帯分数と仮分数 11
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黙ってソファーに座っているのはどうも無理そうだった。そわそわと落ち着きがないのが自分でも分かる。べつにこれから悪いことをするわけでもないのだが、やっぱり緊張してしまう。しかし、部屋に行って勉強する気にもなれなかった。まず間違いなく、集中できないだろうし。
しばらくテレビのチャンネルを変え続けた後、結局どの番組も観る気になれず、電源を消した。結果、広いリビングに沈黙が降り、ますます動悸が速くなる。
反射的にもう一度テレビをつけようとリモコンのボタンに指をかけたが、やめた。
ソファから右手にある、ベランダに続くガラス戸が何となく目に入った。夜風にでも吹かれれば、少しは落ち着くかもしれない。
近づいて、カーテンを開ける。お世辞にも綺麗な夜景とは言えないが、慣れ親しんだ町並みが広がっていた。
おれはガラス戸を開け、夜風が少し肌寒いベランダに出た。
お風呂からあがり、髪を乾かすと、時刻は十時を回っていた。普段なら、もう眠気が襲ってくる時間だけど……。今日は、そうでもない。
由奈との決着は着けた。けれどもうひとつ、やらなければならないことがある。
謝罪だ。あいつに謝らないといけない。本当はすぐにそうしようと思ったのに、先にお風呂に入ったのは……、まあ、情けないことに、どうやって話を切り出そうか、ちょっと考える時間がほしかったから。
けれど結局、何も考えないほうがいいんだろうという結論に達した。変に考えすぎるのはわたしの悪い癖だと痛いほど実感したばかりだし。
さて、あいつはどこにいるんだろうとあたりを見渡す。リビングには見当たらない。するとたぶん、部屋で勉強してるのかな。そう思いかけたとき、意外な場所にいるのをみつけた。
ベランダに続くガラス戸のカーテンが開いている。
実は、ベランダに出て手すりをつかみながら、遠くを見ていた。背を向けているのでどんな表情をしているのかは分からないけど、どことなく哀愁のようなものが漂っている気がする。
あいつがこんなセンチメンタルなことをしているのは、初めてだ。それとも、わたしが気づかなかっただけで、よく夜風に吹かれて物思いにふけっていたのだろうか。
「何してんの」
わたしもガラス戸を開けて、ベランダに出る。お風呂上りの火照った身体に夜風が心地いい。
実が首を少し動かして、振り向いた。
「ちょっと、考え事」
「そうなんだ」
スリッパをつっかけて、隣に並ぶ。
「わたしも考え事したい気分」
「そうか」
「うん」
しばらく無言で町並みを見つめていた。不意に、視線を遠くに向けたままの実がぽつりと、
「今日は星、見えないな」
「そだね。おせっかいな誰かさんが言ってたんだけどさ」
「うん」
「星の見えた次の日は、いいことがあるんだって。……昨日は、星が見えたね」
「そうだな」
「何かいいこと、あった?」
「あった」
即答だった。わたしは思わず、隣にいる弟の顔を見てしまう。すると実も、わたしの顔に目を向けた。
「あったよ、いいこと」
「そっか。意外と本当かもね、星のジンクス」
「うん。でも……」
「でも?」
「今日はまだ、終わってないから。まだいいことがありそうな気がする」
「そっか」
「うん」
それだけ言って、またお互い視線をはずして景色を眺めて、沈黙が降りる。
「「あの……」」
意を決して口を開くと、まったく同じタイミングで同じことを言ってきた。びっくりして隣を見ると、向こうもまったく同じ仕草をしている。
思わず、笑ってしまった。実も笑っている。なんだこれ。
「なに? 何か言おうとした?」
「うん。おれ、話さないといけないことがある。姉貴に」
「そうなんだ。でも、わたしもあるんだ。あんたに話すこと」
そっか、と言って、お互い頷く。少し無言の時間を置いて、実が先に口を開いた。
「おれから先でいいか?」
「うん、いいよ」
「分かった」
そして、ふたたび手すりに手をついて、話し始めた。
我ながら情けないことに、姉貴の顔を見て話すことはどうしてもできなかった。それでなくても心臓がバクバク言っているのに、直に相手の顔色を見ながら話すなんてことをしたら、一生分の鼓動を使い切ってしまう。
でも、目をあわさずとも、言いたいことは言えたと思う。小学校のあの日以来、何かを頑張ったって姉貴には勝てない、自分がみじめになるだけだと思っていたこと。けれど、飯塚から聞いたハンバーガー屋での出来事や、夕飯がビーフシチューだったことで、勝手に姉貴を悪者にして、ひとりで喜んでいたこと。
「ごめん。おれは自分を安心させたくて、姉貴の弱みを見つけた気になりたかったんだ」
恐る恐る隣を見る。姉貴は、照れたような困ったような複雑な顔をしていた。
「……わたし、あんたが思ってるほど完璧じゃないよ。少なくとも、性格は」
「そうか?」
「うん。わたしも謝らないといけないことがある。……あの、いちごミルクのこと覚えてる?」
「覚えてるけど……」
なぜ、急にいちごミルク?
「あれさ、本当はわたしが飲みたいから買ってきたわけじゃないんだ」
「知ってる。おれが受験で疲れてると思ったからとか、そういうのじゃないのか?」
姉貴は急に唇をかみ、険しい顔でふるふると首を横に振った。
「自分にはそう言い聞かせてたんだけど、ほんとは違う。松野由奈知ってるでしょ?」
「知ってる」
「わたしたち、インターハイの県予選で由奈の率いる浜子柴に負けたでしょ? それから、なんて言うか、その……由奈をライバル視みないなことしてて。だから、由奈が弟を可愛がってるって話を聞いて、それで……」
ようやく話が見えてきた。つまり、姉貴は……。
「松野への対抗心で、自分も弟によくしてやろうと、おれの好物を買ってきたってことか?」
「本当に、ごめん!」
おれに向き直ると、ふたつの掌を綺麗に合わせ、すごい勢いで頭を下げてきた。
「実をダシにして勝手に由奈に対抗した気でいた。最悪だと思う。ほんとごめん」
まだ頭を上げない。そこまでされると、逆にこっちが申し訳なくなる。
「いや、怒ってないから、頭上げろよ」
「怒ってないの?」
恐る恐ると折り曲げていた上半身を伸ばす。しかしそうすると改めてデカさが分かり、やっぱりもう一回下げてくれと言いたい衝動に駆られたが、それはまあ呑み込む。
「ああ。でも、意外だと思った」
そうだ。おれが思っていた桜井都は、弟に優しくしてライバルに対抗するなんてことはしない。ただ自分を安心させたいがための、そんな無意味な……まるで、おれのようなことはしないはずだったのに。
姉貴は苦笑いと嘲笑の中間のような表情になり、
「だから、そんな完璧じゃないって言ったでしょ。……それにね、あの、お客さんのあいだに入ってパンチ喰らった話ね。あれも、同じ理由」
はー、と大きくため息をついた。
「あのとき、すぐ隣に由奈がいて、何だろう、その……。先を越されたくないって思ったの。由奈が先に止めにいってうまく場を収めたら、わたしの負けだって。それで慌てて飛び込んだら、がつんと……。その後も、由奈の前でみっともないところ見せたくないと思って、強がっちゃって……」
バカだよね、と少し笑う。
「結局さ、わたし、決勝で浜子柴に、由奈に負けたのがすごく悔しくて、次は絶対に負けないと思ったけど、それを本人に言うのが恥ずかしかったんだ。なんかいかにも捨て台詞って感じでしょ? アニメとかで、負けた敵が次は覚えてやがれ、って言うみたいに。だからなんだか照れくさくて言えなくて、でも悔しさが残って、変な対抗心燃やしてたんだと思う」
意外だった、なんて言葉の守備範囲を超えるほど、おれはこの告白に驚いていた。そして、共感もしていた。
口では格好悪くて言えないけど、相手に嫉妬している。でもそのままだと気分が晴れないから、相手の悪いところを想像したり、勝手に対抗したりして、虚しさを晴らそうとする。
不意に可笑しくなって、笑いをこらえられなくなった。
「おれたち、同じようなことをしてたんだな。おれは姉貴に嫉妬して、姉貴は松野に嫉妬して、お互い、変な方法でその憂さを晴らそうとしてた」
根っこの部分は似てるよね。
そう、松野の言うとおりだった。姉貴にも、おれと似たようなところがあったのだ。おれの姉は、おれが思っていたほど、完璧な人間ではなかった。
複雑な気分だった。長年コンプレックスを抱き続けていた人の、完璧ではない一面をみつけるというのは。誰にでも優しく、自分に厳しく、何でもできると思っていた姉は、おれの幻想でしかなかった。本当は、至らないところも、負の一面も確かに持ち合わせている。おれは、姉貴が自分と同じ年齢の、ひとりの人間だということを忘れて、あの日、相手チームを気遣って涙を流した姉に感じた敗北感だけが一人歩きしていたのかもしれない。
姉貴もおれの言葉を聞いて、小さく頷いた。
「言われてみれば、そうだね。わたしたち、案外似てるのかも」
「そうだな。やっぱり、双子なんだよ」
「うん。……わたしね」
階下に向けていた視線をゆっくりと上げていき、分厚い雲に覆われた夜空を見上げる。
「さっき由奈に、次は負けないって、言ってきた。やっと言えた」
「そうか」
やっぱり、そうだと思った。松野の話をしている姉貴はなんだかさっぱりしたような表情をしていて、たぶんもうケリはつけたんだろうなと雰囲気的に察することができた。
おれも姉貴に習い、雲に覆われた夜空を見上げる。
「なんだかすごく、すっきりしたな。遠回りはしたけど、結局これしかなかったんだよね、わたしの気持ちに決着をつける方法って」
「うん」
「これからはまた、ソフト一筋でいくよ。大学では絶対に負けないために」
「ああ。頑張れ」
ぽろっと反射的にこぼした言葉だったが、内心大いに驚いた。おれは今まで、姉貴にエールを送ったことなんてなかったのだ。おれが応援しなくても、こいつならひとりでなんとかするだろうと、心の奥で思っていたから。だから、何のためらいもなく当然のように、『頑張れ』と言えた自分が意外だった。
そして、そんなこと初めて言ってくれたねと指摘されるのが嫌で、すぐにつけたす。
「おれもこれから頑張るから」
「何を?」
「全部を。今まではさ、どうやったって姉貴には勝てないし、おれがみじめになるだけだからって、何も頑張らなかったけど、もう、ふっきれたよ」
飯塚の、あの笑顔を思い出す。そして予想通り、飯塚の話をしたら泣き出してしまった橘も。
あの笑顔も涙も、初恋の人を想うことをやめずにいたからこそでてきたものだ。それを間近で見ていたおれは、その、まあ……。いいな、と思ってしまったわけだ。おれも、こうして感動したいなと。
何よりおれも、ない頭を振り絞ってアサコちゃん捜しに一枚噛めたわけだし、多少なりとも努力して、こうして喜びを得るのも悪くないじゃないかと、柄にもなく考えてしまったのだ。
「当面のところは、受験に集中する。頑張っても報われなかったらとか、みじめになるとか、そんなことを考える必要なんてないって、やっと思えたよ」
「そうだね……。わたしも、負け犬の遠吠えみたいだとか、今更インハイのこと蒸し返すのは変だとか、そんなことばっかり考えてた。だから、考えすぎって言われるんだよね」
そのワードに、反応してしまった。
「考えすぎって、誰かに言われたのか?」
「うん。ユキと、それから、マチにも」
「おれも、正則から言われた」
お互いの口から、笑い声が漏れる。
「やっぱ、わたしたち似てるんだよ」
「そうだな」
まったくだよ。
遠く、雲の上にいる存在だと思っていた姉貴が、今はひどく近くに感じる。もちろん、勉強もスポーツも身長も、おれなんかより数段上で、到底敵わない。でも、同じ日に産まれて、一緒に育った、ごく普通の高校生だ。おれと同じように、何事も考えすぎる欠点のある、人間なのだ。
「――あ、見て、あそこ」
不意に、姉貴が、少し前方の空を指差した。
「? 何が…………、あ」
分厚い雲が幾重にも重なる空。その切れ間から、かすかに、
「明日もいいことがあるね」
星が顔を覗かせていた。