物足りない青春 6
8
来るか来るかと覚悟していた雨は、わたしがバスに乗ってしばらくしてから降りだしてきた。それも、ぽつぽつとではなく、いきなりエンジン全開フルスロットルのどしゃ降りで。バスの窓をしずくが打ち付けぱんぱんと音がなり、フロントガラスではワイパーがせわしなく動いていた。窓の外では、通り沿いにあるまだ骨組みしかできていない焼肉店の建物に、大工さんたちが雨宿りをしていた。この雨では今日のところの作業は中止になるだろうな。
今日の天気予報はくもりで、雨ではなかったはず。油断して傘を持っていない人はどれぐらいいるんだろう。そう思いながら、わたしは鞄からいつも持ち歩いている藍色の折り畳み傘を取り出す。目の前にはもうわたしの降りるバス停があった。
バスが止まり、ドアが開く。幸いなことにこのバス停には東屋風の建物があるので、傘を持っていない人でも雨に濡れるのはなんとか避けられそうだった。バスを降りると、ほとんどの人は雨宿りを始めたが、何人かはすぐそこにある駅に向かって猛ダッシュすることを選んだ。わたしは傘を差してバイト先に向かう。この雨だと傘を差していても結構濡れるだろうことは予想できるけど、給料を貰っている身としてはこんなことで遅刻するわけにはいかない。でもやっぱりできる限り濡れたくはないので、自然と早足になった。
出勤すると、この雨のせいか、お客さんは普段よりかなり少なめだった。もしかしたら昨日のように火の玉ラッシュが来るかもという覚悟を決めてきたのだけれど、それは杞憂に終わったようだ。現在の時刻は五時ちょっと過ぎ。いつもなら、以前は中古CD店だった狭い店内は学校帰りの学生などでなかなかの混みぐあいをみせるのだけど、今日はチラホラと空席が目立つ。レジにもあまり人が並んでいない。正直だいぶ気が楽だった。
「ありがとうございました。またお越しください」
いつでも笑顔で言葉はハキハキ聞き取りやすく。店長から言われた接客の基本をしっかり実践していく。バイトを始めて一ヶ月半。我ながら、だいぶ慣れてきたなと思う。意識しなくても笑顔を作れるようになったし、不足の自体にもまあまあ対応できるようになった。
そうしていつもと変わりなく仕事に励んでいると、レジの正面にある入口から、黒い喪服を着た前髪の生え際が普通の人よりやや後方にある中年のおじさんが入ってきた。古ぼけた傘を傘立てに入れ、きょろきょろと辺りを見回しながらゆっくりとこちらに向かってくる。
「いらっしゃいませ。ご注文はいかがなさいますでしょうか?」
なんだか変わったお客さんだなと思いつつ、そう訊ねる。
「あー……。チーズバーガーセットを」
「お飲み物はいかがなさいますか?」
「コーヒーで」
「かしこまりました。席についてお待ちください」
番号札を渡す。おじさんはそれを受け取り、ゆっくりと席に向かっていた。
「チーズセット、コーヒーで!」
うしろの厨房に向かってそう叫ぶ。今日はお客さんが少ないので、すぐにできた。それを受け取り、レジを女子大生の中井さんに任せて、先ほどのお客さんを捜す。窓際のふたりがけの席に、ひとりで座っていた。なんだか妙にしんみりとした雰囲気を漂わせながら、店内を見渡している。
「お待たせいたしました。チーズバーガーセットでございます」
トレーを置いて九番の番号札を取る。最後に、ごゆっくりどうぞと頭を下げるのも忘れない。おじさんは無反応だったけど。
カウンターに戻ると、今度はわたしがレジにつき、中井さんがお客さんにハンバーガーを持っていく。見事なローテーションである。
「いらっしゃいませ。ご注文はいかがなさいますでしょうか?」
そしてまた笑顔。
「ねえ、お母さん。火の玉レンジャー買ってよ」
レジの前に立つ小さな男の子が、隣にいる少し化粧の濃い女性の服を引っ張りながら言った。お母さんと息子の二人連れだ。
「だめよ。もう三つも持ってるでしょ」
しかしお母さんは連れない。まあ、三つも持っているなら当然か。
「三つじゃだめなんだよ。みんなにばかにされちゃうよ」
食い下がる男の子。普段なら、レジの前でこう言い争そわれたらうしろのお客さんに迷惑なんだけど、と思うのだけど、今はこの人たちのうしろには誰も並んでいない。気長に話がまとまるのを待とう。
「だめったらだめ。あなた、三つでいいって言ったじゃない」
なるほど。男の子は自分で三つでいいと宣言したのか。じゃあ、これはお母さんの勝ちだろう。このアドバンテージは大きい。
「そうだけど、でも……」
口ごもる男の子。まあ、男に二言はないというもので、ここは素直に負けを認めなさい、少年。世間にはもっといいキーホルダーがあるよ。
「チキンバーガーひとつと、テリヤキバーガーひとつ」
うつむく男の子を尻目に、お母さんは注文を始める。ごめんねボウヤとか思いながら、頷き、レジを打っていく。
「あと、ポテトのLとサラダ。飲み物で、オレンジジュースとコーヒー」
「はい。ご注文は以上でよろしいでしょうか?」
そこで突然、男の子が息を吹き返した。さきほどよりもっと大きな声でおねだりを始める。
「お願い、お母さん! 買ってよ」
足をばんばん床にたたきつけるという特典つきで。
で、でた! これは、小さい子特有のおねだり攻撃、地団駄! これは非常にやっかいな代物だ。世の人々はこれに弱い。
なぜなら、こんな人前で子どもの横っ面をはたき大きな声で叱ると、周りの視線を一身に集めることになる。それが平気な強かな人はたぶん少数派だろうと思う。
かといって泣き叫ぶ子どもを放置しておくのもまた周囲からひそひそ言われるしで、最終的には子どもの要求をのんであげるのが一番手っ取り早いという結論に到達するのだけど、そんなふうにこの子を甘やかすとこの先何か買ってもらいたいときは泣き叫べばいいという悪知恵をつけるんじゃないかと懸念し、事態を早く収集したい気持ちと子どもの将来の人格をよいものにしたい気持ちのあいだを右往左往することになる。難しい問題だなあ、これ。
だからこのお母さんはどうするのかと少し期待していたのだけど、
「以上です」
見事なまでにスルー。子どもの声は一切耳に入りません。周りの視線も一切気になりません。
「お母さんお願い!」
スルー。何事もなかったかのように料金を払う。
「ねえ、このままだとまた明日も富田くんがラジコンで遊ぶときにつかわれちゃうよ! お母さん!」
スルー。番号札とお釣りを受け取り、席に持っていく。
男の子もとうとう諦めたらしく、ぐすぐす鼻をすすりながらお母さんのあとを追った。
しーんと先ほどとはうって変わって沈黙が君臨し、それまでこの男の子と母親の戦いの行方を興味半分で眺めていた人たちが、慌てて自分の行動に戻っていく。ある者はハンバーガーをかじり、ある者はポテトを揚げる。
……何だかなあ。
わたしはとりあえず厨房に今の母子のオーダーを伝えると、中井さんにレジを任せてその場を離れた。ドライブスルーの受付をしている由奈のそばに、火の玉レンジャーのキーホルダーが入ったかごが置いてある。その中から目当ての色をひとつ引っつかみ、ポケットに忍ばせる。どこかでチャンスはあるはずだ。
元の場所に戻ると、ちょうど厨房から母子の注文の品が渡されるところだった。結構量が多いな、気をつけて運ばなきゃ。
さてどこに座ったかなとテーブル席を見渡すと、いた。ふたりがけの席は空いているのに、さっきわたしが受付した中年のおじさんの隣の四人用席を陣取っている。……まあ、今日は人が少ないのでいい
のだけど。
「お待たせいたしました」
ちらりと男の子を盗み見ると、まだ目が赤く大きくしゃくりあげてさえいて、ぼくは今大泣きした直後ですよと全身でアピールしていた。しかしお母さんはあくまでも毅然とした態度で、わたしに小さくどうも、とだけ言った。
「ごゆっくりどうぞ」
番号札を手にカウンターまで戻る。しかし注文に来るお客さんの姿はなく、レジでは中井さんを含む受付係が暇そうにしていた。
「さっきの男の子、泣き止んでた?」
戻ってきたわたしを見るなり、中井さんが訊いてきた。
「一応泣き止んではいましたけど、鼻水出しながらまだしゃくりあげてましたね。お母さんはそれも無視してましたけど」
中井さんはふん、と鼻をならして腕を組んだ。
「あの子どもも子どもだけど、母親も母親よね。こんなところで自分の子どもをぴーぴー泣かせてたら迷惑になるっつうのに、まったく。もっとモラルを身につけろっての」
苦笑する。中井さんの毒舌はわたしに備わっていないスキルなので、聞いていて新鮮なんだけど、そこまで言わなくてもと思うときもある。
「あの、中井さん。そういえば」
少し声を小さくして、
「店長って、何時に戻ってきますか?」
今日は子どもの三社面談だとかで、わたしが出勤する少し前に抜けたらしい。ナイスタイミングと言うべきか。
「店長? 六時半ごろには戻ってくるって言ってたかな」
よかった。それなら大丈夫だ。時間は十分にある。
「分かりました。ありがとうございます」
「それはいいけど、桜井、あんたまさか……」
中井さんの眉間に皺がよる。もう一ヵ月半も一緒にいると、どうやらわたしの行動パターンは読めてくるらしい。
「店長には、ナイショでお願いしますね」
片目をつぶりながら、顔の前で手を合わせる。すると中井さんは小さくため息をつき、
「いいけど。でも、チャンスはあるわけ?」
「はい、たぶん。あのお母さん、一回はトイレに立つと思うんです」
横目でトイレを見る。カウンターからは見えやすい位置にあるので大助かりだ。
「分かった。じゃあ、もしあんたのいないときにあの母親がトイレに入ったら教える」
「助かります。ありがとうございます」
「あんたもお人良しだよね。……あ!」
と、叫んだ中井さんの視線を追うと、あのお母さんがトイレのドアを開き、中に入るところだった。こうしてはいられない。
「じゃあ、中井さん、レジお願いします」
慌ててカウンターから出る。思ったより早かったな。食前に飲みほすタイプだったんだろうか。
あの母子の席に行くと、男の子が暗い表情でチキンバーガーをかじっていた。そんな顔で食べてたら鶏さんも報われないよ、なんて思いながら、肩をとんとんたたく。
「これ、あげる。お母さんにはナイショね」
膝を曲げて視線を合わせ、人さし指を唇に当てながら例のものを渡す。それを見て男の子は目を剥いた。
「いいの?」
大きな目をきらきらさせてそう訊いてくる。なんだかすごくストレートに感情が表情に出てくるな、この子。
「うん。サービス。じゃあね」
もう少し話したいところだけど、お母さんがいつ戻ってくるかも知らないので、すぐに立ち去る。男の子は立ち上がったわたしにむかって、
「ありがとう、大きいおねえさん!」
と言って、火の玉ブラックのキーホルダーをポケットにしまった。
「ねえ、都。どうしてあの子がほしがっていたのがブラックだって分かったの?」
バイトを終えての帰り道。駅まであと三分程度のところで、由奈がそう訊いてきた。
「ああ、あれね」
わたしはケータイから顔を上げた。マチからきた、明日の体育は外の種目だっけというメールに返信をうっていたのだ。
「あの男の子がお母さんに言ったこと覚えてる?」
たぶん由奈はドライブスルーだったから聞こえなかったんだろうな、とは思うけど、一応訊いてみる。
「ううん」
軽くかぶりを振って、
「受付に集中してて、聞こえなかったな。キーホルダーを欲しがってるのは分かったんだけどさ。で、都がブラックを取るのが見えて、どうしてブラックなのかなあって。私が聞き逃してただけで、あの子、ブラックが欲しいって言ってたの?」
「ううん。三種類はもう持ってるとは言ってたけどね。でも、あの男の子、最後に、『三つだったら友達がラジコンで遊ぶとき使われる』ってことを言ったの」
由奈なら少し考えれば分かるだろう。あの梅干しをラジコン遊びにどう活用するか。使い道はひとつしかない。
「……信号機に見立てられてたってことか」
やっぱり。
「うん。だから、あの子が持ってる三種類はレッド、ブルー、イエローだって分かった」
ただでさえあのキーホルダーはまん丸なのだ。それに、ボタンを押すと光を放つおまけつき。連打すると点滅までするので、まさに信号機役をするにはぴったりだったんだろう。わたし自身これが分かったとき、そんな使い道があったのかと感心した。あの梅干しにそんな価値があったとは、まったく子どもの発想はすごいものだと軽く感動すら覚えたものだ。
大きな十字路を右に折れる。そうすると、駅はもう目の前だった。
「残るふたつはブラックとピンク。まあ、ここは男の子だからブラックかなと思って」
「なーるほど。でも、お母さんが席を立たなかったらどうするつもりだったの?」
「たぶん、どこかでトイレに立つんじゃないかと思った。コーヒーを頼んだから」
コーヒーには利尿作用がある。コーヒーを頼んだお客さんがトイレに立つのは珍しいことではない。
「すごい!流石の桜井都だね」
ぱちぱちと大げさに手を打つ。しかしわたしはすぐに由奈の手を掴み拍手を止めた。
「やめてよ。べつにそんなすごいことじゃないんだから」
たぶん、彼女だって気づいただろう、わたしと同じ状況なら。これぐらいですごいと拍手されるいわれはない。
「つれないなあ、もう。でも、ラッキーだったね、店長がちょうど不在でさ」
まあねと頷く。店長は面倒見はいいのだけど、仕事には私情を持ち込まないタイプというか、これはこれあれはあれときっちり分ける人なので、お客さんにタダで製品を渡すなんて絶対に許さないだろう。まったくもって、運がよかったのだ。
宜野駅に入ると、それまでの肌寒い屋外とは違って、人口密度の高さのおかげでちょうどいい温度になっていた。人肌って偉大だ。
改札を抜け、由奈にそれじゃあね、と手を振ろうとしたとき、
「都先輩!」
という声。振り向いてみると、ひとつ下の後輩、安藤真莉菜がいた。
「おー、真莉菜。何、こんな時間まで部活?」
「はい、自主練してました。こんばんは、松野さん」
駆け寄ってきて、由奈にもあいさつをする。由奈は軽く頭を下げて応えた。
「おふたりとも、バイト帰りですか?」
「うん。こんな時間まで自主練って、気合入ってるね」
「はい! 新人戦で負けるわけにはいきませんから。特に……」
視線を、わたしの隣の由奈に移す。
「浜子柴には!」
強気な宣言。しかし由奈はふっと笑って、
「そう? じゃあ、明日後輩に言っておこっかな。月野宮のキャプテンが絶対負けないって宣言してたって」
「はい、是非とも! それじゃあ、都先輩、松野さん、電車が来る時間なので失礼しますね。お疲れ様でした!」
ぺこりと可愛らしく頭を下げて、肩まで伸びた髪をひょこひょこ揺らしながら真莉菜は小走りでプラットホームに向かっていった。
それを見ながら由奈は口に手を当ててくすくすと笑う。
「嵐みたいな娘だね。気も強いし」
「まあね。あの強気が一番の長所だよ」
わたしは自分の口調が少しぶっきらぼうになっているのに気がついたけど、直すことはできなかった。
「そだね。私たちも、あの娘の積極的なバッティングには悩まされたなー」
懐かしむような由奈の声。…………。
「じゃあね、由奈。わたしの電車ももうすぐだから」
「お、もうそんな時間か。じゃ、またね、都」
手を振って分かれる。プラットホームへ続く階段を降りながら、わたしはぼんやりと部活時代を思い出していた。
自主練をして帰りが遅くなる、かあ。わたしもよくあったな。時間を忘れてバットを振ってダッシュをして、気がついたら下校時間を大きく過ぎていて、警備会社の人に怒られる、なんてこともしょっちゅうだった。忙しかったけど、本当に充実してたなあ。
そう思うと、無性にあの頃に戻りたい、と思う気持ちが出てきた。
もちろん今も今で楽しい。バイト代を何に使おうか考えたり、友達と遠くへ遊びに行ったり、部活生時代はできなかったことをエンジョイしてるのは確かだ。
でもやっぱり、あの頃に比べたら、どこか物足りなさを感じるのも事実で――。
何だかなあともやもやした気持ちを抱えたまま電車に乗り、吊り革に掴まったとき、今日もまた由奈に本を返し忘れたことに気がついた。