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帯分数は遠いけど  作者: 天そば
第四章 帯分数と仮分数
32/36

帯分数と仮分数 10

  12



 おれはずっと姉貴が羨ましかったよ。どんなに見えないふりしたって、同じ家に住んでるんだから分かっちまうんだ。あいつがどんな分野でもおれより優れてるってことが。


 昔は、こんなおれでもあいつに勝とうと頑張ったことがあったよ。けど、おれはあいつに完膚なきまでに叩きのめされたことがあったんだ。それも、勉強とかスポーツとかじゃなく、人間性で。ほら、さっき小学生の頃の部活の話をしただろ? あれでだよ。幼心に、おれはあいつに比べてなんてちっぽけでずるいやつなんだろうと思わされた。それからだよ。姉貴には敵わない、どんなに努力しても、こんなおれなんかが追い付けやしないって思うようになったのは。


 だからおれは、本当は違うと知っていたけど、ある考えを捨てきれずにいたんだ。


 姉貴が、おれを苦しませるためにわざと小学校の頃の話をして、夕飯にビーフシチューをだした、ってことを。


 十八年一緒に生きてきたんだから分かるさ。あいつは何があっても、そんなことができる人間じゃない。

 けれど、おれはあいつが人に敗北感を与えることを楽しむような人間だと思いたかったんだ。だってさ、ほら。おれが最も劣等感を感じたのは、あいつの性格に対してなんだから。自分より他人に優しく、気遣いを忘れない、あの性格に一番追い込まれてたんだ。


 ハンバーガー屋でのことを知ったときから、すでにおれはあいつの人間性を無視した仮説を勝手に立ててた。あいつが考えなしに喧嘩の仲裁に入るのは確かに考えづらいが、相手に敗北感を与えるためなんてもってのほかだ。けど、そうとも考えられるってことに気づいちまったらさ、止まらなくなったんだ。もしそうだったらおれのこともわざとだったんじゃないか、そうならあいつはとんでもないやつだ、って。あいつにもそんな負の一面があると思いたかった。なんだ、おれと大して変わらないじゃないかって思いたかったんだよ。それが違うって分かっていながら、おれは自分で下らない妄想をして、勝手に安心してたんだ。そして、そんな自分を冷静に見つめるおれもいて、こいつはなんて最低なやつなんだと軽蔑していた。


 そんなんだから、段々虚しくなってきて。そんなときに、クラスの女子からなぜか昔話をされたんだ。そいつは女子ソフトの元キャプテンで、姉貴の率いる月野宮を破って全国に行ったすごいやつなんだけど、その昔話がすごく意外でさ。


 運動神経がいいのを鼻にかけて周りを馬鹿にして、ミスをすれば言い訳だらけ。自分のミスで試合に負けても、絶対にそれを認めないで、って。とても、浜子柴高校を優勝に導いた人間のものとは思えない話だったよ。


 でもそいつは、ある日気づいたんだそうだ。自分はトッププレイヤーを目指しているはずなのに、どうして頭の中は失敗したときの言い訳ばっかりで占められているんだろうって。そのミスを二度と犯さないための対策なんて、一度も考えたことがなかった、って。このままじゃ、なれるのはトッププレイヤーなんかじゃない。ただの、言い訳ばかりがうまくなった大嘘つきだ。


 それが分かったとき、そいつは変わったらしい。ミスしても、ミスした自分に向き合えるようになったって。私がミスするなんてありえない、こんなこんな要因があったからだ、って自分に言い訳していたそいつは、もういなくなったんだ。


 そいつは、それでやっとスタートラインに立てたって言ってた。不甲斐ない自分を、欠点だらけの自分を認めること。下らない自尊心を守るための言い訳をとっぱらって、本当の自分と向き合うことが、人として成長するためのスタートラインなんだって。


 その話を聞いたとき、正直、耳が痛かったよ。そいつの基準で考えると、おれはまだスタートラインになんて立っていない。姉貴を羨ましいと思いながら、こんなに差があると悔しさなんか感じないとか言い訳して、心の中では勝手に姉貴を悪者にしておれと大して変わらないじゃないかとひとりで胸をなでおろしていたんだから。本当の自分となんて欠片も向き合えていない。不甲斐ない自分を受け入れるどころかそんなものがいることすら認めていなかった。


 でも、臆病でどうしようもないほど頭でっかちのおれは、分かっていてもすんなり認めることができなかったんだ。おれはずっと姉貴に嫉妬しているのに、またあの敗北感を味わうのが恐いから何にも努力していない、駄目人間だってことを。


 お前にも、色々言われたな。もっと頑張れ、そうすることで見えてくるものがあるって。ありがとよ。実はあれも、結構効いてたんだぜ。だからかな。


 おれは康夫の出席番号が二番だってことにひっかかった理由を、ずっと考え続けた。普段のおれなら考えるのが面倒になって、すぐにほっぽり出すのにさ。それでやっと、アサコちゃんが誰かをつきとめたんだ。

 そのアサコちゃん、飯塚っていうんだけどな、そいつも橘に負けないぐらいピュアで一途なやつだった。おれから橘の話を聞いたら、もうぼろぼろ泣き出して。それで、こう言ったんだよ。


 橘のことはもう忘れたつもりだった。初恋の人にはもう会えないって、諦めたつもりだったって。それなのに、こうして話を聞いただけで涙が出くる。やっぱり、自分に嘘をつくことなんてできないんだねって。


 ああ、飯塚は、これでやっとスタートラインに立ったんだなって、ぼんやり思った。初恋の人を忘れられなかった自分と向き合ったんだなって。


 ありがとう、って飯塚はおれにお礼を言ったよ。それが素直に嬉しかった。たぶん、すぐに飯塚がアサコちゃんだって分かっていたら、こうはならなかったと思う。おれは、おれなりに頑張って飯塚がアサコちゃんだって突き止めたからこんなに嬉しかったんだろうな。達成感、って言えばいいのかな。ああ、頑張った甲斐があったなあって。


 そして、その後にさ。また、例の同じクラスの女子がいて。どうも、おれたちの話を聞いていたみたいで。

 飯塚はスタートラインに立ったね。次は桜井くんじゃない? って遠まわしに訊いてくるんだ。何者なんだろうな。まったくもってその通りだよ。


 おれはこれから、スタートラインに立たないといけないと思う。……いや、立ちたいんだ。



   *



 おれはそこで言葉を区切り、一息つく。まったく、我ながらクサいことを言ってしまったものだ。


 授業が終わり、橘がおれたちにアサコちゃん捜しをお願いしたときのあのベンチで、おれは正則と話をしていた。

 隣に座ってずっと話を聞いてくれていた正則は、背筋を伸ばして、小さく笑った。


「お前からそんな話が聞けるとは思わなかったよ」

「ああ。おれもびっくりだ」


 こいつに、こんな話をすることになろうとは。けれど、おれは正則にこの話を聞いてほしかった。


「お前なら茶化さずに聞いてくれると思ったんだ」

「そうか。ありがとな。俺も、お前からそんな話聞けて、びっくりしたけど嬉しいよ」


 おれは照れくさくなって、なんとなく右頬をかきながら立ち上がった。


「じゃあ、おれはもう帰るよ。……今日は、自習よりもやらないといけないことがあるんだ」

「おう。……実」


 おれが視線を向けると、正則はびしっと親指を立てた。


「頑張れよ!」


 おれは頷いて、歩き出した。

 足取りは、自分でも驚くほど軽く、しっかりとしていた。



  13



 夜風に吹かれて十数分。彼女が、裏口から出てきた。わたしが立っているのにすぐ気づいたらしい。手を上げて近づいてくる。


「お疲れ、由奈……なんでジャージなの?」

「ちょっと、制服マラソンしちゃって。そっちこそ、どうしたの? 今日はバイト休みなのに」


 立ち止まった由奈に、わたしは涼しい顔を作って言ってやる。


「べつに。ただ、由奈と帰りたいなって思って」


 その言葉を聞いた由奈の反応は、予想通りだった。


「へえ……」


 と言って、口元に小さな笑みを浮かべたのだ。

 年齢より少し幼く見える顔立ちが、こうして口元に笑みを浮かべるだけで急に大人っぽくなる。彼女がこの表情を作るときは大抵、人の嘘を見破るなど、何かを見透かすときだと最近になって気づいた。


 ――わたしが待ってた本当の理由も、お見通しってわけですか。


 やれやれ、とため息をつきたくなる。すごく悔しいけど、本当は認めたくないけど、わたしはこの人には敵わない。今はまだ。


「じゃ、わざわざ待っててくれたんだし、はりきって帰ろっか」


 背を向けて、由奈が歩き出した。わたしは少し早足になって隣に並びながら、ぽつりと言葉をこぼした。


「例の事件の犯人ね、見つかったよ」

「ふうん。それはそれは」

「うん。あ――」


 ふと空を見上げると、今夜は雲が多く、そのひとつひとつが厚かった。


「今夜は星、見えないね」


 つられて、由奈も夜空を見上げる。


「そだね。ま、毎日見えるんだったらありがたみが薄れるからいいんだけど。ね、都は今日、いいことあった?」

「うん。あったよ。でも……」


 隣にいる由奈に、顔を向ける。がっちりと、視線がぶつかる。わたしはせいぜい不敵そうに笑ってみせた。


「本当にいいことは、これからあるかも」

「そう?」


 そして由奈はまた、口元に笑みを浮かべる。


「私もそう思う」



   *



 宜野駅に着いた。改札を抜ける。ここでいつものようにお別れだ。


「じゃね、都」


 ぷらぷら手を振りながら、由奈は背を向け、彼女のプラットホームへと向かう。わたしはそれを見送る。由奈がゆっくり歩いて行く。その背中が、だんだんと小さくなっていく。そして、プラットホームへと続く階段を降りようとしたとき……。


「由奈ーーーっ!!」


 久しぶりに、お腹を使って大声を出した。周りの人の視線が集まるのが分かる。でも、そんなのはどうでもいい。遠くにいる由奈が振り向く。わたしは、声をもっともっと張り上げて、渾身の一投を放るときのように力をこめて、言った。


「覚えてなさいよー! 高校では負けたけど、大学では、絶ッッ対に、負けないんだからねーーーっ!!!」

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