表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
帯分数は遠いけど  作者: 天そば
第四章 帯分数と仮分数
31/36

帯分数と仮分数 9

   11



 全然見当もつかないです。


 その一言が、始まりだった。


「バイト先に、わたしと同い年の女の子がいるんです。松野由奈って名前です。……わたしは夏に、その子に負けました。ソフトボールの大会の、決勝戦で、です」

「ソフトボール?」

「はい。わたし、ソフトボール部だったんです。必ず優勝して、全国大会に行くって、思ってました。皆で力を合わせて、決勝まで行きました。それなのに……。由奈に、由奈の率いる浜子柴高校に、負けてしまいました」


 うつむく。鳥羽さんの顔を正面から見て話せなかった。


「それも、最後にわたしの打ったボールを、由奈に捕られて負けたんです。その瞬間は、まったく、意味が分かりませんでした。実感できませんでした。でも、審判に集合をかけられて……。浜子柴と向かい合って、それでやっと、負けたんだって思いました。……三年間の目標は達成できなかったんだって、分かりました。そう思うと、涙が出てきました。止められないぐらい、たくさん出てきて、集合して、礼もすんでないのに、ずっと泣いてて、それなのに、わたし…………」


 浜子柴と月野宮が並ぶ。わたしの他にも、こらえられなくて泣いているチームメイトはいた。

 審判が手を上げると、ありがとうございました、と言って、両チームが頭を下げあった。


 そして、その後。


 わたしはどうしようもなく悔しくて、泣いていたはずなのに……。


「礼をして解散して、わたし、由奈に、こう言ったんです。全国大会では、わたしたちのぶんまで頑張って、て。本当は、もっと言いたいことがあったのに、わたしは、こんなときでも、考えすぎてしまうんです。これから全国に行くのに相手に不快にさせてはいけない、って。わたしたちに勝った浜子柴には、頑張って勝ち進んでもらわなくちゃ困るって。今思うと、それも、わたしの本心ではあったんです。でも、本当はそれ以上に、言いたいこと、伝えたいことがあったはずなのに、わたしはそれを言えませんでした。


 その後に、県選抜で、由奈と再会したときも、言えませんでした。決勝戦から少し間が空いてしまって、それで、今更蒸し返すのも変だなとか、由奈とは今はチームメイトなんだからとか、また、くだらないことを考えてしまって。結局、何も言わないまま終わってしまいました」


 合宿の夜、ずっとチームのことやソフトのことについて、お互い語り合った。本当に楽しかった。でもわたしの、胸の奥のつかえは取れなかった。


「でも、それから一ヶ月もしないうちに、由奈と再会したんです。……あの、バイト先で、です。由奈も、バイトに申し込んでたんです。びっくりしました。でも、そこでたくさん顔を合わせても、それでもわたしは言えませんでした。そして、ついこのあいだ、鳥羽さんがお店の前に置いていったぬいぐるみとCDの話を聞きました。でも最初は、何とも思わなかったんです。誰かが何かの理由があってやったことなんだろうって。……犯人を見つけようなんて、まったく思いませんでした。でも……」


 由奈は、二日目のU字ロックの話を聞いて、そのあと、中井さんを見て。


「全然見当もつかないです、って、由奈が言ったんです。その、鳥羽さんの置いていったぬいぐるみとかの話を聞いたとき。それで、わたしは思ったんです。由奈が、全く見当もつかないと言ったこの事件を、わたしが解決できたら。犯人を、突き止められたら。……それは、由奈に勝ったことになるんじゃないかって。あのときの、リベンジを果たしたことになるんじゃないかって。


 鳥羽さんは、さっきわたしが、バイト先のお店を守るために、犯人を捜したって、言いましたよね? 本当は、そんなんじゃないんです。どうしようもないほど、個人的な理由です」


 わたしは、中井さんにも言った。従業員の方々がこのぬいぐるみ事件を気味悪がっているから、お店のために、解決してみます、と。それも、真っ赤な嘘だ。ただのいいわけだ。本当の理由は――。


「わたしはただ、松野由奈に負けたくなかったんです」


 そう。だから、時間を惜しまず考え、手がかりを探し、不動産まで行った。ただ、由奈が見当もつかないと言った、この事件を解決するために。彼女に勝ったと、思いたいがために。


 気がつくと、視界が異様にぼやけていた。目の前にあるテーブルが、ぐにゃりとゆがんで見える。目頭が、妙に熱い。


「でも、鳥羽さん。わたしは卑怯者です。わたし、自分が得た情報は絶対に由奈に教えませんでした。店長やバイトの先輩から話を聞いているときも、隣に由奈がいたら、彼女がわたしよりも先に解決してしまうんじゃないかって、気が気じゃなくて、すぐに切り上げました」


 自分でも驚いたことに、はは、と笑っていた。


「わたしが解決すれば由奈に勝てるって思いながら、勝ち負けを意識しておきながら、フェアに勝負しないなんて、本当に、何をしていたんでしょうね。わたし、由奈に勝ちたかったんじゃなくて、勝ったと思いたかったんです。……彼女と一緒にいると、どうしようもなく感じる劣等感を、少しでもやわらげたかったんだって、そう思っていたんだと思います」


 自分でも、何が言いたいのか分からなくなってきた。でも、ただひとつだけ、確かなことがある。


 わたしはどうしようもなく、頭でっかちだ。


 わたしの胸のつかえをとる方法なんて、至ってシンプルなことなのに。それなのに、周りを気にする大きすぎる頭はそれを許してくれない。こんな、回りくどい方法をとるしかないって、そう思わされてしまった。

 由奈に負けたのが悔しいのなら、この事件を解決することがリベンジに繋がると、そう思うなら、はっきりと言ってやればよかったのに。その上で、正々堂々と勝負すればよかったんだ。それでもし負けたとしても、次は別の何かで勝負すればいい。


 ――いや、違う。


 わたしが由奈にリベンジを果たせるのは、バイトでの業績でも、どちらが先に事件を解決できるかでもない。リベンジを果たす方法は、ひとつしかない。そんなの、ずっと前から分かっていたじゃないか。試合に負けた、あの瞬間から。


 わたしは、テーブルの端にある紙ナプキンに手を伸ばす。それを目元に当てると、ゆっくり顔を上げた。

 鳥羽さんが、困ったような表情で、わたしを見ていた。


「すみません、突然こんなことを話して。でも、こういった理由があるので、やっぱりわたしは鳥羽さんを笑うことなんてできません」


 目元をぬぐった紙ナプキンを顔から離す。そのとき、鳥羽さんが小さな声で何か言った。


「……うべきだ」

「はい?」

「言うべきだよ、桜井さん。あんたのバイト先に、いるんだろう? その、松野って子が。だったら、今からでも遅くない。……言えなかったことを、言うべきだ」


 じゃないと、と続ける。


「おれみたいな大人になっちまう」


 しいん、と沈黙が降りた。鳥羽さんはまっすぐにわたしを見つめてくる。わたしが何も言えないでいると、鳥羽さんは苦しそうな表情をしながら、それでも必死に、わたしに言葉をかけてくれた。


「おれは、悔しさのはけ口がなかった。だから、あんなにも情けない行動に出ちまった……。でも、桜井さん、あんたにはあるじゃないか。松野さんに、言いたいことを言えなかったから、悔しさがいつまでも消えないんだろう? あんたは、それをちゃんとした方法で昇華させなきゃだめだ。まだまだ若いし、未来がある。それなのに、こんなところでいつまでもつまずいてちゃいけない」


「…………」


「おれには、こんな説教めいたことを言う資格なんてないかもしれない。でもな、これは体験談だから言えるんだ。後悔してることがあって、それが今からでもなくせるなら、そうすべきだ。放っておいたら、とんでもない形で表に出ちまう。悔やんでもどうしようもないことなら仕方がないが、あんたはまだ遅くない。今からでも、言えるだろう?」


 今からでも、言える? まだ遅くない?

 ……そうだ。鳥羽さんの言うとおりだ。

 ユキにも言われた。そして本当は、わたしだって分かってた。


 わたしは、前に進むために、由奈に言わなければならないことがある。


 ――言えというのか。


 あまりにも負け犬の遠吠えめいていている、あの言葉を。ほんの少しのプライドと羞恥心とに阻まれて口に出せなかった、あのセリフを。


 ふっと、わたしは薄く笑った。

 思えば、変な話だ。偶然バイト先で由奈と再会して、そこで起こった事件の犯人が、偶然わたしと似ている人で、こうしてわたしにアドバイスをくれている。後悔したまますごすなと。言うべきことがあるのなら、はっきりと言いなさいと。


 そういえば、ユキにも、そしてたぶんマチにも、同じようなことを言われた。考えすぎるな、と。

 わたしは、ゆっくりと決意が固まっていくのを感じた。そうだね。ここまで来たらもう、そのままにしてはおけない。何より、わたしが一番分かっているじゃないか。これが、最善にして唯一の方法だって。


「ありがとうございます、鳥羽さん」


 わたしは、目の前にいるわたしによく似た人に、感謝の言葉を伝える。この人がいなかったら、きっとわたしは決断できなかった。踏ん切りがつかなかった。


「鳥羽さんの言うとおりです。わたしは、由奈に言わなければなりません。もう、自分から目を逸らすのは、無理ですよね」


 鳥羽さんが、また、笑みを浮かべた。皮肉るようでもなく、嬉しそうでもなく、ただただ優しさだけが感じ取れる笑み。


「ありがとうは、おれのセリフだよ。ありがとうな、こんなおれにわざわざ昔話をしてくれて。おかげで、おれも決心がついたよ」

「決心、ですか?」

「ああ。桜井さん、あんたが松野さんに言い終わってからでいい。おれを、あの店に連れて行ってくれないか? ちゃんと、店長さんに謝りたい」

「え!?」


 驚くわたしに、鳥羽さんはあくまでも晴れやかな表情だった。


「おれも、そろそろ前に進まなくちゃいけないと思ってな。……いつまでも、『ヘイチ』に未練を持ってばかりじゃいられない。店長さんにきちんと謝って、けじめをつけるさ」

「鳥羽さん……」


 わたしが鳥羽さんに背中を押してもらえたように、わたしも鳥羽さんを後押しすることが出来たのだろうか? なんだか、不思議な感じがする。少し前まで赤の他人だったはずのわたしたちが、今はこうしてお互いの過去を話し、未練を断ち切る後押しをしているなんて。


 この世に運命というものがあるかないかなんて、深く考えたことはないけれど。もしかしたら、そういうものもあるのかもしれないと、このときばかりはそう思えた。


 わたしは鳥羽さんに、大きく頷いてみせた。


「分かりました。今度、店長に紹介します。鳥羽さんが話をするときは、わたしもそばにいますね」

「ありがとうよ。それは助かる」


 なにせおれは臆病だから、とおどけて、


「ひとりだと、緊張して何も言えないかもしれない」

「大丈夫です。店長、見た目は怖いけどいい人ですよ。子ども想いですし」

「子どもかあ……」


 鳥羽さんは、お冷の中の水に目をやると、まるで冗談のように言った。


「おれも、そろそろ婚活をするべきかねぇ」

「今、おいくつですか?」

「最近四〇になった」

「まだまだいけますね」

「そうかい? そいつぁ、嬉しいねえ」


 かかか、と大きく口を開け、声を出して笑う。なんだか、この数分で、鳥羽さんが急に若返った気がする。わたしも一緒に笑った。


 それからしばらく、お互いの生い立ちや、今の職場についてのことなど、取り留めのないことを話した。そして、時計が予定の時間を示したので、わたしは立ち上がる。


「鳥羽さん、ありがとうございました。もう時間なので、行ってきますね」

「ああ。頑張れよ。店長さんと話がついたら、連絡を頼む」

「はい。それでは」


 手を振って、席を離れた。


 時刻は九時十分前。もうすぐ、彼女がバイトからあがる。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ