アサコちゃんとぬいぐるみ 2
3
「お前、俺と代われ」
それがおれの話を聞いたあとの正則の第一声だった。
「何をだよ」
半ばうんざりしながらそう返す。二コマめの授業が終了し、次の三コマめのあいだにある十五分の休み時間、ピリピリとした緊張感のある教室の中で、おれと正則は席に座ったまま完全なる駄弁りタイムに突入していた。
「お前と俺の立場に決まってるだろ。俺も朝、都さんに起こされたい」
真顔で言ってきやがる。
「起こすって言っても、ドラマみたいに布団剥ぎ取って肩揺らすとかじゃねえぞ。控えめにドアをノックするだけだ」
「流石だ! いくら姉だからといって、無遠慮に弟の部屋に入ってこない! 親しき仲にも礼儀ありを実践する都さん、流石だ!」
うっせえテンション上げんな。
気づくと、周りのやつらの視線が微妙に集中している。今は休み時間といえどほとんどのやつらは自習に励んでいるので、なんだこいつらうるせえなという無言の圧力もあれば、何の話をしてるんだと興味本位のものもある。ここには正則以外にも月野宮の生徒がいるので、あまり大声で姉貴の名前を出されては困る。おれは隣の迷惑野朗を振り返り、眉間にしわを寄せて怒りの表情を作った。
「おい、あんま大声で姉貴のこと言うなよ。目立つだろうが」
「おお、それはそうだな。悪い悪い」
口調は軽く、まったくもって自分が悪かったという反省の色をにじませていない。こいつは……。
おれはこれ以上バカの相手をするのはやめることに決め、横に向けていた身体を正面に向き直す。もうすぐ次の倫理の授業が始まる。準備をしようと、机の中にある問題集をひっぱりだした。正則もそれ以上話を続けようとは思わないらしく、おれの行動にならい、授業の準備を始めた。
そのとき、
「藤原、桜井」
後ろから声がかけられた。振り向くと、蒲手高校の橘一樹がなにやら腹痛でも我慢しているかのような、落ち着かない顔でおれたちを見ている。
「なんだ? 正露丸なら持ってねえぞ」
「え? なんで正露丸?」
なんでもない、という意味で、首を振る。
「倫理が終わったあと、少し相談があるんだけど、いいかな? 時間があればでいいから」
朝の姉貴の提案ほどではないにせよ、これにも結構驚いた。橘とはそこそこ話すが、悩み相談をされるほどの仲ではないはずだ。隣の正則にも同じように驚きの色がうかがえたが、やつはすぐにそれを引っ込めて頷いた。
「分かった。俺でよければ」
おれも、今日は倫理で終わりなので話を聞くぐらいならと引き受ける。すると橘は安心したように小さく笑い、
「ありがとう、助かるよ」
と、手を合わせた。
その後、愛別離苦やら五陰盛苦やら、仏教の四字熟語地獄にもまれながらもなんとか倫理を乗り切ると、おれたちは入口近くの自販機の隣にあるベンチに場所を移した。本当ならそのまま教室で話を聞きたかったが、あそこはこれから浪人生の授業に使われるのでそれは叶わなかったのだ。
「桜井は?」
自販機に小銭を入れながら、橘が訊いてきた。ホットココア、と返事を返す。
話を聞いてくれるんだからと、橘はおれたちに飲み物をおごると言ってくれた。正直このあたりはあまり人がいないためひんやりとした空気が漂っているから、温かい飲み物がほしいと思っていたところだったのだ。この提案は大助かりだった。
「はい」
と、おれにホットココアを、正則にコーンポタージュを渡す。冷えた手に、スチール缶越しでもホットココアの温かさが染み渡った。
「橘はいいの? 飲み物がないと寒くない?」
正則が訊いた。そういえば、橘はおれたちにだけホット飲料を買って、肝心の自分用のものは買っていない。ここで飲み物なしはきついだろうと思ったが、橘は小さく首を振り、
「いや、ぼくは最初から持ってるから」
と言うと、リュックを降ろして中から青いサーモマグを取り出した。蓋を開けると、中の液体の保温状態を示すかのように湯気が立ち上る。
「家が近いから、塾に行く前に補充してきたんだ」
なるほど。家が近いって得だな。
橘はベンチの左端、正則の隣に腰を落ち着けた。しばらくは三人でちびりちびりと飲み物を飲み、体温の上昇に努める。やはりココアは偉大だと、改めて実感した。
「じゃあ、話してもいいかな?」
しばらくして、サーモマグに蓋をしながら橘が遠慮がちにそう訊いてきた。
「いいよ」
正則の短い返事。おれも続いて頷くのを見ると、橘はゆっくりと話し始めた。
「昔、ここら辺に『あおい壮』っていう古いアパートがあったこと知ってる?」
おれも正則も同時にかぶりを振った。そんな名前、聞いたこともない。
「そうか。まあそうだよね。もう十年近く前に取り壊されたんだけど、ぼく、それまでずっとそこに住んでたんだ。で、取り壊される少し前にさ……」
そこまで来て、橘は少し恥ずかしそうに頬を染めた。
「ぼくがアパートの庭でひとりで遊んでたら、小さい女の子と、その子のお母さんが来たんだ。一階に住んでる人に会いに来たとかで。そして一階の部屋に入っていったんだけど、しばらくしたらその子ひとりだけ外に出てきて、話してみたらぼくと同い年だっていうんだ。それで意気投合して、その日一日中一緒に遊んだんだ」
若かりし頃の想い出の一ページというわけか。照れくさそうだが懐かしむように話している橘を見るに、相当大事な記憶として残っているんだろうな。
「じゃあ、その子が橘の初恋の人ってわけ?」
と、正則が笑いながら茶々をいれた。冗談半分にも聞こえるその言葉に、橘は更に顔を赤くする。
「……ああ、そうだよ。一日で帰ったけど、ぼくはずっとその子のこと忘れられなかった。今ごろどうしてるのかなあとか、もう来ないのかなあとか、暇があればずっと考えてたよ。これが恋なんだって気づいたのは、ずいぶん後になってからだったけど――」
なんだか、聞いているこっちまで恥ずかしくなってきた。おれはそれを振り払うために少し声を大きくして訊く。
「で、その子は今どこで何してんだ?」
何も考えず、ただ思いつくままを口にだしたその質問は、どうやらこの話の核心だったらしい。想い出に浸るようにやわらいでいた橘の表情が一変し、眉が逆ハの字になる。
「それを、ふたりに訊きたいんだ」
…………今おれは、きっとハトが豆鉄砲を食らったような顔をしているんだろうな、なんてことを思った。それほどあっけに取られた。隣の正則もそのような表情になりながらも、口を開いた。
「いや、どういうことだ?」
おれたちの今の心情を一言で表すもっとも的確な言葉である。
「ああ、ごめん、ちょっと急ぎすぎた。実はぼく、その子に連絡先を訊いてなくてさ。どこに住んでたのかも分からないんだ。だから、今ごろどうしてるかななんて思いながらも、もう会うことはないんだろうなって諦めてた。あの子はぼくの初恋の人として、ずっと記憶に残り続けるけど、結ばれることはないだろうって。それでいいと思ってたんだ。でも……」
ぐっと、サーモマグを握る手に力が入る。
「先週の金曜、学校に向かう電車に乗ってるとき、見たんだ。あの子のお母さんを。ここから蒲手の方向に電車に乗ったら、しばらくしてコンビニの前を通るでしょ? そこから出てきたんだよ。上下スウェットで、手にはビニール袋を持ってた」
「本当にその子のお母さんだったのか? 会ったのはだいぶ昔で、しかも一回きりなんだろ」
正則が疑問を口にする。
確かにそうだ。十年近く前に一度だけ会った人の顔なんて、覚えているほうがおかしい。その質問で、橘は見るからに勢いを削がれた。う、と言葉につまり、自信なさそうに言葉を返す。
「その子とお母さんは似てたから、お母さんの顔もよく覚えてたんだ。だから、コンビニから出て来た人を見たとき、すぐにピンときた。…けど、絶対に百パーセントそうかって言われたら、自信はない。他人の空似だったていう可能性はあると思う。でも……。やっぱり、気になるんだ」
橘はおれたちとは目を合わさず、リノリウムの床にじっと視線を固定している。それはまるでおれたちに話をしているというより、自分に言い聞かせているように見えた。
「よく分かったよ、橘」
正則が口元に優しげな微笑みを浮かべながら言った。それで、橘は視線を正則に向けた。
「つまり、その子もお母さんと一緒にこの辺りに住んでいるかもしれないって考えてるんだろ? だから、それを確かめるのを手伝ってくれって俺たちに頼みたいんだよな?」
なるほどそういうことかと、おれも納得する。スウェットでコンビニに行くなんて、まず地元の人間以外はしないだろう。本当にその人が橘の初恋の人の母ならば、必然的に住まいはこの辺りだということになる。
「そうだ、そう言いたかった」
「どうやって捜すんだ? この辺りの家を一軒一軒回るのか?」
おれの質問に、橘は大げさに手と首を振ると、
「受験生にそんな大変なこと頼まないよ。その子はぼくと同い年だから、今は高校に通ってるってことになる。だから、藤原と桜井に、それぞれの学校でその子がいないか捜してほしいんだ。それで、もしいたらぼくに教えてくれ。それだけでいい」
おれと正則は顔を見合わせる。それだけでいいと言われても、名前も顔も知らない相手をどうやって捜せというのだ?
「何か手がかりはある?」
「写真がある」
橘はポケットから古ぼけた写真をとりだした。ところどころが黄ばんではいるが、きちんとビニールに入れられていて曲がった形跡もない。大事に保存されていたことが見て取れるその写真には、幼い男女がふたりで写っていた。
男のほうは満面の笑みでピースサインをしている。大きくひろげた口の中で前歯の部分だけがぽっかりと空洞となっていて、五部刈りの頭とあいまって、見る者にやんちゃ小僧という印象を与えていた。
女のほうは腕を後ろで組んで頬をわずかに赤く染めている。青いノースリーブに短いスカートと涼しげな格好。男に比べて小柄な体型で、内気な女の子という感じだ。
うしろに見えるアパートが橘の言っていた『あおい壮』だろう。建物を支える柱はさび付いていて、今にも崩れ落ちそうに見える。十年前とはいえ、よく平成の時代にまでこんな建物があったなと感心するほどだ。
「しかしお前、今と全然違うな」
おれは写真を見ての率直な感想を伝えた。こんなに活発そうだった子どもが、今ではずいぶんおとなしくなったものだ。顔もあまり面影は残っていないし。
「小さいころは誰だってそんなもんだろ」
少しむくれた感じで言った橘に、まあなと軽く頷く。おれも、これぐらいのころは今ほど面倒くさがりではなかったと思う、たぶん。
橘は、おほん、と咳払いをして、
「で、もうひとつ、ヒントがあるんだ」
ありがたいことだ。正直、十年前の写真だけでは心もとないにもほどがあると思っていた。写真のあとに言うということはそれよりも情報としては小さいのだろうが、あるに越したことはない。
「その子の名前さ、どんな字を書くかは分からないけど、『アサコ』っていうんだ」
と、思ったら、予想以上に大きなヒントだった。
「名前知ってたのかよ。ずっと『その子』としか言わないから、覚えてないのかと思ったじゃねえか」
「いや、最後にインパクトを与えようと思って…」
いらん演出をしやがる。まあでも、名前が分かったのはかなり大きい。これならすぐに捜せるだろう。
「苗字は訊かなかったの?」
「訊いたんだけど、はぐらかされた。それはヒミツって」
それはヒミツ? どういうことだろうか。まさか『ヒミツ』という苗字ではないだろうし。正則とおれ、ふたり揃って首を傾げる。
「とりあえず、これでぼくの話は終わりだけど。その……、協力してくれる?」
橘がおれたちの顔色をうかがうように少し遠慮がちに訊いてきた。ここまできて、断るという選択肢はおれにも正則にもない。
「いいぜ。そんなに面倒なことでもないし」
「俺も。女子と話す絶好のチャンスになるしね」
頷いたおれたちに、橘は心から嬉しそうに、満面の笑みを向けた。あまり面影がないと思ったが、こうして全開の笑顔を見ると確かにあの写真に写っていた幼い男の子は橘だと分かる。目の細くなり具合がそっくりなのだ。
「ありがとう。恩に着るよ。じゃあ、ちょっと待ってて。写真をコピーしてくるから」
くるりと背を向け印刷機のある個人ブース室に駆けていく。その後姿を見送りながら、正則がぽつりとつぶやいた。
「これは、チャンスだ」
「何の?」
たぶんろくでもないことだろうとは思いつつ訊ねる。すると帰ってきた答えは、予想通りろくでもなかった。
「分からないか? ――都さんに話しかける絶好の口実ができた」
「そうかよ」
「何だ、その適当な返事は!? 俺がこれをどんなに待ち望んでいたか! 普通に過ごしてたら都さんとは全然会わないし、かといってわざわざ教室に行くのも不自然だから、どうやって話をしようと考えていたんだぞ。まさに渡りに船じゃないか。いける、これはいけるぞ!」
「お前はそんなことより推薦のこと考えとけよ」
「それも十分考えている! だが、こっちも同じぐらい重要だ」
さいですか。まあ、人の価値観は十人十色だ。これ以上は何も言わないことにする。
「どう話しかけようかなあ。なるべく長く話したいから、寝る前に作戦を練っておこう」
隣のバカは放っておいて、おれは考えてみる。
『アサコ』かあ。同じ学年に、そんな名前の女子はいたっけか。まあ、おれが名前を覚えている女子なんて、たぶん両手の指でことたりる程度の人数しかいないから、こうして考えても大した意味はない。とりあえず明日、クラスの出席簿を見てみよう。そのあとは、各クラスの知り合いを当たってみるか。たぶん一日で終わるだろう。