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帯分数は遠いけど  作者: 天そば
第一章 物足りない青春
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物足りない青春 5

   6



 三校時の化学は自習だった。課題のプリントは思った以上に簡単で十五分足らずで終わってしまい、時間を持て余したわたしはぼんやりと窓の外を眺めていた。教室ではほとんどの人がプリントを終わらせ、自分の受験勉強をしている。こんな中で友だちと談笑する気にはなれない。


 それにしても、実はまだ大学も決めていなかったのか。大丈夫なのだろうか、とは思いつつも、わたしが無理に決めるものでもないし。つまりはできることがないのである。でもやっぱり、実は小学生じゃないと知りつつも、心配してしまう。本当にどうにかなるのかな、あいつ。もう少し、ちゃんと話をしたほうがいいかな。


 ふう、と短いため息。そして頬杖をつき、視線をさらに奥のほうへ向けた。

 わたしの席は、外側の窓際の列の一番前にある。外の景色を一望できるこの席を、一番前というネックはあるけれど気に入っていた。

 化学室はC棟の三階にあるので、結構遠くまで見渡すことができる。少しさびれ始めた大型スーパー、若者向けの衣料店、ハンバーグレストラン。そしてそれらよりもっと奥、穏やかな住宅街の外れに、浜子柴高校はある。


 校舎の規模も設備も月野宮に到底かなわない、ごく普通の公立校。実は今、そこにいる。

 ちゃん勉強してるかな、なんて思いながら、わたしは授業が終わるまでずっと浜子柴の年季の入った校舎を眺め続けていた。



 三コマめの日本史の授業中、おれは大変な過ちを犯したことに気づいた。前々から、そろそろ買わないとやばいな、とは思っていたのに、すっかり忘れていた。

 おれの筆箱には一本しかシャーペンが入っていない。そのシャーペンが今……、いくらカチカチしても、いっこうに芯が出てこないのである。カチカチカチカチ音がするだけで、まったく何も出てきやしない。そして、愛用の2Bのシャー芯は底をついていた。


 どうする、おれ。授業開始十五分にして筆記用具が使い物にならなくなるとは。日本史はたぶんセンターで使うんだぞ。徳川十五代将軍を書こうとして家康すら書かないで終了してどうする。

 やはりここは、恥をしのんででも誰かから芯を一本貰うべきだ。しかし困ったことに、おれの席の周りは異常に女子率が高い。右ななめ前の斉藤を除いて、ほかはすべて女子だ。クラスの男女比はに半々なのにどんな確立だ。そして今日、その斉藤は休んでいる。

 おれは女子とはあまり話さないので、誰から借りるべきか、なんて考えていると、


「桜井くん、使う?」


 と、隣の席の女子がシャー芯の入ったケースを渡してきた。HBだったが、この際それはどうでもいい。手を伸ばし、受け取る。


「わざわざありがとな」

「うん。なにせ、家康のウかんむりだけで終わった徳川家の家計図があまりにも哀愁漂っていたからね」


 笑ってしまった。クールそうに見えるが、意外と冗談も言うんだな。


「そうか。まあ、助かったよ」


 うん、と口元に笑みを浮かべる。おれからシャー芯を受け取ると、隣の席の女子、松野由奈は板書に戻った。



   7



 帰りのホームルームが終わると、あまり気は進まないが早めに塾に行って個人ブースで自習をしようと思い、早々に教室を出た。実感は湧かないが、センターまでもう三ヶ月と少ししかないのだ。


「おっす、実」


 と、廊下に出てすぐ、がっしりした体つきの男が後ろから肩をたたいてきた。三年一組の安藤康夫(あんどうやすお)である。


「おう、康夫。久しぶりだな」


 クラスは隣なのでよくすれ違うしそのたび声は掛け合うのだが、ついそんなことを言ってしまう。

 おれたちは自然とふたり並んで階段へ歩きだした。


「ついこのあいだまでは、毎日会ってたのになあ、オレたち」


 そうなのだ。七月まで、おれと康夫は同じ野球部のチームメイトだった。


「あのころはよかったなあ。今みたいに、受験受験してなくて。なあ、実!」


 突然、康夫が声を大きくし、おれにらんらんと輝く瞳を見せた。


「な、何だよ?」


 顔が近いし暑苦しいしで、おれは少し引き気味にそう返したが目の前の男は意に介さず、


「もう一度、あのころに戻りたいとは思わないか!? 一日中、砂にまみれて白球を追いかけていた、あのころに!」


 出た、熱血語り。野球部のあいだでは有名な、こいつの得意技だ。おれは少し肩をすくめて答える。


「おれはそう思わねえよ。あんなシゴキはもうこりごりだ」


 まあ、他の高校に比べるとだいぶ軽いほうではあっただろうと思う。なにせ一回戦負け常連の弱小校だ。


「それがいいんじゃないか!まったくお前は」

「それはおれのセリフだ」


 しゃべっているうちに、階段にたどりついた。降り始めると康夫はそういえば、と言って再びおれに顔を向けた。


「実、聞いたか?」


 聞いたか? とだけ言われても何のことだかまったく分からない。


「何を?」

林田(はやしだ)のことだよ! あいつ、なんとレフトレギュラーになったんだと!」


 自分のことでもないのに誇らしげに胸を張る。しかしおれはそれにつっこむ余裕がないほど驚いていた。驚愕したと言ってもいいかもしれない。


「あの林田が? おれよりチビのあいつが?」

「ああ、あの運動オンチだ。すごいよな、毎日残って自主トレしてたらしい」


 これは予想外だった。ウチがいくら弱小とはいえ、守ればエラー打てばゲッツーのあいつがレギュラーを取るとは。今のチーム、飛びぬけてレベルが低いというわけではないのに。


「どうだ! それを聞いたらお前も久しぶりに野球がしたくなってきただろう。三月のOB戦が楽しみだな!」


 一階にたどりつくと、じゃあ、オレは図書室に行くから! と高らかに宣言し、康夫は去っていった。まったくもって、台風のような男である。

 いつまでたっても変わらない康夫に苦笑しつつ、下駄箱に行く。するとそこにはうわさをすれば影、新レフトレギュラーの林田耕平(こうへい)がいた。向こうもおれに気づき、先輩、と言って近寄ってくる。


「おう、林田。レギュラー取ったんだってな」

「はい! 嬉しいことに」


 威勢のいい返事だ。気持ちのいいほどに。


「次の大会はいつなんだ?」

「来月の最初の土曜です。先輩、観に来られますか?」

「おいおい、受験生だぞ、おれは」


 そうでしたね、と笑いながら頬をかく。


「観にはいけないが、まあ、がんばれよ」


 林田は、満面の笑みを浮かべながら頷き、


「はい! 精一杯努力してつかんだレギュラーですから、思いっきりがんばります!」


 そして、じゃあ、部活があるので失礼します、と言って頭を下げ、校舎から出て行った。

 おれは去っていく林田の後姿を見ながら、あいつ、変わったなあと思っていた。以前は先輩を見かけても笑顔で近寄ってくるなんてことはせず、ただ無言で会釈するだけだったのに、まさか試合を観に来るかなんてことまで訊いてくるとは。きっと、色々あって成長したんだろうな。


 精一杯努力してつかんだレギュラーですから。

 その言葉が蘇る。


 最後の大会でも、おれはベンチに入ることはできなかった。まあ、おれの流した汗の量とレギュラー陣の実力とを天秤にかけると、当然の結果だったと言える。

 引退試合で、大勢の下級生と数人の同級生らとともにスタンドから応援していたおれは、本気で声を出しはしなかった。おれと違い、努力はしたものの惜しくもベンチから漏れた三年生たちは、みんな声を張り上げ魂を込めて応援歌を歌い、チームの勝利を願っていた。対戦相手はウチとどっこいどっこいのチーム。もしかしたら勝てるかもしれない、という思いがありはしたが、どうせ勝ったところで次に当たるのは優勝候補だ。コールドで負けてはいサヨナラ。ならべつに、ここで勝っても負けても違いはない。だからおれは反感をかわない程度に声を出し、太陽の動きとともに移動する影をできる限りキープしながら応援していた。


 結果は九回サヨナラ負け。おれはやっと朝ゆっくり眠れる、という程度の感想しか持たなかったが、学校に戻り、グラウンドで大粒の涙を流しながら、勝ちたかったと何度も何度も繰り返す康夫を見ていると、胸の奥に小さな針を突き刺されたような感覚を覚えた。


 そして今、林田の言葉を聞いたときも、おれは――。


 無言で首を振り、上履きを脱ぐ。

 おれの部活生時代は、康夫や林田に比べると味気ないというか、物足りないものだったんだろう。だけどいいさ。おれにはそれぐらいがちょうどいいというものだ。


 靴を履いて外に出ると、冷たい風が吹いていた。空を見上げると、黒くて分厚い雲が覆っている。雨が降るのは時間の問題だった。

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