乙女ゲームの知識がないのに悪役令嬢に転生してしまった
「え、どこここ……」
目が覚めたら見たことのない、天使が描かれている天井に、どこのお姫さまかなと思うような天蓋付きのベッドだったら、この発言はなんらおかしなものではないはずだ。
「……なんか手、ちっちゃくない?」
明らかに7歳8歳かと思う手の大きさ。視界から見える足の長さも大きさも小さくなっている。
「何がどうなってんの……」
とりあえず情報収集でもしようかと、ベッドから降りてみる。部屋を見渡してみると、これまたどこかのお姫さまのような雰囲気のある部屋だ。白を基調とした部屋はパステルカラーの調度品により可愛らしく整えられている。
だがどこを見てもやはり見覚えはない。こんなお姫さまみたいな部屋に住んでいた記憶はない。
「…………? あ、鏡……」
この状況に頭を捻らせていると大きな鏡を発見した。何気なく、その鏡に足を向け、鏡を覗き込んだ。
「は?」
そして思わず声が出てしまった。しかしそれほどまでに鏡に映るそれに、理解ができなかった。
肩まで伸びた艶やかな黒髪は枝毛なんてなく、天使の輪がある。深い海を思わせるような青い瞳は長いまつ毛に縁取られ、宝石のように輝いている。
そもそも大学生のはずなのに、7歳8歳にしか思えない手や足を見て気づくべきだったのに、それを本能が否定した。
しかし鏡に映る姿は否が応でも事実を突きつけてくる。
まるで人形のように整った、西洋人のような可愛らしい幼女。そう、幼女だった。
「待て待て待て、いくらなんでも非現実的すぎる展開……」
しかしそこで鏡に映る容姿を見て、思い出したことがあった。
「あれ、もしかしてこの姿って……友達が遊んでた乙女ゲーム、の悪役令嬢って言われてた子に似てる……」
そう思った途端、嘘のように今までの記憶が押し寄せてきた。嵐の中にわざわざ外に出てもみくちゃにされるような、濁流の中、右も左も分からなくなって体が宙に浮いているような感覚だった。
* * *
しばらくして記憶が落ち着いた頃、アーシャ・カルディネンドは思い出した。
「あ〜、これが俗に言う転生ってやつか……」
アーシャの前世は特に目立つことの無い平凡な女子大生だった。大学に通いながら合間にアルバイトをし、休みの日には友達と遊びに行く。
彼氏はいないがそれなりに充実した日々を送っていたごくごく平凡な女子大生。
「最後の記憶は自宅で酒を飲んで寝たところまで。死ぬような量を飲んだわけじゃないのにな〜。まあ、これが新しい人生ならそれもそれでありかも」
記憶が戻ったおかげでアーシャは前世で、友達が遊んでいた乙女ゲームの世界に転生したことを知った。といっても題名も内容も知らない。
唯一知っていることと言えば、この体の持ち主であるアーシャ・カルディネンドは乙女ゲームの悪役令嬢であり、最後には断罪されて死ぬということだけだ。
「何が理由で死んだんだろ? 友達が遊んでて、ちらっと聞いただけだからなぁ」
まあこういうゲームで悪役令嬢という配役ならば基本的にはヒロインと呼ばれる少女に何かして誰かの怒りでも買ったパターンだろう。
「となると、アーシャつまり私をゲームで殺したのは公爵家であるここよりも身分が上。まあこの国の王族とかか」
全く困った話だ。ゲームの内容を全く知らないのだから対処のしようも無い。人付き合いは下手ではないが上手くもない。人間関係なんてちょっとしたことでヒビが簡単に入る。
「もうこれずっと家にいた方がいいパターン? 今の私、一応お金持ちだし……」
アーシャは公爵家の一人娘だ。王族に次ぐ地位にいるためお金だって腐るほどある。何もしなくてもずっと老後まで過ごすことも可能なのだ。
「だとしても、現状それじゃ難しいか……」
しかし悲しいことにアーシャの両親は仲が悪い。アーシャが生まれたころはそんなことなかったようだが、いつからか両親の不仲は広く知られるほどになった。
「両親は不仲だけど、私には一応会いに来てくれてるんだよね。だけどさすがに両親が不仲なのは気まずいし、気まずいまま家にいるのはほんとに気まずい」
それに問題はまだある。
「私がいつ断罪されるか分からないんだよね。場所も分からないし……」
割と重要なことを知らないのだ。たった今から引きこもることになっても、さすがにたまには外出しないといけない時も来るはずだ。
断罪される時期が分からないと簡単に外出もできない。
「これは困った。思ったよりもやることがあったとは。まあ、最悪の場合、親の権力で引きこもろう。そのためには、両親の不仲を解消しないと」
アーシャは肩を大きく回し、固まった筋肉をほぐす。幼女らしからぬ行動とはいえ、中身は成人済みの女子大生だ。
それに部屋に誰かいる訳でもないのだし、問題ないだろう。すると、アーシャのお腹からぐうぅーという音が聞こえてきた。
「…………まずは朝ごはんからかな」
近くにあったベルを鳴らして、アーシャは部屋の外にいるであろう誰かを呼んだ。
* * *
「はあー、食べた食べた……」
アーシャはお腹いっぱいになるまで運ばれてきたご飯を食べた。おかげで今しばらくは動けそうにない。
「いやぁ、それにしてもさすがお金持ち! 見た目も綺麗なのに味も美味しいと来た! しかも勝手に着替えさせてくれるし、いい事づくめ」
ベルを鳴らしたあと、数人の侍女が入ってきてアーシャを着替えさせたり、朝食を運んできてくれたりして。何もしなくても勝手に全てが進んでいく状況だった。
「これはさすがに楽すぎる。ほんとに引きこもりたいわ」
まあ本気で引こもるためにはやることをやってからではないとできない。
お腹が落ち着いた頃にアーシャは部屋から出て情報収集に向かう。幼い体だとただでさえ広い屋敷がさらに広く感じる。
「さてさて、どこから聞き込みをするか……」
とにかく長い廊下を短い足で歩いていく。さすがに本人たちに直接聞き込みに行くのは早い。というかそんな鋼の心臓を持っていない。
「うっわ、純金じゃん。金持ちが垣間見えるなぁ」
廊下を歩いているだけで金持ちが窺える。なにせ、一定間隔で高そうな調度品が置いてあるのだから。
「この壺とかめっちゃ高そう。この絵とかも。なんかゴッホとかピカソとか描いてそうな絵だ」
ついつい本来の目的を忘れてこのまま探検でもしたい気分だ。しかし目の前の課題は早めに取り掛かることに越したことはないと、大学で学んだ。
「使用人は見かけるけどみんな忙しそうだから聞きづらいんだよね。ん〜、庭にでも行ってみる……?」
確か公爵家の庭はとにかく広かったと、アーシャの今までの記憶が言っている。
危なげな足で階段を一段一段降りていき、庭へと通じる外廊下を歩く。すると広く、美しく手入れされた庭が目に入った。
季節が春ということもあり、過ごしやすく、時折吹く風が涼しい。なによりも、花の甘い香りが心地いい。
中央には大きめの噴水もあり、近づいて水に触れるとひんやりと気持ちいい。水面に映るぼんやりとした顔を見て、何気なく笑ってしまった。
「おや、お嬢さま。こちらまで来るとは珍しいですな」
「あ、じいや」
ふと、後ろから声をかけられて振り向くとアーシャの記憶の中にいる人物が立っていた。
彼は公爵家専属の庭師であり、アーシャからは『じいや』と呼ばれていた。見た目も優しそうなおじいさんで、けれどその庭師としての腕は王城の庭師に負けず劣らずの腕前だそうだ。
「いつもなら屋敷の中で遊んでいるはずですが。気分転換ですかな?」
「ううん、今日は違うんだ。ねえ、じいや。お父さんとお母さんってどうして一緒にいないの? なんだか気になってみんなに聞いて回ってるんだ」
さすがに『両親の不仲の理由を知ってる?』的な感じで問うのははばかられた。あくまで今のアーシャは幼女なので、幼女らしい言葉遣いを意識しているのだ。
「絵本で読んだの。お父さんとお母さんは仲良しで、いつも一緒にいるって」
「…………」
「ねえ、どうして一緒にいないの? じいやは何か知ってる?」
すると、じいやは膝を突いて、アーシャと同じ目線になるように屈んだ。
「お嬢さま、そのことは他に誰に聞きましたか?」
「まだじいやが一人目」
「そうですか。……お嬢さまは公爵夫妻について知りたいのですな?」
「うん。だって仲良しの方がいいでしょ?」
「…………でしたらこれは、老人のひとりごとだと思ってくだされ」
おもむろに頷いたアーシャを確認すると、じいやは昔のことを思い出すように目を瞑りながら教えてくれた。
「私が見るに……公爵夫妻は、ただ思いがすれ違ってしまっているだけだと思うのです」
「すれ違い……?」
「はい。今から2年前の奥さまの誕生日近くで、公爵夫妻の距離は遠くなってしまわれた」
「それは、どうして?」
アーシャは疑問を口にした。それに対してじいやは言葉を選びながら話した。
「私は公爵さまから奥さまの誕生日のために花束を用意するよう依頼を受けておりました。そして公爵さま自身も奥さまにサプライズをしようと、数日前から慌ただしく動いており、なかなか奥さまと会う機会がありませんでした」
「お母さんはお父さんと会えなかったから今もこうなの?」
「いいえ、恐らく違うと思いますな。おふたりは、周りから見てもとても愛し合っていたと思います」
「──────」
その言葉にアーシャは目を眇めた。
「しかし、愛しているが故に、でしょうな。奥さまは見てしまったのです」
「見た?」
「はい」
まさか自分の夫が浮気でもしている所を目撃したとかいう訳では無いだろう。いまのじいやの話からすると、両親は元々仲が良かったようだし。
「公爵さまを探していた奥さまは、公爵さまが他の女性と楽しそうに話をし、奥さまに向けるような笑顔をしていたところを見てしまった」
「…………」
まさかの当たり……だったりするのだろうか。アーシャは首を傾げながら話を聞く。
「そのことに、奥さまはショックを受けてしまわれたのでしょうな。生憎とそこには死角から見ている奥さまと、楽しそうにしている公爵さまと見知らぬ女性。そしてそれをたまたま遠くから見ていた私だけでした」
「……だからお母さんはお父さんと会いたくなかったの?」
「恐らく。公爵さまはわけも分からず奥さまから拒絶され、奥さまも公爵さまに裏切られたと思っていらっしゃる。それが今でも続いているのです」
「……じゃあ、お父さんと話していた女の人は誰だったの?」
正直、これによって父親の有罪無罪が決まる。本当の浮気だったらもう両親の不仲解消は諦める他ない。それか父親に今すぐに母親に土下座でもしてきてもらうしかない。
「あとから知った話だと、デザイナーショップのオーナーだったとか」
「……なるほど」
「私は基本的にこの庭から出ることはないのです。それゆえに公爵夫妻について、関係が悪化したあとでしか知らなかった。それにあくまでこれは憶測に過ぎませぬ。公爵夫妻に会う身分もない上に、確証もない。誰にも話せませんでした」
「じいや……」
「けれどお嬢さまが公爵夫妻について聞いて下さり、私は心が軽くなりました。ですからどうか、公爵夫妻を助けてあげてくだされ」
そう言われ、アーシャは頷き、庭から去った。
庭の端っこに作られたブランコに乗り、アーシャはじいやから聞いた話を整理する。
「……ほんとにただのすれ違いっぽいな」
父親が会っていたという女性がデザイナーショップのオーナーなら、それも母親のためのサプライズで話していた可能性が高い。母親にしか見せない笑顔をしていたのも母親のことを想像して話していたからだろう。
しかし父親はあくまでサプライズがしたいという気持ちが強く、誰にも知らせていなかった。
母親も母親でその場には一人で来ていたわけで、そのことを誰かに話すこともできなかった。まあ、話すことはできたかもしれないが、その話が真実になることを恐れた可能性が高い。
そして母親は父親を拒絶し、父親もサプライズを打ち明けることをはばかってしまった。
結果として疎遠となり、現状に繋がっている可能性が高いというわけだ。
「これは、第三者が口を出していいものか。いや出さないと何も進まないけど、出しすぎるのも却って悪化を招く恐れがあるんだよね」
あくまでも2人が話し合うことで解決する問題だ。いくら娘のアーシャが『お父さんとお母さんはお互いに勘違いしてただけだよ!』とか言ってもさらに疑念は高まる。
「……やっぱり、お父さんから攻めるしかないか」
アーシャは高く飛び上がったブランコから飛び降り、芝生に着地する。ブランコに乗って少ししわが着いた服を伸ばし、アーシャは父親のいる執務室へと向かった。
* * *
一人で歩けるようになって、父親の執務室に来るのは初めてだ。
アーシャのもとに父親と母親は互いが会わないようにやってくるため、ふたりが一緒にいるところは見ないが、アーシャからすると優しい両親だ。まあふたりが会わないようにしているのと、アーシャ自身がよく屋敷内を歩き回っているため時間で考えると頻繁には会っていないわけだが。
大きな扉の前に立つとアーシャは扉をべしべしと叩いた。実際はべしべしではなく、ぺちぺちという音だが、まあ気にしない。
あまり間を置かずに目の前の扉が開いた。
中にはアーシャの父親と秘書であるアランがいた。
「お父さん」
「アーシャ! どうしたんだい? こんなところまで来てくれるなんて」
「今日はお話があってここに来たの」
アーシャの姿を見ると疲れた表情が一変、嬉しそうな顔をする。
余談だが、アーシャは父親と母親の美という美だけを受け継いでいる。しかも全体的には国内屈指の美女と名高い母親と顔がそっくりだ。
じいやの話を聞いたあとだと、父親はアーシャのことを母親とそっくりだから溺愛しているように思える。別にアーシャに母親を重ねているわけではないと思うが、単に愛した人とそっくりな娘は尋常じゃないくらい可愛らしいのだろう。
「アーシャね、お父さんと秘密のお話がしたい」
「そうかそうか! アラン、悪いがしばらく席を外してくれ」
「かしこまりました。後ほどおやつをお持ち致します」
「私、クッキーがいい」
「料理長に伝えておきますね。それでは失礼します」
アランは一礼をするとすぐに部屋を出ていった。そして父親はアーシャを扉付近にまで迎えに行くと抱き上げて、近くにあるソファーへと腰を下ろした。
「それで、アーシャはどんなお話があるんだい? お父さんに教えてくれ」
「あのね、あのね、お父さんってお母さんと一緒にいるところをあまり見ないなって思ってたの」
「……!」
「だからじいやにそれを話したら、こんなことを教えてくれたんだ」
それからアーシャはあくまで幼女らしく、じいやから聞いたことを端的にまとめつつ、無邪気とはまではいかないが、ただ疑問を口にする幼女を演じた。
「───だからね、アーシャね、お父さんとお母さんはお互いに勘違いしているだけだと思うんだ」
「……そ、んなことだったとは……」
「お父さん?」
父親はアーシャの話を聞くと顔を青くし、手を強く握った。今回のことはどちらに非があるというわけではないと、アーシャ自身は思う。
じいやの言う、お互いを愛するが故に起きた事故だ。だけど、何もしなければ悪化の一途を辿り、最終的には引き返せないところまで行ってしまう。
「アーシャね、お母さんが今いるところ知ってるよ」
「!」
背中を押すならばここしかない。
「今ね、温室にいるんだって。お母さんの好きな白百合でも見てるのかも」
「……っ、ごめんアーシャ。お父さん、お母さんに会ってくる!」
そう言って父親は急いで部屋を出ていった。入れ替わりで入ってきたアランは目を点にして父親を追いかけようとするが、アーシャはそれを止めた。
「いま、お父さんのあとを追いかけちゃだめ」
「ですが……」
「いま邪魔したら、お父さんとお母さんがちゃんと話せる機会はなくなっちゃう。だから、今はお父さんの後を追いかけないで」
「……もしかして、お嬢さまはお二人について何か知っていらっしゃるですか?」
「ちょっとだけだよ。でも、きっと大丈夫だと思う。お父さんは、いまもお母さんのことが大好きみたいだから」
「…………」
アーシャが微笑むとアランも何かに気づいたような顔をし、持ってきたおやつをテーブルの上に置いた。クッキーは焼きたてのようで甘い香りがする。
それを一枚手に取ると、アーシャはパクリと口にした。
「そうですね。おふたりは、今もお互いを思い合っていらっしゃいますから」
「ここから先はお父さんとお母さんが話さないとね。それよりもこのクッキーおいしいね。サクサクだけど、ホロホロしてて」
「それは良かったです。料理長にも伝えておきますね」
「うん」
甘く、甘いクッキー。このクッキーみたいに、父親と母親の関係が甘く戻ることを、アーシャは願った。
* * *
アーシャが一役買い、父親と母親の不仲は解決し、これで問題なく引きこもり生活が送れると思っていた矢先に次なる問題が起きた。
「なにこれ……」
いつも通りに朝起きてみると、アーシャの手の甲には今までにはなかった紋章があった。
うっすらと煌めくそれは一本の剣とそれを囲むようにある薔薇が描かれている。まあ見た目だけなら神聖な何かだと思う。
だがいつも通り寝て目が覚めたら手の甲にこんなよく分からない紋章があってパニクらない人間なんていない。
「……ま、図書館で調べればいっか。でもまだこれが何か分からないうちは誰にも知られたくないや」
……本当ならパニクっているはずだった。すっかりこの生活に慣れたアーシャは神経が図太く成長していたのだ。
いつものようにベルで侍女たちを呼び、着替えを手伝ってもらう。しかしそのうちに何度も手の甲を見られていたはずだが、特になんの反応もされなかった。
そして両親がラブラブに戻り、アーシャたちは食堂で朝食を食べることが日課となっていた。
「おはよう。お父さん、お母さん」
「アーシャ、おはよう。今日も俺の天使は天使だなぁ」
「おはよう、アーシャ。今日もとっても可愛らしいわ。瞳の色に合わせた青いそのドレス、とってもよく似合ってる」
朝から両親に褒められ、ほっぺにキスされる。二人はアーシャのおかげで勘違いが解けたと知ると、今までの比ではないくらいアーシャを溺愛し始めた。
「お父さんもかっこいいよ! お母さんも美の女神さまが嫉妬しちゃうくらいきれい!」
そう言ってアーシャも二人にほっぺにキスをする。初めは少しは恥ずかしかったが、慣れてしまえばそんなこともなく、わかりやすい愛情表現だと思う。
そして他愛もない話をしながら三人で楽しく食事をし、そのあとはそれぞれのやるべきことをするために席を立つ。いつもなら父親が一番忙しく、一番初めに席を立つはずだが、今日はなんだか遅い気がした。
まあその時点で逃げていればよかったと思うが、結果として見ればそんなこともなかった気がする。
父親はコーヒーカップをソーサーに戻すと、何気なく口を開いた。
「そういえばアーシャ。アーシャに求婚書が届いているんだが、どうする?」
「……へ?」
「国内だけじゃなくて国外からも何人かの求婚書が届いててね。でもまあ、求婚書のなかでこの国の第2王子を超える身分はいなかったと思うけど」
「だ、だいに、おうじ……」
「そう。アーシャの年齢で婚約者がいても別におかしくないからね。どうしたい? 求婚書、アーシャの部屋に運んでおく?」
善意100%で言ってくれているのだろうが、アーシャからすれば悪意100%である。
(まじか、どうするよこれ。多分、分からないけど第2王子を婚約者にするのはリスクが高い、気がする。かと言って他の誰かと婚約するのも嫌だし。というか私の将来設計はここの引きこもりになることだし)
ここで断ってもまたこの話は来る。弱い理由での拒否はだめだ。となると、少々イタいが全力で父親に媚びるしかない。
「ん〜、アーシャまだ婚約者とか分からない〜。それに〜アーシャはお父さんと結婚したいなぁ」
「アーシャ……!」
「でもぉ、お父さんにはお母さんがいるからぁ。だからね、アーシャは結婚する相手はお父さんみたいにかっこよくてお金持ちで優しい人がいいなぁ。それとねぇ、お父さんとお母さんみたいな関係になりたいからぁ、私がいつか大好きになる人と結婚したいな〜。だからぁ、婚約とかはまだ早いと思うんだ〜」
これぞ、父親が娘に言われて嬉しい『お父さんと結婚する!』を言いつつ、将来的には2人みたいなラブラブな関係になりたいから政略結婚ではなく、恋愛結婚がいいとアピールしつつ、最後には婚約はまだしたくないの意志を伝える三刀流だ。
アーシャの予想通り、父親は『お父さんと結婚する!』に嬉しそうだし、母親も娘の可愛らしい発言に頬を緩めている。
「そっか〜アーシャの気持ちは分かったぞ! なら求婚書は全部お断りしておくよ。アーシャには好いた相手と添い遂げて欲しいからね」
「そうね。その後の人生のパートナーとなるんだもの。別に今すぐに決めることもないし、求婚書は断っておきましょう」
その言葉にアーシャは思わずガッツポーズしたくなる。しかし全身を力ませ、何とかその衝動を押えた。
その後は特に何も無く、アーシャは二人と分かれると手の甲の紋章を調べるために屋敷内にある図書館に来ていた。どの分野に当たるのか分からないため、広い図書館を色々見て回る。
「んー、どれだ? 歴史……いやでも神話? んー、分からん」
分野が絞れないことでアーシャは頭を抱える。
「あーもう。どうしたらいいの」
思わずむしゃくしゃしてしまい、髪を強く引っ張る。すると髪を引っ張った拍子に左肘が本棚に当たった。
「ん? なにこれ、『聖剣の歴史』?」
思わず目につき、アーシャはその本を本棚から引っ張り出す。古そうな本で、背表紙は少し破れかかっている。
丁寧に取り出して表表紙を見てみると、そこにはアーシャの手の甲にある紋章と全く同じ紋章が描かれていた。
「……これだ!」
アーシャはついつい大きな声を出してしまった。しかし幸いにも図書館にはアーシャ一人だけだった。
「えーっとなになに。『聖剣に選ばれた人間は聖剣の主の証としてこの紋章が右の手の甲に現れる』」
まだ一文目しか読んでいないのアーシャは本をパタリと閉じてしまった。だってどう考えても引きこもり(予定)の令嬢には荷が重すぎることが書かれていたと思ったからだ。
「ふ、まあ読み間違えただけでしょ。さて、気を取り直してもう一度」
再び本を開き、一行目の文を声に出して読む。
「『聖剣に選ばれた人間は聖剣の主の証としてこの紋章が右の手の甲に現れる』。……見間違いじゃなかったか」
なにか特別なことをした記憶なんてない。ただ起きてご飯食べて遊んで寝てを繰り返していただけだ。それなのにいつもみたいに起きたら、この本いわくなぜか聖剣の主である紋章が現れていて意味がわからない。
「というか乙女ゲームの内容知らないから聖剣とか何で使うのか知らないし……」
思わずため息をついてしまうのも仕方がないと思う。アーシャはそのまま本をペラペラとめくっていき、それなりの時間をかけてその本を読みきった。
そして本を読んでわかったことは───
I 聖剣の主となると願うだけで手に聖剣が現れる
Ⅱ 学んでいないけど誰よりも剣の扱いが上手くなる(剣聖になる)
Ⅲ 不思議な力が使えるようになる→治癒や浄化といった聖剣が持つ特性の力を使える
Ⅳ 紋章は他人の目からは見えない
Ⅵ 稀になぜか聖剣の主以外で治癒の力が使える人間がいる
こんなところだ。これを読んだ限りだと聖剣の主は基本自己申告制。しかも聖剣の主の出現に周期性はなく、突発的に現れるため、誰にも予測できない。
つまり、アーシャが何も言わなければ何もバレない。
「聖剣の主とかピンと来ないし、こんなの王族とかに知られたら囲い込まれそうで嫌だし何も言わない方針でいこう。……でもまあ、聖剣ってどんな感じなのかは気になる」
アーシャはそう思い、本を本棚に戻してさらに図書館の奥へと進む。誰にも見られず、見つからないような場所でアーシャはただ願った。
すると、何も握っていなかったアーシャの手には一本の剣が握られていた。
「これが、聖剣……。全然軽いし、なんか無敵になった気分」
現れた剣は白銀色で、柄の少し上の部分には青い薔薇が巻きついている。紋章と同じように煌めいていて、聖剣だと言われれば間違いなく全員が聖剣認定するような剣だ。
「『奇跡』『神の祝福』が花言葉である青薔薇。うん、聖剣らしいね」
アーシャは軽く聖剣を振ってみる。初めて剣を持つはずなのにずっと慣れ親しんでいる気がする。これが聖剣の主パワー、すごい。
しかしいつまでも聖剣を出しっぱなしにはできない。現したように手から消えるように念じ、聖剣はアーシャの手から綺麗に消えた。
「……なんか聖剣を持ったらまた触りたくなっちゃったよ。これからは1日に1回くらい聖剣出して部屋で気ままに振ってよう」
聖剣は気ままに振るようなものではないが、聖剣の主になった理由も分からないし、聖剣の使い方なんてアーシャが決める。
調べたいことも調べられたのでアーシャは図書館から出て、いつものように庭で遊んだり、探検したり、または父親と母親がどこにいるのかを聞いて遊びに行ったり。
もうすぐアーシャは令嬢教育が始まるため、今のうちに遊べるだけ遊んでおこうと思った。
もちろん、聖剣の主になったことは誰にも伝えていない。
* * *
「おー、すごい人が多い」
「ふふ、ここは王国の首都だから。アーシャは初めて来てみてどう? 気分転換になりそうかしら」
「うん、色んなお店があって楽しみ。ありがとう、お母さん」
「それは良かったわ」
アーシャは母親と二人、王国の首都に遊びに来ていた。乙女ゲームの末路を辿りたくないアーシャは引きこもっていたかったが、今から2日前、アーシャは夕食のときになぜか心配されていた。
聖剣の主となり、そして程なくして令嬢教育も始まったアーシャは慣れない令嬢教育にいつもの生活よりも疲弊していた。しかしアーシャ・カルディネンドが持つ元からのスペックの高さゆえ、アーシャは令嬢教育に適応し、そして同い年の令嬢たちよりも頭1つどころか2つ3つすら超え、多くのことをスポンジのように吸収していった。
令嬢教育が始まりはや一ヶ月、アーシャは驚くべきスピードで教育が進んでいた。本来ならば王立学園高等学年で学ぶはずの勉強を始めている。
そんな優秀なアーシャを誇らしく思っているが、両親たちはアーシャが無理をして令嬢教育を進めていると思い、息抜きということで今回の首都へ遊びに行くことを提案したのだ。
アーシャ自身は思ったよりも勉強が楽しくて、以前とは考えられないほど記憶力が良くて、頭の回転が早くて、何もかものスペックが高くて、そんな自分を試したくてやっていた事だった。
まあ傍から見れば確かに、少しだけ心配になるような図だったかもしれない。今までの遊びの時間を全て勉強に回し、自室か図書館のみしか行き来しない。
活発だったアーシャはすっかりとインドア派へと変わっていた。
変わっていたというか初めからインドア派だったわけで、そしてこの勉強も結局は早く引きこもるための手段だ。
令嬢教育が早く終わればそれこそアーシャの望む引きこもり生活が完成する。全ての行動はアーシャの引きこもりのために繋がっているのだ。
もちろんそれを知らない両親たちはアーシャの気分転換のためにこうしてアーシャを首都へと連れてきたわけだ。ちなみに父親は仕事で、母親とアーシャを泣く泣く屋敷から見送った。
「どこから見る? そろそろシーズン終わりだから新しいドレスでも見に行く?」
「せっかくだからお母さんとお揃いのドレスが欲しいな。あと、日傘も。最近久しぶりに庭で散歩しようかなって思ってるから」
「なら首都一のブティックに行きましょう」
馬車から降りてアーシャは母親と手を繋ぎながら店へと入る。店のマダムは忙しそうにしていたが、相手が公爵家となると嬉しそうに駆け寄り、VIPルームへと案内してくれた。
飲み物と簡単につまめるお菓子が運ばれてきて、アーシャはそれらに手を伸ばしながら母親とマダムの話を聞いていく。
「アーシャとお揃いのドレスを5着と、それに似合う日傘を同じ数分、あと室内用ドレスでコルセット無しで着れるものを……そうね、10着お願いしようかしら」
「ありがとうございます。すぐにご用意いたします」
「ああ、あと。アーシャがいま着ている青のドレス。ふんわりしていて可愛らしいんだけど、まだ子どものアーシャには少し重いと思うの。だから選ぶときはこれよりも重くないデザインにして」
「かしこまりました」
マダムは一礼すると部屋から出ていく。話を聞いていてアーシャは母親の気遣いに助かった。
ドレスは可愛くして、そして何よりも今のアーシャに似合っている自信があるが、少し重さが目立つ。だから軽めのものを選ぶように頼んでくれて助かった。
その後、アーシャは母親と会話に花を広げ、戻ってきたマダムにドレスを見せてもらい、あれがいい、これは少し重そうだからそっちのデザインがいい、とあれこれ言いながら買うドレスを決めていった。
しかし母親とマダムは話が合うのか、飽きることなく話を続けていく。初めは楽しそうに聞いていたアーシャだったが、次第に表情は無になり、ついには一言も話さなくなった。
アーシャは飽きに飽きた。だから二人の話が一瞬落ち着いた瞬間に、母親に頼んだ。
「ねえお母さん。私、ここの向かいにあった文房具店に行きたい」
「分かったわ。ならここで話は止めて───」
「私ひとりで行けるからお母さんはまだ話してて大丈夫だよ」
「!? でも危ないわ」
「平気だよ。騎士も常に巡回してるし、すぐ目の前だから。周りの目もあるし、危険なことはあんまりないと思う」
いくら周りの令嬢と比べて発育が良くても、アーシャはまだまだ子ども。そんなアーシャを目の前とは言え一人で行かせるのは親として躊躇がある。しかしアーシャもたまには誰の目もないところで過ごしたい。
アーシャは確固たる意志を持っていた。そしてそれに根負けして、結局母親はアーシャにお小遣いの金貨1枚を渡した。
「いいアーシャ? 文房具店以外に行っちゃだめよ。欲しいものが買えたらすぐにここに戻ってくるの。寄り道禁止」
「分かった」
小さなポーチに金貨を入れてアーシャは頷く。それをポケットに入れてアーシャは向かいの文房具店へ向かった。
すぐ目の前と言っても通りは馬車が並んで3台ほど通れるくらいに広く、おまけに人通りも多い。誘拐なんてことは起きないと思うが、人混みで簡単に潰されそうだ。
器用に人を避けて歩いていくと、アーシャと反対方向に進んでいた少年と軽くぶつかった。
「あ、ごめんなさ───待って」
謝ろうと思った瞬間、アーシャは反射的に彼の手を掴んでいた。掴まれた少年は小さく舌打ちをして、アーシャの手を振り解こうとする。
しかし聖剣の主となったアーシャの力は強く、振り払えない。アーシャはひとまず人通りの多い道のど真ん中ではなく、彼を連れて端っこに移動した。
「───で、どうしてこんなことしたの?」
「…………」
手を掴んだまま、アーシャは彼に問いかけた。しかし彼は答えない。
「それは私のもの。人のものを盗むのは犯罪だよ」
「っ、うっせーな! お貴族さまに生まれたお前になんて、わかるはずがない! 毎日を生き残るのにどれだけ必死かなんて!」
「だとしても、それは犯罪」
「っ、」
彼はアーシャとぶつかった瞬間、金貨の入ったアーシャのポーチを盗んでいたのだ。アーシャは僅かに軽くなったポケットを感じ、反射的に手を掴んでいた。
「……分かるはずがないんだ。こうでもしなきゃ、明日俺が生きているか分からない……っ」
「…………」
令嬢教育で、一見何も問題ないように見えるこの首都も裏では貧困と飢餓にまみれていることを知った。
そんな場所だ。幼い少年少女は大人と違ってできることは極端に低い。そんな中で生きることはアーシャの想像よりもはるかに厳しい。
ましてや公爵家で生まれ、不自由なく過ごしてきたアーシャからすれば、彼の気持ちはほんの少しも正しく理解することはできないだろう。
(……このまま何もなかったことにするのもできるけど、うーん。捨て猫見つけて話しかけて、それで結局拾わずに元気で生きろよ、みたいなことしてることになるのか? でも、相手人間だし……)
そう考えていると彼は何も言わないアーシャに対して、盗んだポーチを突き返してきた。
「?」
「返す。……明日生きてるかもわからないって言ったけど、確かにお前の言う通り、これは犯罪だ。だから騎士団に突き出したいなら好きにしろ」
「……どういう風の吹き回し? そんなに捕まりたいの?」
「別に。ただ、なんだか急にこんなことしてまででしか生きられない自分に嫌気が差した。お貴族さまに手を出したんだ。死罪って言うなら死ぬ。元々、毎日を生きるのに盗みを繰り返していたが、本気で生きたいと願ったことは一度もなかった」
「…………」
こんなことを聞いてしまっては放っておくのが難しいじゃないか。アーシャはしばらく考えたあと、ため息をついた。
「……よし、なら私と一緒にくる?」
「は……?」
「なんか見過ごせないから。捨て猫を見つけたら保護して大切にしようって前から決めてたし」
「っ、オマエふざけてるのか!? だれが捨て猫だ! それに俺に同情でもしたっていうのか!? だとしたらサイアクだ! そんなに偽善活動がしたいなら他を当たれ!!」
激昂した彼は顔を赤くし、アーシャに噛みつかんとする勢いだ。しかしアーシャはそれを一瞥しただけで淡々と言葉を続ける。
「偽善って言われて違うって答えても君は納得しないだろうし、そもそも私は慈善事業で助けようとしているわけじゃない」
「じゃあなんだって言うんだ」
「自己満足」
「は……? 自己満足?」
「うん、私の自己満足。そのために一緒に来るか聞いた。だから慈善事業でもないし、この行動は偽善でもない。私の自己満足って言うだけだから」
これはアーシャの自己満足だ。捨て猫を拾って保護するのは猫に対しての同情でも、慈善事業と称する偽善でもなんでもない。
ただアーシャ自身が捨て猫を拾い、保護したいという自己満足。それが周りから見れば同情や偽善と映っても、アーシャからすれば自己満足だ。
誰かにとやかく言われる筋合いは無い。
「どうする? 別に私の言葉を信じなくても、君が少しでも生きたいっていう気持ちがあるなら私の手を取ることが最善だよ。このまま死んでいきたいなら私と君は赤の他人だし、私は別に止めはしない」
「…………」
アーシャは彼に手を差し伸ばす。
(これで手を掴めば保護するし、拒否すればそれまで)
アーシャは別にどちらに転ぼうがどっちでも良い。この手を差し伸ばしたのも自己満足。
まあ、自己満足ではあるが、これで会ったのも何かの縁かと思い、少しだけ彼に生きてほしいと願ったのは内緒だ。
そう思っていると、彼はおもむろに手を伸ばし、そして力強く、アーシャの手を握った。
「……ついていく。おまえに、ついて行く!」
「わかった。なら、責任を持って、君を保護するよ」
アーシャはにこりと笑いかけ、彼の手を優しく包み込んだ。
彼と共に母親がいるブティックに戻ると、当然のように驚かれた。どうしたのかと尋ねられると、アーシャはさも当然のように返した。
「彼を私の従者にする」
その言葉にさらに驚くが、普段の優秀なアーシャを見ていたためか、なにか考えがあるのかと母親は戸惑いながらも頷いた。
そして屋敷に帰ると父親も驚いていたが、アーシャの端的な宣言と可愛いおねだりで了承を与えた。まあ、アーシャが彼と手を繋いでいることに対して納得がいかなそうな顔をしていたが、別に手を繋ぐくらいいいだろうと、何も気づいてないふりをしてその場を離れた。
ちなみにアーシャの母親に会わせてから、彼は一度も言葉を発していない。
アーシャの部屋に案内し、中に入ると、アーシャはようやく彼と手を離した。
「さてと、いい加減緊張は治った? まさかこんなにもガチガチになるとは」
「……ふつう、俺らみたいなやつがいきなり貴族に会うことになったら緊張で固まるもんだ」
「その割には私に対しては結構緩かったと思うけど?」
「ガキ相手に緊張するやつなんていないだろ」
「ガキってねえ……。まあいいや。それよりも浴室貸すからお風呂に入ってきなさい。さすがにその格好のままは居させられないから」
アーシャはタオルを持たせて彼を浴室に押し込んだ。
「使い方はわかる?」
「たぶん……」
「分からなかったら聞いて。あと、着替えはそこの籠に入れておくから。脱いだ服はそっちの籠ね。石鹸とかはここにあるから自由に使っていいよ」
それだけを言うとアーシャは彼の着替えのために侍女たちを呼び、準備をしてもらう。その間にアーシャは彼の今後を考えていた。
「お嬢さま、すぐに準備できる服はこちらになります」
「んー、ならその白いシャツと短パンでいいよ。忙しいのに準備してくれてありがとう」
侍女たちは一礼すると部屋から出ていった。そしてアーシャは着替えを持って浴室へと向かう。
「着替えを持ってきたよ。いま入っても大丈夫?」
「大丈夫だ」
「さっきも言った通り、右側の籠に入れておくから」
「わかった」
アーシャは着替えを入れ、すぐに浴室から出た。そして彼がお風呂に入っている間にやることはやっておく。
彼を従者にすると言ったのはあの場だけの言葉ではなく、ちゃんとアーシャの従者にするつもりで言ったのだ。だからそのために彼にはアーシャの従者となるべく、衣食住を与え、教育も受けてもらわないといけない。
(そういえば、名前聞いてなかったな)
従者となるための教育はアーシャの令嬢教育とは違う。手配する教師はもちろん異なるし、護衛としての役割も求められるため剣術指導も入る。
まあここだけの話、アーシャは学問に優れているだけでなく、運動神経もいい。剣術や柔術、組み手など様々な武芸も学んでいる。
だから護衛は要らないわけだが、彼が将来自立するというときに知識や技術はいくらあっても困らない。アーシャはそれも考え、選りすぐりの教師を手配するための手続きを進める。
そうしているうちに彼はお風呂から上がったようだ。浴室からシャワーの音が消え、代わりに服を着ている音がする。
ちなみにだが、これはアーシャが変態とか言う訳ではなく、部屋の中に浴室があるせいで音が漏れ聞こえてしまうだけだ。だから決してアーシャは故意にその音を聞いているわけではない。
アーシャも必要な書類の準備が終わり、固まった筋肉を解すように肩を回す。
「お風呂どうだった? 気持ちよかったでしょ?」
「……悪くなかった。体がぽかぽかして、すっきりしてる」
後ろから彼が歩いてくる気配がして、アーシャは振り向かずに彼に問う。彼はアーシャの問いにぶっきらぼうに答えるが、後ろを振り向かなくても彼がどんな表情をしているのかが分かる気がする。
「服のサイズはどう? 問題ない?」
「振り向いてみれば分かるだろう。問題ない」
「あはは、それもそう───」
彼に言われてアーシャは後ろにいる彼を見るために振り向いた。しかし、彼の姿を見た途端、アーシャは言葉を止め、目を見開いた。
「……? どうした、服のサイズは合っていると思うが」
「…………」
服のサイズじゃない。アーシャが驚き、視線を止めた理由は他にある。
(天使みたい……)
彼の容姿があまりにも整いすぎていたからだ。
お風呂に入る前は全体的に薄汚れており、前髪に隠れて瞳の色も見えなかった。肌もくすんで見えて、健康そうな人間には見えなかった。
しかし今はどうだろう。アーシャが普段使っている保湿成分がたっぷりの石鹸で体を洗い、髪もトリートメントをしていい香りがする。
薄汚れていた体はお風呂に入ったことですっかりと綺麗になり、彼本来の容姿が窺える。
まだ前髪は長いが天使の輪が作られている金髪にアーシャとは違う、青い瞳。目鼻立ちがはっきりしており、美青年という言葉が良く似合う。
絵画から出てきた天使だと言われても納得してしまうほど、彼はアーシャが見てきた中で一番のイケメンだった。
「おい、どうした。こっちを見た途端、急に固まって」
「……あ、いやごめん。あまりにも君が天使みたいだったから、見惚れてた」
「は……」
彼はアーシャの言葉が上手く飲み込めないのか、目を点にしてしまっている。そんな姿も絵になるなと考えていると、急に彼はアーシャの目を手のひらで覆った。
「! な、なに」
「っ、うるさい。少し静かにしろ」
「…………」
「…………」
「……もしかして、照れてる?」
「っ、静かにしろ!」
どうやら図星だったようだ。まあ確かに、あの環境下で誰かの容姿を褒めることなんてまずないだろう。彼にとっては初めてのことで慣れないことをされ、初めての感情で心がいっぱいだろう。
(やばい、めっちゃ可愛いじゃん)
もちろん空気の読めるアーシャはそう思っていても口にはしない。
(顔も見たかったなぁ)
絶対見せてくれないだろうけど。
しばらくして顔の熱が収まったのか、彼は手を離した。アーシャはゆっくりと目を開き、目をぱちぱちと瞬きをして視界を慣らす。
「あ、そういえば君の名前はなに?」
彼がお風呂に入っているときも思っていたことだ。流石にいつまでも『君』と呼び続けるのは不便だ。アーシャは彼の澄んだ明るい青い瞳を見ながら尋ねる。
「…………そんなものはない」
「ないの?」
「名前なんてあの場所じゃ、意味のないただの言葉の羅列だ。名前があっても呼ばれない。ただの言葉にすぎない」
「……なるほど」
苦しげに吐き出された言葉にアーシャはそれ以上、言葉を投げかけることはしなかった。代わりとしてアーシャはとある提案をする。
「なら、私が君に名前をプレゼントしていい?」
「! それになんの意味がある」
「意味は特にないけど、いつまでも『君』って呼び続けるのもあれだしね。私の従者になるなら名前がないと」
「……好きにすればいい」
彼から承諾を得たことでアーシャは彼の名前を考える。
(名前、名前ねぇ。なにがいいかな)
アーシャは彼を横目で見つめる。彼は窓の外を眺めていて横顔しか見られないが、やはり美しい外見をしている。
(天使……天使だったら)
アーシャは彼の天使のような外見からひとつの名前を思い出した。
「君の名前は『ラファエル』。ラファエルだよ」
「ラファエル……」
「そう。愛称はラフィ。よろしくね、ラフィ」
「ふん、悪くない」
アーシャはラフィの笑みを見て、アーシャも笑みを返した。
* * *
ラファエルを従者として迎え入れて早8年が経過し、アーシャは16歳の淑女へと、ラファエルは17歳の従者へと成長していた。
そして本来ならば王立学園へと通う年齢となっているアーシャだが、ほとんど知識のない乙女ゲームの断罪劇を回避するために、学園には通わずに次期公爵としての教育を受けていた。
学園は強制入学というわけでなく、あくまで推奨されているだけだ。入学するためのお金がなかったり(特待生となるとお金がかからないが、普通に入学試験を受けるよりも難しいため、なかなかいない)、既に学園に通う必要のなかったりする貴族の子供はこうしてそれぞれの未来のために自分の屋敷で過ごしている。
「ラフィ〜、マカロン食べたーい」
「……さっきお昼食べたばかりだろ」
次期公爵としての勉強で机に向き合い続けていたアーシャはふと集中の糸が切れた。甘いものが食べたいという欲に支配される。
「おやつは別腹だよ。それにラフィの紅茶、あまーいお菓子によく合うし」
「はいはい。準備してくる。……子豚になっても知らないからな」
「子豚でも私ならきっと可愛いでしょ。まあ子豚にならないようにラフィに剣術に付き合ってもらうからいいよ」
アーシャの隣で同じく勉学に励んでいたラファエルは呆れ顔をしながらもアーシャのわがままに付き合い、お菓子の準備をするために席を立った。
ずっと隣にいたラファエルの気配がなくなり、少し寂しい気もするが、アーシャはぐうっと体を伸ばして息を吐いた。同じ体勢で作業をし続けていたため、体が硬くなっている。
「……このままいけばゲームのアーシャみたいにはならないかな。同年代の第二王子は学園にいて、そもそも会ったこともないし、婚約者でもないし。ヒロインは……多分だけど最近養女になったって言う子爵令嬢だと思うけど、こっちも会ったことがないから問題ない」
当初は他の貴族に倣い、アーシャも学園に通うはずだった。しかし何がどう断罪に繋がっているのか知らないため迂闊に外には出たくなかった。
幸いなことにアーシャは超優秀で、学園に行っても学ぶことがない。せいぜい交友関係を広げる程度のことしかやることがない。
それもアーシャが公爵令嬢ということもあり、何もしなくても向こうから寄ってくるため本格的に学園に通うメリットがなかった。
だからアーシャは学園に通うことはせず、代わりに父親のそばで公爵としての仕事を学ぶことにした。
「おかえりー、ラフィ。あっ、マドレーヌもある!」
「好きだろ? 食べ過ぎは良くないが糖分は必要だからな」
「やっぱりラフィは私に甘い」
「……冷たくしてほしいのか?」
「まっさかぁ。ほらほら、早く食べよ」
この8年間でアーシャとラファエルの関係は公爵令嬢とその従者という関係より大きく外れたものになった。アーシャはラファエルのことを愛称で呼び、ラファエルも2人だけの時は砕けた口調でアーシャを名前で呼ぶ。
その関係に名前を付けるとしたら───
「そういえばアーシャ宛に手紙が来ていたぞ」
「んー? どこから?」
「王室から」
「えー、なんだろ。何かした覚えないんだけど」
「聖剣のことバレたわけじゃないだろ?」
「そもそもラフィにしか教えてないし、普段は木剣だからそれじゃない」
アーシャは誰にも教えないつもりでいた聖剣について、ラファエルにだけは教えていた。ラファエルも初めは驚いていたが、実物を見せたことと自分だけに教えてくれたという特別感が内緒にしてくれている。
ラファエルならアーシャが嫌がることはしないという考えから教えたものだが、二人だけの秘密はいつ聞いてもいい響きだと思う。
ラファエルからペーパーナイフを受け取り、手紙の封を開ける。
「……?」
「なんだったんだ」
「よく分からない」
開けて見てみると、そこには王立学園の卒業パーティーに招待する主旨が書かれていた。ラファエルにも手紙を渡し、内容を読ませる。
「私、学園に通ってないんだけどな」
「? 卒業パーティーだろ? なら行くのは当然だろ」
「え、学園に通ってないのに?」
マドレーヌを頬張りながら首を傾げるアーシャにラファエルは呆れた顔をする。
「王立学園の卒業パーティーは国の一大イベントのひとつだ。仮に学園に通っていなくとも、貴族なら卒業パーティーに出るのは基本だとこの前習っただろ? しかもアーシャは次期公爵だ。欠席はできない案件だな」
「えー、めんどくさいな。卒業パーティーだから当然夜会用のドレス着ないといけないでしょ?」
「そうだな。卒業パーティーはちょうど一月後のようだからドレスの準備はまだ間に合うな」
「はあ……仕方ない。明日にでもブティックに行こう。久しぶりのパーティーだし、気合い入れないと」
アーシャは憂鬱な気分になりながら隣に座るラファエルの肩にもたれ掛かる。そしてゆっくりと目を閉じた。
それをラファエルは当たり前のように受け止め、代わりにアーシャの黒髪を手櫛で梳く。
「眠いなら寝ていいぞ」
「……ありがと」
穏やかな時間が流れ、アーシャは少しの昼寝を享受した。
* * *
パーティー当日、アーシャは両親に見送られ、ラファエルとともに王城へと来ていた。
「ねえ、今からでも帰らない? 人が多すぎるよ」
「そんなの無理に決まってるだろ。王室からの招待状だ。欠席したら反故と見做され、さらに面倒なことになる」
「でもさぁ……」
アーシャはちらりと隣にいるラファエルを見上げる。
美青年から美丈夫へと成長したラファエルは美しい顔と、年齢以上の色気を纏わせていた。アーシャの付き添いとして来ているラファエルは黒の正装に青いネクタイとピン、手袋をして隣に立っている。
(色気がやばすぎる!)
まだ会場に入る前だと言うのに近くにいる令嬢や婦人たちはラファエルを見て頬を染めている。
それを見たアーシャは思わず嫉妬してしまったのだ。
「……ラフィのこと見すぎだよ」
「まさかそれで帰りたいと?」
「ふん、そうだよ! 私のラフィだよ!? なのにみんな見すぎ!」
アーシャの言葉に目をぱちくりとさせたラファエルだったが、アーシャの小さな怒りに嬉しそうな顔をする。
「俺はアーシャだけの従者だ。よそ見なんてしないさ」
「分かってるけど、それでも嫌」
「嬉しいことを言ってくれる。それにそういうことなら俺だってひとつ言わせてほしいが……」
ラファエルは周りを見たあと、アーシャの腰を掴み、ぐっと抱き寄せた。
「!」
「アーシャだって見られすぎだ。ほら、あそこの令息三人なんてアーシャを熱を孕んだ目で見ている。……不愉快極まりない行動だ」
アーシャがこうしてパーティーに出席するのはとても稀で、とても珍しい。だからこそ、アーシャは突如として現れた美の女神すらも嫉妬する美貌を持つ令嬢として見られている。
「ちょ、ラフィ近いよ」
「もっと自分の容姿を自覚したほうがいい」
「……少なくともラフィよりも自覚してるし」
「いいや、してないから言っているんだ」
今日のアーシャはラファエルと一緒にパーティーに行くということで気合を入れて準備をしてきた。そのおかげでアーシャは普段の倍以上の輝きを放っている。
ふわりと広がる青いドレスには金色の薔薇の刺繍があり、胸もとにはラファエルの瞳の色のような宝石のネックレスをつけている。髪は編み込みのハーフアップにされ、銀色の髪飾りでとめられている。
美幼女、美少女と成長してきて当然のように美女として成長した。アーシャは自身の容姿が優れていると理解しているが、実は理解が足りない。
その美貌は時に人を狂わせ、正常な判断ができないという事態に陥らせることもあるということ。
「でもさ、それでもラフィは見られすぎだよ」
「……とにかく、アーシャも見られているんだから諦めて会場に入ろう。別に最後までいる必要はないはずだ」
「…………それもそっか。早く挨拶して帰ればいいもんね」
アーシャはラファエルの言葉に頷くと、ラファエルの腕に手を回して会場への扉を開けてもらう。
大きな扉が開き、中からは演奏と人々の談笑が聞こえてくる。初めはアーシャたちに気づいていない貴族たちもアーシャたちに気づくとピタリと談笑をやめてそちらを見る。
視線を一斉に浴びながらもアーシャたちは静かに会場へと入る。そしてなるべく気配を消して壁の方へと移動した。
しばらくして会場内に談笑の声が戻ると、アーシャは貼り付けていた笑みをやめて息を吐く。
「あんなにこっち見なくていいのに」
「まあお嬢さまは滅多にパーティーへ足を運ばないので貴族たちが興味を示すのは当然かと」
「……もう外面モードに入ったの? 早くない?」
「はて、なんことですか? 私はいつも通りですよ」
「はいはい。分かったわ。なら私も公爵令嬢らしくするわ」
とりあえずアーシャはラファエルに飲み物を取ってくるように頼み、壁側から会場内を見渡す。どうやら本日の主役である第二王子ら卒業生はまだ来ていないようだ。
(……このパーティーがアーシャの断罪場としての可能性が高いけど、私はずっと引きこもっていたから断罪されることはないし、早く挨拶回りして帰ろー)
さっさと第二王子たち来てくんないかな、と思いながらアーシャは顔に笑みを貼り付けている。こちらをチラチラと見てくる令息たちが視界に映るが、決してそちらを見ずにラファエルの帰りを待つ。
夜会やパーティーの場では令息は気になる令嬢がいてもいきなり声を掛けていい訳では無い。視線が合い、お互いに話したい意思がある時のみしか声はかけられないのだ。
まあ例外として自分の身分が相手よりも格段に高いのなら声はかけられるが、公爵令嬢であるアーシャに声をかけられるのはこの場にはいない。
だからアーシャは彼らとは視線を合わすようなことはしない。飲み物を持って戻ってきたラファエルはアーシャを見ていた令息たちに視線を向けるがすぐに視線を外した。
「ただいま戻りました」
「ありがとう。……アルコールじゃないのね」
「当然です。お嬢さまはアルコールに強いですが、呑んだら何をしでかすのか分からないので」
「……まるで私が何かをやらかしたような言い方ね?」
「お忘れですか? お嬢さまが(聖)剣を部屋で振り回し、危うく家具が真っ二つになってしまう所だったということを」
そう言われ、アーシャはそろーっと目を背ける。アーシャは酒に強く、あまり酔わない体質だが、気分が良くなり、ついつい羽目が外れてしまうのだ。
しかし意識はきちんとあり、善悪の区別もついているというのに何かをやらかす。だからラファエルは人前ではアーシャにアルコールをあまり飲ませたくなかった。
「ブドウジュースも美味しいと思うので、これで我慢してください」
「……はーい」
仕方がなくアーシャは受け取ったグラスを傾け、ちびちびとジュースを飲む。
アーシャたちが会場に入り、二人でいつものように談笑してどれくらいの時間が経っただろう。この時間は他の誰かと話すよりもずっと有意義な時間だが、だからといって長居したい場所ではない。
早く第二王子たち来い、と思いながら僅かに遠い目をしていると、会場内がザワついた。
アーシャたちが入ってきた扉付近からで、ついに第二王子たちが来たのかと周りと同じように視線を向ける。人が多すぎて誰が入ってきたのかわからない。
根気強く視線を凝らして探してみると、ふと見覚えのある黄色い瞳の可愛らしい令嬢と目が合った。彼女はアーシャを見つけると隣にいたパートナーに声をかけ、足早でアーシャの元へとやってくる。
軽く息を切らし、アーシャに声をかけた。
「はあ、はあ……。久しぶりね、カルディネンド嬢」
「そうですね、久しぶりです。フィラス嬢、アレク王子」
「早速で悪いんだけど、問題が発生したの。だから今すぐこの会場から離れて」
「? それはどう言う……」
アーシャはフィラス嬢の言葉に首を傾げた。
彼女はアメリア・フィラス侯爵令嬢で第一王子アレクの婚約者だ。アーシャのひとつ上で、身分も近いことから夜会やパーティーのときは毎回挨拶をする。お茶会も開くほどの仲だ。
そんな彼女がアレク王子とともに慌てて入ってきたかと思えば、二人揃ってアーシャを会場外へ案内しようとする。
「早くしないとカルディネンド嬢が大変な目に遭うのよ!」
「俺たちじゃ止められなかったんだ。だから早く……!」
意味もわからないまま、アーシャは2人に手を引かれて扉付近まで行く。すると、またしても扉は開いた。
そして扉からは今度こそ、第二王子たちが入場してきた。
「……っ、間に合わなかった」
「最悪なタイミングね……」
2人は彼らを見ると顔色を悪くする。とりあえずアーシャは2人に手を離してもらい、後ろをついてきたラファエルの隣に並ぶ。
第二王子たちは誰かを探すように視線を動かし、こちらを見るとなぜかニヤニヤしながらアーシャたちの元へとやってくる。
「やっと姿を現したな! リリーを虐げる悪女め!」
「ん……?」
「顔は良いみたいだが、性格は正反対のようだな! お前のようなやつとは婚約していられない! だから俺は、今この場を以てアーシャ・カルディネンドとの婚約を破棄することを宣言する!!」
あまりの怒涛に言葉を失う。第二王子たちと共に入ってきた腰巾着……ではなく側近候補たちは大きく頷き、アーシャを睨んでいる。
(え、やばい。全然話が見えない……)
アーシャはどうするのが正解なのかが分からない。そもそもアーシャは第二王子と婚約した記憶などない。小さなころに打診はあったが、父親がキッパリと断り、話はなくなったはずだ。
ちらりと目の前にいるフィラス嬢とアレク王子を見ると額に手を当て、項垂れている。
周りの貴族たちもなんだなんだとこちらに興味を示し、アーシャたちの一挙一動に集中している。
(フィラス嬢が言ってた大変なことって、もしかしてこれのこと?)
だとしたら大変どころか面倒なことだ。婚約した覚えのない相手から婚約破棄されているのだから。とにかくまずはそこの誤解を解かないとは始まらない。
アーシャは公爵令嬢の仮面を貼り付けながら、衝動的に話さずに理性的に話しかけることに務めた。
「殿下、なにか誤解があるようです」
「誤解だと?」
「はい。まず、私と殿下は婚約しておりません。なので婚約破棄など起きるはずもない」
「はっ、兄上たちもそう言っていたが、そんなはずない! なぜならリリーが俺とお前は婚約していると言っているのだからな!」
「…………」
話が通じないとはこのことなのか。動物だってもっとまともな意思疎通ができる気がする。
それに今の第二王子の話を聞くと、アレク王子たちはアーシャと第二王子が婚約していないという事実を教えていたようだ。
「……学園に入ってまだすぐの頃は大丈夫だったの。でも編入生としてやってきた子爵令嬢、ほら第二王子の後ろに隠れるように立っている彼女。最近養女になったばかりの」
「あ、確かにいますね」
「彼女に会ってから第二王子のアホさ加減は拍車をかけたわ。彼女は学園にいないはずのカルディネンド嬢を執拗に探し、そしていないと分かると般若のように怒り、そして学園外でカルディネンド嬢に虐められていると吹聴し始めたの」
頭が痛そうに話すフィラス嬢にアーシャも頭が痛くなるのを感じる。
「初めは誰も信じなかったわ。でも、彼女はカルディネンド嬢と第二王子が婚約していると信じ込み、そして第二王子もとうとうカルディネンド嬢と婚約していると信じてしまった」
「……頭がおかしいのでは?」
「ね、私もそう思うわ。普通ならそんなこと信じるはずもないのに、第二王子は信じてしまった。でもね、理由があるの」
「……?」
「まだ学園の一部生徒と王族しか知らない話だけど、どうやら彼女、聖剣の主らしいの」
「!」
アーシャはそれに目を見開く。アーシャはさりげなく自身の手の甲を見るが、そこには相変わらず聖剣の主たる紋章が描かれている。
(聖剣の主ってそんな何人もいるものなの?)
アーシャは首を傾げるが答えは分からない。
「実際に紋章は本人にしか見えないし、聖剣は見たことがないけど、以前怪我をしたアレクを不思議な力で治したのよ。あれは間違いなく聖剣の主が持つ治癒の力だったわ」
「へえ……」
「それで周りは一気に彼女が聖剣の主だということを認め始めたのよ。そして聖剣の主たる彼女が嘘をつくはずもない。だから実際に自分たちの知らないところで彼女はカルディネンド嬢に虐められていると」
「私は今日初めて彼女に会ったんですがね」
「もちろん、私やアレク、国王陛下は分かっているわ。でも、もし彼女が本当に聖剣の主なら、国王陛下でも簡単に手出しできない」
聖剣の主が持つ力とはそれほどまでに絶大だ。聖剣の主がいるだけで国は栄え、豊作も期待される。例え聖剣の主が平民だとしても、聖剣の主となれば身分は国王陛下と同等、もしくはそれ以上となる。
「なるほど。でも、だとしても証拠集めとかしようと考えなかったんでしょうか」
「考えなかったからこれが起きているのよ。誤解を解こうにも私たちの話を聞いてくれないし」
「子爵令嬢の話こそが真実だと、聞く耳を持たなかったのですね」
「そうなの。でも今までは勝手に第二王子たちが誤解をしていただけで、カルディネンド嬢には被害もなかったし、卒業したら彼らは離そうと思っていたから現状維持ということになっていたのよ」
アーシャとフィラス嬢がこしょこしょと内緒話をしている間にも第二王子たちはアーシャが子爵令嬢を虐めたということをツラツラと話しているが気にしない。とにかく今はこっちが優先だ。
「けど、ついに行動を起こそうとしてしまったのよ。しかも多くの貴族が集まるこの卒業パーティーで」
「あー、なるほど。フィラス嬢たちはこの誤解だらけの婚約破棄騒動を聞きつけて私を避難させるためにここに来たのですね」
「そう。第二王子は顔しか取り柄のないアホだけど、アレクや私からすれば可愛い弟だし、国王陛下も可愛がっているから、何かをやらかす前に止めれば大丈夫だと思っていたのよ」
「おー、流れるように第二王子をディスってる……」
「でも結果として私たちの到着が遅れたせいでこんなことに巻き込んでしまったわ。しかも子爵令嬢が聖剣の主なら皆が彼女の恨みを買わないようにと彼女を支持する。国王陛下だとしてもそれを止めるのは難しい……っ」
フィラス嬢はごめんなさい、と謝ってくれたけど、別に彼女が悪い訳では無い。第二王子と腰巾着、それと子爵令嬢が悪いだけだ。
「……でもどうしよう、これ」
「さすがにことが大きくなりすぎてる。鎮静化するのは困難だぞ。しかも国王陛下が隣国へ不在の今だ」
「そうなんだよねえ。絶対に狙ってきてるよ、これ。にしても上手く考えたものだね。このパーティーの出席は貴族ならば基本全員参加。……悪知恵が働くことで」
第二王子と婚約していないということは直ぐに明らかになることだから、当然それに伴っていじめの方も真偽が明らかになる。
しかしそれを今すぐに証明できるはずもなく、時間が過ぎるごとにアーシャへの不信は高まる。
ラファエルはアーシャを心配そうに見つめるが、彼にはこの場を鎮静化する力をまだ持っていない。しかし、アーシャならば全てを覆すことが出来ることを知っている。
(私が聖剣の主だと証明してしまえば、全ては向こうの落ち度だということで終わる)
けれどアーシャは頑なに聖剣の主だということをラファエル以外には教えてこなかった。それは面倒事を避けたいと言う一心でだ。
(……ラフィとの二人だけの秘密だったのにな)
しかし現状をこのままにはしておけない。
アーシャはラファエルに視線を送り、全てを明らかにする決意をした。
アーシャは大きく深呼吸をし、口を開こうとした時、今まで黙っていた子爵令嬢が先に口を開いた。
「ねーえー、いつまでそこの悪役令嬢をそのままにしておくのー?」
「!!」
ピンクの瞳にふわふわの髪。小動物系を思わせる彼女は可愛らしい見た目をしている。しかしそんな彼女から出てきた言葉にアーシャは目を丸くした。
(いま、悪役令嬢って言った……!?)
その言葉はこの世界で生まれた人間には分からないものだ。それはアーシャと同じく、前世の記憶があり、尚且つこの世界について知っている人間でないと知るはずも無い言葉。
(……ふーん? 彼女がこの世界のヒロインで、私が悪役令嬢。それを知っているということは、彼女にも前世の記憶がある)
アーシャは乙女ゲームの知識がほとんどないが、雰囲気からして彼女は豊富に知識を有しているようだ。
(やっぱりアーシャが断罪される理由はヒロインをいじめたからだったんだ。でも私はそんなことしてない。けど、それがきっとヒロインと第二王子の仲を深くする一種のイベントのようなものだったんだろうね。だから彼女は無理やりにでもイベントを起こそうとした)
ゲームの彼女は聖剣の主だったのか、それともゲームでも現実でもアーシャが聖剣の主だったのかは分からない。けれど現実はアーシャが聖剣の主であり、彼女は偽物だ。
(たぶん、あの本に書いてあったように突発的に治癒の力が使えるようになっただけだ。だから聖剣を見せられない。でもその力だけで周囲を信じ込ませるのには十分なインパクトだったみたい)
アーシャはそう分析をする。そうしているうちに彼女は言葉を続ける。
「私、怖かったんですよ? いくら、『聖剣の主』だとしても中身は人間なんですから、虐められたら心に傷を負いますぅー」
「「!!」」
彼女の何気ない言葉に周囲は大きく息を飲む。そして第一王子とフィラス嬢はとんでもないことを言ってくれたと顔を強ばらせる。
今まで黙っていた周囲だったが、一気に彼女へと関心を寄せる。それを肌で感じたアーシャは思わずため息が漏れ出る。
「はあ……」
「───ちょっと、いま私に向かってため息ついた? 悪役令嬢のくせに生意気なんですけど。……って、うそ、待って隠しキャラじゃない!?」
こちらに視線を向けた彼女はアーシャの後ろにいるラファエルに気がつくと一気に顔を輝かせた。
「なんで隠しキャラがいるの? でもそんなことどうでもいいや! ねえ、殿下。私、彼が欲しい!」
「彼って、カルディネンドの従者か?」
「そう! 私の従者にしたいです! だめ、ですか? そしたら私、彼女のことを少し許せると思うんです!」
「うーん、だが……」
目をきらきらとさせてお願いをする子爵令嬢だが、第二王子はそれを渋る。しかしそれも当然だ。ラファエルは第二王子が到底敵うはずもないほどのイケメンだ。負けることが決まっているのに惚れた相手にそんな相手を近づけさせるわけが無い。
「お願いします、殿下ぁ」
「……わかった。おい、そこのお前。リリーの従者となれ。そうすればお前の主の罪を軽くしよう」
しかしあっさりと子爵令嬢に落ちた第二王子は上から目線にラファエルに命じた。
「……俺はアーシャのものだ。ふざけるのも大概にしろよ、ゴミが」
ラファエルは小さく怒り、つぶやくが、それは残念なことに向こうには届かない。
「ちょっと、いい加減私たちの話を聞きなさい! それに彼は関係ないのよ!」
「少し静かにしていてください、義姉上。兄上も。これは聖剣の主たるリリーを守るための正義の行動です」
フィラス嬢たちが止めようとするも暴走機関車は止まらない。しかし、アーシャはラファエルよりも子爵令嬢の言葉に怒っていた。
(誰が、誰を従者にするって?)
アーシャはなおも言い合いが続く彼らに対して、言葉をかけることなく、ただヒールで床を強く穿ち、静かにさせた。
そして低く、威圧感のある声で言う。
「偽物は黙ってろ」
「「!!」」
アーシャの突然の変わりように周囲は息を飲んだ。しかし生憎とこちらがアーシャの素だ。後ろにいるラファエルはアーシャの秘密がバレてしまったと残念そうに肩を竦めた。
「なんで私が顔だけの第二王子であるあなたと婚約しないといけないわけ? こんな選択権のない婚約なんて願い下げなんだけど」
「なっ、王子である俺に向かってなんて口を! いくら公爵令嬢だからといって許されることではないぞ!!」
「そっちこそ、こんなアホみたいなことをやらかしてくれちゃってまあ。だいたい、私、あんたじゃない婚約者がいるんですけど」
「え?」
「え、じゃないんだけど。私の従者は、私が最も愛する婚約者なの。ねえ、ラフィ?」
アーシャがとてもご立腹だということを感じ、ラファエルはアーシャの腰を抱く。
「5年も前から私たちは婚約済み。信じられないなら今から公爵家に馬車でも送る? すぐに私たちの婚約証明書が送られてくるだろうけど」
「え、は、なんで……。悪役令嬢のあんたは第二王子の婚約者のはずでしょ!? まさか第一王子たちが言ってことは本当だったって訳!? でもそんなのゲームじゃ有り得ない!」
「人の話はちゃんと聞いた方が身のためだよ? ねえ、偽物さん?」
「……っ」
もうアーシャに周りはついていけない。しかしアーシャは止まらない。
「まさか、人の婚約者を従者にする気じゃないよね? ラフィは私の、次期公爵の結婚相手。いくらあなたが第二王子に気に入られて王子妃になる予定でも、公爵家の伴侶に手を出すのはご法度」
「……っ、確かにあんたは第二王子と婚約してなかったけど、虐められたのは事実で───」
「聖剣の主の話は誰でも信じるアレね。なら、私も真似してみようか」
「は、真似するって……」
アーシャはラファエルに強く抱かれながら、右手に聖剣を出現させた。その剣は白銀色で、柄の少し上の部分には青い薔薇が巻きついる。
煌めきを放つその剣は誰が見ても神々しい。聖剣だと言われれば間違いなく全員が聖剣認定するような剣だ。
「これが聖剣。そして、私が本物の『聖剣の主』」
「え……嘘、嘘嘘嘘嘘! こんなの、ゲームにない……」
「嘘じゃない。確かにあなたは治癒の力が使える。けど聖剣の主じゃない」
「なんで、なんでなのよ! 私が、ヒロインである私が聖剣の主であるはずなのに、どうしてたかが悪役令嬢なんかが聖剣の主なってるの! バグでしょ!!」
「ゲーム、ゲームねえ? 誰だって最悪の未来は回避しようと動くものじゃない?」
聖剣を子爵令嬢に向けながらアーシャは先程までの怒りが嘘のように悠然と話す。
「っ、まさかあんたも……」
「残念ながら詳しくは知らない。だからこんなことになるのは予想外」
「なんてことしてくれるのよ! 私のための物語を、ぶち壊すなんて!!」
「そっちが勝手にぶっ壊してるだけでしょ。……さあて、聖剣の主は国王陛下と同等の力を持つ、でしたか? フィラス嬢」
にこりと笑いかけられたフィラス嬢はビクリとしながらもゆっくりと頷いた。
「カルディネンド嬢、弟を、第二王子をどうするつもりだ」
「そうですねぇ、どうして欲しいですか? アレク王子。このアホで馬鹿みたいな劇場を手配したのはそこにいる子爵令嬢で、周りにいるコバンザメは知能が足りないゆえに唆されただけのよう。まあもちろん、こんなことを仕出かしてくれたんです。それ相応の償いはしてもらいますが……。わざわざそんなことを考えるのも面倒ですね」
「っ、父王が戻り次第、カルディネンド嬢が納得のいく処罰をする」
「そうですか。……でも、実を言うと、子爵令嬢以外の処罰内容は興味ないのでご自由にどうぞ」
アーシャが冷めた目で告げると、第一王子も第二王子も肩を震わす。
「子爵令嬢、あなたはダメ。私のラフィを奪おうとしたんだから」
「っ、なによ! この世界は私のための世界なの! 私がどう扱おうが私の勝手でしょ!? だからあんたの隣にいる彼も私のなのよ!」
可愛さも何もなく、ただ叫び続ける彼女に周囲は静かに距離をとる。まあ、アーシャが聖剣を出現させたことで彼女の虚言は暴露され、その時点で誰も彼女の言葉を信じていない。
しかしアーシャだけはラファエルから離れ、子爵令嬢に近づいていく。
「ねえ、まだそんなこと言ってるの?」
「悪役令嬢なら悪役令嬢らしく配役を全うしていればいいのよ!」
「ここは現実なの。ゲームの世界じゃない。それに、私、そんな配役に興味ないし。ラフィは私のものだし。聖剣がなぜ私を選んだのかは分からないけど、あんたを選ばなかった理由は分かる(笑)」
「っ、ふざけんなぁ!」
アーシャの嘲笑にとうとう子爵令嬢は憤慨した。掴みかかろうとする子爵令嬢を咄嗟に近くにいた第二王子や第一王子が止めようとするが、彼らの手は宙を掴み、彼女は止められなかった。
けれど、アーシャは聖剣を持っていない左手で彼女の手首を掴み、最小限の力で床に伏した。
「うっ」
「忘れちゃった? 聖剣の主は運動神経、とってもいいってこと」
「この……っ」
「余計なことしなければ素敵な余生が送れたのに。あなたは養子縁組を解消され、平民に戻る。そこで余生を過ごすの」
アーシャはそれだけを言うと彼女からパッと手を離し、ラファエルの元へと戻る。聖剣は右手から消えていた。
「さて、まさか卒業パーティーでこんなことになるとは思っていませんでしたが、無事に誤解は解けたようで。卒業生の皆さん、パーティーをめちゃくちゃにしてしまい、申し訳ございません。それと、ご卒業おめでとうございます」
アーシャとラファエルは貴族の手本のような一礼を示す。
「これ以上パーティーをめっちゃくちゃにしないように私たちはこれにて失礼させていただきます。ああそれと───」
アーシャたちが帰るのを引き留めようとしていた周囲の貴族たちに牽制するようにアーシャは口を開いた。
「聖剣の主だからといって私に何かを要求しないように。私の大切なものを奪わないように」
「「───っ」」
「そうすれば、きっと皆さんは今までのような素敵な生活が送れます。それでは、御機嫌よう」
アーシャは今にも歌い出しそうな声で、会場を去った。
全ての面倒事を押し付けられた第一王子とフィラス嬢はアーシャたちを追うことはせず、黙って頭を下げていた。
* * *
あの卒業パーティーから一週間。アーシャは怒涛の日々を過ごしていた。
国王陛下から呼び出され、謝罪を受け、子爵令嬢たちの処罰についての確認を取られる。
貴族たちからも聖剣の主であるアーシャに近づこうと毎日プレゼントを送ってくる始末。片付けが面倒。
「はあ、ああでもしないと解決が困難だったとはいえ、やっぱり後悔が残る……」
「俺もアーシャとの秘密がなくなり少し寂しいな。でも、婚約していることを広められたのはある意味僥倖だったな」
「これでラフィに色目使ってくる女がいたら権力でぶっ潰しちゃうもんね。……それにしてもお父さんとお母さんは聖剣のこと伝えてもあっさりした反応だったね」
パーティーから帰宅し、屋敷に帰ると既に情報を得ていた両親に呼び出され、事件のあらましを告げた。その途中でアーシャが聖剣の主だということも伝えたが、「アーシャの幸せが1番だから」という言葉と共に特に何も深堀されなかった。
「公爵閣下らはアーシャのことを心から愛しているからな」
「ラフィもでしょ?」
「当然。だが俺がアーシャに向ける愛と公爵閣下らがアーシャに向ける愛は方向が違うからな」
「それは分かってるよ。私もお父さんたちのこと大好きだけど、ラフィは特別な好きだから」
2人がけのソファーに座り、ラファエルは隣に座るアーシャを抱きしめる。もちろんアーシャも抱きしめられるようにラファエルへ寄りかかる。
初めはただの令嬢とその従者という関係だったが、一目惚れをしたアーシャがアタックし始め、いつからか2人にとってこの距離感は当たり前となり、恋心は生まれた。
そして誰よりも二人の関係を見守っていた両親たちはすぐにアーシャとラファエルの気持ちに気づき、そして婚約を許可した。
元々優秀なアーシャとそれに食らいつこうと努力を続けるラファエルたちは公爵家の臣下たちの間では好意的に受け取られていて、二人の婚約が決まったときは満場一致で賛成された。おかげで二人は晴れて婚約者となり、けれどそれに胡座をかかず、さらにお互いの将来のために努力を重ねた。
「───そういえばあの子爵令嬢。結局は身分剥奪で平民に戻り、死ぬまで国のためにその治癒の力を使い続けることになったみたい」
「随分と生易しいな。俺なら死刑を所望している」
「ラフィを奪おうとしたことは未だに許してないけど、彼女の生死には興味ないから王室に丸投げしたんだ。わざわざそんなことを考えているよりもラフィのことを考えていたいし」
子爵令嬢のリリーは聖剣の主を詐称し、王族を巻き込み、罪のない公爵令嬢を陥れようとし、そして国すらも傾けようとしたことから国外追放または死刑が妥当だと判断された。
しかしアーシャは彼女に全く興味を示さず、なおかつ国としては貴重な治癒の力の持ち主をみすみす手放すことを躊躇したため、あの処罰へと落ち着いた。
彼女に騙されていたとはいえ王子としては有るまじき行為をしていたとして第二王子は王位継承権剥奪の上、地方の伯爵となり一生涯、国に仕えることとなった。
第二王子の腰巾着たちは子爵令息、侯爵令息などで父親は重鎮ばかり。そのため、父親から最低限の援助のみが約束され、縁を切られてしまったようだ。
側近候補なら第二王子の愚行を止めるよう進言するべきはずの立場なのに、第二王子と増長して周囲へと被害を拡大させてしまったことからの結果らしい。
「……ねえラフィ。私が18歳になって成人したら、結婚しようね」
「プロポーズは俺からさせてくれよ、アーシャ」
「私もラフィにプロポーズしたいのに……」
「格好つけさせてくれ。その代わり、アーシャが望むプロポーズをしよう」
ラファエルはアーシャの黒髪を一房取り、優しく口付ける。その仕草が色っぽく、アーシャは心臓がドキドキだ。
「愛してる。俺の姫、俺のアーシャ」
「──────」
ラファエルは誰もが見惚れる笑みを浮かべる。それを見て、すでに彼に落とされているアーシャはまたしても彼に落ちてしまった。
「……っ」
だからアーシャはほんの少しの意趣返しと、欲のためにラファエルに顔を近づけた。
そして、一瞬だけの口付けを送った。
「───!」
「プロポーズはこれで譲ってあげる! 愛してるよ、ラフィ」
アーシャはラファエルが惚れた煌めく太陽のような笑顔でそう告げた。




