帯分数と仮分数 8
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鳥羽さんがそこまで言ったとき、注文した料理が運ばれてきた。
話している最中は意識の範囲外にあったけど、こうして湯気の立つ天ぷらを見てしまうと忘れていた空腹感が一気に蘇ってくる。どうしよう、今結構大事なところだったんだけど、話の腰を折って料理に手をつけてもいいだろうか。
と、そんなことがまた顔に出てしまったらしい。鳥羽さんが笑うのが見えた。先ほどまでの自分を嘲るかのような笑みではなく、温かみのある、血の通った笑み。
「いいよ。食べながらでも話せる」
「……ありがとうございます」
素直にお言葉に甘えることとする。遠慮する素振りを見せる余裕がなかった。
揚げたての天ぷらはをつゆにつけつつ、わたしは醤油にわさびを溶かす鳥羽さんをそっと盗み見る。
去年の十月まで、宜野駅近くには中古のCDを売るお店があった。小さく、目立たない装いで、場所はいいのだけどあまり人が入るのを見たことがなかった。十月にそのお店が閉店セールを始めると、皮肉なことに今まではひとりでもお客さんがいると珍しいものを見た気分になっていたのが、学生たちがこぞって押しかけて連日大盛況となっていた。
閉店してからは、『物件貸し出し中 木佐貫不動産』と書かれた張り紙が空になった建物に張られた。この建物、次は何のお店が入るんだろうと思いつつ二ヶ月がたつと、大手のハンバーガーショップの看板が立てられた。宜野駅の周りは結構たくさんお店はあるけれど、よくよく考えたらハンバーガーショップはなかったので、これは人気が出るだろうと工事が進められていく店舗を見ながら思っていた。その予想通り開店してからの客入りは上々だったようで、部活帰りにお店をのぞくとほとんどの席が埋まっていたり、ドライブスルーに車が列を作っていたりした。
そして今年の九月。部活も引退して県選抜の大会も終わったとき、そのお店でバイト募集中の張り紙を見つけたのだ。
バイト採用の通知が来たときは、こんなことになるなんて夢にも思わなかったな。
海老天を齧りつつ、一ヵ月半前のことを思い出す。まあ、初出勤の日にいきなり由奈に鉢合わせたときも相当驚いたけど。
鳥羽さんはイカの刺身を美味しそうに噛みしめている。わたしはイカの刺身を飲み込むタイミングがいまいち掴めず結局長いあいだもぐもぐしてしまうのだけど、鳥羽さんはそうでもないらしく、ほどなくしてごくりと飲み込んだ。――そして、がっつり目が合った。
「…………美味しいですね」
何を言えばいいか分からず、結局当たり障りのないことしか言えない。破滅的な口下手ではないつもりだけど、それでも喋り上手とは程遠いと実感する。鳥羽さんは小さく頷いた。
「ここは値段のわりに量が多くて味もなかなかだ。気に入りの店だよ」
「そうなんですか。わたしも初めて来たんですけど、ここならまた来たいなってもう思ってます」
嘘じゃない。天ぷらは美味しいし、メニューに載ってた他の料理も食べてみたかった。
鳥羽さんは味噌汁を啜ると、ふう、と小さく息を吐いた。
「おれもそのひとりだけど、ここは常連が多いよ。もっとも、あんたのお店に比べたらそうでもないだろうけどさ」
最後の一言に、ちくりと、胸に刺さるとげのような物を感じた。するとそれが伝わったらしく、鳥羽さんがすぐに謝ってくる。
「いや、すまない。今の一言は余計だったな」
「いえ、そんな……」
後に続ける言葉が思いつかない。他にすることが見当たらず、海老天を口に入れる。うん、美味しい。美味しいけど、何となく気まずい。
それからしばらく、お互い無言で箸を進めた。膳に盛ってあった天ぷらがなくなり、ご飯と味噌汁の器も空になり、小皿に乗せられた漬物も食べ終えると、ほう、と鳥羽さんが感心したような声をあげた。
「確かに、よく食べるなあ」
そう言う鳥羽さんは、少し前に刺身定食を食べ終えていた。わたしは笑って、
「女の子の食べる量じゃないって、分かってるんですけどね」
「いや、男でも女でも、若いもんはたくさん食べるほうがいい。そのほうが、見ていて気持ちがいいよ」
「それはどうも、ありがとうございます」
褒められたので、とりあえずお礼を言っておく。
しばらくすると、お膳が下げられ、ホットコーヒーとアイスティーが運ばれてきた。鳥羽さんはティーの中にシロップを入れながら、わたしに目をあわさずに訊いてきた。
「桜井さんは、どうしておれが大工をしてて、あの工事現場にいると分かったんだい?」
前振りも何もない急な質問に、コーヒーにミルクを入れていたわたしは一瞬面食らったけど、すぐに持ち直して答える。
「それはですね。木佐貫不動産の店長さんと知り合いなんです、わたし。ですから、そこに行って、それとなく鳥羽さんのCDショップについて聞いてみたんです。そしたら、鳥羽さん、今は大工さんをしていると聞いて……」
なるほど、と言って、アイスティーを一口飲む。
「今、このあたりで工事をしているのは、あの焼肉店だけだものな」
「はい。それにあの日、鳥羽さんがお店に来る少し前に、焼肉店から大工さんたちが帰っていくのを見たものですから」
あの日とは、火の玉レンジャーをお母さんにねだった男の子が来た日だ。バイトに行く前、バスの窓から雨で工事が中断されて、焼肉店から撤退していく大工さんたちが見えた。
鳥羽さんが、また先ほどのように嘲りの表情を顔に浮かべた。
「あの日、雨が降らなかったらこうしてここにいることもなかったんだろうな……」
そして、何も言えずにいるわたしに寂しげな瞳を向けた。
「桜井さん、あんたは、おれがなぜあの日あんたの店に行ったのか、察しはついているのかい?」
「……なんとなく、ですけど、一応は」
満足げに、二度三度と頷いた。そして、
「話してくれないか? どうしてそう思ったのかも含めて、きちんと筋道立てて」
急に、真剣な表情でそう頼んでくる。
わたしは少し気圧されつつ、でもこの頼みを断るのはできそうにないと、腹を決めた。
「分かりました。じゃあまず、あの日の鳥羽さんの服装から……」
頭に、あの日の鳥羽さんを思い浮かべる。わたしがレジから見た鳥羽さんは、黒い喪服を着て、そして、手には古ぼけた傘を持っていた。
「鳥羽さん、喪服を着て傘を持っていましたよね? あの日の雨は天気予報で予報されなかった、いわゆるゲリラ豪雨というやつです。そんな日に折り畳みじゃない普通の傘を持っているということは、どこかで買ったか、家を出るとき持ってきたかしかない。けれど鳥羽さんの傘はどう見ても新品には見えなかったから、家から持ってきたのかなと思ったんです。でも、それっておかしいですよね」
傘だけ見れば、鳥羽さんは雨を惜しまずお店に来てくれたハンバーガー好きのおじさんにしか見えない。しかし、あのときの鳥羽さんは、それを打ち消す要素を文字通り身にまとっていたのだ。
「あのとき、鳥羽さんは喪服を着ていました。だからわたし、ここでハンバーガーを食べてからお通夜にでも行くのかと思いったんです。でも、ハンバーガーを持ち帰りにせず店内で食べている。大雨が降っている中お通夜に行かなければならないなら、わたしだったらぎりぎりまで家にいて、雨が弱まるのを待ちます。それでも止む気配がなければ傘を持って家を出ますけど、それなら悠長にハンバーガーショップで夕飯を食べる時間なんてありません。けれどこの人は店内でハンバーガーを食べる時間の余裕を持って大雨の中を傘を差して歩いて来たことになる。
それなら、どこかでお通夜をしての帰りかなとも思ったんですけど、ついさっき家を出たことを示唆する傘があります。もしかしたらそれはお通夜をした家の人から借りた傘なのかとも思いましたけど、こんな大雨なら普通は小降りになるまで帰るのを待つんじゃないかと思ったんです。急な用事があるのなら別ですけど、やっぱり悠長にお店の中でハンバーガーを齧っている。誰かと待ち合わせている気配もない。
おかしな人だなあと思いましたよ。そんなに店内でハンバーガーを食べたかったのかなと」
ふ、と鳥羽さんがまたも皮肉な笑みを浮かべる。意味は分かる。
あの日、喪服を着て店内でハンバーガーを食べる。それが、鳥羽さんにとって何より重要だったのだ。
「だからわたし、鳥羽さんのことはよく覚えてたんです。そして翌日から始まったぬいぐるみ事件。すぐには結び付けられませんでしたけど、これが出てからもしやと思いました」
わたしは、ポケットからそれを取り出す。長方形の、薄っぺらい、白い紙。
「これは……」
鳥羽さんが目を見張る。わたしは頷いた。
「そうです。『中古CDの店 ヘイチ』のレシートです。わたしの部屋にあったCDの入った袋から出てきました」
わたしが熱を出したあの日、ユキがわたしの部屋から持ってきたCDの袋に、これが入っていたのだ。最初に見たときはピンと来なかった。けれど、後からそれは、じわじわとわたしの頭に浸透してきて、中井さんの一言ではっきりとレシートが示す意味が理解できたのだ。
「わたし、自分でも忘れてましたけど、あの日の部活帰りにヘイチに寄ってたんです。特に欲しいものがあったわけじゃないんですけど、この日で閉店だって看板に出てたから。そしてCDを一枚買ったんです」
正直、閉店日と看板に出ていたかどうかは記憶が曖昧だったんだけど、そこはまあ木佐貫不動産に行って確認をとった。その結果、ヘイチの閉店日が一年弱前のことだと確定した。正確に言えば、あの雨の日、鳥羽さんが喪服を着てお店にやってきたあの日が、ちょうどヘイチの閉店日だったのだ。
「鳥羽さん、あなたはあの日、他の誰でもない、あなたのお店に…………。『ヘイチ』の喪に服していたんですよね?」
*
鳥羽さんは何も言わず、アイスティーの隣にあったお冷のグラスに手を伸ばした。残り少なかったお冷を飲み干す。グラスをテーブルに置くと、口元をぬぐった。
「おれは昔から音楽が好きでね。小さい頃は、小遣いをもらうとすぐに近所のレコード店に駆け込んだもんさ。だから将来は、どんな形であれ音楽に携わる仕事に尽きたいと思ってたんだよなあ」
わたしに目を合わせず、視線を下に落としたまま鳥羽さんは語る。わたしは口を挟まず、静かにそれを聞いている。
「高校を出て、ここに出てきたよ。この近くの企業に就職した。その頃からもう決めてたよ。おれはここで仕事して金をためて、CDを売る店を開くってな。だから興味のない仕事でも頑張った。そして三年前、やっと目標額までいったよ。あのときはもう嬉しくて嬉しくて、子どものようにはしゃいだな。ついに、夢のCDショップが開ける。そりゃもう、有頂天だった」
くるくるとアイスティーのストローを回す。氷と氷がぶつかり合い、からからと空しい音を立てた。
「そして不動産から店舗を借りて改装も終わって、念願のオープン前日。希望に満ち溢れていて、あの頃が一番楽しかったよ。なのに開店してからは、苦しい毎日だったな。自分なりに工夫してみても、一向に客足は増えない。毎月赤字で、どうにかしなきゃと思っても、どうにもならない。あっという間に、貯金が底をついたよ」
ストローから手を離した鳥羽さんが、視線を下にむけたまま、テーブルに微笑みかけた。嘲笑でも苦笑いでもない。泣くのをこらえようとして、悲しさを塗りつぶすために無理やり作った笑顔に見えた。
「自分では最善を尽くしたつもりだった。でも無駄だった。結局おれには、商才がなかったんだな。
店が潰れてしばらくは、死んだように過ごしてたな。おれの店が潰れたのを知って心配してくれた高校時代の先輩が大工の仕事を紹介してくれたおかげで職にはつけたけど、あの頃のような情熱はなかったよ。ただ働いてるだけだった。
そしてヘイチが閉店して一年たったあの日、狙ったように大雨が降ったな」
あの日の雨を思い出す。そう、本当に、狙ったように突然の雨だった。
「あの日、喪服を着てあんたたちのお店に行ったのは、本当に単なる思いつきなんだ。雨で工事が早く終わって、家に帰ってきたらこのあいだ遠い親戚の葬式に着ていった喪服が出ている。それで、勢いでそれを着てハンバーガーショップに行った。初めてだったよ、あそこにいったのは。びっくりしたなあ」
やっと、鳥羽さんが顔を上げて、正面からわたしを見つめてきた。その表情は、さきほどと変わらない、泣きそうな笑顔。
「大雨でも、ちゃんとお客さんが入ってきていた。店員はみんなキビキビ働いているし、その態度にお客さんも満足そうだった。とても一年前までさびれたCDショップだったとは思えなかったよ」
だからだろうな。鳥羽さんは続ける。
「おれが翌日、あんなことをしたのは。この店にいる人たちは、おれの店のことを……『ヘイチ』のことを覚えているんだろうかって、そう思って、だからおれは、ぬいぐるみとCDを、即興で思いついた方法で……」
鳥羽さんはそこまで言って口を閉ざし、ふたたび視線を落とした。わたしは考える。
紙に直接『Do you remenber?』と書かず、あんなにも回りくどい表現をしてきたのは、きっと、鳥羽さんの複雑な思いゆえの行動だったんだろう。鳥羽さんだって、悔しい気持ちがあっても、分かっているはずだ。『ヘイチ』が潰れたのは、他の誰でもない、自分自身のせいだと。だから、Do you remenber? と、まるでわたしたちのお店を攻めているようなメッセージを、紙に書いて露骨に表現したくなかった。あまりにも直接すぎる訊きかたをしたくなかったのだ。それでも割り切れない気持ちがあるから、こうして回りくどい方法で、自分の無念を伝えてきた。
コーヒーカップに口をつける。苦い。ミルクも砂糖も入れたのに、ひどく苦かった。今まで飲んだ、どのコーヒーより苦い。
「なあ桜井さん、おれを笑ってくれよ。おれは、惨めな人間だ。無謀な夢に挑んで、失敗して、そのくせいまだにその幻にしがみついてる。
おれは、あんたたちが『ヘイチ』のことを覚えているかと思って、あのメッセージを残したと言った。けど、心のどこかで、おれはあんたたちの店が羨ましいと思ってたんだよ。あんなにも客が入って、活気があって。それに嫉妬してたんだよ。だから、気味の悪いぬいぐるみを置いて……。少しでも嫌な気分にさせてやろうって、そう思ったんだよ。それが本当の理由だよ」
…………。どうして、わたしは気がつかなかったんだろう。
「情けないよなぁ……。困らせたいんなら、クレームのひとつやふたつでもつけてやればいい。なのに、表に出てくるのが怖くて、おれが『ヘイチ』の店長だと知れて、嫉妬してるんだと後ろ指差されるのが怖くて、こんな陰険な嫌がらせしか出来ない。でも、あんたの推理は完璧だった。おれが『ヘイチ』の店長だってことも、すべて見抜かれていた。まったくもって、情けない人間だよ、おれは……。
だからさ、桜井さん。おれを笑ってくれよ。おれは途方もなく幼稚で、格好悪い。でも、あんたが指差して笑ってくれれば、もう吹っ切れると思うんだ」
たくさん時間はあった。気がつくための情報も、すべて手の内にあった。なのに、どうしてわたしは気がつかなかったんだろう?
「……いいえ、笑えません」
そう。例え世界中のすべての人が鳥羽さんに指をさして笑おうとも、わたしだけは絶対に笑えない。わたしだけは絶対に、笑う権利がない。
どうしてわたしは、気がつかなかったんだろう? 犯人が、あの中古CDショップの店長だと分かったとき。あの喪服は、潰れてしまったお店を悔やんでいるのだと知ったとき。Do you remenber? の問いは、鳥羽さんの無念の表れだと悟ったとき。
たくさんたくさん、チャンスはあった。気づくための材料は、十分なほど揃っていた。なのにどうして、わたしは気づかなかったんだろう? 謎が解けたとき、あんなにも有頂天になっていたんだろう?
わたしに、この謎を解く権利なんてなかった。いや、解いても、こうして鳥羽さんを追い詰めるようなまねをする資格なんて、絶対にない。
だって、わたしも……。
「わたしも、鳥羽さんと同じです。口で言えないから、悔しさをぶつける勇気がないから……。こうして、鳥羽さんと話をしに来たんです……」