エピローグ 1
いつものように、先に玄関ロビーに来ているふたりに駆け寄って、朝の挨拶をする。
「おはよう、ユキ、マチ!」
「おはよう」
「おはよー。なんか朝から元気だね、ミヤ」
「まあね。今日はいいことがある日だから!」
「そう? ところで、キーホルダーつけてるのね」
流石、ユキはめざとい。わたしの鞄に後輩たちから貰ったキーホルダーがついているのに、すぐに気づいた。
「あー、ほんとだー! つけてるー」
「まあね。さ、行こう。電車に遅れるよ」
先に歩き出す。すぐに追いついてわたしの横に並んだふたりの顔には、いつかのようなニヤニヤ笑いが張り付いていた。
「ミヤ、急にそのキーホルダーつけて、何かあったでしょう?」
「そーだそーだ。最初に『ゆ』がついて、最後に『な』がつく人とかと、なんかあったんじゃない?」
「あったよ。おかげでわたし、昨日夜遅くから父母会の作ってくれたDVD観たくなって、いつもより寝るのが二時間も遅くなった」
おー、とふたりが歓声をあげる。
「やっぱり、まだ観てなかったのね」
「まあね」
「で、どうだった、感想は?」
マチがケータイをマイク代わりにわたしの口元に向けてくる。
感想って……。正直、懐かしいやら悔しいやら恥ずかしいやらで、変なテンションになってテレビにツッコミを入れたり何でもないところで爆笑したりした挙句、終わりごろには昨日二度目の涙を流してしまったわけだけど、それはまあ、言う必要はないよね。
「いいでしょ、感想なんて。ほら、赤になりそうだから急ご」
前方の横断歩道にむけて、わたしは小走りをする。後ろから、
「今青になったばっかりよね」
「ふつうに歩いてもまにあうよね」
とか聞こえたけど、スルーさせてもらおう。
横断歩道を渡って、ふたりが来るのを待つ。ゆっくり歩いているけど、信号が点滅しないうちに難なく渡り終えた。……まあ、それはべつにいいか。
「まったくー、ミヤは照れ屋なんだからー」
「そうよね。照れて言えないほどの感想なんて、どれほどのものかしら」
うりうりとふたりして肘でつついてくる。こいつら……。からかえるところは容赦なくからかってくる。
わたしは歩くスピードを速めてふたりを追い越しながら、
「もう、DVDの話はいいでしょ」
するとふたりも速足になってすぐにわたしに追いついてきた。
「分かった。もう終わるわ。DVDの話はっ」
「そーだね。終わりにしよーか。DVDの話はっ」
ふたりとも、最後の『は』に異常なアクセントを置いてきた。そして、わたしに向けるにやにや笑い。
言いたいことは分かる。
「昨日ね、由奈に、大学では負けないって言ってきた」
これが聞きたかったんでしょ、ふたりとも。
予想通り、両隣から、おー、と長い感嘆の声が聞こえた。
「やったね。ついに言っちゃたんだ!」
「本当に、やっとって感じね」
「ひゅーひゅー、ひゅーひゅー」
「おめでとう!」
なんか、長年の片思いの相手とやっと結ばれた恋する乙女みたいな扱いになっている。
「うん。ありがとね」
わたしは、両隣にいるユキとマチに交互に顔を向けた。
「ふたりとも、わたしにアドバイスくれたよね? あれ、結構利いたんだよ」
ユキは、遠慮せずに言いたいことを言え、と。マチは、考えすぎるな、と。
どちらも、実に的を射た意見だったと思う。
マチはにっこり笑顔を返してくれたけど、ユキは少し首を傾げてきた。
「利いてたの? 怖い顔で睨んできたから、そうでもないと思ってたんだけど」
げ。ユキ、容赦なく痛いところをついてくる。けど、反論できないし、する気もないので、
「あれは、まじでごめん」
素直に頭を下げる。
「ちょっと、意地になってて……」
「冗談よ。大袈裟に謝らなくていいから」
そう言ってくれる寛大な友人に感謝。
そして、頭を上げながら気になっていたことを尋ねる。
「でもさ、見てて分かった? わたしが由奈に張り合ってるって」
ふたりが顔を見合わせ、ほぼ同時に笑った。あ、なんか、返答が予想できたかも。
「「モロばれ」」
やっぱり。
「そんなに?」
「うん。すごかったよー。バイトでも、由奈がいる日といない日では、表情とかうごきとか、とってもちがってた」
「由奈の話になると、変な顔になるしね」
そうなんだ……。なんかここ数日、色んな人に指摘されたけど、わたしって結構、顔に出るタイプなのかも。
「むしろ、どうしてミヤはあたしたちにばれてないと思ってるのか不思議なくらいだったわよね」
「だよねー。あんなに意識しまくりで、気づかないほうがおかしいのにねー」
「あー、もう分かった。ありがと」
その辺で勘弁してください。恥ずかしくなってきた。
がやがやと、周りに人が多くなってきた。もう、駅はすぐそこだ。
正面から歩いてきた人を避けたとき、鞄についたキーホルダーがくいくいと引っ張られた。なんだろうと見ると、マチだ。その目は、完全にいたずらっ子のそれだった。
「ところで、ミヤはどーしてそのキーホルダーをつける気になれたの?」
こいつめ。言わせる気か。
「あたしも聞きたいわ」
隣で、マチと同じ目をしたユキも追い討ちをかけてくる。
しょうがないなあ。
わたしは、隣にいるふたりの親友には目を向けず、遠くに見えてきた駅を見ながら、できる限り涼しい顔をしてさらりと言った。
「高校時代の部活動に、もう悔いがないからだよ」
*
いつもより早く、学校に着いた。なぜいつもより早く着いたかと言うと、単純にいつもより早く家を出たからで、ではなぜいつもより早く家を出たかと言うと、まあ、ホームルームの前に短い時間でも勉強しようかな、と思い立ったからだ。
らしくねえよなあ、我ながら。
ホームルームが始まるまでまだ時間があるためか、人気の少ない階段を上りながらそんなことを思う。でも、まあいいか。これからは、勉強も頑張ると決めたんだし。
階段を上り終えて廊下を歩いていると、前方に見知った人を見つけた。連れはおらずひとりだ。自然と、口元が緩むのを感じる。
「よう」
小走りで追いつき、隣に並んだ。飯塚は控えめに笑って、
「おはよう、桜井くん」
この小さな笑顔の意味は分かっている。本当はもっと大きく笑いたいのだろうが、照れが邪魔しているのだ。
今朝、橘からメールが届いた。飯塚と、付き合うことになったのだという。
「おめでとう。聞いたよ、橘から」
「うん」
顔を赤くして、少し顔を俯かせる。そのまま、ぽつりと言葉をこぼした。
「本当にありがとう。桜井くんのおかげ」
「……いや、おれも、お前らに色々教えてもらえたよ。ありがとな」
やっぱり口に出すと少し照れくさい。そして、俯かせていた顔を上げて食いついてくる飯塚。
「教えてもらったって、何を?」
「いや、まあ……、こう、一生懸命の大事さとかを」
予想通り、飯塚は小さく吹き出した。
「なんか、似合わないこと言うね」
悪かったなちくしょう。
「自分でも分かってるよ」
「だよね。でも、そういうの大事だと思うよ」
「……サンキュ」
そう素直に褒められると、礼を言うしかないじゃないか。
足を止める。もう、おれの教室のすぐ前だった。
「じゃあな。橘と仲良くしてやってくれ」
すると、飯塚は大きく口を広げて、ニッと笑った。こちらまで晴れ晴れするような気持ちのいい笑顔。
「当たり前でしょ! じゃあ、またね、桜井くん」
手を振って別れる。飯塚は、今にもスキップをしだしそうな足取りで、教室に向かっていった。その後ろ姿を心地よく見送り、おれも教室に入る。その瞬間。
「いやー、朝からフジエモンのあんなにいい笑顔が見られるとは。今日はハッピーデイになりそうだね」
背後からそんな声がかけられた。驚いて、反射的に後ろを振り向く。しかし、顔を見る前からそれが誰かは分かっている。
「おはよう、桜井くん」
「ああ、おはよう、松野」
いつからいたんだ、こいつ……。鞄を持っているから今教室に来たことは分かるが、もしかしたらずっとおれと飯塚の後ろを歩きながら、会話を盗み聞きしていたのか? ありうる、こいつなら。
その疑いが顔に出てしまったらしい。松野は手を振り、否定の言葉を述べる。
「いや、なんか見覚えのあるふたりを見つけて、何となく初々しい雰囲気を感じて、ずっと後ろで会話を盗み聞きしてたとかじゃないよ。ただ単に、ふたりと私の歩くペースが一緒で、ずっと一定の距離を保ったまま、たまたま会話が聞こえてきちゃったんだよ」
おのれ、いけしゃあしゃあと。なら、なぜ会話が聞こえる位置にいながら、おれたちに声をかけてこなかったんだ。明らかに、明確な意思を持って盗み聞きしてただろ。
「桜井くんの口から、一生懸命の大事さなんて言葉が出てくるなんてねー。ホント、世の中は何があるか分かりませんねー」
自分の席に向かいながら、そんなことを言いやがる。おのれ、松野由奈……。覚えてやがれよ。そう思って背中を睨みつけるが、当の本人は痛くも痒くもなさそうに席に着き、教科書やら筆記用具やらを机に移し始めた。
おれも席に座り、それに習おうとすると、
「ごめん、桜井くん。これ、なぜか私の机に入ってた」
そう言って松野が差し出してきたのは、おれの日本史の教科書。……そういえば、家においてきたと思っていたのに、部屋で見かけなかったような……。
「なんで、私の机に入ってたんだろう? ごめんねー、なんか」
「いや、いいよ」
昨日、そのおかげで康夫に教科書を借りに行って、飯塚がアサコちゃんだと突き止められたわけだし。それを考えると、ある意味では、松野のおかげでアサコちゃんをみつけられたとも言えるかもしれない。
…………ん、待てよ、そういえば。
昨日、おれが日本史の教科書を忘れたと言ったとき、松野は異様にしつこく、康夫に借りにいけと薦めてはいなかったか? それに、今考えてみれば、おれが教科書を忘れたことに対して、全然驚いていなかったというか、大変だねえと言う口調が棒読みだったような……。
「どうしたの、桜井くん?」
少し首を傾げて、教科書をひらひらさせる。早く受け取れ、と言うことだろう。
差し出された教科書に手を伸ばす。そうしながら、おれの頭の中でひとつの仮説が成り立っていった。
もしかして、松野は飯塚がアサコちゃんだと知っていて、あえておれにヒントを与えて見つけさせたんじゃないか? それなら、おれの教科書が松野の机に入っていたことも、あの棒読みも、そして何より、おれと飯塚の校舎裏の会話を盗み聞きしていたのも納得できる。すべては、松野の掌の上で転がされていたのだとしたら……。
しかしなぜ、松野はそんなことを? 飯塚を再び初恋の人に会わせたいだけなら、こんな回りくどい方法をとらなくてもいいはずだ。…………まさか、やる気のないおれを立ち直らせるために?
………………。
「サンキュ」
ふ、と少し笑いながら、おれは教科書を受け取る。
まさかな。松野がおれにそこまでする理由なんてないし、何より、おれが橘の頼みでアサコちゃんを捜していたことなんて、松野は知らなかったはずだ。そんなこと、できるわけがない。くだらない妄想だ。
おれは受け取った教科書を机に広げ、そのまま日本史の暗記を始めた。