瞬のうちに崩れたのだった。
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