アサコちゃんとぬいぐるみ 1
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《木曜日》
学生にとって睡眠は大切である。
三ヶ月に一回ほど実地される定期テスト、半年に一回の実力テスト、毎日のようにある小テスト、教師の思いつきで突然やってくる抜き打ちテスト、そして高校三年生にのみ受験が許されるセンター試験。etc…。
テストだとか試験だとかが多すぎるのだ。それらをうまく切り抜けるためには、暗記力と集中力がないとまったくもって話にならない。そしてそのふたつを育むためには、睡眠というものが必要不可欠なのである。睡眠は、暗記力と集中力という名の花を咲かせるための土壌であり水であり肥料なのだ。
だから、学生にとって睡眠ほど大切なものはない。
よってその睡眠を三日連続邪魔されてはなるものかと、おれは昨晩ケータイをマナーモードにして夢の世界へ旅立った。これならメールや電話がきても音がならないし、起床時間に設定したアラームはしっかりと作動する。完璧だ。これでおれはゆっくりと朝の睡眠時間を確保できる。そう思っていた。
だというのに。
「実ーー。起きてー!」
ごんごんごんごん。部屋のドアが規則的に叩かれる音で、今日もおれは普段より幾分か早めに目が覚めた。犯人は予想だにしなかった人物。――そう、姉貴である。
「なんだよ、起きたよ」
ベッドで布団をかぶったままそう言うが、頭はまだぼんやりしている。何か早起きしないといけない出来事でも起こったのだろうかと考えるが、もやがかかったようにはっきりしない寝起きの頭では到底思いつかなかった。
「起きた?じゃあ、朝ごはんできてるから、一緒に食べよう」
「はあ?」
薄いドア越しに聞こえてきた姉貴の言葉に驚く。突然何を言いだすんだと。
「いいでしょ、こういう日があっても。じゃあ、食べないで待ってるから」
廊下からの足音が、しだいに遠ざかっていく。
「……なんなんだ、あいつ」
そうつぶやき、ゆっくりと身を起こす。正直まだ寝ていたかったが、食べないで待ってるなんて言われたら行かないわけにはいかないだろう。
寝癖のついた頭をかきながらリビングに行くと、姉貴は確かに目の前に用意された食事には手をつけず、頬杖をつきながら朝のニュース番組を観ていた。おれに気づくと顔を向け、
「おはよ。いつも通り、顔洗ってからでいいから」
と告げて、またテレビに視線を戻した。
顔洗ってからでいいと言うなら、そうするさ。洗面所で念入りに歯を磨き、顔を洗う。何を考えている、桜井都、なんて思いながら。
リビングに戻り、食卓につき箸を手に取ったおれに向かって、姉貴がストップ、と手のひらを見せてきた。
「待って、まだ食べないで。一緒に、いただきますしてから」
そして自分も箸を取り手を合わせ、せーの、と掛け声をかける。
「いただきます!」
妙に力強くそう宣言し、味噌汁に口をつけた。
おれはあっけにとられながらも、だいぶ小さく、ほとんどつぶやくようにいただきますと言って、とりあえず漬物を一切れ口に放り込んだ。
今日の朝食は珍しく和食で、ご飯に味噌汁、漬物に鮭の塩焼きに野菜炒めと、朝から品数豊富だった。いつもはカップにココアかコーヒーなのに今日は湯飲みにお茶なあたり、調理者の細かい性格が伝わってくる。完璧主義とも言うべきか。
「実さあ」
「ん?」
口の中で鮭と白米を租借しつつ、生返事を返す。
「塾とか学校とかどう?勉強ははかどる?」
何を突然。箸を止めてどことなく心配そうな視線を向ける姉貴から目を逸らし、野菜炒めを白米の上に乗せる。
「まあ……。塾は個人ブースとかもあるし、学校だって一応進学クラスだから受験の雰囲気はあるし。環境はいいと思うけど」
「そっか。なら良かった」
そして姉貴も食事に戻る。何なんだ一体。さっきから目の前にいる自分の片割れの意思がまったく読めない。おれを早起きさせて一緒にメシ食って、何がしたいんだろう、こいつは。
いつものように、おれは大急ぎで朝食を平らげてしまう。この癖はなかなか直りそうにない。まだ食っている姉貴を尻目に、食器を持って席を立つ。
「ごちそうさん」
ぶっきらぼうにそう告げて。しかし台所に向かおうとするおれに、制止の声がかけられた。
「待って、実」
もちろん姉貴だ。振り向くと、真剣さと気恥ずかしさが交じり合ったような微妙な表情をしている。そして躊躇いがちに口を開いた。
「あのさ、わたし、思うんだけど……。これからはさ、朝ご飯ぐらいは一緒に食べない?」
え、と声が漏れそうになる。そんな提案をされるとはまったくの予想外である。
「わたしさ、あんたが大学決めてなかったこと知らなかったでしょ?てか、実を言うと訊いてないことすら気づかなかったんだよね。それって結構危ないなってさ。ほとんどふたり暮しなのに、姉弟のあいだにコミュニケーションがないってことでしょ。だからさ、あの……」
手に持っていた箸と茶碗を置く。そして声に更に懇願の色をにじませた。
「朝ごはんを一緒に食べれば、少しだけど話もできるし。それ以外の時間はお互い忙しいけど、朝はなんとかなるんじゃないかなって。あ、日曜日はいいからさ」
………なんとも、まあ。正直、朝は寝ていたいのだが、こんな言い方をされては断ることはできない。おれは何も言わず、小さく頷いた。すると姉貴はぱっと顔を輝かせ、
「じゃあ、明日から今日と同じ時間に起きてね! 無理そうだったら、わたしがまた起こしに行くから」
2
何だか今日はやけに、ユキとマチがにやにやしている。先ほど、マンションのロビーに下りてきたわたしを見るなり表情を崩し、電車に乗った今もなおそれは継続されている。含み笑いとでも言うのだろうか。明らかにわたしに向かってにたにた顔を向けている。
「だから、何? その顔。なんかむかつくんだけど」
と、少し強い口調で言うと、ふたりはお互い顔を見合わせ、更ににやにや度を上昇させた。なめとんのか、こいつらは……。
「だってさーあ。そう言うミヤが、いっちばんにやにやしてたからさー」
いつもより更に間延びしたマチの声。――わたしが、にやにやしてた?
「そう。だから、ミヤにいいことがあったんだなあって思って、あたしたちまで嬉しくなってたのよ」
ねー、とふたり頷く。
わたし、そんなに嬉しそうにしていたんだろうか…。まあ、理由は分かってはいるんだけど……。
ついさっき実にした提案。正直、絶対断られるだろうと思っていた。あいつはそんなことよりもっと寝ていたいと言うだろうなと。夜遅くまで勉強しているのは知っているから、そう言われたら無理強いせずにいようとも決めていた。でも、意外なことに、実はノーとは言わなかった。だから、まあ……。一層嬉しく感じたというか。
「まー、ミヤのプライバシーの問題だろーから、あんまり深くつっこまないでおくけどねー」
「あたしたちは程度をわきまえてるから」
しかし目の前のこいつらには非常にイラっとくるんだけど。