帯分数と仮分数 6
定番といえば定番だろうと思う。青春ドラマなんかでは例のシーンにここはよく使われる。なんだかいかにもな場所に呼び出してしまったな、と軽く後悔するが、他に適当な場所が思いつかなかったのだから仕方ない。
放課後の校舎裏。おれは今、そこにいる。教職員用の駐車場は別にあるので、学級懇談会や入学式、卒業式のときの父兄用駐車場としてしか使用されないこの場所は、今のところおれ以外の人気はない。
こんなところに呼び出されると、告白されるんじゃ、と勘ぐるよなあ、普通。あいつがおれにいい印象を持っているとは限らない。そんな奴に告白されるかもしれないと思うと、足取りが重くなるのは当然だ。昼休み、放課後にここに来てくれと頼むと頷いてはくれたが、土壇場で心変わりすることも考えられる。
来なかったらどうしよう、と少し心配になってきたとき、足音が聞こえてきた。目をやると、おれのいる場所から少し先にある曲がり角から、肩にスクールバッグを提げた女子が現れた。
「よう」
来てくれたのか、と安堵しつつ、感謝を込めて小さく笑う。するとそいつもおれに近づいてきながら、若干緊張の色が見られるものの、表情を柔らかくした。
「悪かったな、突然こんな所に呼び出して」
そいつは小さく首を横に振り、
「特に予定もないし、大丈夫。びっくりはしたけどね」
「塾は行ってないのか?」
「今日は休みだから」
なるほど、と言っておれが頷くと、そいつは何も返さず、場にはしーんと沈黙が降り立った。
本題に入るぞ、という意味で、おほん、と咳払いをする。そいつも意味が分かったらしく、おれを見る視線に今まで以上に強い緊張の色を宿した。
「それじゃあ、質問なんだが……。小さいころ、『あおい壮』っていうアパートで、同い年の男の子と遊んだことはあるか?」
ビンゴだった。そいつは小さく、え、と声を漏らし、瞳に宿る感情は緊張から驚愕へと姿を変えた。
おれは自分の心が一気に軽くなるのが分かる。よかった、ちゃんと覚えていてくれたのか。
「どうして桜井くんがそのことを知っているの?」
当然の疑問だ。しかしそれに答える前に、おれはまずそいつに謝らないといけないことがある。それもふたつもだ。
「おれ、前に友達の彼女の名前だから『アサコ』を捜してるって言っただろ? ごめんな、あれ、嘘なんだ。本当は、友達の初恋の人の名前なんだ。アサコって名前だけで、他には何も手がかりのないその子にどうしても会いたいから捜してくれって頼まれて、それで訊いたんだ。でも、勝手に初恋のエピソードを他人に話したらそいつに悪いなと思って、咄嗟に嘘をついたんだ。本当に悪かった」
それから、とおれは口を微かに開けたそいつに言う。これが、一番謝らないといけないことだ。目の前のこいつに、そして何より、初恋の人に胸を焦がせ続けていた橘に。
「名前、忘れててごめんな。おれが覚えてたらもっと早くこうして話ができたのに……。ごめん、浅子だったんだな」
現在は飯塚だが、旧姓を浅子といい、フジエモンの愛称で親しまれている女子生徒の手から、スクールバッグがどすんと音をたてて地面に落ちた。
*
あたし、出席番号一番なんだよね。
その言葉を聞いたとき、一瞬、あれ? とは思ったのだ。しかしそれはごく小さなもので、その後の話を聞いたことで簡単に吹き飛んでしまった。
だが、康夫の教科書にあった、『安藤』の姓。それを見て、その疑問の理由が分かった。
男女ごちゃ混ぜの五十音順で出席番号をつける我が校で、どうして『安藤』がいるというのに『飯塚』が一番なのだ? 『あ』を差し置いて『い』が前に出てくるなんて、普通ではありえない。――しかし、そういうことが起こりえる理由は稀にだが、ある。
親の再婚、もしくは離婚で、苗字は変わる。四月にはアから始まる苗字で出席番号一番だった人物が、それ以降に苗字が変わり、『飯塚』になる。しかしもう出席簿や何やらには一番となっていて、これを変えたら彼女を含むクラスの何人かは出席番号がずれることになる。それでは大変なので、まあ、名前だけは飯塚に変えるけれど、出席番号はそのままで。なんてことになり、一番飯塚、二番安藤、という不自然な並びができる。転入生が来ると、名前に関係なく出席番号は一番最後になるのと同じことだ。
康夫とは小学校から一緒で、お互い名前で呼び合って長いため、あいつの苗字が安藤であることをおれはすっかり忘れていた――と言うと言いすぎだが、飯塚が一番と聞いて安藤がいるのになぜ、という疑問にすぐにたどり着かない程度には失念していた。
そしてそこまで気がついたところで、おれは出し抜けに思い出したのだ。一年のころ、同じクラスにいた飯塚。彼女は確か、フジエモンなんてインパクトのある名前ではなく、浅子と呼ばれていたじゃないか、と。浅子という苗字はあまり見ないが存在するのだ。
我ながら、どうしてそんな大事なことを忘れていたんだと、自分のバカさ加減に呆れたものだ。しかし、藤江という名前を考えると、彼女が橘の言うアサコちゃんである可能性は高いとおれは確信にも似た思いを抱いた。
「自分の名前はアサコだと言って、苗字は秘密にしたのは、子ども心に藤江って名前にコンプレックスを抱いていたからだよな?」
おれは少し間を置いて、そう尋ねた。幾分か落ち着きを取り戻した飯塚は、落としたスクールバッグを拾いながら、
「そう。昔っから、この名前は恥ずかしかったんだ。初対面の人には、できるだけ隠そうと思ってた」
今はもう、そんなにでもないけどね、とわずかに微笑む。
橘が持っていた写真に写る女の子は、いかにも内気そうな顔をしていた。あの子なら確かに、藤江と名乗るのを恥ずかしがり、苗字である浅子を名前ということにしてもおかしくない。苗字は? と訊かれたら、咄嗟に適切なものが出てこず、それはヒミツ、とはぐらかしてしまうのも、頷ける。
「この夏にね、お父さんとお母さん、結婚したの。それで最近、駅の近くに引っ越してきたんだ」
スクールバッグをはたいて汚れを落としながら、飯塚は小さな声で話し始めた。
「お父さんにはね、ちょっと色々事情があって……。あたしが産まれても結婚はしてなかったの。養育費は、払ってたみたいだけど…」
大人の男女だ。それこそ幾重にも張り巡らされたクモの巣のように複雑な事情があったんだろう。これは、おれなんかが詮索していいことではない。色々あった。それだけで十分だ。だからおれは、黙って少しだけ頷いた。
「でも、お母さんは何度か説得に行ってたみたい。それが今年の夏、やっと実を結んで、あたしは浅子から飯塚になった。――あの日あおい壮に行ったのも、お父さんに会いに行くためだったんだ」
「そうだったのか……」
なるほど。橘の話では、飯塚母子は『あおい壮』の一階の部屋に入って、しばらくして娘だけひとりで外に出てきたらしい。遊ぶのは庭でだけと言いつけておいたのだとしても、初めて来た場所に子どもをひとりで外に出すなんて、と思ったが、子どもに聞かれてはまずい、聞かせたくない話をしていたのなら納得できる。子供が産まれたのに結婚を拒む夫を説得するところなんて、我が子には絶対に見せたくない光景だったに違いない。その点に関しては、飯塚夫婦の意見は一致していたのだろう。
「あたしには、お父さんだってことは伏せて、お母さんの古い友達だよって紹介してた。だから、ずっとあの日会った男の人がお父さんだとは知らなかったんだけど……。それでもやっぱり、結婚してくれて嬉しかったな。お母さんだけじゃない、お父さんもお家にいるっていうのが、すごく特別に感じた」
あたしは、ただいまって玄関で言ったら、お父さんとお母さんがふたりしてお帰りって言ってくれるのがすごく嬉しかったりするんだけどなあ。
職員室にプリントを届けに行ったときに言っていたあの言葉はそういう意味だったのかと、おれは遅ればせながら理解する。いつもはひとつだった「お帰り」がふたつになったことに、飯塚は喜びを感じていたのだ。
でも、と飯塚は少し声を低くして続ける。
「ひとつだけ、心残りがあったの。あの日、あおい壮で一緒に遊んだ男の子。もう一度会いたくて、ひとりで電車に乗れるようになってから、あおい壮を訪ねたことがあったんだけど、そのときはもうとっくに取り壊された後で……。お父さんに訊いても、どこに移ったか分からないって話だったし…」
よかったな橘、と、おれは今すぐにでも報告したい気分になった。アサコちゃんもお前に会いたいと思ってたんだ。
「どれぐらい覚えてる? その、一緒に遊んだ男の子のこと」
飯塚は肩にスクールバッグをかけなおすと、懐かしむような声色で答えた。
「たくさん、覚えてる」
そして、指折り数えて話し始めた。
「名前はカズキだってことでしょ。あたしが苗字はヒミツって言ったら、じゃあ、おれもヒミツ! って言ったことでしょ。カレーよりもシチューが好きだってことでしょ。でも一番好きなのはお母さんの作る玉子焼きだってことでしょ。クラスでは中くらいの身長だけど、いずれ一番になるって決めてることでしょ。前歯が抜けたときは血がたくさん出て恐かったけど頑張って泣かなかったことでしょ。それから……」
ぎょっとした。楽しそうに、幼い記憶を愛しむように話していた飯塚の瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれだしたのだ。
「お、おい、どうした? 大丈夫か、どこか痛いのか?」
違うよ、と否定して、
「懐かしくて、それ以上に、……嬉しいんだよ」
涙で濡れた顔を上げてみせた。
「カズキくんは、初恋の人に――あたしにもう一度会いたいから捜してくれって桜井くんに頼んだんだよね? ……それが、どうしようもなく嬉しくて。あたしも、カズキくんのことが好きだった。お父さんとお母さんがあたしを外に出して、寂しくて泣きそうになってたら、カズキくんが必死に励ましてくれて、一緒に遊んでくれて、すごく嬉しかった。でも、ここに戻ってきたとき、あおい壮はもうなくなってて……。もう会えないんだろうなって、諦めてて、忘れたようと思ってた。でも……」
でも、ともう一度言うと、飯塚は大きく笑った。
「カズキくんがあたしを捜してくれていたって、それだけで、こんなに嬉しくて……」
飯塚の瞳からは涙が溢れ、鼻からは少し鼻水まで出ている。――けれど全然、汚いともおかしいとも感じない。おれには到底、作ることの出来ない笑顔だと思った。
「あたし、今まで、誰かに告白されて、オッケーしても、長続きしなかったんだ。その人がどんなにいい人でも、なんだか、心を開けなくって。なんでだろうって、自分では思ってた、いや、気づかないふりしてたんだけど……。やっぱり、駄目だね。いくら忘れてたつもりになってても、諦めた気になってても……。自分の本当の気持ちには、逆らえない。あたしはずっと、カズキくんのことが忘れられなかったんだよね」
本当の自分を見ないようにしているうちは、成長なんかしない。
不意に、松野の言葉が蘇った。理想と違う、弱くて汚い自分を認められて初めて人はスタートラインに立てるんだよ。
これで、飯塚はスタートラインに立ったのだ。叶わぬものと諦めて忘れていた気になっていた橘への想いを受け入れ、やっと幼い日の初恋と向き合えるようになったのだ。
「ありがとう、桜井くん。桜井くんのおかげで、あたし、やっと前に進めるよ」
飯塚が、あの笑顔のまま、おれに頭を下げてきた。社交辞令でない、本当に、心の底からの感謝の気持ちをこめての『ありがとう』だった。
しかし、礼を言うのはおれにではなく、
「橘がおれにお願いしたから、こうして飯塚に話すことができたんだ。本当に礼を言うべきなのは、橘にだよ」
飯塚はううん、と小さく首を横に振った。
「それもあるけど、でもこうして、桜井くんがカズキくんに協力して、あたしに伝えてくれたんだよ。桜井くんのおかげだよ」
おれが? おれが飯塚をスタートラインまで導いたのか?
それはひどく、おかしな話に思えた。おれにはまだ、そんな資格が備わってはいないのに。
飯塚が、鞄からメモ帳を取り出し、一枚破った。その上にシャーペンを滑らせると、おれに差し出してくる。
「これ、カズキくんに渡してちょうだい」
そこにあったのは、十一桁の数字。ケータイの番号だった。
「塾が終わってからでいいから。電話、待ってますって」
「いや、それより、おれが橘の番号知ってるから、今飯塚からかけたほうがいいんじゃないか?」
「鈍いなあ、桜井くん」
目尻に涙を浮かべた顔で、楽しそうにダメ出しされた。
「女の子はね、こうして相手からの電話を待っていたいものなの」
そうなのか? ……まあ、飯塚が言うのでそうなのだろう。
「分かった。ちゃんとそのことも伝えておくよ」
「お願いね」
飯塚につられて、おれも少し笑みがこぼれるのが分かった。いつぶりだろうか、こんな気持ちになったのは。
出来ればもう少し話をしていたいが、腕時計を見ると、そうはいかない時間になっていた。鞄を持ち直す。
「それじゃあ、おれはもう塾の時間だから行くよ。飯塚はどうする?」
「あたしは、もう少しここにいとく。今、人前に出られる顔じゃないから」
「確かにそうだ」
「ひどい」
ふたりで声を出して笑う。
さて、とおれは気を取り直して歩き出し、飯塚の脇を抜けた。すれ違いざまに、飯塚はもう一度、満面の笑みをおれに向け、
「桜井くん、ありがとう」
おれは照れくさくて、何も言わずただ手を上げて応えた。
曲がり角を曲がるとき、ずっと後ろのほうにいる飯塚が、本当にありがとう、ともう一度呟くのが聞こえたような気がした。
*
校舎裏の曲がり角を曲がると、すぐそこにゴミ捨て場がある。その横に、名前は知らないが、樹齢ウン十年の大きな樹が生えている。太い枝が広がって葉もたくさんついていて、突然の雨に見舞われたときは雨宿り場所として、夏場は絶好の日陰スポットとして生徒たちに親しまれている、学校の人気者だ。
その樹の下に松野由奈がいた。
ぎくりとした。なぜ、今は日も出ていないし雨も降っていないのに、こんな場所に? 今の飯塚とのやり取り、見られていただろうか?
松野は近づいてきたおれに歯を見せて笑い、顔の横で手を上げた。
「やっほ、桜井くん。奇遇だね、こんなところで」
「ああ。……もしかして、見てたか?」
樹の少し手前で立ち止まり、単刀直入に訊いてみる。遠くに見える校門のあたりには何人か生徒がいるが、会話が届きそうな位置には誰もいなかった。
松野は詫びれることなく頷いた。
「うん。フジエモンが校舎裏に行くのが見えたから、何だろうと思ってつけてみたら桜井くんがいてびっくり。――フジエモン、泣いてたね」
そんなところまで見られていたとは、これでは勘違いされかねない。おれは慌てて否定した。
「いや、違うんだ。おれが泣かしたわけじゃなくて……」
ああ、いや、一応、おれが泣かしたことになるのか?
松野は、にんまりとやんちゃな笑みを顔に広げた。初めて見る表情だ。
「分かってるって。ちゃんと話も聞いてたから。すごいね、フジエモン。初恋の人がわざわざ捜してくれるなんて。正に、シンデレラストーリーってやつだよね」
「それ、使い方違ってないか?」
言った瞬間、睨まれた。
「いいの、そんなことはっ。で、桜井くんに質問があるんだけど、いい?」
「……どうぞ」
なんだろう、橘のことだろうか。それならまあ、プライバシーの侵害にならない程度には答えられるが。そう思っていたのに、予想外のことを訊かれた。
「ありがと。ねえ、桜井くんは、スタートラインに立ってる?」
また、ぎくりとした。昨日、おれが答えられなかった質問を、松野は再びぶつけてきた。それも、このタイミングで。
不意に、笑いだしたくなった。まったく、意地の悪いやつだ。答えなんて分かっているんだろうに。
「……いや」
少しの間をあけて、おれははっきりと答えた。
「立ってないな」
「だと思った」
松野が、口元に笑みを浮かべる。
「やっぱり分かったか?」
「うん。桜井くん、分かりやすいから」
笑みを深くして、つけたす。
「都そっくり」
おれは笑った。松野も笑った。このタイミングで、その名前を出すか。
「あいつも分かりやすいのか?」
「うん、色々と。ねえ、桜井くん、気づいてる?」
「何を?」
「桜井くん、笑うとえくぼができるんだよ。……右のほっぺたに」
驚いて、右頬に手をやってしまう。笑うと右頬に出来るえくぼ。それって……。
「都と一緒だよね。……真顔では、全然違う顔に見えるけど。笑うと結構似てるよ、ふたりとも」
でも、笑顔だけじゃないんだよねー。松野は、楽しそうに次の言葉を紡いだ。
「性格も、そっくり。真逆のように見えて、根っこの部分は似てるよね」
初めて言われた。十八年間生きてきて、本当に初めて言われた。おれとあいつが、似てるなんて。
「そうなのか?」
「うん。まあ、根っこ以外は全然似てないのも確かなんだけど」
「そうか……」
不思議な気分だった。そう言われても、おれは自分と姉貴の共通点なんて全く思いつかない。けれど、松野が言うと妙な説得力があった。
風が吹いた。樹の葉が揺れ、ばさばさと音を立てる。先ほどまで静止していた樹の枝が、少し強い風が吹くだけで簡単に揺れる。ここ数日、おれもあの枝のように幾度も揺さぶりを受けたものだ。吹き荒れる風に動かされ、音を立てて動く。やがて風がやんで止まっても、きっと、その姿は以前のものとは違っている。一見すると同じでも、確かに変わっているのだろう。
おれは葉の音がやむのを待ち、なんでもない風を装いながら、ぽつりと呟いた。ただし、松野に聞こえる音量で。
「そろそろ、おれもスタートラインに立つべきかな」
「さあ? そうしたかったらそうすればいいんじゃない」
言外に、自分で考えろ人に訊くなと込められいた。
思わず苦笑する。ここまで言っておいて、それはないだろう。それでも一応、こう答えておいた。
「そうだな。じゃあそうするよ」
松野は満足そうに二度三度と頷くと、左手に巻いた腕時計に目をやり、あーあ、と大袈裟な声を出した。
「バス、逃しちゃった。これからバイトなんだけど、走ってかなきゃ間に合わないな」
時計から目を離し、
「制服が汗で濡れるだろうから、バイト帰りは体育着かな。絶対、浮くよね」
そうだな。この季節でも、駅前まで走れば結構な汗をかくだろうな。そういえば最近、汗をかいていなかった気がする。
「じゃね、桜井くん。また明日」
手を振る松野。おれはそれに待ったをかける。
「おれももう塾の時間だから行く。……おれも走るよ」
一瞬、松野の顔に意外そうな表情が浮かんだ。しかし、それをすぐに引っ込めて、また口元に笑みを浮かべる。
「そっか。私、速いけどついてこられる?」
「なめるな。これでも野球部だったんだぞ」
まともにマラソンしたこともないけどな。
「分かった。じゃ、行こっか。遅いと本気で置いてくから」
おう、と返事をして、並んで歩き出す。
校門を出ると松野の猛ダッシュが始まった。正直ついていくのがやっとだったし、松野は本当に時間ぎりぎりだったようで別れの言葉もなくハンバーガーショップに入っていったけど、久しぶりに流す汗と何年ぶりかの全力マラソンに、嫌な気はまったくしなかった。