帯分数と仮分数 9
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全然見当もつかないです。
その一言が、始まりだった。
「バイト先に、わたしと同い年の女の子がいるんです。松野由奈って名前です。……わたしは夏に、その子に負けました。ソフトボールの大会の、決勝戦で、です」
「ソフトボール?」
「はい。わたし、ソフトボール部だったんです。必ず優勝して、全国大会に行くって、思ってました。皆で力を合わせて、決勝まで行きました。それなのに……。由奈に、由奈の率いる浜子柴高校に、負けてしまいました」
うつむく。鳥羽さんの顔を正面から見て話せなかった。
「それも、最後にわたしの打ったボールを、由奈に捕られて負けたんです。その瞬間は、まったく、意味が分かりませんでした。実感できませんでした。でも、審判に集合をかけられて……。浜子柴と向かい合って、それでやっと、負けたんだって思いました。……三年間の目標は達成できなかったんだって、分かりました。そう思うと、涙が出てきました。止められないぐらい、たくさん出てきて、集合して、礼もすんでないのに、ずっと泣いてて、それなのに、わたし…………」
浜子柴と月野宮が並ぶ。わたしの他にも、こらえられなくて泣いているチームメイトはいた。
審判が手を上げると、ありがとうございました、と言って、両チームが頭を下げあった。
そして、その後。
わたしはどうしようもなく悔しくて、泣いていたはずなのに……。
「礼をして解散して、わたし、由奈に、こう言ったんです。全国大会では、わたしたちのぶんまで頑張って、て。本当は、もっと言いたいことがあったのに、わたしは、こんなときでも、考えすぎてしまうんです。これから全国に行くのに相手に不快にさせてはいけない、って。わたしたちに勝った浜子柴には、頑張って勝ち進んでもらわなくちゃ困るって。今思うと、それも、わたしの本心ではあったんです。でも、本当はそれ以上に、言いたいこと、伝えたいことがあったはずなのに、わたしはそれを言えませんでした。
その後に、県選抜で、由奈と再会したときも、言えませんでした。決勝戦から少し間が空いてしまって、それで、今更蒸し返すのも変だなとか、由奈とは今はチームメイトなんだからとか、また、くだらないことを考えてしまって。結局、何も言わないまま終わってしまいました」
合宿の夜、ずっとチームのことやソフトのことについて、お互い語り合った。本当に楽しかった。でもわたしの、胸の奥のつかえは取れなかった。
「でも、それから一ヶ月もしないうちに、由奈と再会したんです。……あの、バイト先で、です。由奈も、バイトに申し込んでたんです。びっくりしました。でも、そこでたくさん顔を合わせても、それでもわたしは言えませんでした。そして、ついこのあいだ、鳥羽さんがお店の前に置いていったぬいぐるみとCDの話を聞きました。でも最初は、何とも思わなかったんです。誰かが何かの理由があってやったことなんだろうって。……犯人を見つけようなんて、まったく思いませんでした。でも……」
由奈は、二日目のU字ロックの話を聞いて、そのあと、中井さんを見て。
「全然見当もつかないです、って、由奈が言ったんです。その、鳥羽さんの置いていったぬいぐるみとかの話を聞いたとき。それで、わたしは思ったんです。由奈が、全く見当もつかないと言ったこの事件を、わたしが解決できたら。犯人を、突き止められたら。……それは、由奈に勝ったことになるんじゃないかって。あのときの、リベンジを果たしたことになるんじゃないかって。
鳥羽さんは、さっきわたしが、バイト先のお店を守るために、犯人を捜したって、言いましたよね? 本当は、そんなんじゃないんです。どうしようもないほど、個人的な理由です」
わたしは、中井さんにも言った。従業員の方々がこのぬいぐるみ事件を気味悪がっているから、お店のために、解決してみます、と。それも、真っ赤な嘘だ。ただのいいわけだ。本当の理由は――。
「わたしはただ、松野由奈に負けたくなかったんです」
そう。だから、時間を惜しまず考え、手がかりを探し、不動産まで行った。ただ、由奈が見当もつかないと言った、この事件を解決するために。彼女に勝ったと、思いたいがために。
気がつくと、視界が異様にぼやけていた。目の前にあるテーブルが、ぐにゃりとゆがんで見える。目頭が、妙に熱い。
「でも、鳥羽さん。わたしは卑怯者です。わたし、自分が得た情報は絶対に由奈に教えませんでした。店長やバイトの先輩から話を聞いているときも、隣に由奈がいたら、彼女がわたしよりも先に解決してしまうんじゃないかって、気が気じゃなくて、すぐに切り上げました」
自分でも驚いたことに、はは、と笑っていた。
「わたしが解決すれば由奈に勝てるって思いながら、勝ち負けを意識しておきながら、フェアに勝負しないなんて、本当に、何をしていたんでしょうね。わたし、由奈に勝ちたかったんじゃなくて、勝ったと思いたかったんです。……彼女と一緒にいると、どうしようもなく感じる劣等感を、少しでもやわらげたかったんだって、そう思っていたんだと思います」
自分でも、何が言いたいのか分からなくなってきた。でも、ただひとつだけ、確かなことがある。
わたしはどうしようもなく、頭でっかちだ。
わたしの胸のつかえをとる方法なんて、至ってシンプルなことなのに。それなのに、周りを気にする大きすぎる頭はそれを許してくれない。こんな、回りくどい方法をとるしかないって、そう思わされてしまった。
由奈に負けたのが悔しいのなら、この事件を解決することがリベンジに繋がると、そう思うなら、はっきりと言ってやればよかったのに。その上で、正々堂々と勝負すればよかったんだ。それでもし負けたとしても、次は別の何かで勝負すればいい。
――いや、違う。
わたしが由奈にリベンジを果たせるのは、バイトでの業績でも、どちらが先に事件を解決できるかでもない。リベンジを果たす方法は、ひとつしかない。そんなの、ずっと前から分かっていたじゃないか。試合に負けた、あの瞬間から。
わたしは、テーブルの端にある紙ナプキンに手を伸ばす。それを目元に当てると、ゆっくり顔を上げた。
鳥羽さんが、困ったような表情で、わたしを見ていた。
「すみません、突然こんなことを話して。でも、こういった理由があるので、やっぱりわたしは鳥羽さんを笑うことなんてできません」
目元をぬぐった紙ナプキンを顔から離す。そのとき、鳥羽さんが小さな声で何か言った。
「……うべきだ」
「はい?」
「言うべきだよ、桜井さん。あんたのバイト先に、いるんだろう? その、松野って子が。だったら、今からでも遅くない。……言えなかったことを、言うべきだ」
じゃないと、と続ける。
「おれみたいな大人になっちまう」
しいん、と沈黙が降りた。鳥羽さんはまっすぐにわたしを見つめてくる。わたしが何も言えないでいると、鳥羽さんは苦しそうな表情をしながら、それでも必死に、わたしに言葉をかけてくれた。
「おれは、悔しさのはけ口がなかった。だから、あんなにも情けない行動に出ちまった……。でも、桜井さん、あんたにはあるじゃないか。松野さんに、言いたいことを言えなかったから、悔しさがいつまでも消えないんだろう? あんたは、それをちゃんとした方法で昇華させなきゃだめだ。まだまだ若いし、未来がある。それなのに、こんなところでいつまでもつまずいてちゃいけない」
「…………」
「おれには、こんな説教めいたことを言う資格なんてないかもしれない。でもな、これは体験談だから言えるんだ。後悔してることがあって、それが今からでもなくせるなら、そうすべきだ。放っておいたら、とんでもない形で表に出ちまう。悔やんでもどうしようもないことなら仕方がないが、あんたはまだ遅くない。今からでも、言えるだろう?」
今からでも、言える? まだ遅くない?
……そうだ。鳥羽さんの言うとおりだ。
ユキにも言われた。そして本当は、わたしだって分かってた。
わたしは、前に進むために、由奈に言わなければならないことがある。
――言えというのか。
あまりにも負け犬の遠吠えめいていている、あの言葉を。ほんの少しのプライドと羞恥心とに阻まれて口に出せなかった、あのセリフを。
ふっと、わたしは薄く笑った。
思えば、変な話だ。偶然バイト先で由奈と再会して、そこで起こった事件の犯人が、偶然わたしと似ている人で、こうしてわたしにアドバイスをくれている。後悔したまますごすなと。言うべきことがあるのなら、はっきりと言いなさいと。
そういえば、ユキにも、そしてたぶんマチにも、同じようなことを言われた。考えすぎるな、と。
わたしは、ゆっくりと決意が固まっていくのを感じた。そうだね。ここまで来たらもう、そのままにしてはおけない。何より、わたしが一番分かっているじゃないか。これが、最善にして唯一の方法だって。
「ありがとうございます、鳥羽さん」
わたしは、目の前にいるわたしによく似た人に、感謝の言葉を伝える。この人がいなかったら、きっとわたしは決断できなかった。踏ん切りがつかなかった。
「鳥羽さんの言うとおりです。わたしは、由奈に言わなければなりません。もう、自分から目を逸らすのは、無理ですよね」
鳥羽さんが、また、笑みを浮かべた。皮肉るようでもなく、嬉しそうでもなく、ただただ優しさだけが感じ取れる笑み。
「ありがとうは、おれのセリフだよ。ありがとうな、こんなおれにわざわざ昔話をしてくれて。おかげで、おれも決心がついたよ」
「決心、ですか?」
「ああ。桜井さん、あんたが松野さんに言い終わってからでいい。おれを、あの店に連れて行ってくれないか? ちゃんと、店長さんに謝りたい」
「え!?」
驚くわたしに、鳥羽さんはあくまでも晴れやかな表情だった。
「おれも、そろそろ前に進まなくちゃいけないと思ってな。……いつまでも、『ヘイチ』に未練を持ってばかりじゃいられない。店長さんにきちんと謝って、けじめをつけるさ」
「鳥羽さん……」
わたしが鳥羽さんに背中を押してもらえたように、わたしも鳥羽さんを後押しすることが出来たのだろうか? なんだか、不思議な感じがする。少し前まで赤の他人だったはずのわたしたちが、今はこうしてお互いの過去を話し、未練を断ち切る後押しをしているなんて。
この世に運命というものがあるかないかなんて、深く考えたことはないけれど。もしかしたら、そういうものもあるのかもしれないと、このときばかりはそう思えた。
わたしは鳥羽さんに、大きく頷いてみせた。
「分かりました。今度、店長に紹介します。鳥羽さんが話をするときは、わたしもそばにいますね」
「ありがとうよ。それは助かる」
なにせおれは臆病だから、とおどけて、
「ひとりだと、緊張して何も言えないかもしれない」
「大丈夫です。店長、見た目は怖いけどいい人ですよ。子ども想いですし」
「子どもかあ……」
鳥羽さんは、お冷の中の水に目をやると、まるで冗談のように言った。
「おれも、そろそろ婚活をするべきかねぇ」
「今、おいくつですか?」
「最近四〇になった」
「まだまだいけますね」
「そうかい? そいつぁ、嬉しいねえ」
かかか、と大きく口を開け、声を出して笑う。なんだか、この数分で、鳥羽さんが急に若返った気がする。わたしも一緒に笑った。
それからしばらく、お互いの生い立ちや、今の職場についてのことなど、取り留めのないことを話した。そして、時計が予定の時間を示したので、わたしは立ち上がる。
「鳥羽さん、ありがとうございました。もう時間なので、行ってきますね」
「ああ。頑張れよ。店長さんと話がついたら、連絡を頼む」
「はい。それでは」
手を振って、席を離れた。
時刻は九時十分前。もうすぐ、彼女がバイトからあがる。