エピローグ 2
担任が午後から出張のため、帰りのホームルームがなくなった。クラスメイトたちはそのささやかな幸せに歓喜していたが、松野由奈は素直に喜べなかった。今日もまた、五時からバイトが入っている。普段より二十分下校が早くなりはしたが、さて、この時間、何に使おう。
少し悩んだが、特にすることもないし、早めにバイト先に行ってしまおう、と結論を出した。五時前からバイトに入っても給料が増えるわけではないが、それは別にかまわない。由奈は接客業務が嫌いではなかった。
じゃあ、決めたらさっさと行こうと、塾へ向かうクラスメイトたちにまぎれて、バスに乗った。ホームルームがなくなったので、浜子柴生の下校ラッシュを避けられたことに、由奈は軽く感激した。帰りのバスでイスに座れるなんて、いつぶりだろう!
久しぶりの座席に座り、揺られること十五分ほどで、目的地の駅前のバス停に着いた。停車したバスの窓から外を見て、由奈はそこに知った顔を見つけた。バス停が見えたときから、もしかして、と思っていたが、顔がはっきり見える位置まで来るとそれは確信に変わった。間違いなく、あのふたりだ。バス停にある東屋風の建物のベンチに座っている。由奈は下車すると、笑顔で友人に手を振った。
「やっほ。偶然だね」
しかし、ふたりの友人は首を横に振る。そして、背の低いほうが言った。
「偶然じゃないよ。あたしたち、ここで由奈をまってたんだから」
ねえユキ、と隣に語りかける。
由奈は小さくへえ、と呟き、ベンチの端に腰を落とす。こんな所でわざわざ待ってたんだ。そうまでして私と話がしたいってことは、彼女のことかな、やっぱり。そう当たりをつけ、訊いてみる。
「都の話?」
由奈の問いに、そう、と今度はふたり同時に頷く。
「そっか。ありがとね、幸乃も真知も、わざわざ待っててくれて。でも別に、メールでもよかったのに」
「それじゃ駄目だわ。あたしもマチも、直接会ってお礼を言いたかったんだもの」
隣の真知が、そーだよ、と続ける。
「今日のミヤ、すっごくすっきりしてた。これでやっと由奈とけりをつけられたって」
「まるで、憑き物が落ちたみたいだったわ」
由奈は苦笑する。遠まわしに憑き物扱いされた、私?
「で、その本人は?」
「もうバイトに行ったよ。頑張って働くぞーって言ってた」
「そう」
憑き物を落としたついでに、バイトも張りきっている都を想像して、由奈の顔から笑みがこぼれる。私の前ではクールぶってるくせに、と可笑しくなったのだ。
「本当にありがとうね、由奈。あなたのおかげで、ミヤは一皮剥けられたわ」
「どういたしまして。でも、私より、ふたりのおかげだと思うんだけどなあ。急に坂上屋に呼び出されたときはすっごい驚いたし」
真知が苦笑しつつ、隣で涼しい顔をしている幸乃にちらりと目をやった。
三日前の月曜日、バイトが午後からだからランニングにでも出かけようかなと思っていた由奈に、幸乃からメールが来た。内容は、
『今暇だったら、坂上屋に来て』
絵文字なし。怖っ! と思ったが、そういえば、幸乃ってこういうやつだった(基本的に、面倒くさいとかなんとかでメールに絵文字は使わないのだ)と思い直し、由奈は坂上屋に向かった。途中、顔見知りに会ったりしつつ坂上屋に着くと、真知と共にテーブル席で由奈を待っていた幸乃は、単刀直入に切り出してきた。
――ミヤを挑発してくれない?
「あのときは、すぐきてくれてありがとーね。あたしもユキも、色んな話したんだけど、最終的には由奈にお願いするしかないかなっておもって。そしたら効果ばつぐんだったね」
「そんな大したことしてないって、私」
「したわ」
幸乃が力強く断言した。由奈は肩をすくめる。
自分がやったことといえば、どうやらぬいぐるみ事件の謎が解けたらしく有頂天になっていた都に、少し水をさしただけ。インターハイ県予選のことを思い出させるようなセリフを、それとなく言っただけだ。幸乃と真知に、自分をライバル視していることを都に認めさせるよう、挑発してやってくれないかと頼まれたということもあったが、正直に言えば、こんな謎解きで勝った気になっていた都に若干イラっときたから、というのもあった。もしかしたらふたりに頼まれなくても同じことしてたんじゃないかな、と由奈はこっそり思っていたりする。
しかし、それだけが都の『次は負けない宣言』の理由だとは、由奈は思っていなかった。このふたりが都を心配して、気を回してくれたことも、大きな理由なんだろうと、そう考えていた。
だから。
「ほんとうに、由奈のおかかげだよ。どうもありがとう」
と、まるで自分だけ頑張ったかのように言われると、どうも面白くない。由奈は笑顔で、手をひらひらさせる。
「いいっていいって。私も、自分のライバルがやっと復活してくれたみたいで嬉しいし。……それに、今のところ一勝一敗だから、このまま都に変なふうにクサられても困るし」
最後の一言を、無意識に付け加えてしまい、しまった、と思ったが、遅かった。幸乃と真知が、きょとんとする。
「一敗って、いつミヤに負けたの? あたしたち、あのインハイの決勝戦で、初めて当たったわよね?」
あはは、と由奈はごまかすように笑ってしまう。完全に失言だった。しかし、もう無理に隠さなくていいかな、と腹をくくる。
「まあ、ね。たぶん都は覚えてないと思うけど。あの頃は私、かなり髪短かったし。実際、幸乃も真知も気づいてないし。……高一のときに会ったのが、四年ぶりだもんね」
あ、と真知が小さく声をあげた。それを聞きながら、由奈は腕時計を見て、するりと立ち上がる。
「もうバイトに行かなきゃ。じゃあね、ふたりとも」
「まって、由奈! 由奈って、もしかしてあの、小学生のときの」
由奈は歩きだしながら、後ろにいる幸乃と真知を振り返ると、口元に笑みを浮かべた。
「高校の大会で再会したとき、ピッチャーじゃなくなっててかなりがっかりした」
そう、四年越しの再会を果たしたとき、完璧なまでの敗北を喫したピッチャーはもう幻となっていた。
由奈はバス停から離れながら、まるで昨日ことのように覚えている、過去の記憶を呼び覚ます。
背が高くて手足の長い、とても同い年には見えないけれど、どこか幼さを残す表情を浮かべる女の子。最終回に急に崩れだしたものの、由奈は彼女のボールをとらえることは出来ず、空振り三振で試合は終了した。そして、その子にそっくりな顔をしながら、エースとして活躍するその子を恨めしそうに見つめていた男の子。チームがピンチになったとき、期待をこめた目で、監督をみつめていたのを覚えている。
――これで、一勝一敗。
バイト先に到着した由奈は、更衣室のドアノブに手を伸ばす。しかし、それは由奈が触れる前に回転し、音をたててドアが開いた。
「あ、由奈」
そこには、都が立っていた。もう制服に着替えて、働く準備は万端のようだ。
不意に、都がにやりと、いたずらを思いついた子どものように企みに満ちた笑顔を浮かべる。彼女のそんな表情を見たことがなかった由奈が少したじろいでいると、力強く宣言した。
「ソフトでももちろん負けないけど、バイトでも、由奈には負けないからね! どっちがいい接客ができるか、勝負ね!」
そして言いたいことだけ言うと、きょとんとする由奈を置いて、先に表へと出て行った。
由奈はしばらく、小さく口を開けて都が消えていった曲がり角を見つめていたが、やがて口元に笑みを浮かべ、更衣室へ入っていった。
いいよ、都。やってやろうじゃん。
鞄を置き、制服に着替えながら、由奈は知らず、小さく呟いていた。
「私だって、もう絶対に、あなたには負けないから」